旧暦十月十三日ということで、月もだいぶ丸くなった。金星と木星も空に輝いている。
人間の社会がいつの世でも争いが絶えないのは、根本的に有限な大地で無限の子孫の繁栄はできないという単純な理由による。これは人間に限らずすべての「子孫を残す者」に当てはまる。生物かどうか微妙なウィルスから人間に至るまですべてに当てはまる。
生存競争を完全になくすことはできない。ただ、それを和らげる唯一の答えが少産少死だということに早く気付くべきだろう。
人間は愚かな生き物だから、いつの世でも必ずいるのがこういう連中だ。
曰く人間は偉い。人間は天性のままに自然にふるまえば、争いごともどんな悲惨なこともないんだ。まあ、そうおだてられれば誰も悪い気はしないわな。江戸時代の武家も「人間は万物の霊」という儒学の考え方を掲げる。
ならば何で現実は悲惨なのかと言うと、曰く、一部に悪い奴がいるからだ。まあ、そういわれれば、自分の周りに必ずやな奴っているよな。
ならどうすればいいか。曰く、悪い奴を排除すればいい。簡単なことだというわけだ。結局こうやって悪いのを余所に押し付け合って、戦争が起こっているんだけどね。
江戸時代のお武家さんも、農民から米をふんだくっておきながら、悪いのはお前らが村から追い出した奴らが都会でのうのうと良い暮らしをして、銀シャリ何かを食っている。その米は誰が配っているのか、米屋だ。米屋が皆悪い。そういう論理だったんだろうな。
それを論理的に体系化したのが安藤昌益で、実践に移したのは大塩平八郎、まあ、ろくな奴ではない。
この手の論理パターンは今でも繰り返されている。どういう奴らかは言うまでもないだろう。騙されないことだ。本当の敵がどこにあるのかを見誤ってはいけない。
まあ、予の哲学はかくの如く単純明快なものだ。難しいことは知らん。
小学館の『仮名草子集』の「たきつけ草」を読んだ。京の島原遊郭の話で、遊郭通いの心得といったところか。基本的には遊女の立場を理解して恨み言を言うなということで、今の風俗で遊ぶ時にも基本だ。
では風流の方の続き。
元禄六年一月、嵐雪との両吟だが三十四句で終わり、珍碩の三十五句目と芭蕉の挙句が付け加わって、一応歌仙の形になっている。
嵐雪の句は「両の手に」の巻とは違って嵐雪節全開の感じで、芭蕉の気に入るものではなく、あえて満尾させなかったのだろう。
一年前の支考との両吟が、最後四句を支考に任せて合格を出したのと対照的だ。
発句は、
蒟蒻にけふは賣かつ若菜哉 芭蕉
で、土芳の『三冊子』に、
「こんにやくにけふはうりかつ若な哉
この句、はじめは蛤になどゝ五文字有。再吟して後、こんにやくになる侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)
とある。最初は上五が「蛤に」だった。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)には、一月七日の所に、
七種
蛤に今日は売り勝つ若菜かな (真蹟懐紙)
とある。
さすがに蛤には勝てないと見たか、後に「蒟蒻」に改まり、嵐雪との両吟の際の立句になる。
蒟蒻の方は『炭俵』の「むめがかに」の巻十四句目に、
終宵尼の持病を押へける
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
の句もあるように、おいしいけど他のご馳走にはいつも負けてたようだ。若菜と蒟蒻はどちらも精進ということもある。蛤はその意味では次元が違う。
これに対する嵐雪の脇。
蒟蒻にけふは賣かつ若菜哉
吹揚らるる春の雪花 嵐雪
(蒟蒻にけふは賣かつ若菜哉吹揚らるる春の雪花)
若菜というと、百人一首でもよく知られた、
君がため春の野に出でて若菜つむ
我が衣手に雪はふりつつ
光孝天皇(古今集)
の歌があり、若菜に雪は付け合いになる。
ここでは菜摘の雪ではなく、若菜売が雪の中を売り歩く苦労に変換される。雪は花のように舞い、正月の目出度さを損なわない。
続く第三も嵐雪で、
吹揚らるる春の雪花
かへる鴨かへらぬ鴨もざはだちて 嵐雪
(かへる鴨かへらぬ鴨もざはだちて吹揚らるる春の雪花)
と展開する。
同じカモでもカルガモは留鳥で、日本で子育てする姿が見られるが、マガモ、コガモ、オナガガモ、スズガモなどは渡鳥で、春に北へ帰って行く。
春もまだ雪が降る寒い頃は、いずれもまだ日本の水辺を賑わせている。「ざはだつ」は騒ぎ立てることで、
葦鴨のさわぐ入江の白波の
知らずや人をかく戀ひむとは
よみ人しらず(古今集)
葦鴨の騒ぐ入江の水の江の世に
住みがたきわが身なりけり
柿本人麻呂(新古今集)
などの歌を踏まえている。
脇、第三とも證歌を重視する古い時代の風を踏襲している。嵐雪の今風の「軽み」に逆らう頑固さが感じられる。
芭蕉の四句目。
かへる鴨かへらぬ鴨もざはだちて
七耀山を出かかる月 芭蕉
(かへる鴨かへらぬ鴨もざはだちて七耀山を出かかる月)
七耀山という山があるわけではないようだ。七耀は「七曜」で、日、月、水星、金星、火星、木星、土星の五つの星のことで、その七曜の一つである月が山から昇る、という意味だろう。
鴨にもいろいろあるように、天体もいろいろある。いろいろな鴨が騒ぐように、いろいろな星がきらめく。その中には行くものもあれば残るものもある。
特に出典のない、軽みの展開で、様々な鴨に様々な天象を対比させる響き付けになる。
芭蕉の五句目。
七耀山を出かかる月
町作り粟の焦タル砂畠 芭蕉
(町作り粟の焦タル砂畠七耀山を出かかる月)
「町作り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「町作」の解説」に、
「① 町の家並を整えること。また、その家並。町の家構え。
※信長記(1622)一五上「御供の人々五百人の小屋を、町作(マチツク)りに、滝川いとなみ申たりければ」
② 住みやすいように町を整えること。」
とある。
七曜は吉凶を占うのにも用いる。町を作るために粟畑を焼き払ったのも、占いによるものだろう。これが吉なのか凶なのかというところだ。
嵐雪の六句目。
町作り粟の焦タル砂畠
露霜窪く溜ル馬の血 嵐雪
(町作り粟の焦タル砂畠露霜窪く溜ル馬の血)
「窪(くぼ)く」は「くぼし(窪し・凹し)」でくぼんでいること。
戦乱で荒れた町や畑としたか。窪みに馬の血が溜まる。歴史に舞台を持って行き、あからさまに血を出すところに談林的な奇想が感じられる。
同じ一月、大垣藩邸千川亭で「野は雪に」の巻の歌仙興行が行われる。
十五句目。
捨て浮世のやすき僧正
出来合も伊勢の料理は麁相にて 芭蕉
(出来合も伊勢の料理は麁相にて捨て浮世のやすき僧正)
これは西行の俤か。
神風に心やすくぞまかせつる
桜の宮の花のさかりを
西行法師
の歌もある。
伊勢というと伊勢海老に鮑にサザエにトコブシと海の幸は豊富だが、出家して殺生を嫌う身には食うものがない。
「出来合」は既に用意してあるもの。
二十句目。
石畳む鳥井の奥の春霞
地取の株に見ゆる名苗字 芭蕉
(石畳む鳥井の奥の春霞地取の株に見ゆる名苗字)
前句が神祇の神々しい句なので、ここではバランスを取って卑俗に落とす。
鳥居の奥が春霞なのはまだ拝殿が建ってないからなので、これから作ることとする。
地取りはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「家を建てるときなどに、地面の区画割りをすること。」とある。株はそのための杭のこと。
そこに苗字が記されていれば、立派な武士の寄進によるものだとわかる。
元禄六年夏とおもわれる歌仙で「風流の(誠)」の巻がある。
十一句目。
心もある欤假名に名を書
行燈をへだてて顔をかくし合 芭蕉
(行燈をへだてて顔をかくし合心もある欤假名に名を書)
行燈を隔てて互いに顔を行燈の陰に隠すようにして無言で対面する。相手が女性なので女手(仮名)で自分の名前を書いて伝える。
二十二句目。
長からぬ髭人参の売リ所
また年くれて隠居くるしき 芭蕉
(長からぬ髭人参の売リ所また年くれて隠居くるしき)
御隠居さんは体調不良で苦しんでいて、朝鮮人参(인삼)を手に入れたがっている。
元禄六年四月、千川が大垣藩主に従い日光に詣でるので、その餞別に歌仙興行が催される。
発句は、
城主の君日光へ御代参勤させ玉ふに
扈従す岡田氏何某に倚
篠の露はかまにかけし茂哉 芭蕉
で、篠はここでは「ささ」と読む。
笹の露が袴に掛かるくらい茂っている時節、旅にお気をつけて、という餞別句になる。
上五七まで聞くと涙の露かと思わせるが、下五の「茂哉」で落ちになる。
十一句目。
稲する臼をかりにこそやれ
露ふかき曹洞寺の夕勤 芭蕉
(露ふかき曹洞寺の夕勤稲する臼をかりにこそやれ)
曹洞宗で重視されている「舎利礼文」をご飯の方のシャリと掛けて、経を読みながら臼のお礼をする。
十六句目。
巡礼の帰りて旅の物がたり
兄より兄に伝ふわきざし 芭蕉
(巡礼の帰りて旅の物がたり兄より兄に伝ふわきざし)
巡礼から帰った上の兄から、その時用いた旅の護身用の脇指を下の兄に渡す。次は下の兄が順礼に出る。その次は自分の番が回って来るのか。
十九句目。
狂へば梅にさはる前髪
霰ふる踏哥の宵を恋わたり 芭蕉
(霰ふる踏哥の宵を恋わたり狂へば梅にさはる前髪)
踏哥(たふか)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「踏歌」の解説」に、
「〘名〙 多数の人が足で地を踏み鳴らして歌う舞踏。もと唐の風俗で、上元の夜、長安の安福門で行なうのを例とした。日本では持統天皇七年正月、漢人が行なったのが初めといわれ、平安時代には宮廷の年中行事となった。また、諸社寺でも行なわれ、今なお踏歌神事を伝えるところがある。元来、歌詞は漢詩の句を音読したものであったが、のちに催馬楽(さいばら)の「竹河」「此殿」「我家」などが用いられた。歌詞の間に万春楽、千春楽などの囃詞(はやしことば)がはいるが、それを「万年(よろずよ)あられ」とも囃したので、踏歌を一名阿良礼走(あらればしり)と称した。
※続日本紀‐天平一四年(742)正月壬戌「天皇御二大安殿一。宴二群臣一。酒酣奏二五節田舞一。訖更令二少年童女踏歌一」 〔旧唐書‐睿宗紀〕」
とある。正月行事で「あらればしり」という別名がある所から「霰ふる」とする。比喩とも本当に降ったとも取れる。前句をあらればしりの踊る様子とする。
三十五句目。
はなしとぎれてやすむ筆取
此春はいつより寒き花の陰 芭蕉
(此春はいつより寒き花の陰はなしとぎれてやすむ筆取)
花の下の連歌であろうか。いつになく寒い年で興も乗らず、主筆も筆を置く。
元禄六年五月二十九日は、小の月なので晦日になる。その晦日会の歌仙興行。露沾、沾荷、沾圃といった磐城平藩のメンバーが集まっている。
発句は素堂で、
其富士や五月晦日二里の旅 素堂
興行場所は露沾亭だったのだろう。場所は麻布にあったという。素堂は上野不忍池の辺りに住んでいて、そこから二里の旅をして露沾亭にやって来た。
六月一日が富士山の山開きなので、わずか二里の旅ですが富士山に登るような有難い気持ちでやってきました、という挨拶になる。
十句目。
松すねていがきさびたる神所
傘の袋をほどくはつ雪 芭蕉
(松すねていがきさびたる神所傘の袋をほどくはつ雪)
傘はからかさのことだが、ここでは単に「かさ」と読む。初雪が降ってきたので、今まで用いてなかった唐傘の袋をほどく。
寒々とした荒れた神社に雪を付ける。
十七句目。
霧間分ゆく猿の寐所
花暗く岩ほの躑躅明らかに 芭蕉
(花暗く岩ほの躑躅明らかに霧間分ゆく猿の寐所)
桜の花は暗くてよく見えず、大きな巌(いはほ)の躑躅だけがはっきりと見える。明け方の霧が晴れてゆく過程であろう。
躑躅は岩躑躅として、しばしば「言わない」に掛けて用いられる。
三十二句目。
此ごろはとり後れたる相撲取
みな坂本は坊主百姓 芭蕉
(此ごろはとり後れたる相撲取みな坂本は坊主百姓)
坂本は比叡山の東側(近江国側)の麓で、ここは坊主と百姓ばかりで相撲を取る相手もいない。
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