今日は岩波の新日本古典文学大系の『伽婢子(おとぎぼうこ)』を借りてきた。
一番最初の話は琵琶湖に竜宮城があるような話だが、これが冒頭というのは能でいう脇能物のようなもので、最初は目出度く始めるということなのか。「十津川の仙境」は桃花源で、犬が吠えて鶏が鳴くのはお約束。「岩をきりぬきたる門」は今でいえばトンネルだ。
日本には「人をもって城となす」という考え方がある。武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言い、薩摩藩も館造りで作られていた。まあ、江戸城も天守閣がなかったし、そもそも日本の都市には城壁はなかった。立派な建物で守るのではなく、一人一人の人間が守るという発想があった。
コロナ対策も、西洋のやった法律と警察権力による強制的なロックダウンよりも、一人一人がきちんとマスクをして消毒してソーシャルディスタンスを取り、不要不急の外出や遠距離移動を控え、ワクチン接種をする、という一人一人が自分を守るという自粛の考え方の方が最終的に効果があったのではなかったか。
ロックダウンというのは西洋の城郭都市のようなもので、城壁を作ってそこに閉じ籠って守るという考え方だ。自粛はあえて城を作らずに一人一人の人間が守るという考え方に近いのではないか。
まあ、とにかく今度のオミクロン株でも、いきなり政策を変更したりしない方が良いと思う。むしろ西洋の方が見習った方が良い。
さて、それでは「なきがらを」の巻の続き。
初裏、九句目を付けるのは膳所の曲翠で、今回の追善興行の主催者であろう。芭蕉に幻住庵を世話したこともあった。
野がけの茶の湯鶉待也
水の霧田中の舟をすべり行 曲翠
野点の背景として、霧の立ち込める田の中をゆく舟を付ける。
十句目は七日に駆けつけ、芭蕉の死を看取った一人の正秀が付ける。膳所の人。
水の霧田中の舟をすべり行
旅から旅へ片便宜して 正秀
前句の舟から旅体に転じる。
「片便宜(かたびんぎ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「片便宜」の解説」に、
「① 返事のない、一方からだけのたより。かただより。〔運歩色葉(1548)〕
※浮世草子・武道伝来記(1687)一「古郷の片便宜になを気をなやまし」
② 行ったまま、または来たままで元へ帰らないこと。また、そのような使いの者。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※咄本・軽口御前男(1703)三「きらるるものにとひたいけれど、かたびんぎでしれませぬといふた」
とある。飛脚ではない、ただの行きずりの旅人なので、手紙を託しても返事を持って帰ってきてはくれない。
十一句目も同じ膳所の臥高が付ける。絵を得意としていて、画好という字を当てることもあった。
旅から旅へ片便宜して
暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ 臥高
あの人は旅の空から便りはよこすけれど、こちらからの手紙の手紙は届かない。一人暖簾の内でやきもきする。
恋に転じる。
十二句目は泥足で、大阪で九月二十六日、晴々亭興行の「此道や」の巻に同座し、
此道や行人なしに秋の暮
岨の畠の木にかかる蔦 泥足
の脇を付けている。また畔止亭の「七種の恋」でも、
寄紅葉恨遊女
逢ぬ日は禿に見する紅葉哉 泥足
の句を詠んでいる。泥足は元禄七年刊の『其便』の編纂を大方終えた頃芭蕉に会い、
「此集を鏤んとする比、芭蕉の翁は難波に抖數し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半哥仙を貪り、畦止亭の七種の戀を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」
という前書きの後、「此道や」の半歌仙と「七種の戀」を『其便』に加えて刊行している。
暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ
風のくすりを惣々がのむ 泥足
「惣々(そうぞう)」は皆ということ。
暖簾を店の暖簾として、みんな風邪ひいたから誰も出てこないということか。
十三句目は近江大津の乙州。姉は智月。
風のくすりを惣々がのむ
こがすなと斎の豆腐を世話にする 乙州
斎(とき)は法事に出す食事。
「こがすな」は風に苦しまないようにと言う意味で、風邪が治れば斎の豆腐が食べられると世間話をする。
十四句目は芝柏で大阪の人。九月二十九日に芝柏亭で、
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
を発句とする俳諧興行が行わる予定だったが、芭蕉の容態の悪化で中止になった。
こがすなと斎の豆腐を世話にする
木戸迄人を添るあやつり 芝柏
「あやつり」は人形芝居で、前句の「世話」を人形浄瑠璃の「世話物」に取り成す。
木戸は芝居小屋の入口のことで、後ろで人が操りながら人形が木戸の所まで出て来る。
十五句目は昌房で膳所の人。
木戸迄人を添るあやつり
葺わたす菖蒲に匂ふ天気合 昌房
端午の節句では軒の菖蒲を刺して飾り付ける。支考は『梟日記』で五月五日の岡山に着いた時のことを、
「此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
松風ときけば浮世の幟かな」
と記している。前句の芝居小屋に端午の節句を付ける。
十六句目の探芝も膳所の人。許六は『俳諧問答』の中で、
「一、昌房、探志、臥高、其外膳所衆、風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192)
と評している。
葺わたす菖蒲に匂ふ天気合
車の供ははだし也けり 探志
元禄七年の四月には季吟などの助力もあり、王朝時代の賀茂祭が葵祭として再興されたとしでもある。賀茂祭というと『源氏物語』の車争いということで、端午の節句とはやや時期がずれるが、その連想によるものだろう。
元禄の世では車は荷物を運ぶもので、牛を引く者は裸足だったりしたのだろう。
十七句目の胡故も膳所の人。『続猿蓑』に、
きつと来て啼て去りけり蝉のこゑ 胡故
の句がある。
車の供ははだし也けり
澄月の横に流れぬよこた川 胡故
横田川は東海道の石部宿と水口宿の間にある横田渡しの辺りを流れる野洲川のこと。元禄三年伊賀で興行された「種芋や」の巻十句目に、
やすやすと矢洲の河原のかち渉り
多賀の杓子もいつのことぶき 半残
の句がある。彦根多賀大社のお多賀杓子はお守りとされている。
胡故の句の方は、前句を月の朝に東海道の横田川をこえる荷車とし、横田と「横たふ」を掛けている。
十八句目の牝玄も膳所の人。
澄月の横に流れぬよこた川
負々下て鴈安堵する 牝玄
「負々」は追々で次々とという意味。月夜の川に雁が降りたつ。
十九句目の游刀も膳所の人で、元禄四年秋の「うるはしき」の巻に正秀、画好、乙州、探志、昌房などとともに参加している。
負々下て鴈安堵する
庵の客寒いめに逢秋の雨 游刀
秋の雨にびしょ濡れになった旅人が、庵に雨宿りして安堵する。
病雁の夜寒に落ちて旅寝哉 芭蕉
のオマージュであろう。
ニ十句目の蘇葉も膳所の人。
庵の客寒いめに逢秋の雨
ぬす人二人相談の声 蘇葉
この場合は庵の客が実は泥棒で、泊めてやった主人が寒い目に逢うとする。
二十一句目は大津の乙州の姉で、近江で芭蕉の世話をした智月尼が付ける。元禄三年の冬に、
少将のあまの咄や志賀の雪 芭蕉
あなたは真砂爰はこがらし 智月
草箒かばかり老の家の雪 智月
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
の句を交わしている。
ぬす人二人相談の声
世の花に集の発句の惜まるる 智月
前句を謡曲『草紙洗』のような盗作の相談としたか。設定を俳諧の撰集として、選ばれた発句の中に盗作があったのが惜しまれる。
二十二句目は呑舟は大阪の之道の門人で、芭蕉の介護の方で活躍し、『笈日記』によれば十月八日の夜、芭蕉の絶筆、
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
の句を書き留めている。
この日の昼には住吉大社に詣でて
水仙や使につれて床離れ 呑舟
を詠んでいる。多分介護は支考・呑舟・舎羅の三交代制でこの日の深夜のシフトだったのだろう。
世の花に集の発句の惜まるる
多羅の芽立をとりて育つる 呑舟
多羅の芽は春の山菜だったが、今では栽培する農家もいて、スーパーでも売っている。この頃も挿し木をして栽培しようとする人がいたか。
前句を花のように素晴らしい集を編纂した一門の絶えるのを惜しむとして、比喩として若手を育てるとしたものだろう。蕉門の若手も育ってほしいと願うかのようだ。
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