2021年11月16日火曜日

 小学館の『仮名草子集』の「浮世物語」を読み終わった。米価の高騰のことが何度も出て来るのでウィキペディアの米価の所を見たら、確かに正保五年(一六四八年)から万治三年(一六六〇年)にかけて、米価が三倍近く高騰している。一石銀二十五匁だったのが一石七十匁を越えて、「浮世物語」の出版された寛文五年(一六六五年)には五十五匁くらいまでは下がっている。
 延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻「十八句目」に、

   又や来る酒屋門前の物もらいひ
 南朝四百八十目米        桃青

とあるが、この頃も米価の高騰があって、七十五匁くらいまで上がっている。さすがに四百八十匁まで上がる事態はなかったが。
 次に百匁を越える高騰が元禄時代にあり、許六の十団子も小粒になった。このあと暴れん坊将軍の時代に二百二十匁を越える最高値を記録し、その後は概ね四十匁から八十匁の間で安定する。
 江戸初期から享保の初め頃までは基本的に米価は上げトレンドだったと言える。
 米価の高騰には需要の側の原因と供給の側の原因が考えられる。需要の側の原因は都市部の人口の増加で、供給の側の原因は商品作物への転換や偶発的な飢饉などがある。
 ただ、経済に疎いお武家さんの間には、米屋を悪者にする風潮があったのだろう。「浮世物語」もそうした武家イデオロギーを反映している。杜国を罪に陥れたのもこうした連中だったのだろう。江戸後期になると大塩平八郎のような暴動を煽る武士も現れる。
 おそらく、享保までの米価の高騰は、都市人口の増加が最大の原因だったのではないかと思う。これに対して江戸後期の安定は新田開発の効果が大きかったのではないかと思う。
 ただ、新田開発がある程度飽和状態になってくる幕末にまた米価は高騰する。それに開国が重なって、一気に侵略戦争を求める勢力(特に吉田松陰の教えを受けた長州勢)が力を付け、それが明治以降の軍国主義になっていったのではなかったか。
 明治初年の地租改正の際に日本中で一揆が多発したが、侵略戦争がその不満を抑えるのに利用されたという側面もあったのだろう。
 多産多死社会は侵略の発想を生みやすいが、鎖国政策がそれを抑制してきたのは間違いないだろう。和辻哲郎は「外へ向かう衝動の欠如」ということを言ったが、むしろ外へ向かわなかったことは誇るべきだ。今のアメリカの、世界の警察をやめて軍隊を撤収させる動きも立派なことだと思う。

 それでは風流の方に。
 元禄五年十月には支梁亭の新茶の口切に呼ばれて、

 口切に境の庭ぞなつかしき    芭蕉

を発句とする歌仙興行が行われる。
 支梁亭の庭を見て、利休も懐かしがるような庭ですね、と軽く挨拶する。
 十句目。

   緑さす六田の柳堀植て
 掛菜春めく打大豆の汁      芭蕉
 (緑さす六田の柳堀植て掛菜春めく打大豆の汁)

 前句の六田の柳は吉野川の渡しで、近鉄吉野線に六田駅がある。
 山の中の田舎の体で掛菜(かけな)と打大豆(うちまめ)の汁をあしらう。
 掛菜は 大根やカブラの葉や茎を、陰干しにした干し菜。打大豆はふやかした大豆を槌でつぶしたもので汁などに用いる。今は北陸地方の郷土料理とされているが、昔は広く作られいたものが北陸地方だけに残ったか。
 二十一句目。

   兒にまたるる釈迦堂のくれ
 咲初て忍ぶたよりも猿すべり   芭蕉
 (咲初て忍ぶたよりも猿すべり兒にまたるる釈迦堂のくれ)

 猿すべりは幹がつるつるなので猿が滑るのではないかということでその名がある。夏に長期にわたって綺麗な花を付けるので、百日紅(ひゃくじつこう)とも言い、今はこの字を当てて「さるすべり」と読ませている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「百日紅」の解説」に、

 「※俳諧・玉海集(1656)二「袖にをくや百日紅の花の露〈貞室〉」

という用例がある。
 「百日紅(ひゃくじつこう)」は漢語で貞門俳諧はこれを俳言とするが、「猿すべり」の方がいかにも俳諧らしい。
 けなげに待っていてくれている稚児への手紙に、百日美しいまま待っていてくれという意味を込めてサルスベリの花を添える。
 二十九句目。

   はえ黄みたる門前の坂
 皮剥の者煮て喰ふ宵の月     芭蕉
 (皮剥の者煮て喰ふ宵の月はえ黄みたる門前の坂)

 皮剥の者は皮革業者で被差別民に属する。門前の坂で煮物を食べているが、皮を剝いだ獣の煮物であろう。
 安定した軽い付け筋で、掛菜、打大豆、猿すべり、皮剥などの卑近な題材で新味を持たせ、やがて『炭俵』の新風へとつながってゆく。

 元禄五年冬には大垣の千川・此筋兄弟を芭蕉庵に迎える。
 十八句だが半歌仙ではなく十八公という形式だという。半歌仙が表六句、裏十二句なのに対し、表十、裏八になる。「十八公」は「松」という字を分解したもので、お目出度い常緑の松に因んでいる。
 九句目。

   散際ひさし南天の花
 笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛    芭蕉
 (笠とれば前髪ゆがむ草鞋掛散際ひさし南天の花)

 草鞋掛(わらぢがけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「草鞋掛」の解説」に、

 「① わらじをはいていること。また、わらじをはいたままであること。遠方へ歩いて行くさまなどを表わす。わらじばき。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「冥途黄泉はくわらぢがけ 罪科のおもきをかへる駕子の者〈未学〉」
  ② わらじをはくときに用いる足の甲掛け。
  ※雑兵物語(1683頃)下「羽織も裁著もわらぢかけもひんぬいて」

とある。①は「浴衣掛け」と同じ用法であろう。浴衣の場合は浴衣を着たままくつろぐことだが、草鞋の場合は草鞋を履いたままということで、外に出歩くという意味になる。
 草鞋掛の旅人の笠を取った時の抜け毛に驚き、南天の花のゆっくりと散るのに思いを馳せる。
 十六句目。

   伊豆の舟御崎の舟をかき入て
 一夜の法に宗旨定めて      芭蕉
 (伊豆の舟御崎の舟をかき入て一夜の法に宗旨定めて)

 港に立ち寄ってく漁師相手に布教をしていたお坊さんがいたのだろう。一夜にして宗旨替えさせるなどただものではない。伊豆法難の日蓮さんか。

 同じ冬、江戸勤番の備前岡山藩士、兀峰(こっぽう)を芭蕉庵に迎えての四吟歌仙興行。途中から里東が抜けて其角が参加しているが、同じ日なのか日を変えてなのか、事情はよくわからない。
 五句目。

   月の径に沓拾ふらし
 鳩吹ば榎の実こぼるるさらさらと 芭蕉
 (鳩吹ば榎の実こぼるるさらさらと月の径に沓拾ふらし)

 鳩吹くのは猟師で、鹿を呼ぶのに鳩の鳴き真似をする。鹿は来なくてただ榎の小さな実がさらさらと地面にこぼれる。榎(え)の実というと元禄七年の伊賀での、

 つぶつぶと掃木をもるる榎実哉  望翠

の句がある。
 榎の実の音に地面を見ると、誰が落としたか靴が落ちている。猟師なら沓は有り難いか。
 八句目。

   簾戸に袖口赤き日の移り
 君はみなみな撫子の時      芭蕉
 (簾戸に袖口赤き日の移り君はみなみな撫子の時)

 前句の簾戸を王朝時代の御簾のこととして、幼い天皇を登場させる。「撫子」は撫でる子で子供の意味がある。大人は常夏という。
 十三句目。

   筵踏なとうつす塩鰡
 山陰をまれに出たる牛の尿    芭蕉
 (山陰をまれに出たる牛の尿筵踏なとうつす塩鰡)

 山奥で飼われていた牛が稀に麓に降りてくると、トイレの躾が出きてないので、所かまわず尿(バリ)をする。みんな知っているのか、この牛が来ると干物の筵をあわててどかす。
 尿は「バリ」とルビがふってある。尿というと『奥の細道』の、

 蚤虱馬の尿する枕元       芭蕉

の尿はちょっと前までは「しと」と読んでいた。一九九六年に発見された芭蕉自筆『奥の細道』に「バリ」というルビがあったので、今は「バリ」と読む。
 十六句目。

   名月に雲井の橋の一またげ
 今年の米を背負ふ嬉しき     芭蕉
 (名月に雲井の橋の一またげ今年の米を背負ふ嬉しき)

 前句の「雲井の橋の一またげ」を比喩として、収穫の嬉しさは雲井の橋も一跨ぎで行くような気分だ、とする。
 二十一句目。

   たたむ衣に菖蒲折置
 さんといふ娘は後のものおもひ  芭蕉
 (さんといふ娘は後のものおもひたたむ衣に菖蒲折置)

 菖蒲を「あやめ」のこととするなら、

 郭公なくや五月のあやめぐさ
     あやめも知らぬ戀もするかな
              よみ人しらず(古今集)

の歌で恋への展開は自然だ。「さん」は人名とおもわれるが、呼ぶときは「おさん」と呼ばれ「お産」に通じ、後の物思いは「産後」の物思いになる。
 二十七句目。

   聟なじまする質の出し入
 麦飯に交らぬ食をとりわけて   芭蕉
 (麦飯に交らぬ食をとりわけて聟なじまする質の出し入)

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、

 「麦飯を炊く時、上に少し置いて炊く米の飯。庶民の神仏へ供えるためのもの。」

とある。
 ここでは神仏ではなく聟様用によそって、金のあるように見せかけているということか。

 十二月上旬、許六亭で「洗足に」の巻が興行される。芭蕉・許六同座の巻はこの二巻を残すのみで、あと万尾しなかった巻が二巻あったようだが残っていない。
 五句目の許六の句。

   春は其ままななくさも立ツ
 月の色氷ものこる小鮒売     許六
 (月の色氷ものこる小鮒売春は其ままななくさも立ツ)

 「のこる」という言葉は季語と結びつくと、次の季節になったけどまだ残っているという意味になる。
 凍月という言葉もあるが、春になってもまだ完全な朧月にならず、どこかまだ凍月の俤を残している、という意味だろう。
 「のこる」はまた小鮒売りにも掛かる。今でも一部の地方ではおせち料理に小鮒を食べるようだ。七草の頃、日も暮れるというのに売れ残った小鮒を売り歩く。
 この辺の「あるある」の見つけ方は許六の得意とするところだ。「氷も残る」から序詞のように言い興すあたりもさすがに上手い。
 八句目の芭蕉の句。

   相国寺牡丹の花のさかりにて
 椀の蓋とる蕗に竹の子      芭蕉
 (相国寺牡丹の花のさかりにて椀の蓋とる蕗に竹の子)

 お寺だから精進料理で、汁の椀も蕗(ふき)に竹の子とシンプルなものだ。単に汁の椀を出すのではなく「蓋とる」という動作を出すあたりで、その人間がどういう人なのか想像力を掻き立て、それが次ぎの句の展開のヒントになる。
 許六『俳諧問答』に、

 「予此ごろ、梅が香の取合に、浅黄椀能とり合もの也と案じ出して、中ノ七文字色々ニをけ共すハらず。
 梅が香や精進なますに浅黄椀    是にてもなし
 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀   是にてもなし
 梅が香やどこともなしに浅黄椀   是にてもなし
など色々において見れ共、道具・取合物よくて、発句にならざるハ、是中へ入べき言葉、慥ニ天地の間にある故也。かれ是尋ぬる中に、
 梅が香や客の鼻には浅黄椀
とすへて、此春の梅の句となせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153~154)

というのがある。芭蕉の「蓋とる」から学んだのかもしれない。
 二十四句目。

   朝露に濡わたりたる藍の花
 よごれしむねにかかる麦の粉   芭蕉
 (朝露に濡わたりたる藍の花よごれしむねにかかる麦の粉)

 「武庫川女子大学 牛田研究室」のサイトに、

 「日本の伝統的な藍染めでは、写真のように、土の中に埋め込んだカメ(瓶)の中に、すくも・小麦ふすま(発酵の栄養源)・灰汁(アルカリ)を入れ、1週間ほど発酵させ、すくも中のインジゴを還元して水溶性にして行う。この発酵は、熟練を要する作業である。液面に泡(これを藍の花と称する)が立つと染めることができるようになる。」

とある。
 この場合の「麦の粉」ははったい粉ではなく小麦ふすまのことか。藍染は被差別民ネタに属する。排除せずにリアルな生活を描くというのが基本になる。
 二十六句目の許六の句。

   馬方を待恋つらき井戸の端
 月夜に髪をあらふ揉出し     許六
 (馬方を待恋つらき井戸の端月夜に髪をあらふ揉出し)

 「揉出し」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「揉み洗いをして汚れなどを取り除くこと。揉み出すこと。
 ※俳諧・深川(1693)「馬方を待恋つらき井戸の端〈洒堂〉 月夜に髪をあらふ揉(モミ)出し〈許六〉」

とある。
 馬方の帰りが遅くなったのか、月夜の井戸端で髪を洗って待っている。「あらふ」だけで止めずに、「揉出し」というやや散文的な作業を持ち出すことで俳諧になっている。これは芭蕉の「蓋とる」から学んだことを早速応用したか。
 三十二句目。

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる     芭蕉
 (今はやる単羽織を着つれ立チ奉行の鑓に誰もかくるる)

 江戸には南北の町奉行が置かれていた。奉行の下に与力・同心がいて、実際に槍を持ってパトロールしてたのは同心であろう。
 同心はなかなか粋な人が多く、人気があったという。そこいらの粋がっているチンピラはそれを見てこそこそと隠れる。「やべっ、奉行だっ」ってとこか。
 芭蕉らしい面白い展開ではあるが、『俳諧問答』には、

 「此巻出来て師の云ク、此誰の字、全ク前句の事也。是仕損じ也といへり。今此句に寄て見る時、右両句前句ニむづかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.134)

とある。「誰も」の誰は「今はやる単羽織を着つれ立チ」たむろしていた衆そのもので、重複になるというわけだ。「さっとかくるる」くらいでも良かったということか。
 細かいことのようだが、「誰も」だと登場人物が複数いなくてはいけないが、なければ一人でもいいことになり次の句の展開の幅が広がる。
 『山中三吟評語』に、「馬かりて」の巻の四句目、

   月よしと角力に袴踏ぬぎて
 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

の句の時、

  鞘ばしりしを友のとめけり   北枝
 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

と言ったのと同じであろう。この場合も相撲を取る場面では人が何人か集まっているさまが想像できるから、「友」と言わなくても意味は伝わる。
 友の字がなければ次の句の登場人物は単体でもよくなり、

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良

という展開が可能になる。
 延宝四年春の「此梅に」の巻十五句目の、

   森の下風木の葉六ぱう
 真葛原ふまれてはふて逃にけり  信章

と比べると、同じネタでも時代の違いがよくわかる。

 元禄五年十二月二十日、江戸の彫棠亭で六吟歌仙興行が行われる。
 発句は、

   壬申十二月廿日即興
 打よりて花入探れんめつばき   芭蕉

 「んめつばき」は梅椿。興行場所の彫棠(てうたう、現代語だと「ちょうとう」)亭に梅と椿が花入れに行けてあるのを見ての即興で、その生け花のセンスの良さに、花入れもひょっとしたらとんでもない名品かもしれないぞと、みんなうち寄って花入れも調べてみよう、と呼びかける。
 椿は茶花としてよく用いられる。
 十句目。

   足もとに菜種は臥て芥の花
 茶を煮て廻す長谷の学寮     芭蕉
 (足もとに菜種は臥て芥の花茶を煮て廻す長谷の学寮)

 奈良長谷寺の麓も、この頃は菜の花畑に変わっていたのだろう。
 二十一句目。

   高みに水を揚る箱戸樋
 山鳥のわかるる比はしづか也   芭蕉
 (山鳥のわかるる比はしづか也高みに水を揚る箱戸樋)

 「山鳥のわかるる比」は、

 昼は來て夜は別るゝ山鳥の
     影見る時ぞ音は泣かれける
              よみ人しらず(新古今集)

が出典であろう。夜は静かというのは、前句の揚水水車は足踏み式の踏車で、日が暮れて人がいなくなると静かになる。
 二十八句目。

   見ぬふりの主人に恋をしられけり
 すがた半分かくす傘       芭蕉
 (見ぬふりの主人に恋をしられけりすがた半分かくす傘)

 相合傘であろう。主人は見て見ぬふりをするが、慌てて傘(からかさ)で顔を隠す。

 元禄五年十二月二十二日、江戸の大垣藩邸で荊口・千川・此筋の親子と「木枯しに」の巻半歌仙を巻く。
 第三。

   毛を引く鴨をのする俎板
 懸乞の中脇ざしに袴着て     芭蕉
 (懸乞の中脇ざしに袴着て毛を引く鴨をのする俎板)

 懸乞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「掛乞」の解説」に、

 「〘名〙 (「かけごい」とも) 掛売りの代金を請求すること。また、その人。掛取り。《季・冬》
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「きんかあたまに盆前の露 懸乞も分別盛の秋更て〈西鶴〉」
  ※風俗画報‐二五五号(1902)人事門「同十三日は〈略〉、町内掛乞(カケゴヒ)の往来頻繁雑沓を極む」

とある。
 掛売の取り立てに来る人が町人用の脇指を指して袴着てやって来た。さあ、お前も俎板の鯉だ、というところか。この場合は鴨だが。
 八句目。

   秋風に架こしらゆる鷹の宿
 鼠のわたる梁の弓        芭蕉
 (秋風に架こしらゆる鷹の宿鼠のわたる梁の弓)

 梁(うつばり)は家の屋根を支える横の柱。昔の家では天井がなく、むき出しになっている家も多い。梁には上棟式の時に弓や破魔矢を取り付ける。
 鷹の架を作ればそこに鷹がとまるように、上棟式で弓矢を取り付けると、やがてそこを鼠が渡るようになる。
 鷹と鼠で相対付けと言えよう。

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