小学館の『仮名草子集』の「御伽物語」を読み進める。人を食う鬼、狸、山姫、大蛇、幽霊、猫又、送り狼、今にも通じる怪談のパターンがいろいろ出て来る。
それでは風流の続き。
同じ夏の「夕㒵や」の巻も京での興行と思われるが、この時は二十二句目までで、二十三句目以降は後で付け足されたと思われる二つの巻がある。
十四句目。
めきめきと川よりさむき鳥の声
米の味なき此里の稲 芭蕉
(めきめきと川よりさむき鳥の声米の味なき此里の稲)
「味なし」は「あぢきなし」という古い方の意味だろう。水害か冷害で稲がだめになってしまい、水鳥の声だけが空しい。
十七句目。
霧の奥なる長谷の晩鐘
花の香に啼ぬ烏の幾群か 芭蕉
(花の香に啼ぬ烏の幾群か霧の奥なる長谷の晩鐘)
花は奇麗だが、カラスの群れにどこか死を暗示させる。葬儀があったのかとも思わせるが、あくまで暗示に留める。
何となく物悲しく、それでいて厳粛な気分にさせるのは芭蕉の幻術だ。
元禄七年のおそらく六月十七日、膳所の曲翠亭で行われた五吟歌仙興行が行われる。
前書きに当たる支考の「今宵賦」とともに、『続猿蓑』に収録されている。
「今宵賦」には六月十六日とあるが、「今宵賦」の内容といい、芭蕉の発句といい、この夜は宴会で興行は別の日ではなかったと思われる。
発句は、
夏の夜や崩て明し冷し物 芭蕉
で、「冷し物」はコトバンクの「デジタル大辞泉「冷し物」の解説」に、
「水や氷で冷やして食べる物。「夏の夜や崩れて明けし―/芭蕉」
とある。夏の夜は短く、
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ
清原深養父(古今集)
の歌もあるが、それを「崩て明し」という端的でキャッチーな言葉をすぐに思いつくのが芭蕉だ。その夜明けには酔いの眠りを覚ます冷し物がふるまわれたのだろう。
序文で既に夜明けのことまでが語られていて、発句も朝の句だから、俳諧興行はこの後、おそらく六月十七日に行われたのではないかと思う。
十一句目。
鳶で工夫をしたる照降
おれが事哥に讀るる橋の番 芭蕉
(おれが事哥に讀るる橋の番鳶で工夫をしたる照降)
我を「おれ」ということは、この頃の口語でもあったのだろう。橋の番を詠んだ歌というと、近江という場所柄を踏まえれば、
にほてるや矢橋の渡りする船を
いくたび見つつ瀬田の橋守
源兼昌(夫木抄)
の歌だろうか。琵琶湖の上の鳶を見ては天気を判断する。雨だと矢橋の船が止まって橋の方に人が押し寄せる。
鳶は上昇気流に乗って滑空するところから、高く飛ぶと晴れて、低く飛ぶと雨が降ると言われている。
十六句目。
馬引て賑ひ初る月の影
尾張でつきしもとの名になる 芭蕉
(馬引て賑ひ初る月の影尾張でつきしもとの名になる)
昔は戸籍がなかったのでいわゆる本名の概念がない。名前は分不相応でなければ勝手に名乗ってよかった。
わけあって余所に行かねばならず、そこでは別の名前を名乗っていたが、尾張に帰ってきてその賑わう街を眺めながら、これで元の名前に戻れる。
あるいは伊勢で「の人」を名乗っていた杜国の俤があったのかもしれない。杜国はついに尾張に帰ることはなかったが。
二十九句目。
着かえの分を舟へあづくる
封付し文箱來たる月の暮 芭蕉
(封付し文箱來たる月の暮着かえの分を舟へあづくる)
『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注には『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の引用として、「さだめてしろがね入たる文箱ならむ」とある。江戸時代は飛脚を用いて現金を送金することもあったので、封付けした文箱はそういう意味だったのだろう。
船に乗ろうとしたら急に現金が届いたので、いったん店に戻る。
前句の着替えを舟に置いておくのは、必ず乗るから待っていてくれ、という意味で、場所取りのようなものだろう。
同じ六月、大津の能太夫、本間丹野亭での興行があったが、芭蕉の名前があるのは十三句目が最後になる。あとは路通が引き継いで満尾させたか。
発句は、
本間丹野が家の舞台にて
ひらひらとあがる扇や雲のみね 芭蕉
で、能の舞に欠かせない扇を高くかざすかのように、空には雲の峰がある。
夏の季語である「雲の峰」は積乱雲のことで、入道雲とも言う。その積乱雲の上にできる「かなとこ雲」は扇のような形をしている。
八句目。
傘をすぼめて戻る秋の道
窓からよぼる人の言伝 芭蕉
(傘をすぼめて戻る秋の道窓からよぼる人の言伝)
「よぼる」は呼ぶことで、今でも方言で「よぼる」という地方もあるようだ。
秋の道を行くと、窓から言伝を頼まれる。
十三句目。
真向の風に顔をふかるる
よう肥たむすこのすはる膝の上 芭蕉
(よう肥たむすこのすはる膝の上真向の風に顔をふかるる)
縁側で太った子供を膝に乗せて汗が出てきたか、風が汗をぬぐってゆく。
六月二十一日、大津の木節庵での興行がある。
発句。
秋ちかき心の寄や四畳半 芭蕉
秋も近くようやく涼しくなると、何となくこうして部屋で身を寄せ合ってという気分にもなる。そういうわけでみんなよろしくと、挨拶の一句となる。
四句目の支考の句。
月残る夜ぶりの火影打消て
起ると沢に下るしらさぎ 支考
(月残る夜ぶりの火影打消て起ると沢に下るしらさぎ)
魚を取る村人が去っていった後、目を覚ました白鷺が沢に下りてきて、魚を取り始める。「夜ぶり」に「しらさぎ」とどちらも魚取りというところでまとめるのは、支考一流の響き付けといっていいだろう。
九句目の芭蕉の句。
なにの箱ともしれぬ大きさ
宿々で咄のかはる喧嘩沙汰 芭蕉
(宿々で咄のかはる喧嘩沙汰なにの箱ともしれぬ大きさ)
ちょっとした喧嘩でも噂で伝わってゆくうちに次第に話が盛られてゆき、本当は小さな箱が発端だったのに、いつの間にかとてつもなく大きな箱になっている。
二十七句目。
嫁とむすめにわる口をこく
客は皆さむくてこをる火燵の間 芭蕉
(客は皆さむくてこをる火燵の間嫁とむすめにわる口をこく)
人の悪口も度が過ぎれば、周りにいる人間もどう反応していいかわからず氷りつく。下手に賛同もできないし、かといって咎めるのも角が立つ。聞き流すのが一番いい。
座右之銘
人の短をいふ事なかれ
己が長をとく事なかれ
物言えば唇寒し秋の風 芭蕉
の句もある。
「こく」は今でも「嘘こく」だとか「調子こく」だとか、良いことには用いない。
この芭蕉は故郷の伊賀でしばらく過ごすことになる。その七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で歌仙興行が行われる。
発句は、
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
で、元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
これに芭蕉が脇を付ける。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
(あれあれて末は海行野分哉靍の頭を上る粟の穂)
鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
去来宛書簡には「鶴は常体之気しきに落可」とある。鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
十五句目。
相撲にまけて云事もなし
山陰は山伏村の一かまへ 芭蕉
(山陰は山伏村の一かまへ相撲にまけて云事もなし)
山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。
山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
中にもせいの高き山伏 芭蕉
の句がある。
二十七句目。
鼬の声の棚本の先
箒木は蒔ぬにはへて茂る也 芭蕉
(箒木は蒔ぬにはへて茂る也鼬の声の棚本の先)
打越は「燈に革屋細工の夜はふけて」で、前句の鼬は毛皮にする生きた鼬のことと思われる。
鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。
箒木はほうき草で最近ではコキアと呼ばれ、紅葉を観賞するが、当時は庭に勝手に生えてくるものだったのだろう。
鼬は毛皮で役に立ち、箒木は箒にすれば役に立つということで、響き付けになる。
「残る蚊に」の巻もこの頃のものと思われる。三十句のみ残っている。
十七句目。
かち荷は舟を先あがる也
美濃山はのこらず花の咲き揃ひ 芭蕉
(美濃山はのこらず花の咲き揃ひかち荷は舟を先あがる也)
美濃山はどこの山なのか。美濃というと稲葉山が思い浮かぶが。京都八幡にも美濃山という地名がある。前句からすると川に近い水運の要衝であろう。
二十六句目。
暮るより寺を見かへる高灯籠
すすきのかげにすへるはきだめ 芭蕉
(暮るより寺を見かへる高灯籠すすきのかげにすへるはきだめ)
寺の入口の高灯籠の向こう側には、お寺のゴミ捨て場がある。お寺あるある。
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