今日は小山田緑地を散歩した。来ている人は僅かで閑散としていた。
ヘリコプターがなぜか上空でずっと空中停止していてうるさかった。
みはらし広場からは丹沢や富士山から奥多摩の御嶽山も見えた。
夏に見に行った早野のひまわり畑、種がこぼれていたのか、冬だというのに小さな花を付けている。暖かいからだろうか。
南アフリカのB.1.1.529変異株のニュースはまだ未確定な「恐れがある」だとか「懸念がある」というだけで、最悪の事態を想定する必要はあるが、日本はまだマスクをはずしてないし、ソーシャルディスタンスもかなり守られていて、この種のものが定着している。もとより日本人は普段の身体的接触の習慣も少ない。
これを急速に緩めることさえなければ、感染拡大まである程度時間は稼げる。その間に変異株対応ワクチンや重症化を防げる治療薬の普及があれば、この夏のようにぎりぎりで逃げ切れる。
Bloombergは何か思い違いをしている。日本のコロナ対策はただ海外に正しく認識されてないだけで、実質的には失敗していない。どんなに批判されたとしても、死者数を低く抑えれば勝ちだ。
日本は人口100万人あたりの死者数が11月25日の時点で145.5人。ノルウェーは193.7。Bloombergのランキングではノルウェーが一位、日本は十二位。耐性ランキングではアメリカが一位、日本は二十三位。ちなみにアメリカの人口100万人あたりの死者数は2343.7人。何のランキングなのか不明。
さて、芭蕉の生涯を俳句視点ではなく俳諧視点で読んできたが、今日は旧暦十月二十二日ということで、芭蕉の命日から十日過ぎてしまった。
『笈日記』の続きを読もうと思ったが、ほとんど『花屋日記』を読んだ時と重複してしまうので、まだ読んでない「元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧」を読んでみようかと思う。
発句は、
なきがらを笠に隠すや枯尾花 其角
で、枯尾花と言えば元禄四年冬の、
ともかくもならでや雪の枯尾花 芭蕉
の句を思い浮かべてのものだろう。芭蕉が江戸に帰ってきた時の句で、其角としても、あの時芭蕉さんが江戸の戻ってきてくれたように、今回もどこかへ旅に出ていて、「枯尾花にならずに済んだ」と言って帰ってきてほしいという気持ちだったのだろう。
ただ、現実にその亡骸を見た。枯尾花になった現実を前に、それを旅の笠を添えて隠す。
もちろん芭蕉の病中で詠んだ、
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
の句も念頭にあったのだろう。枯野に枯尾花は付き物だ。最後まで心の中で旅を続けていた芭蕉さんに、死んで枯尾花になってもなおかつ、笠を被せたかったのだろう。
この悲しみに溢れる句に、脇は秋からずっと芭蕉に同行していた支考が脇を付ける。
なきがらを笠に隠すや枯尾花
温石さめて皆氷る聲 支考
温石(をんじゃく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「温石」の解説」に、
「① からだを暖める用具の一つ。蛇紋石、軽石などを火で焼いたり、またその石の代わりに菎蒻(こんにゃく)を煮て暖めたりして、布に包んで懐中するもの。焼き石。《季・冬》 〔文明本節用集(室町中)〕
※俳諧・続猿蓑(1698)春「温石(オンジャク)のあかるる夜半やはつ桜〈露沾〉」
② (温石はぼろに包んで用いるところから) ぼろを着ている人をあざけっていう。
とある。この①と②の両方の意味に掛けて、一方では参列する方々の懐の温石の冷めて震える様子を表し、一方では芭蕉さんの亡骸を包む笠を温石を包むぼろに見立てて、体温が失われていったときの比喩として用いている。
「氷る聲」は、
櫓声波を打って腸氷る夜や涙 芭蕉
の句の、断腸の声を表すのに「氷る」という表現を用いたことを踏まえてのことだろう。
第三は丈草が付ける。七日に芭蕉の病を知って花屋の宿に駆けつけ、
うづくまる薬缶の下の寒さ哉 丈草
の句は芭蕉も高く評価した。その第三。
温石さめて皆氷る聲
行灯の外よりしらむ海山に 丈草
発句の弔いの情を離れて、明け方の寒さに転じる。ただ、あくまでも追悼興業なので、笑いを求めずに厳かに展開する。
外が白んで明るくなっていくと、行燈の火は目立たなくなってゆく。
四句目は支考とともに伊賀から芭蕉と旅を伴にした惟然が付ける。
行灯の外よりしらむ海山に
やとはぬ馬士の縁に来て居る 惟然
海山の景色の美しい街道の宿場であろう。夜が白む頃に外へ出ていると、雇った覚えのない馬士がやってくる。人違いか。旅立とうとしている姿に見えたのだろう。
五句目は芭蕉の死を看取った医者の木節が付ける。最後まで芭蕉の治療に当たった功労者だ。
やとはぬ馬士の縁に来て居る
つみ捨し市の古木の長短 木節
前句の馬士が来たのを市場として、要らなくなった古木の木っ端をもって行ってもらおうと思ったが、違う馬士だった。
役に立たない馬士に「長短」が響きとして面白い。
六句目は彦根の平田から来た李由が付ける。許六の弟子で、病気の時にすぐに駆け付けることのできなかった許六の代理でもあったのだろう。丈草・木節と同様、七日に到着している。
つみ捨し市の古木の長短
洗ふたやうな夕立の顔 李由
夕立の後は洗われたようにというのは、今でもよく使われる言い回しでもある。
前句の古木の積み捨てたのを急な夕立のせいとする。びしょ濡れの顔で雨宿りする。
七句目は芭蕉が大阪に来る理由でもあった之道が付ける。元凶となった洒堂は芭蕉の死に立ち会わずに雲隠れした。
洗ふたやうな夕立の顔
森の名をほのめかしたる月の影 之道
森は神社の意味で、この場合は住吉大社か。
之道の地元でもあり、八日には他の門人たちを引き連れて、住吉大社で芭蕉の病気の治癒を祈願した。住吉だけに月の「澄んで良し」となる。前句の顔は月の顔になる。
八句目は京の芭蕉の高弟、去来が付ける。去来も七日に到着した。
森の名をほのめかしたる月の影
野がけの茶の湯鶉待也 去来
「野がけ」は野遊びのことも意味するが、ここでは野点(のだて)のことであろう。
前句の月の影を夕暮れの景色として、夕暮れの野点を行う。
鶉は、
夕されば野べの秋風身にしみて
鶉鳴くなり深草の里
藤原俊成(千載集)
が本歌で、ここで鶉の声でもあれば風情があるといったところか。
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