岩波の『仮名草子集』の「身の鏡」を読んだ。これは当時の武家のオヤジが読んでいそうな、今でいう自己啓発本に近い。「歌道の事」に万治の頃の貞門時代の点取り俳諧のことが記されている。
「殊に今時俳諧の点取とて、一句を二銭三銭づつにて、宗匠に見するならば、百韻にては銭二三百のついへ、塵積もつて山となるといへば、年月の俳諧のついへ限りなし」
と、あえて歌道好きな人の言葉として書いているが、著者自身の考えであろう。人の言ったことにして責任逃れをするのはよくあることだ。自分が思っていることでも、友達から聞いた話なんだけど、と言うようなもの。
さて、続き。
山中三吟の二十一句目は芭蕉の推敲過程が辿れる。
銀の小鍋にいだす芹焼
手まくらにしとねのほこり打払ひ 芭蕉
(手まくらにしとねのほこり打払ひ銀の小鍋にいだす芹焼)
評語
手枕におもふ事なき身なりけり 翁
手まくらに軒の玉水詠め侘 同
てまくら移りよし。汝も案ずべしと有けるゆへ
手枕もよだれつたふてめざめぬる 枝
てまくらに竹吹ふきわたる夕間暮 同
手まくらにしとねのほこり打払ひ 翁
ときはまりはべる。
芹焼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「芹焼」の解説」に、
「〘名〙 焼き石の上で芹を蒸し焼きにした料理。転じて芹を油でいため、鳥肉などといっしょに煮た料理もいう。《季・冬》
※北野天満宮目代日記‐目代昭世引付・天正一二年(1584)正月一四日「むすびこんにゃく、せりやき三色を折敷にくみ候て出候」
とある。
芹焼や縁輪の田井の初氷 芭蕉
という晩年の句もある。
日本では野菜を生で食う習慣がなく、芹も蒸したり炒めたり煮込んだりして、火を通して食べた。この場合の初案、
銀の小鍋にいだす芹焼
手枕におもふ事なき身なりけり
だと、手枕をして手持ち無沙汰で待っているのだから、この場合は煮物であろう。
推敲の方は何か一つ取り囃しが欲しいということであろう。「おもふ事なき」を直接ではなく、何かそれを匂わすようにということで、
銀の小鍋にいだす芹焼
手まくらに軒の玉水詠め侘
となる。
銀の小鍋にいだす芹焼
手枕もよだれつたふてめざめぬる 北枝
はあるあるネタで笑いを取ろうとする。
銀の小鍋にいだす芹焼
てまくらに竹吹ふきわたる夕間暮 北枝
は景で流した感じにする。
我がやどのいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕べかも
大伴家持(万葉集)
が本歌で、そのまんまという感じもする。
銀の小鍋にいだす芹焼
手まくらにしとねのほこり打払ひ 芭蕉
の最終案は、あるあるネタだが、あまり人が気に留めないネタということで、これに定まったのだろう。
二十四句目。
つぎ小袖薫うりの古風也
非蔵人なるひとのきく畠 芭蕉
(つぎ小袖薫うりの古風也非蔵人なるひとのきく畠)
評語
非蔵人なるひとのきく畠 同
我、此句は三句のわたりゆヘ、向へて附玉ふにやと申ければ、うなづき玉ふ。
非蔵人というと、禁中に出入りできる貴族の中では一番下の部類で、蔵人見習いみたいな微妙な立場だが、昔から結構風流人が多い。『古今著聞集』巻十九には順徳院のときのこととして、
「内裏にて花合ありけり、人々めんめんに風流をほどこして花たてまつりけるに、非蔵人孝時、大なる桜の枝を両参人してかかせて、南庭の池のかたに ほりたて たりけり。」
とある。こういう華道の達人なら、さぞかし立派な菊の畠を持っているのだろう。
「向むかへて附玉つけたまふ」というのは、中世連歌でいう「相対付け」のことで、三句同じ趣向が続くこと(三句の渡り)を避けるために、大きく展開を図りたいときに用いられる。
ここでは「薫物売り」と「非蔵人」が対になる。
山中三吟で曾良と別れた後、芭蕉は再び小松に戻り、
あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉
を発句とする興行が行われる。この句も後に
むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
の形で『奥の細道』の句となる。
十六句目。
鵙落す人は二十にみたぬ㒵
よせて舟かす月の川端 芭蕉
(鵙落す人は二十にみたぬ㒵よせて舟かす月の川端)
猟師は殺生を生業とするため、身分的には何らかの差別を受けていたのだろう。ウィキペディアには
「各村の「村明細帳」などに「殺生人」と記される「漁師」・「猟師」などの曖昧な存在もあり、士農工商以外を単純に賤民とすることはできない。」
とあり、いわゆる穢多・非人ではないが、何らかの区別はあったようだ。
漠然と被差別民とみなすなら、河原に縁があったのかもしれない。
十九句目。
去年の軍の骨は白暴
やぶ入の嫁や送らむけふの雨 芭蕉
(やぶ入の嫁や送らむけふの雨去年の軍の骨は白暴)
藪入りは奉公人だけでなく、嫁も実家に帰ることができた。夫が同伴する地域もあったという。
江戸時代には奉公人の帰省の日になったが、本来は嫁が実家に帰る日だったという説もあり、前句を戦国時代として、藪入りの古い形を付けたのかもしれない。
二十二句目。
うつくしき佛を御所に賜て
つづけてかちし囲碁の仕合 芭蕉
(うつくしき佛を御所に賜てつづけてかちし囲碁の仕合)
御所を碁所に取り成したか。「碁所」は一般的には「ごどころ」だが、「ごしょ」と読むこともあったのだろう。仕合は「しあはせ」と読む。
二十八句目。
竹ひねて割し筧の岩根水
本家の早苗もらふ百姓 芭蕉
(竹ひねて割し筧の岩根水本家の早苗もらふ百姓)
前句を苗代水としたか。苗は本家の敷地でまとめて作られていて、分家がそれをもらいに来るというのはよくあることだったか。芭蕉も農人の出だから、幼少期の経験なのかもしれない。
三十一句目。
討ぬ敵の絵図はうき秋
良寒く行ば筑紫の船に酔 芭蕉
(良寒く行ば筑紫の船に酔討ぬ敵の絵図はうき秋)
「良」は「やや」と読む。仇を討つために筑紫の船で旅をするのだが、船酔いして情けない。
筑紫船「めづらしや」の巻二十三句目にも、
寝まきながらのけはひ美し
遥けさは目を泣腫す筑紫船 露丸
というふうに登場している。
八月二十一日、芭蕉は大垣に到着する。しばらくは長い旅の疲れを癒したのだろう。九月三日にようやく「野あらしに」の巻半歌仙が興行される。
十句目。
いとおしき人の文さへ引さきて
般若の面をおもかげに泣 芭蕉
(いとおしき人の文さへ引さきて般若の面をおもかげに泣)
愛しき人に裏切られたのだろう。文を引き裂いて般若の顔で泣く。
十三句目。
薬たづぬる月の小筵
薄着して砧聞こそくるしけれ 芭蕉
(薄着して砧聞こそくるしけれ薬たづぬる月の小筵)
前句の「小筵」を筵を着た乞食として、砧の音も悲しげだが、砧打つような衣すらない乞食はもっと苦しい、とする。
九月四日には大垣左柳亭で、
はやう咲九日も近し宿の菊 芭蕉
を発句とした歌仙興行が行われる。曾良とも再開し、他にも路通、越人、木因、荊口一家の参加する賑やかな会となった。
十四句目。
飽果し旅も此頃恋しくて
歯ぬけとなれば貝も吹れず 芭蕉
(飽果し旅も此頃恋しくて歯ぬけとなれば貝も吹れず)
長いこと旅から遠ざかった前句の人物を修験者とする。修験者は巡礼もすれば登山もする。ただ、年老いて歯も抜けて法螺貝を吹くこともできなくなると、さすがに昔を恋しがるだけになる。
二十九句目。
尼に成べき宵のきぬぎぬ
月影に鎧とやらを見透して 芭蕉
(月影に鎧とやらを見透して尼に成べき宵のきぬぎぬ)
透けて見えるのは亡霊だ。残念ながら主人は戦死しました。明日からは尼です。
九月六日、芭蕉は曾良、路通とともに伊勢長島へ行き、大智院に滞在し、九月八日に七吟歌仙が興行される。
十三句目。
月見ありきし旅の装束
さまざまの貝ひろふたる布袋 芭蕉
(さまざまの貝ひろふたる布袋月見ありきし旅の装束)
『奥の細道』の旅での敦賀の記憶だろう。
潮染むるますほの小貝拾ふとて
色の浜とは言ふにはあるらん
西行法師
の歌で知られていて、芭蕉もここで、
寂しさや須磨にかちたる浜の秋 芭蕉
波の間や小貝にまじる萩の塵 同
の句を詠んでいる。
二十七句目。
薬手づから人にほどこす
田を買ふて侘しうもなき桑門 芭蕉
(田を買ふて侘しうもなき桑門薬手づから人にほどこす)
桑門は「よすてびと」と読む。自ら薬を作って人に施すのは殊勝なことだが、それには先立つものがなくてはならない。
田を買い寺領を所有し、経済的基盤を固めなくてはならない。
三十四句目。
打むれてゑやみを送る朝ぼらけ
麦もかじけて春本ノママ 芭蕉
(打むれてゑやみを送る朝ぼらけ麦もかじけて春本ノママ)
「春本ノママ」は「春」の下の文字が読めなかったということで、春がどうなったのかは想像するしかない。まあ、大変なことになったのは確かだ。
「かじける」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「① 寒さで凍えて、手足が自由に動かなくなる。かじかむ。 「手ガ-・ケタ/ヘボン 三版」
② 生気を失う。しおれる。やつれる。 「衣裳弊やれ垢つき、形色かお-・け/日本書紀 崇峻訓」
とある。麦が旱魃で萎れてしまい、春だというのに‥‥。これは飢饉だ。疫病神を追い払う儀式が行われる。
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