岩波の『仮名草子集』の「是楽物語」を読み始めた。ようやく仮名草子らしくなったというか、これまでのはちょっと違うだろうという感じだ。
中世の物語が仏教説話の形を取ったのは、説法=方便=嘘という前提があったからではないかと思う。物語は嘘だが役に立つ嘘だということで、嘘の許される空間が生まれ、この空間が江戸時代の仮名草子から近代の大衆文学や今日のラノベに受け継がれている。
俳諧もまた「上手に嘘をつくこと」であり、「虚を以て実を行う」ものだった。
ところが近代に西洋文学が入ってきた時に、文学は真実を書かなくてはいけないという奇妙な方向に流れてしまった。だから、昔から虚(嘘)を前提としてきた物語類が、こんなことは実際には有り得ないだとか非難され、「現実と虚構の区別をつかなくさせる有害なもの」と見られるようになった。
まあ、こうした感覚は一部の人のものにすぎなかったし、西洋文学とはいえ小説が虚構であり嘘であるのは自明なことなので、今日の純文学は嘘ばっかりだが、昔は私小説だとかいう本当のことしか書かないと称する小説があった。筒井康隆が時々茶化していた。
話は変わるが、源氏物語の明石巻も少しずつ読み進めていて、いよいよという場面、「近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。されど、さのみもいかでかあらむ。」は、そのまま読むと戸口での攻防だが、比喩でもう一つの戸口と両方の意味を掛けているんだろうな。
さて、元禄二年三月二十七日、芭蕉は陸奥へ向けて旅立つ。ここから誰もが知る『奥の細道』の旅が始まる。ただ、この旅で行われた沢山の俳諧興行については、まだあまり知られていない。
まずは那須黒羽の余瀬翠桃亭での興行が、この旅の風流の始めとなる。
発句は、
秣おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉
那須は馬の産地でもあり、放牧も盛んにおこなわれていたのだろう。大田原神社には日露戦争の軍馬の慰霊碑があり、近代でも有数の馬の供給地だった。馬頭観音塔も至る所にある。
黒羽に来るまでも野飼の馬を借りているし、翠桃もまた多くの馬を所有してたのではないかと思う。
そういうわけで秣(まぐさ)を負う人の案内でこの夏のを旅していますと挨拶する。
七句目。
秋草ゑがく帷子はたぞ
ものいへば扇子に顔をかくされて 芭蕉
(ものいへば扇子に顔をかくされて秋草ゑがく帷子はたぞ)
前句の秋草帷子の風流人を女性と取り成す。
扇子は中世では魔除けの意味があり、人の視線を遮りたい時にも扇子で顔を隠し、一時的な覆面として用いたという。
そこから、男の視線をさえぎるのにも女性は扇子を用いたのだろう。前句まえくの「誰ぞ」は顔を隠したから「誰ぞ」という意味になる。
十一句目。
盗人こはき廿六の里
松の根に笈をならべて年とらん 芭蕉
(松の根に笈をならべて年とらん盗人こはき廿六の里)
「盗人」に「とらん」が付く。追いはぎのでる恐い里だが、笈(おい)を背負った旅の僧に盗られるような金目のものはない。ただ年をとるだけ、となる。笈は「老い」にも掛けていて芸が細かい。
廿六(とどろく)の里は日光から矢板へ抜ける途中の日光北街道にある。芭蕉はこの辺りは大谷川を舟で大渡まで下ったのか、通ってはいない。ここには轟早進という足の速い義賊がいたという。
二十一句目。
ころもを捨てかろき世の中
酒呑ば谷の朽木も佛也 芭蕉
(酒呑ば谷の朽木も佛也ころもを捨てかろき世の中)
「ころもを捨て」から伊勢の五十鈴川で禊みそぎした時に服を乞食にくれてやり、裸で戻ったという増賀上人を連想したのか。ただ、増賀上人にんが酒飲みだったという記述は説話には見られない。ただ、奇行の多かった増賀上人のことだから、酒飲みを連想してもおかしくはない
増賀上人であれば、酒を飲んでも飲まなくても谷の朽木を見てもそこに仏の姿を見出したであろう。
これも本説というほど説話への忠実さはなく、俤付けといっていいだろう。
二十九句目。
洞の地蔵にこもる有明
蔦の葉は猿の泪や染つらん 芭蕉
(蔦の葉は猿の泪や染つらん洞の地蔵にこもる有明)
月に猿は付き物。水に写る月を取ろうとする猿は、伝統絵画の画題としても定番で、分不相応の高望みをするという意味になる。出世だったり、恋であったり、かなわぬ夢を追っては満たされない心を、昔の人は戯画化してそう描いた。
とはいえ、猿の声は中国の古典では、その悲痛な叫び声が涙を誘うものだった。これは昔は中国南部にもテナガザルが生息していて、物悲しいロングコールを実際に聞くことが多かったからだ。
『野ざらし紀行』では、富士川で芭蕉は、捨子の今にも消えそうな命の声に、猿の声をかさね合わせている。
猿の持つその悲痛な声と、戯画化された姿の同居は、そのまま俳諧と言えるかもしれない。
ここではあえて「猿の声」ではなく、「猿の泪」と言い、猿の声を言外に隠す。そして、和歌では蔦や楓の葉を染めるのは時雨なのだが、「猿の泪」が染めるののだろうかとすることによって、時雨が猿の泪と重なる。つまり、実際は時雨が蔦の葉を染めたのだが、それを猿の泪だろうか、と猿の泪に例える。そこに雨上がりの明け方の空に有明の月が現れる。
猿と時雨、このモチーフは『奥おくの細道ほそみち』の旅を終えた後、故郷の伊賀へ戻る道すがら、あの
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉
の句に結実されることになる。
四月二十一日には芭蕉と曾良は白河の関を越え、二十三日には須賀川等躬宅で興行する。
発句は、
風流の初めやおくの田植歌 芭蕉
で、「風流」は俳諧と同義。風流(=俳諧興行)の始まりは、みちのくのひなびた田植え歌の興にしましょうかという挨拶になる。
十句目。
有時は蝉にも夢の入ぬらん
樟の小枝に恋をへだてて 芭蕉
(有時は蝉にも夢の入ぬらん樟の小枝に恋をへだてて)
前句の「蝉にも夢の入ぬ」を蝉の声が夢に入ってくるのではなく、鳴く蝉も夢を見るというふうに取り成す。
蝉もちがう小枝にとまっている蝉に恋をして悲しげに鳴いているのだろうか。楠は大木になり、枝と枝の数も多く、枝と枝の間は結構距離がある。
和泉なる信太の森のくすのきの
千枝にわかれてものをこそ思へ
詠み人知らず(夫木抄)
に出典がある。
十三句目。
霜降山や白髪おもかげ
酒盛は軍を送る関に来て 芭蕉
(酒盛は軍を送る関に来て霜降山や白髪おもかげ)
前句をの霜降り山の白髪を、老いた武将の面影とする。勇ましい出陣というよりは、敗軍の白河の関を越えて落ち延びてゆく風情だろう。謡曲『摂待』のような、義経や弁慶とともに落ち延びる兼房の姿だろうか。
芭蕉はこの後『奥の細道』の旅で、謡曲『摂待』の舞台となった佐藤庄司の旧跡を訪ねるし、平泉では曾良が、
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良
の句を詠むことになる。
十九句目は謎句だろうか。
かなしき骨をつなぐ糸遊
山鳥の尾にをくとしやむかふらん 芭蕉
(山鳥の尾にをくとしやむかふらんかなしき骨をつなぐ糸遊)
「山鳥の尾に置く」だが、これは「山鳥の尾に置く枕詞」ではなかったか。つまり、この句は、「足引きの年や迎ふらん」ではなかったか。これに下句をつなぐと
足引きの年や迎ふらんかなしき骨ほねをつなぐ糸遊いという
つまり、足を骨折した人が新しい年を迎え、添え木をしたりして一生懸命骨をつないでいるというのが句の意味で、最後に「つなぐ」の縁で糸遊のように幽かな望みで、と結ぶ。
芭蕉の謎句は他に例がなく、別の解があるのかもしれない。
二十八句目は『源氏物語』の本説。
住かへる宿の柱の月を見よ
薄あからむ六条が髪 芭蕉
(住かへる宿の柱の月を見よ薄あからむ六条が髪)
はっきりと「六条」という源氏物語の登場人物の名が出て来るので、俤ではなく本説とすべきであろう。
加茂の祭りの時の牛車の駐車場を廻る「車争い」の場面は有名で、源氏の君も行列に参加するというので急遽葵の上の御一行が見物にやってきた時に、先に来て止まってた六条御息所の車が邪魔だとばかりに放り出される。
その葵の上の出産の時に祈祷師たちが、たくさんの物の怪の取り憑く中でどうしても立ち去らない物の怪が一人いて、源氏の君はもう助からないと思って葵の上と二人きりになっていまわの言葉を聞こうとすると、どうも言ってることがおかしい。源氏の君はそれを六条御息所だと思う。
その時六条御息所は祈祷の際に焚くことの多い護摩の芥子の香が髪に染み付いて取れなくて困っていたといったことが描写されている。
この句はこのことをふまえた本説による句で、本説付けの常として必ず少し変えるということで、ここでは髪に芥子の香が染み付くのではなく、薄が赤らむように色を変えるといしている。
六条御息所もまたその頃辺鄙な所へ行って密教の御修法を受けていたから、「住みかへる宿の」に付く。
三十一句目。
太山つぐみの聲ぞ時雨るる
さびしさや湯守も寒くなるままに 芭蕉
(さびしさや湯守も寒くなるままに太山つぐみの聲ぞ時雨るる)
上五の「さびしさや」は倒置で、「湯守も寒くなるままに太山つぐみの聲ぞ時雨るるさびしさや」となる。
「湯守(ゆもり)」は温泉の源泉の管理する人のことで、江戸時代になって平和になり、神社仏閣参りにかこつけた旅行が盛んになることで、温泉の需要も高まり、多くの地で温泉のお湯を公平に分配するために湯守が任命された(参考;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「湯守」の項)。芭蕉の時代ならではの新ネタといえよう。
山奥の温泉で冬の夕暮で時雨が降りだすともなると、さすがに来る人もいない。
続く四月二十四日の須賀川可伸庵での興行。
発句は、
かくれ家や目だたぬ花を軒の栗 芭蕉
になる。この句は後に、
世の人の見付ぬ花や軒の栗 芭蕉
の形に改められて『奥の細道』の一句となる。
十七句目。
笠の端をする芦のうら枯
梅に出て初瀬や芳野は花の時 芭蕉
(梅に出て初瀬や芳野は花の時笠の端をする芦のうら枯)
芭蕉は『笈の小文』の旅で初瀬や芳野の桜を見て回ったが、その前に伊勢で御子良子の梅を見ている。
前句を春もまだ早い頃の伊勢の浜荻とし、自分自身の旅の記憶を付けたか。
二十二句目は前句の『源氏物語』若紫の本説からの逃げ句になる。
まだ雛をいたはる年のうつくしく
かかえし琴の膝やおもたき 芭蕉
(まだ雛をいたはる年のうつくしくかかえし琴の膝やおもたき)
この場合の「琴」は七弦琴で膝に乗せて演奏する。源氏の君も得意としていた。
膝に乗る幼い子と比べると七弦琴の方が重い。間接的に子供の小ささをいう。
源氏物語の雰囲気を残しつつ、源氏物語にない場面に展開する。
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