今日は旧暦十月一日で、俳諧では冬の始まり。そう言えば昨日早起きしたら、幽かに末の二日月が見えたっけ。楽しい九月尽だった。
岩波の『仮名草子集』の「是楽物語」を読み終えた。
一夫多妻の論理として、生活に困る女性の救済を理由とするというのは、どこの国でも常にあったのだろう。イスラム教の一夫多妻が一番有名だが。
浮気不倫はいけないが、それを咎められて糧を失った妾の救済は、最後は仏に托すしかない。
医療水準が低く乳幼児の死亡率の高い社会では、必然的に確実に子孫を残すために常に保険を掛けて多めに子供を作っておかなくてはならず、いわゆる多産多死社会にならざるを得ない。これを誰も責めることはできない。
多産多死社会は常に実際の死亡率よりも多めに子供が生まれ、子供の過剰を生み出す。だからといて生産性を向上させるような発明が極めてまれにしか起こらず、生産量は停滞している。
有限な大地の恵みに無限の子孫の繁栄は不可能。なら、余った子供はどうなるかと言えば、男は軍で死に、女は遊女となる。これも洋の東西を問わず、前近代社会の宿命と言えよう。
捨子、早婚、遊郭、一夫多妻、近代の倫理観では裁けないものが前近代社会にはあるし、今日でも近代化の遅れたフロンティアにはそれがある。少産少死社会になれば解消される。
六月二日、新庄で「御尋に」の巻の歌仙興行が行われる。
十七句目。
疵洗はんと露そそぐなり
散花の今は衣を着せ給へ 芭蕉
(散花の今は衣を着せ給へ疵洗はんと露そそぐなり)
疵を洗うために裸になっていたとする。あとから「裸だったのかよ」というネタは結構今の漫才でもある。
二十三句目。
牡丹の雫風ほのか也
老僧のいで小盃初んと 芭蕉
(老僧のいで小盃初んと牡丹の雫風ほのか也)
老僧がやってきて牡丹で一杯やる。本当は酒はいけないんだけど、小盃だし、酒のことを、これは牡丹の雫だと言って飲んだんだろう。
六月四日は羽黒山で、
有難や雪をかほらす南谷 芭蕉
を発句とする興行が催されるが、この日は曾良の『旅日記』に、「俳、表計ニテ帰ル」とある。この後芭蕉と曾良は月山に昇り湯殿の御神湯に浸かって帰り、九日の日記に「俳、終。」とある。
八句目。
眠りて昼のかげりに笠脱て
百里の旅を木曾の牛追 芭蕉
(眠りて昼のかげりに笠脱て百里の旅を木曾の牛追)
旅体ということで場面を木曾に転じる。姨捨山に行ったときに中山道で荷物を運ぶ牛を目にすることが多かったか。
十六句目。
月見よと引起されて恥しき
髪あふがするうすものの露 芭蕉
(月見よと引起されて恥しき髪あふがするうすものの露)
寝乱れた髪に濡れた薄衣、引き起こされた時の状態であろう。女の姿か。
山を下りての十九句目。
的場のすゑに咲る山吹
春を経し七ッの年の力石 芭蕉
(春を経し七ッの年の力石的場のすゑに咲る山吹)
的場は弓矢の練習場だった。遊技場ではない本来の意味での「矢場」で、武家の子供たちがここで練習したのだろう。片隅には去年七つになる子供が持ち上げた力石が置かれている。
力石は今でも神社に行くと見られるが、神社にあるのは大人用の、祭りの時などに力比べをするためのものであろう。子供が持ち上げる力石はわざわざ子供用に用意したものか。
三十三句目。
鳴子をどろく片藪の窓
盗人に連添妹が身を泣て 芭蕉
(盗人に連添妹が身を泣て鳴子をどろく片藪の窓)
盗人になってでも妹を食わせてゆこうとする兄と、それを心配そうに見守る妹、そういう設定だろうか。
鳴子が鳴って何か悪いことが起きたかと驚く。
このあと、鶴岡の長山五良右衛門(重行)宅で六月十日から十二日にかけて俳諧興行がある。発句は、
めづらしや山をいで羽の初茄子 芭蕉
「山を出で」に「出羽」を掛けて、出羽三山を下りてここ鶴岡で初めて取れた茄子をご馳走になってめずらしや、となる。
十四句目。
此秋も門の板橋崩れけり
赦免にもれて独リ見る月 芭蕉
(此秋も門の板橋崩れけり赦免にもれて独リ見る月)
前句を蟄居(ちっきょ)を命じられ人の家に籠る様とする。
他のものは許されたのに、自分だけがいまだに家から出られず、門の外の板橋を直すこともできない。
三十句目。
明はつる月を行脚の空に見て
温泉かぞふる陸奥の秋風 芭蕉
(明はつる月を行脚の空に見て温泉かぞふる陸奥の秋風)
これは今している旅の感慨であろう。幾つ温泉(いでゆ)に入っただろうか。那須にも行っているし飯塚の湯はディスってるし、ついこの間は羽黒山や湯殿山の湯に入ったし。
三十五句目。
行かよふべき歌のつぎ橋
花のとき啼とやらいふ呼子鳥 芭蕉
(花のとき啼とやらいふ呼子鳥行かよふべき歌のつぎ橋)
呼子鳥は古今伝授の三鳥の一つ。三鳥は呼子鳥、稲負鳥、百千鳥をいう。前句の「歌のつぎ橋」を古今伝授とし、呼子鳥は花の時に鳴くということを習う。
わが宿の花にななきそ喚子鳥
よふかひ有りて君もこなくに
春道列樹(後撰集)
巻向の檜原の山の呼子鳥
花のよすがに聞く人ぞなき
土御門院(新続古今集)
など、花に詠む。
なお、古今集には、
をちこちのたづきも知らぬ山中に
おぼつかなくも呼子鳥かな
よみ人しらず(古今集)
とあり、特に花は詠んでいない。
今日ではツツドリではないかという説がある。
六月十九日に始まり二十一日にかけて、酒田の不玉亭で芭蕉、曾良、不玉の三吟歌仙が作られている。発句は、
温海山や吹浦かけて夕凉 芭蕉
「温海山(あつみやま)」という今日のあつみ温泉のあるあたりの地名に、「吹浦(ふくうら)」という最上川が海に注ぐあたりの地名を並べることで、暑い所に風が吹いて夕涼みとする。「温海山に吹浦(を)掛けて夕涼みや」の倒置になる。
十句目。
海道は道もなきまで切狭め
松かさ送る武隈の土産(つと) 芭蕉
(海道は道もなきまで切狭め松かさ送る武隈の土産)
武隈の松は既にこの『奥の細道』の旅で通過している。そこで復元された根本で二つに分かれた松の姿を見、
桜より松は二木を三月越シ 芭蕉
と詠んでいる。
ただしここは海辺の狭い道ではない。句の意味としては、武隈の松を見たお土産にその松ぼっくりを持って帰る途中ということだろうか。
芭蕉は姨捨山の旅、つまり『更科紀行』の旅のときに、
木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉
と詠み、荷兮に橡の実を土産に持ち帰っている。
木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の
実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、
かざりにやせむとて
としのくれ杼の実一つころころと 荷兮
と詠んではいるものの、どうしていいものか困ったのではなかったか。
十六句目。
あさ勤妻帯寺のかねの声
けふも命と嶋の乞食 芭蕉
(あさ勤妻帯寺のかねの声けふも命と嶋の乞食)
これは佐渡に流された日蓮上人だろうか。芭蕉はこのあと、
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
の句を詠むことになる。
二十句目。
物いへば木魂にひびく春の風
姿は瀧に消る山姫 芭蕉
(物いへば木魂にひびく春の風姿は瀧に消る山姫)
「木魂」に「山姫」は「応安新式」で「非人倫」とされている。今の言葉で言う「人外」だ。木魂はエコーの意味だけでなく、樹木に宿る精霊の意味もある。山姫は神と妖怪の両方の意味がある。いずれも「非人倫」で「非神祇」。
二十六句目。
明日しめん雁を俵に生置て
月さへすごき陣中の市 芭蕉
(明日しめん雁を俵に生置て月さへすごき陣中の市)
『図解戦国合戦がよくわかる本』(二木謙一監修、二〇一三、PHP研究所)によると、
「秀吉が鳥取城を攻めたときのこと。三万余の大軍で鳥取城を包囲した秀吉は、兵糧攻めを敢行した。このとき、秀吉は軍の士気が低下しないよう、陣中に町屋を建て、市を開かせた。また歌舞の者を呼んで兵士達を楽しませてもいる。」
という。
合戦も長引くと、兵士達の私的な物資の調達のために市が立つことはそう珍しくもなかっただろう。秀吉はそれを自ら指揮して行わせた。
「月さへすごき」というのはそういう陣中の、明日の命をも知れぬ兵士の捨て鉢なすさんだ空気をよく表わしている。
二十九句目。
小袖袴を送る戒の師
吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉
(吾顔の母に似たるもゆかしくて小袖袴を送る戒の師)
「戒の師」が出家前に妻としていた女性の娘を見て、懐かしくなって小袖袴を贈ったか。『西行物語』の娘との再会のシーンを思い浮かべたのかもしれない。
三十二句目。
奈良の京持伝へたる古今集
花に符を切坊の酒蔵 芭蕉
(奈良の京持伝へたる古今集花に符を切坊の酒蔵)
「符」は「封」のことだと『校本芭蕉全集 第四巻』の注にある。「坊の酒蔵」は僧坊酒のことであろう。
僧坊酒は奈良の寺院で作られていた「南都諸白」と呼ばれる名酒のことであろう。今の清酒に近い。ウィキペディアに、
「やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した「○○諸白」なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。」
とある。
前句は古今伝授が奈良に伝わったことを言う。ウィキペディアに、
「宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。」
とある。この林宗二は京都の生まれだが、代々続く奈良の饅頭屋を継いで、饅頭屋宗二とも呼ばれていた。
古今集は奈良の饅頭屋に伝り、名酒もまた奈良に伝わっていて、どちらも花見には欠かせない。下戸に上戸を付けた相対付け(向え付け)になる。
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