今日も月がよく見える。明日の月蝕も見えるかな。
彭帥さんのことは大坂なおみさんも心配しているが、こういう事件を聞くとチャウシェスクの息子のことを思い出す。あらためて独裁政治の闇の深さを感じさせる。
日本は選挙で左翼が負けてごたごたしているせいか、すっかり静かになって平穏な日々になったが。
小学館の『仮名草子集』の「もえくゐ」を読む。「たきつけ草」の補足のような内容だった。
「いつわりは、男より始まりて、女には始まらず。」というのは当然のことで、そもそもお金で女を買おうという時点で偽りなのだから、その偽りに応じて適当に相手に合わせるのは偽りと言うほどのものではない。
そんなことのためとはいえ、遊女が髪を切るのはまだしも、爪を抜いたり指を詰めたりというのは、それぐらい必死でないと生きてゆけない過酷な世界だったんだな。
優しいそぶりが営業だというのがわからずに、ストーカーになってしまう男というのが一番始末に困る。それは今の風俗でもアイドルでも一緒だが。
「頭に血の多きままに、心中させてはと思ひこみ、ある時は、芥子ばかりの違ひ目を須弥山ほどにいひなし、露ほどの誤りを大夕立の音よりもなをものさはがしく、ののしりたまはれど」とそんな中で、殺されるよりはましと爪を抜いたり指を詰めたりしていた。
当時は公権力の保護もなければ、それを「宿世(前世の縁)拙く悲しき事なり」と言うしかなかった。何とか男の嫉妬の怒りをかわしながら、男が金を使い果たして没落するのを待つというのが一応の筋だったのだろう。
元禄六年七月には京の史邦が江戸に移住する。ここで、
朝顔や夜は明きりし空の色 史邦
を発句とする歌仙興行がなされる。
水色の朝顔であろう。ちょうど朝の明けっ切った頃の空のような色をしている。朝から興行が行われたわけではなく、特に寓意もなく立句にしたと思われる。
第三
をのれをのれと蚓なきやむ
舛落またぬに月は出にけり 芭蕉
(舛落またぬに月は出にけりをのれをのれと蚓なきやむ)
舛落(ますおとし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「升落・枡落」の解説」に、
「〘名〙 鼠を捕える仕掛けの一種。升をふせて棒でささえ、その下に餌を置き、鼠が触れると升が落ちてかぶさるようにしたもの。ます。ますわな。ますこかし。
※俳諧・庵桜(1686)「升落し中避る猫の別哉〈宗旦〉」
とある。
前句の「をのれをのれ」を鼠に対しての言葉とする。升落としを仕掛けておいたが夕方になっても鼠はかからず、月が出たのでその舛で酒を飲んだか。
十一句目。
祖父のふぐり柴にとり付ク
子ども皆貧乏神と名をよびて 芭蕉
(子ども皆貧乏神と名をよびて祖父のふぐり柴にとり付ク)
前句の「とり付ク」を貧乏神が憑りつくとする掛けてにはになる。
ここでは前句の「祖父のふぐり」をそのまんま人倫として、褌もせずに歩いている爺さんの貧相な姿に、貧乏神が刈ってきた柴に憑りついていたのか、子供から貧乏神と呼ばれる。
十六句目。
鉄棒を戸塚の宿の伝馬触
腹疫病のはやりしづまる 芭蕉
(鉄棒を戸塚の宿の伝馬触腹疫病のはやりしづまる)
前句の鉄棒は「かなぼう」と読む。
腹疫病は腹に来る伝染病だが、痢病だろうか。今の赤痢のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の痢病の言及」に、
「… 日本では奈良時代から記録されており,平安時代の《医心方》にも記述され,歴史を通してたびたび流行を繰り返していた。のちには〈痢病〉あるいは〈あかはら〉などとも呼ばれ,江戸時代の医家たちは,その伝染の迅速性に言及している。明治以後も流行を重ね,1893,94年には全国的な大流行となり,両年とも15万人以上の患者,4万人前後の死者を数えた。…」
とある。
赤痢が流行っているので、伝馬なども移動制限になったのか、流行が去ると一斉に動き出す。
二十三句目。
薫じ渡りし白無垢の夜着
穢土厭離打さそはるる鐘の声 芭蕉
(穢土厭離打さそはるる鐘の声薫じ渡りし白無垢の夜着)
前句を死に装束として無常へと展開する。
穢土厭離(えんりゑど)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「厭離穢土」の解説」に、
「苦悩多い穢 (けが) れたこの娑婆世界を厭 (いと) い離れたいと願うこと。「おんりえど」とも読む。欣求浄土の対句で,両者を合せて厭穢欣浄 (えんねごんじょう) ともいわれる。安楽な世界である極楽浄土に生れることを切望することから,浄土願生 (じょうどがんしょう) 思想の根本として,浄土教思想の根底となった。日本では平安時代末期から鎌倉時代にかけて世情の不安に伴ってこの思想が一般に普及された。」
とある。
同じ頃、
初茸やまだ日数経ぬ秋の露 芭蕉
を発句とする興行もあった。
秋の露が降りる頃になると、ほどなく初茸の季節になる。季候の挨拶とする。
この興行に嵐蘭が参加しているが、これが最後の興行となる。
十一句目。
やさしき色に咲るなでしこ
四ツ折の蒲団に君が丸く寐て 芭蕉
(四ツ折の蒲団に君が丸く寐てやさしき色に咲るなでしこ)
撫子から幼女のこととして、四つに折って小さくした蒲団の上に丸くなって寝ている様を付ける。
「撫子」は本来は撫でて可愛がるような子供のことで、大人は「常夏」という。
二十一句目。
のみ口ならす伊丹もろはく
琉球に野郎畳の表がへ 芭蕉
(琉球に野郎畳の表がへのみ口ならす伊丹もろはく)
野郎畳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野郎畳」の解説」に、
「〘名〙 縁(へり)をつけない畳。坊主縁(ぼうずべり)の畳。坊主畳。野郎縁。
※俳諧・陸奥鵆(1697)一「拾ふた銭にたをさるる酒〈素狄〉 真黒な冶郎畳の四畳半〈桃隣〉」
とある。琉球畳も同様に縁のない畳をいう。
あるいは同じ畳を関東では野郎畳、関西では琉球畳と言ったか。
関西に来て伊丹諸白を飲み慣れたから、部屋の野郎畳も琉球畳に畳替えした、って一緒やんけーーーっ。
二十四句目。
見知られて近付成し木曽の馬士
嫁入するよりはや鳴子引 芭蕉
(見知られて近付成し木曽の馬士嫁入するよりはや鳴子引)
「鳴子引(なるこひき)」は鳴子の綱を遠くから引いて鳴らして、田畑の害鳥を追払うことをいう。
木曽の馬子の所に嫁に行ったら、最初にやらされた仕事が鳴子引きだった。
二十八句目。
草赤き百石取の門がまへ
公事に屓たる奈良の坊方 芭蕉
(草赤き百石取の門がまへ公事に屓たる奈良の坊方)
屓は「まけ」と読む。お寺と神社は本地垂迹で共存していても、その境界はしばしば裁判沙汰になる。公事は訴訟のことで、負けて寺領を失った坊は門にも雑草が生い茂っている。
三十三句目。
干物つきやる精進の朝
手拭のまぎれて夫を云つのり 芭蕉
(手拭のまぎれて夫を云つのり干物つきやる精進の朝)
夫は「それ」と読む。
『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年刊)を引いている。
「前句つねの所なれど、後句おのれが精進をもしらず、干物つけたるはその宿にはあらず、旅籠屋(ハタゴヤ)などの朝と見てつけたる也。さては手拭もゆふべの風呂よりまぎれたるをいひつのるさまに、若者どもの旅連なるべし」
夕べの風呂場で手拭を誰かが自分のと間違えて持って行ってしまったのだろう。そのことを宿に文句を言って、「そんなことうちには責任ありませんよ」とか言われると、「それに精進日だというのに干物を出しやがって」といちゃもんつける。店の方としては「知るかよ」だろう。
若者かどうかは知らないが、こういうクレーマーはいつの世にもいたのだろう。
その次の三十四句目は嵐蘭が付ける。
手拭のまぎれて夫を云つのり
駄荷をかき込板敷の上 嵐蘭
(手拭のまぎれて夫を云つのり駄荷をかき込板敷の上)
駄荷(だに)は馬につけて送る荷物で、手拭が見つからないが、その荷物の中に紛れているんではないかと、荷物の中身をひっくり返して調べさせる。迷惑なことだ。
同じ七月に史邦、芭蕉、岱水の三吟歌仙「帷子は」の巻も興行されている。
五句目。
夜市に人のたかる夕月
木刀の音きこへたる居あひ抜 芭蕉
(木刀の音きこへたる居あひ抜夜市に人のたかる夕月)
夜市で居合い抜きを披露する大道芸人であろう。真剣でやっているように見せても、どうも木刀のような音がする。
八句目。
寒さふに薬の下をふき立て
石丁なれば無縁寺の鐘 芭蕉
(寒さふに薬の下をふき立て石丁なれば無縁寺の鐘)
石丁は石を割ったり加工したりする石丁場のことか。薬を飲ませていたがその甲斐もなく、墓石の準備になる。「無縁寺の鐘」が鳴るのは、どこから来たともしれぬ旅人の客死であろう。
十一句目。
よびかへせどもまけぬ小がつを
肌さむき隣の朝茶のみ合て 芭蕉
(肌さむき隣の朝茶のみ合てよびかへせどもまけぬ小がつを)
この時代は抹茶ではない煎じて飲む唐茶も急速に広まった。鰹節も関西では熊野節などが古くから用いられていたが、紀州の角屋甚太郎が黴を利用して保存性を高めることに成功し、江戸でも鰹節売りが登場することになった。
茶飲み話をしていると鰹節売がくるというのがこの時代の新しいあるあるだったのだろう。人気商品なので、なかなか負けてくれない。
二十句目は糞尿ネタ。
竹橋の内よりかすむ鼠穴
馬の糞かく役もいそがし 芭蕉
(竹橋の内よりかすむ鼠穴馬の糞かく役もいそがし)
竹橋は馬も通るので、馬の糞を片付ける人もいる。
二十三句目。
とはぬもわろしばばの吊
椀かりに来れど折ふしゑびす講 芭蕉
(椀かりに来れど折ふしゑびす講とはぬもわろしばばの吊)
恵比寿講は商人たちが商売繁盛を願い、御馳走を食べてお祝いする。椀のがくさん必要なときだが、そこに婆の葬儀が重なってしまう。
二十六句目。
夜あそびのふけて床とる坊主共
百里そのまま船のきぬぎぬ 芭蕉
(夜あそびのふけて床とる坊主共百里そのまま船のきぬぎぬ)
船饅頭のことか。ウィキペディアに、
「船饅頭(ふなまんじゅう)は、江戸時代に江戸の海辺で小舟で売春した私娼である。」
とあり、『洞房語園』には、
「いにし万治の頃か、一人のまんぢう、どらを打て、深川辺に落魄して船売女になじみ、己が名題をゆるしたり」
とある。
寛保ころの流行歌にもあり(『後は昔物語』)、宝暦の『風流志道軒伝』には、
「舟饅頭に餡もなく、夜鷹に羽根はなけれども」
とある。
まあ、そのまま百里の彼方まで船で連れ去られるということはなかったと思うが。
二十九句目も芭蕉の恋句。
よりもそはれぬ中は生かべ
云たほど跡に金なき月のくれ 芭蕉
(云たほど跡に金なき月のくれよりもそはれぬ中は生かべ)
前句の「生かべ」は生乾きの壁。
お金がないとなると二人の仲も盤石ではない。生壁程度になる。
挙句。
考てよし野参のはなざかり
百姓やすむ苗代の隙 芭蕉
(考てよし野参のはなざかり百姓やすむ苗代の隙)
百姓も苗代を作れば、田植までの間暇なので吉野へ花見に行く。
この後芭蕉は、閉関之説を書き表し、
朝顔や昼は錠おろす門の垣 芭蕉
の句を詠み、しばらく休息する。元禄六年八月十六日、
いざよひはとり分闇のはじめ哉 芭蕉
を発句とする興行から、活動を再開する。
十六夜の月は日没に対して若干月の出が遅れる所から、短時間ながら日も月もない闇の時間が生じる。
六句目。
見かへせば屋根に日の照る村しぐれ
青菜煮る香の田舎めきけり 芭蕉
(見かへせば屋根に日の照る村しぐれ青菜煮る香の田舎めきけり)
時雨の頃は青菜の季節で、時雨も上がる頃に青菜煮る煙の臭いがし出すと、田舎に来たなという実感がわく。
陶淵明の歸園田居五首(其一)は、
狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
犬は町の奥で吠え、鶏は桑の木の上で鳴く。
と、犬や鶏の声に田舎を感じさせるが、それを卑俗なものに言い換える。
犬や鶏を登場させて歸園田居五首(其一)のイメージを借りるのではなく、別の卑俗なもので表現する。
十一句目。
渡しの舟で草の名を聞
鷭の巣に赤き頭の重リて 芭蕉
(鷭の巣に赤き頭の重リて渡しの舟で草の名を聞)
バン(鷭)は全身が黒っぽくて額から嘴の付け根辺りまでが赤い。川や池の草の生える中に巣を作る。「赤き頭の重リて」は子バンがたくさん生まれたのであろう。
三十一句目。
冬のみなとにこのしろを釣
初時雨六里の松を伝ひ来て 芭蕉
(初時雨六里の松を伝ひ来て冬のみなとにこのしろを釣)
「六里の松」は天橋立のことか。冬に初時雨、みなとに六里の松を付ける。四手付け。
三十四句目。
朝すきを水鶏の起す寝覚也
筍あらす猪の道 芭蕉
(朝すきを水鶏の起す寝覚也筍あらす猪の道)
朝の茶事のために早起きして、数寄者にふさわしく竹林の道を行く。その竹林の道を俳諧らしく「筍あらす猪の道」とする。
元禄六年九月十三日、深川芭蕉庵で、
十三夜あかつき闇のはじめかな 濁子
を発句とする興行が行われる。発句は前の「いざよいは」の句に応じたものだ。
あれから一か月、悲しい出来事もあった。八月二十七日、鎌倉から戻った嵐蘭が急死した。二十九日には其角の父東順が亡くなる。その悲しみのまだ癒えぬ九月十三日、ふたたび月見の会が行われる。
十六夜は日が沈んで月が登るまでにわずかに闇が生じる。このあと月の出は遅くなり、闇の時間は長くなる。だが、十三夜だと暁闇は最後になり、闇の時刻は日没後に移る。
八句目。
きり麦をはや朝かげにうち立て
幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
(きり麦をはや朝かげにうち立て幸手を行ば栗橋の関)
幸手は春日部の先にある日光街道の宿場で、埼玉は昔は麦の産地だったから、うどんやきり麦が名物だったのだろう。切り麦を食べて朝日の中、「うち立て」を「すぐに旅立って」の意味に取り成す。
幸手の先に栗橋があり、ここで利根川を渡ると茨城県古河市になる。この渡しの所に栗橋の関があった。
十二句目。
梟の身をもかくさぬ恋をして
なみだくらべん橡落る也 芭蕉
(梟の身をもかくさぬ恋をしてなみだくらべん橡落る也)
比喩ではなく本物の梟も恋をして泣いているのだろうか。泪ではなく橡の実が落ちてくる。
二十句目。
寝覚めにも指を動かすひとよ切
中能ちなむ兄が膝元 芭蕉
(寝覚めにも指を動かすひとよ切中能ちなむ兄が膝元)
「中能」は「なかよく」と読む。
「ちなむ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「ある縁に基づいて物事を行う。縁を結ぶ。親しく交わる。
出典雪の尾花 俳諧
「年ごろちなみ置ける旧友・門人の情け」
[訳] 長年、親しく交わっていた旧友や門人の思いやり。」
とある。芭蕉さんのことだから、単なる旧来からの親しみではなく、前句の「指を動かす」に想像を膨らませ、そっち系に持って行ったのではないかと思う。一節切ではなく尺八だったら、今でもその意味がある。
二十七句目。
足はむくみて河原行けり
よごれたる衣に輪袈裟打しほれ 芭蕉
(よごれたる衣に輪袈裟打しほれ足はむくみて河原行けり)
「輪袈裟」はウィキペディアに、
「僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的である。輪袈裟(りんげさ)や畳袈裟(たたみげさ)と呼ばれることもある。」
とある。白衣の上に輪袈裟を羽織ると、お遍路さんの装束になる。
長旅に汚れた衣によれよれの輪袈裟。さびを感じる。
元禄六年(一六九四)十月二十日、恵比寿講の日に深川での芭蕉、野坡、孤屋、利牛による四吟歌仙興行。翌年の『炭俵』に収録される。
芭蕉の軽みは完成期に入り、ここに凝縮されてゆく。
発句は、
神無月廿日ふか川にて即興
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。
日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていた。
恵比寿講は神無月で神々が出雲に集まるため、その留守を守る異国の神として祭られたという説があるが、おそらくそれは後付けの説明だろう。
振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていた。
雁の哀れは古典では飛来する鴈に秋を感じて哀れだということだが、ここでは振り売りの売る雁に殺生の罪を感じて「哀れ」だとする。古典に密着しない江戸の都会の雁の哀れを見出すところに軽みがある。
六句目は経済ネタ。
好物の餅を絶やさぬあきの風
割木の安き国の露霜 芭蕉
(好物の餅を絶やさぬあきの風割木の安き国の露霜)
割り木は薪のことで、田舎では調達が容易だが、都会になるとかなり大変だ。京では大原女が売りに来るが、江戸でも周辺の田舎から薪売りが来たのだろう。それが安いというのは田舎の方のあまり開けてない国ということだ。
薪が安い所では米もたくさんある。農家から分けてもらったりすれば小さな庵でも困らない。
九句目。
星さへ見えず二十八日
ひだるきハ殊軍の大事也 芭蕉
(ひだるきハ殊軍の大事也星さへ見えず二十八日)
「殊軍の」は「ことにいくさの」と読む。
まあ、腹が減っては軍はできぬというが、ここでは旧暦二十八日の月がない上に曇って星も見えない真っ暗闇の中、腹ペコで行軍させられる哀れを付ける。
十四句目は恋句。
上をきの干葉刻もうハの空
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
(上をきの干葉刻もうハの空馬に出ぬ日は内で恋する)
前句の棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている人物を恋する女性に取り成す。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。位付けになる。
十七句目。
塀に門ある五十石取
此島の餓鬼も手を摺月と花 芭蕉
(此島の餓鬼も手を摺月と花塀に門ある五十石取)
これは前句を流刑地の島守とし、月花の風流を知るその人柄で島の流刑人たちも手を擦り合わせて拝む。
隠岐に流罪となった後鳥羽院の、
我こそは新島守よ隠岐の海の
荒き波風心して吹け
後鳥羽院(増鏡)
の俤と見ていいだろう。
二十二句目はよくある農村の風景か。
川越の帯しの水をあぶながり
平地の寺のうすき藪垣 芭蕉
(川越の帯しの水をあぶながり平地の寺のうすき藪垣)
平地は河川の流域に新たに作られた新田などのあるところだろう。水害の被害を受けやすい所で、お寺はたいてい少し土を盛って高くしてあり、薄い薮垣に守られている。
二十五句目も経済ネタ。
塩出す鴨の苞ほどくなり
算用に浮世を立る京ずまひ 芭蕉
(算用に浮世を立る京ずまひ塩出す鴨の苞ほどくなり)
前句の鴨の塩漬けが届くのを京の商家とする。京は海が遠く、周りは山で囲まれて、新鮮な食材に恵まれず、保存食に依存することの多かった土地だ。
保存食を食べながら商売で生計を立てる。それが当時の都人だ。
三十句目。
中よくて傍輩合の借いらゐ
壁をたたきて寝せぬ夕月 芭蕉
(中よくて傍輩合の借いらゐ壁をたたきて寝せぬ夕月)
「夕月」は夕方に出る月で、満月よりも早く、三日月や半月のことを言う。七月七日の七夕の月の連想も働く。
町は七夕祭りで賑わい、寝ようにも傍輩(同僚)がやってきては服を貸してくれだとか、なかなか寝させてくれないのも、江戸時代のあるあるだったのだろう。
三十三句目。
鯉の鳴子の網をひかゆる
ちらばらと米の揚場の行戻り 芭蕉
(ちらばらと米の揚場の行戻り鯉の鳴子の網をひかゆる)
深川あたりには養殖用の生け簀がたくさんあったのであろう。芭蕉庵にも鯉屋杉風が生け簀に用いていた古池があったという。
魚をユリカモメなどの鳥に食われないようにこうした生け簀の上には鳥除けの鳴子が取り付けられていたのであろう。「鳴子の網」というのは生け簀の上を覆うように、鳴子のたくさん取り付けられた網を張っていたのではないかと思う。
米の揚場は浅草御蔵であろう。両国橋の近くにあり、そこへ行き来する人たちが鯉の生け簀の辺りを通る。芭蕉庵から見える風景か。
元禄六年の十一月に行われた芭蕉、濁子、凉葉による三吟歌仙「芹焼や」の巻は、「田舎」をテーマにした俳諧と思われる。
発句は、
芹焼やすそ輪の田井の初氷 芭蕉
で、元禄八年刊支考編の『笈日記』に、
芹燒や緣輪の田井の初氷
此句は、初芹といふ叓をいひのべたるに侍らん
と、たづねければ、たゞ思ひやりたるほつ句な
りと、あざむかれにける。かゝるあやまりも、
殊におほかるべし。
とある。
「すそ輪の田井」は、
常陸の國に侍りける時よめる
假初と思ひし程に筑波嶺の
すそわの田居も住みなれに鳬
藤原朝村(新拾遺集)
によるもので、芭蕉の句も筑波山の麓を想像して詠んだと思われる。
想像の句なので当座の興とは関係なく、既に作ってあった句を立句として採用したとおもわれるが、その後の一巻の展開からして、あえて江戸の町中にあって田舎俳諧をしようという意図があったのかもしれない。
七句目。
汐くむ牛も見えぬあさ霧
露霜の小村に鉦をたたき入 芭蕉
(露霜の小村に鉦をたたき入汐くむ牛も見えぬあさ霧)
鉦叩(かねたたき)は大道芸でウィキペディアに、
「鉦叩(かねたたき)は、中世・近世(12世紀 - 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種であり、およびそれを行う者である。鉦叩き、鉦たたき、金タタキとも表記する。「七道者」に分類され、やがて江戸時代(17世紀 - 19世紀)には歌念仏(うたねんぶつ)に発展するものあり、八丁鉦(はっちょうがね)あるいは八柄鉦(やからがね)とも呼ばれるようになり、門付芸となった。かねたたき坊主(かねたたきぼうず)とも。」
とある。晩秋の村にやってきた。
十句目。
求食飛ぶ塊鳩の賑はしく
掘ばひらぢにならぬ石原 芭蕉
(求食飛ぶ塊鳩の賑はしく掘ばひらぢにならぬ石原)
前句の「塊鳩(つちくればと)」はキジバトの異名で、デデッポウ、デデッポウと賑やかに鳴いている。鳩のなく場所ということで、石原を付ける。
まっ平らな更地にしたいのだけど、石が多くて、石を掘ると穴があいてしまいなかなか平らにならない。
十三句目。
和田秩父とも独若党
懸乞の来ては言葉を荒シける 芭蕉
(懸乞の来ては言葉を荒シける和田秩父とも独若党)
懸乞は 掛売りの代金の取り立てで、元禄五年十二月の「木枯しに」の巻の第三に、
毛を引く鴨をのする俎板
懸乞の中脇ざしに袴着て 芭蕉
の句がある。
結構取り立ては脅迫めいた荒々しいものだったようだ。かつての和田秩父の末裔でもたじたじといったところか。
十九句目。
破籠はさめぬ鶯のこえ
雪国は春まで馬の繋がれて 芭蕉
(雪国は春まで馬の繋がれて破籠はさめぬ鶯のこえ)
鶯の声がするから既に春なのだろうけど、ここでいう「春まで」は雪解けまでということだろう。
雪が解けるまではまだ仕事もなく、鶯の声を聴きながら破籠(わりご)の飯を食う。
二十五句目。
元米斗る酒の奥殿
焼たてて庭に鱧するくれの月 芭蕉
(焼たてて庭に鱧するくれの月元米斗る酒の奥殿)
奥方は酒の仕込みの米を計り、旦那さんは庭で鱧(ハモ)を擂り潰して、肴にする練り物を作っている。相対付けだが、人倫の制になるので夫をあらわす言葉を隠している。
二十八句目。
寄り婿は假リ諸太夫に粧ふて
うき名は辰の市で恋する 芭蕉
(寄り婿は假リ諸太夫に粧ふてうき名は辰の市で恋する)
「辰の市」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「辰の市」の解説」に、
「昔、辰の日ごとに大和国添上郡(奈良県北部)に定期的に立った市。
※枕(10C終)一四「市は、たつのいち、さとの市、つば市」
とある。「浮名は立つ」と掛詞になる。
『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は、
なき名のみ辰の市とは騒げども
いさまた人を得るよしもなし
柿本人麻呂(拾遺集)
の歌を引いている。
三十一句目。
葉茶壺直す床の片隅
ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて 芭蕉
(ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて葉茶壺直す床の片隅)
「すはや」は最近あまり使わないが、昭和の頃は「すわっ、火事だ」のように用いていた。危機を察知した時の驚きの言葉で、急いで対処しなければならない時に用いる。
この場合はホトトギスの声がしたので、そろそろ蚊帳を吊らなくてはというところだが、ちょっと大げさに驚いてみせる。
都会的な「ゑびす講」の巻に対して、実験的にやったことなのか。和歌の趣向の取り込み、次の続猿蓑調に通じるものもある。
元禄六年の冬、『炭俵』所収の「雪の松」の巻が興行される。
発句は杉風で、
発句
雪の松おれ口みれば尚寒し 杉風
芭蕉は第三のみの参加となっている。芭蕉を含め十三人もの連衆を集めてのなかなか賑やかな興行だ。芭蕉もここでは控えめに、司会進行役に徹したのだろう。
その第三。
日の出るまへの赤き冬空
下肴を一舟浜に打明て 芭蕉
(下肴を一舟浜に打明て日の出るまへの赤き冬空)
下魚は値段の安い大衆魚のことで鰯か何かだろう。明け方に帰ってきた船が取ってきた魚を全部浜に広げて天日干しするのはなんとも豪快だ。赤い朝焼けの空は嵐の前触れなんかではない。これから晴れる印だから魚を干す。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海づらのけしきと見、日和のもやうと定て、魚干す体をいへりけるや。」とある。
今回の興行では芭蕉はこの一句だけ。さながら漁の収穫を十二人の門弟に見立て、後は任せたぞって所か。
元禄六年の同じ冬には「いさみたつ」の巻が興行される。
いさみたつ鷹引居る霰哉 芭蕉
を発句とする巻と、後に『続猿蓑』に収録される、
いさみ立鷹引すゆる嵐かな 里圃
を発句とする巻と二つがある。前者は芭蕉・沾圃・馬莧による三吟歌仙だが、こちらが没になり、発句を改作して里圃に譲り、芭蕉は第三のみの参加で里圃・沾圃・馬莧の三吟歌仙にした方を『続猿蓑』に採用している。
発句、
いさみたつ鷹引居る霰哉 芭蕉
は、鷹狩の鷹が勇み立って飛び立とうとするのを引き留めるかのように、霰が降ってくるという句で、特に寓意はない。
四句目。
宿はづれ明店多く戸をさして
三味線さげる旅の乞食 芭蕉
(宿はづれ明店多く戸をさして三味線さげる旅の乞食)
浄瑠璃を語る琵琶法師は次第に影を潜め、この頃は琵琶ではなく三味線で語るように変わっていった。
三味線を提げた乞食坊主はそうした琵琶法師ならぬ三味線法師なのだろう。昔の宿の賑わいに、かつての琵琶法師の華やかな時代を偲ぶ。
七句目。
衾こそぐる秋寒きなり
露霜にたれか問るる下駄の音 芭蕉
(露霜にたれか問るる下駄の音衾こそぐる秋寒きなり)
露霜の降りて寒い日に下駄の音がするが誰だろうか。衾にくるまっていて、出たくないな。
後の元禄七年刊其角編の『句兄弟』の、
応々といへどたたくや雪の門 去来
の句を思わせる。
十句目。
力なく肱ほそりしうきおもひ
繕ふかひもなき木綿もの 芭蕉
(力なく肱ほそりしうきおもひ繕ふかひもなき木綿もの)
「かひな」から「かひ」を導き出す。ボロボロになった木綿の着物はこれ以上繕ってもしょうがないし、繕うほどの腕の力もない。
十三句目。
暑きをほめてかゆる雑魚汁
釣の銭十二匁の相場なり 芭蕉
(釣の銭十二匁の相場なり暑きをほめてかゆる雑魚汁)
十二匁は十二文。釣りをするときは漁師に支払っていたか。十二文で雑魚汁がおかわりできる程喰えるなら安いものだろう。
十六句目。
ふところえ畳んで入る夏羽織
親父親父と皆かはゆがる 芭蕉
(ふところえ畳んで入る夏羽織親父親父と皆かはゆがる)
「かはゆし」は可哀そうという意味。可哀そうなものには保護欲求が掻き立てられるので、それが今の可愛いに拡張される元になっている。
一重の薄物の夏羽織は貧相な印象を与えたのだろう。
二十二句目。
時の間に一むら雨の降り通り
菰より琵琶を出す蝉丸 芭蕉
(時の間に一むら雨の降り通り菰より琵琶を出す蝉丸)
謡曲『蝉丸』からの本説付け。はっきりと「蝉丸」と名前を出しているので俤ではない。その一節に、
「たまたまこと訪ふものとては、峯に木伝ふ猿の声、袖を湿す村雨の、音にたぐへて琵琶の音を、弾きならし弾きならし」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.41489-41495). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。
三十五句目。
奉加帳にはつかぬ也けり
不公儀に花咲山のあら三位 芭蕉
(不公儀に花咲山のあら三位奉加帳にはつかぬ也けり)
「あら三位」は荒三位と呼ばれた藤原道雅のことか。ウィキペディアには、
「花山法皇の皇女を殺させた、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせた、博打場で乱行した、など乱行が絶えなかったため、世上荒三位、悪三位などと呼ばれたという。」
とある。
今はただ思ひ絶えなむとばかりを
人づてならで言ふよしもがな
藤原道雅(後拾遺集)
の歌は百人一首でも知られている。非公式に花咲山に現れる。奉加帳に記載はない。
この巻の芭蕉は軽い付けを繰り返してはいるものの、後半になって古典回帰が見られる。芭蕉にも何か迷いがあったのだろう。
『続猿蓑』所収の方の第三は、
冬のまさきの霜ながら飛
大根のそだたぬ土にふしくれて 芭蕉
(大根のそだたぬ土にふしくれて冬のまさきの霜ながら飛)
「ふしくれ」は節くれだつことで、大根が育たぬというから、土が薄く、すぐに岩に当るような場所であろう。そういう場所でも柾葛は節くれながら育つ。
0 件のコメント:
コメントを投稿