天気は回復した。
岩波の『仮名草子集』の「都風俗鑑」を読み始めた。延宝の頃の京の風俗が記されている。
基本的には農業の生産に余剰が生じてそれを武家が年貢として取り立て、武家が様々な消費にお金を使うことで都市が形成されるわけだが、その総量が増加すればそれだけ多くの都市人口がまかなえるようになる。
人口が少なかったころの女性の職業はそれこそ遊女くらいしかなかったが、遊女の用いる着物やアクセサリー、化粧品、調度を始め、遊郭が豪華になるとそれに付随する産業が成長し、そこで遊女以外の女性の雇用も広がっていったのだろう。寛文から元禄までの芭蕉の時代は、その意味での高度成長期だったのだろう。
女に氏はないということで、女性が遊女に倣ってこぞって着飾り、芸事を身に着け教養を磨き、良家に嫁ぐことがステータスを上げる手段となっていた。そこにまた新たな産業が生じる。俳諧もまたその教養の一つとして女性の間にも広がっていった。
一度都市人口が増加し、都市産業が発達すると、それを維持するための負担が農村に掛ってくる。そこから河川管理や新田開発が急速に進んでいくことになる。その好循環を生んだのがこの時代だった。
元禄三年六月、幻住庵での隠棲を終えた芭蕉は京に出て、六月十八日まで凡兆宅に滞在する。そのころ、『猿蓑』に収録される「市中は」の巻が興行される。
芭蕉の脇。
市中は物のにほひや夏の月
あつしあつしと門々の声 芭蕉
(市中は物のにほひや夏の月あつしあつしと門々の声)
土芳の『三冊子』に、「此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」とある。
市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
五句目は芭蕉の得意な経済ネタ。
灰うちたたくうるめ一枚
此筋は銀(かね)も見みしらず不自由さよ 芭蕉
(此筋は銀も見しらず不自由さよ灰うちたたくうるめ一枚)
江戸時代の経済は近代国家のような統一された通貨によるものではなく、金、銀、銭、藩札などがそれぞれ相場を持つ変動相場制だった。
銀は主に上方で使われたという。地方によっては銀がほとんど流通してない地方もあったのだろう。古来奥州筋のことではないかという説がある。だとすると、芭蕉自身の『奥の細道』の旅での経験か。
前句の「うるめ一枚」を貧しい片田舎の匂いとしての付けになる。
八句目。
草村に蛙こはがる夕まぐれ
蕗の芽とりに行燈ゆりけす 芭蕉
(草村に蛙こはがる夕まぐれ蕗の芽とりに行燈ゆりけす)
前句の「蛙こわがる」を乙女の位に取り成す「位付」。
大の男が蛙を恐がればこっけいだが、かわいらしい女の子が蛙を見て「きゃっ!」と言うのは今も昔も定番か。
蕗の芽は「ふきのとう」のことで、夕方のお使いか。持っていた行灯をゆり消してしまうと、あたりは真っ暗でもっと恐い。
十一句目。
能登の七尾の冬は住うき
魚の骨しはぶる迄の老を見て 芭蕉
(魚の骨しはぶる迄の老を見て能登の七尾の冬は住うき)
「能登の七尾」からいかにもそこにいそうな老人を「位」で付ける。
「しはぶる」は「しゃぶる」ということ。昔の人は顎が丈夫で、魚の骨などバリバリと噛み砕き、今のように魚の骨を丁寧に取って食べるようなことはしなかった。まして漁村ならなおさらであろう。魚の骨が噛めなくなるのは歯のない老人くらいで、「魚の骨をしゃぶる」というのは、すっかり歯の抜けてしまったよぼよぼの老人ということになる。
十七句目。
僧ややさむく寺にかへるか
さる引の猿と世を経る秋の月 芭蕉
(さる引の猿と世を経る秋の月僧ややさむく寺にかへるか)
「猿引き」は猿回しをする芸人のことだが、長いこと被差別民の芸とされてきた。今日の周防猿まわしの会の創始者村崎義正は、同時に部落解放運動の活動家だった。
同和と仏教は相反する関係にあり、「僧」に「猿引き」を付けるのは、それゆえ「向え付け(相対付け)」になる。殺生を禁じる仏教の思想が、一方では動物にかかわる職業を卑賤視するもととなっていた。
猿引きは猿とともに秋あきの月つきを見ながら暮らしを立て、僧もまた自分の居場所である寺に帰ってゆく。
人にはそれぞれ相応しい居場所があり、自分の居場所のために対立し、戦い、傷つき、秋あきの寒さのなかで同じように闇を照らす月を見る。いつの時代も変わらないことだ。
二十三句目。
でつちが荷ふ水こぼしたり
戸障子もむしろがこひの売屋敷 芭蕉
(戸障子もむしろがこひの売屋敷でつちが荷ふ水こぼしたり)
売り屋敷は商品であって廃墟ではない。だから、ここは戸も障子もなくなって筵だけが風に吹かれているような情景ではなく、戸や障子を風雨から守るために筵で包んであると見た方がいいだろう。
だから、屋敷の中へは入れない。庭にある井戸水だけをちょいと近所の商家の丁稚が拝借する、そういうことではないかと思う。
こういう古屋敷には良い井戸が付き物で、というあたりを言外に込めたところは「匂い」になる。
二十六句目。
こそこそと草鞋を作る月夜さし
蚤をふるひに起し初秋 芭蕉
(こそこそと草鞋を作る月夜さし蚤をふるひに起し初秋)
向え付け(相対付け)は対立する二つのものを並べて対句を作る付け方で、物付けに含まれる。だが、対立する二つのものを直接示さずに、それを匂わせるだけにすると、匂い付けの向え付けも可能になる。これが響き付けと呼ばれるものではないかと思う。
一人ひとりはひそかに草鞋を作ってお金を作り、もう一人は蚤に食われて痒くて目を覚ます。そこでまあ、ばれてしまったかということになり、何か家族の会話があるのか。
二十九句目。
ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
草庵に暫く居ては打やぶり 芭蕉
(草庵に暫く居ては打やぶりゆがみて蓋のあはぬ半櫃)
前句まえくの蓋の合わなくなった半櫃(はんびつ)に「落ち着かない」という裏の意味を読み取っての展開。草庵に暫く住んでいたがゆがんた半櫃の蓋のようにどうにもこうにも落ち着かなくて、結局は打ち捨てて行ってしまった。
三十二句目。
さまざまに品かはりたる恋をして
浮世の果は皆小町なり 芭蕉
(さまざまに品かはりたる恋をして浮世の果は皆小町なり)
ここで言う小町は小野小町の若い頃の美貌ではなく、百歳のおばあさんとなった落ちぶれた乞食姿の小町を言う。謡曲『卒塔婆小町』『関寺小町せきでらこまち』などに、こうした姿が描かれている。
「浮世の果」という言葉は、「関寺小町」のラストの、
「百年の姥と聞こえしは小町が果の名なりけり小町が果の名なりけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.28268-28270). Yamatouta e books. Kindle 版. )
から来ていて、付け方としては俤ではなく本説となる。
三十五句目。
御留主となれば広き板敷
手のひらに虱這はする花のかげ 芭蕉
(手のひらに虱這はする花のかげ御留主となれば広き板敷)
この場合の「御留守」は空き家のことであろう。何もない板敷きの間は広く感じられる。そこに勝手に上がりこんだ虱を手のひらに這わす男。それは乞食かもしれないし、乞食のふりをした仙人なのかもしれない。仙人だとすれば、この一巻を締めくくるのに相応しい花を添えることになる。
この秋には大阪の之道を迎えて、「秋立て」の巻が興行される。この席には後の因縁の仲になる珍碩(洒堂)も同座している。
芭蕉は二十二句目でやっと登場する。
行にして朝起ならふ五六日
薬を休む喰ものの味 芭蕉
(行にして朝起ならふ五六日薬を休む喰ものの味)
規則正しい生活をしていると食い物も美味く感じられ、薬も要らなくなる。
三十一句目。
こころを告る秋のひよどり
山畑の木練色づく風の音 芭蕉
(山畑の木練色づく風の音こころを告る秋のひよどり)
木練(こねり)は木練柿のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木練柿」の解説」に、
「① 木になったままで熟し、あまくなる柿の類。木練りの柿。木練り。《季・秋》
※実隆公記‐永正七年(1510)九月一二日「木練柿一折同進上」
② 「ごしょがき(御所柿)」の異名。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」
とある。「椑柿(きざはし)」とも言い、元禄三年刊之道編の『江鮭子(あめこ)』に、
椑柿や鞠のかゝりの見ゆる家 珍碩
の句もある。山畑に柿が色づき、風がヒヨドリの声を運んでくる。
「白髪ぬく」の巻も同じ頃の芭蕉・之道・珍碩の三吟半歌仙になる。
十句目。
どし織の帯美しく脇とめて
久しき銀の出る御屋しき 芭蕉
(どし織の帯美しく脇とめて久しき銀の出る御屋しき)
前句の「どし織」は『元禄俳諧集』の櫻井注に、
「京・堺などから産出した織物。帯地などに用いる。」
とある。「風俗博物館」のホームページの「平緒」の所に、「組紐の唐組と織帯である綺のどし織り」とあり、「いわゆる織帯(どし織)」とある。織帯はネット上の「きもの用語大全」に「染帯に対する語」とある。金銀などの糸を交えて織ったきらびやかな帯のようだ。
「久しき銀(かね)」は長年蓄えられていた金という意味か。帯のために大金が支出される。婚礼衣装だろうか。
十六句目。
ものぐさも布子の重き春風に
又も弥生の家賃たたまる 芭蕉
(ものぐさも布子の重き春風に又も弥生の家賃たたまる)
「たたむ」には「積み重なる」という意味がある。無精して家賃を滞納している
八月十五日、膳所義仲寺無名庵では尚白との両吟が興行される。
発句は、
月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉
で、元禄九年刊風国編の『初蝉』には、
名月や兒たち並ぶ堂の縁 芭蕉
とありけれど此句意にみたずとて
名月や海にむかへば七小町 同
と吟じて是もなほ改めんとて
名月や座にうつくしき顔もなし 同
といふに其夜の句はさだまりぬ
とある。
稚児や小町を出しておいて、あえてこれでは月並みとばかりに「うつくしき顔もなし」でこれが俳諧だとやってみせたわけだ。
名月を愛でたいものと取り合わせるのはすでにさんざんいろいろな人がやってきたことで、あえてそれを繰り返すこともあるまい。ならばというわけだ。
逆説的な言い方だが、この句は名月には美しい顔が欲しいと言っているようなものだ。ただ、それを限定しないことで、各自好みの「美しい顔」を思い描けばいいということになる。
まあ、実際の所尚白との両吟なら確かに「うつくしき顔もなし」だろう。
十二句目。
いそがしとさがしかねたる油筒
ねぶと踏れてわかれ侘つつ 芭蕉
(いそがしとさがしかねたる油筒ねぶと踏れてわかれ侘つつ)
「ねぶと」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、
「もも・尻など、脂肪の多い部分に多くできるはれもの。化膿 (かのう) して痛む。かたね。」
とある。
後朝のとき、灯りをと思っても油筒がどこにあるのかわからない。その上暗いもんだから腫物のある所を踏まれてしまうし、いいことが何もない。
二十一句目。
うちのる馬にすくむ襟巻
商人の腰に指たる綿秤 芭蕉
(商人の腰に指たる綿秤うちのる馬にすくむ襟巻)
「商人(あきうど)の腰に指たる」と来て帯刀してるのかと思わせておいて、綿秤で落ちにする。
軽くてかさのある物を量るため、綿秤は棹が長く、腰に差していると長刀かと見誤る。
二十三句目。
物よくしやべるいわらじの貌
蒜の香のよりもそはれぬ恋をして 芭蕉
(蒜の香のよりもそはれぬ恋をして物よくしやべるいわらじの貌)
これは『源氏物語』帚木巻のニンニク女のことだろう。藤式部(とうしきぶ)の丞の昔付き合ってた女で博士の娘だが、熱病でニンニクを食べていて、その匂いに辟易して逃げ帰ったという話で、筆者は紫式部自身の自虐ネタではないかと思っている。
その時の、
逢ふことのよをしへだてぬなかならば
ひるまもなにかまばゆからまし
(夜ごとに愛し合ってる仲ならば
昼(蒜)でもなんら恥ずかしくない)
の歌が思い浮かぶ。
前句の「いわらじ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「〔「いえわらし(家童子)」の転とも、「いえあるじ(家主)」の転とも〕
農家の主婦。 「わめく声に出女ども、-もろとも表に出づる/浄瑠璃・丹波与作 中」 〔歴史的仮名遣い「いわらじ」か「いはらじ」か未詳〕」
とあり、ここではニンニク臭いのは田舎の人妻ということになる。
二十五句目。
暑気によはる水無月の蚊屋
蜩の声つくしたる玄関番 芭蕉
(蜩の声つくしたる玄関番暑気によはる水無月の蚊屋)
ヒグラシは秋の季語になっているが、夏の他の蝉が鳴く頃から鳴き始める。水無月の暑い盛りでも日が暮れる頃にはヒグラシが鳴き、夏バテの玄関番もこの声が聞こえる頃には生き返った気分になる。
二十九句目。
随分ほそき小の三日月
たかとりの城にのぼれば一里半 芭蕉
(たかとりの城にのぼれば一里半随分ほそき小の三日月)
奈良の高取藩の藩庁である高取城は日本三大山城の一つで、ウィキペディアによれば、
「城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。」
という。周囲三十キロだと直径十キロ弱で、まあ門から城の中心まで一里半というのは誇張ではなさそうだ。たどり着く頃には日が暮れてしまう。
高取の城の寒さやよしの山 其角
の句もある。
0 件のコメント:
コメントを投稿