2021年11月15日月曜日

 今日は奥多摩の御嶽山に行った。狼の神社でこれが二度目。ケーブルカーで登り、長尾平展望台まで行った。紅葉は上の方はまずまずだった。
 眺望の方はやや霞がかかっていたが、うっすらと筑波山やスカイツリーが見えた。
 帰りがけに八王子城跡に寄り、今日は登らずに瀧の辺りまで散歩した。猿の群れを見た。

 元禄五年八月十五日には江戸在勤中の大垣藩士が集まって、「名月や」の巻の半歌仙興行が行われる。
 脇。

   名月や篠吹雨の晴をまて
 客にまくらのたらぬ虫の音    芭蕉
 (名月や篠吹雨の晴をまて客にまくらのたらぬ虫の音)

 芭蕉が脇を詠んでいるところから、芭蕉庵での興行と思われる。第三次芭蕉庵は五月中旬に完成していたという。
 たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、といったところか。この日は濁子、千川、凉葉、此筋の四人が訪れていた。
 「虫の音」はこの場合は放り込み。雨が止めば一斉に鳴きだす虫も、今はどこかで眠っていると見るならば、足らないのは虫のための枕とも取れる。
 七句目。

   曲れば坂の下にみる瀧
 猟人の矢先迯よと手をふりて   芭蕉
 (猟人の矢先迯よと手をふりて曲れば坂の下にみる瀧)

 「猟人」は「かりうど」、「迯よ」は「のけよ」と読む。
 これは何に向って手を振っているのだろうか。おそらく前句に記されてない何かに向ってであろう。つまり、かかれてないけど前句から匂うもの、おそらくは李白観瀑図や観瀑僧図のような絵によく描かれる、滝を見る風流の徒であろう。
 滝は同時に鹿が水を飲みに来る場所でもある。風流の徒も狩人からすれば狩りの邪魔をする迷惑な存在なので、ここでは危ないからと手を振って追払う。
 十三句目。

   軽ふ着こなすあらひかたびら
 伏見まで行にも足袋の底ぬきて  芭蕉
 (伏見まで行にも足袋の底ぬきて軽ふ着こなすあらひかたびら)

 この頃の伏見は秀吉の時代の繫栄の跡形もなく荒れ果てていた。
 伏見の撞木(しゅもく)町には遊郭があったが規模も小さく高級な遊女がいるわけでもなく、京のあまり金のない男が徒歩で遊びに行くようなところだった。
 芭蕉の時代より十年くらい後になるが、大石内蔵助がここで遊んでたといわれている。今の近鉄伏見駅に近い。
 延宝九年刊の『都風俗鑑』(作者未詳)には、

 「所は深草の墨染と伏見の間にあり、今はなべて伏見の撞木丁とこそいふなれ、東西壱丁に南北二丁を掻ひ籠めたる廓なり。本は京の方へも口明きたりしが、今は塞ぎて南の口より出入するなり。」(『仮名草子集』新日本古典文学大系74、渡辺守邦、渡辺憲司校注、一九九一、岩波書店)

 「京とは其道二里、所によりて三里の所もありといへども、千里も磁石にて、思ふ心を知るべとして、夕に通ひ朝に帰る輩、繁くもなく薄くもなく、稲荷街道にはちらちらと駕籠の絶ゆる事なし。」(『仮名草子集』新日本古典文学大系74、渡辺守邦、渡辺憲司校注、一九九一、岩波書店)

とある。
 十七句目。

   殿の畳のふるびたる露
 花咲ば木馬の車引出して     芭蕉
 (花咲ば木馬の車引出して殿の畳のふるびたる露)

 当時の木馬は子供の遊び道具ではなく、乗馬の練習に使うものだった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「日本では江戸時代に、武士の子弟の馬術の練習用としての木馬があった。木馬に、手綱(たづな)、障泥(あおり)などをつけ、鐙(あぶみ)の乗り降り、鞭(むち)の当て方を練習した。馬術を習うのに木馬を用いることは中国でもあったといわれている。また木馬は、乗馬に使用する鞍(くら)を掛けておく道具として用いられ、鞍掛とよばれた。」

とある。ある程度の重さがあるので、大八車に乗せて運んだか。
 老いて隠居した殿様は庭に桜の花が咲く頃には昔のことを思い出して木馬を庭に引っ張り出してみるが、木馬が去ったあとの部屋の畳もいつしか古びてしまった。これぞ「さび」といったところか。

 九月にも第三次深川芭蕉庵で、芭蕉、洒堂、嵐蘭、岱水の四吟歌仙興行が行われる。
 発句は、

   深川夜遊
 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

だった。
 唐辛子は戦国時代に宣教師によって日本にもたらされたもので、日本でも栽培されるようになったが、日本では唐辛子を常食するような激辛文化は起こらなかった。薬として用いられるほかは、他の辛くないものとブレンドして薬味(今で言う七味唐辛子)としたり、味噌に混ぜて南蛮味噌にしたり、せいぜいピリ辛程度の刺激を楽しむだけだった。
 その南蛮味噌を作る時には青唐辛子が用いられていて、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、一九七四、小学館)の注によると、青唐辛子を酒の肴にすることもあったようだ。
 そういうわけで句の意味は、折から唐辛子の赤く色づく頃で、それを芭蕉は青いままなら食べられたのに、という意味だったのだろう。青唐辛子は食用、赤唐辛子は薬というのが当時の感覚だったか。
 猿蓑の「市中や」の巻に既に、

   戸障子もむしろがこひの売屋敷
 てんじゃうまもりいつか色づく  去来

の句がある。空き家になった売り屋敷に唐辛子が赤く色づいているのが侘しげに見えたのだろう。
 六句目。

   松山の腰は躑躅の咲わたり
 焙炉の炭をくだす川舟      芭蕉
 (松山の腰は躑躅の咲わたり焙炉の炭をくだす川舟)

 「焙炉(ほいろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「製茶用の乾燥炉。もとは木の枠に厚手の和紙を張ったもので、蒸した茶の葉を炭火で乾燥させながら揉(も)んだ。《季 春》「家毎に―の匂ふ狭山かな/虚子」

とある。茶の産地の景色に転じる。
 『猿蓑』に、

 山吹や宇治の焙炉の匂ふ時    芭蕉

の句がある。
 九句目。

   ふすま掴むで洗ふ油手
 掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや 芭蕉
 (掛ヶ乞に恋のこころを持たせばやふすま掴むで洗ふ油手)

 この句は『去来抄』で位付けの例として挙げられていて、「前句、町屋の腰元などいふべきか。是を以て他をおさるべし。」とある。
 掛け乞いは年末の取り立てのことだが、「乞い」を「恋」にして「掛け恋」にしたら、借金取りも優しくなるのではないか。
 というわけで、髪を整えて手を洗って、ちょっとばかり色目を使えば、少しはお手柔らかに見逃してくれるのではないかと、町屋の腰元も思うところだろう。
 十四句。

   目の張に先千石はしてやりて
 きゆる斗に鐙おさゆる      芭蕉
 (目の張に先千石はしてやりてきゆる斗に鐙おさゆる)

 前句の千石取りもたらしこむ傾城を、ここではお小姓に転じる。
 千石取りの武将をも鐙(あぶみ)に泣いてすがってたらし込む。
 十七句目。

   那智の御山の春遅き空
 弓はじめすぐり立たるむす子共  芭蕉
 (弓はじめすぐり立たるむす子共那智の御山の春遅き空)

 弓はじめはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

とある。
 前句の「春遅き」を暮春ではなく、春が来るのが遅い、まだ寒い山里という意味に取り成して、正月行事にする。
 二十二句目。

   革足袋に地雪駄重き秋の霜
 伏見あたりの古手屋の月     芭蕉
 (革足袋に地雪駄重き秋の霜伏見あたりの古手屋の月)

 「古手屋(ふるてや)」は古道具屋のこと。
 革足袋も地雪駄も元禄の頃には時代遅れになり、伏見あたりの古道具屋に行くとあるというイメージだったか。
 二十五句目。

   我が跡からも鉦鞁うち来る
 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉
 (山伏を切ッてかけたる関の前我が跡からも鉦鞁うち来る)

 『連歌俳諧集』の注、『校本芭蕉全集 第五巻』の注ともに謡曲『安宅』によるものとする。これは謡曲『安宅』のストーリーを知らないと意味がよくわからないので、俤ではなく本説になる。
 安宅の物語は弁慶・義経の御一行十二人が山伏に変装して陸奥平泉の藤原秀衡の元に向かう途中、富樫泰家が臨時に設けた加賀の安宅の関を通ろうとしたところ、関の前に山伏の首が切って掛けてあり、これはそのまま通ろうとするとやばいということで弁慶が策を講じて、無事通過することになる。
 このとき義経を体の弱い下っ端の剛力に変装させ、後からよろよろついてくるようにさせたところから、「我が跡からも鉦鞁うち来る」は弁慶から見た義経のことになる。
 なお、安宅関は長いこと所在がわからなかったことから、芭蕉の『奥の細道』の旅でも立ち寄った記述はない。
 この時期でも俤ではなく、古い本説付けをすることはあった。
 三十三句目。

   筵片荷に鯨さげゆく
 不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市  芭蕉
 (不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市筵片荷に鯨さげゆく)

 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)は東海道五十三次の三十九番目の宿場で愛知県知立市の牛田ICの辺りにあった。古くから馬市や木綿市が立ったという。三河湾で獲れた鯨を干したものも売られていたか。
 貞享元年、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で、

   尾張の国あつたにまかりける比、
     人々師走の海みんとて船さしけるに
 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

の発句を詠んだ時の脇が、

   海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる盃       桐葉

だった。

 元禄五年十月三日、江戸勤番中で江戸に出てきていた森川許六の江戸旅亭(彦根藩邸)で歌仙興行がなされた。許六にとっては念願かなっての芭蕉との対面であろう。
 発句は、

 けふばかり人も年よれ初時雨   芭蕉

だった。
 この場合の「も」は「力も」と呼ばれていた強調の「も」であり、並列の「も」ではない。
 「年よれ」は文字通りに読めば、「年よ、寄れ」であり、「年経よ」と同じような意味であり、「年寄(としより)」という言葉は「年が寄る=年を経る」から派生した言葉にすぎない。ここでは「年よれ」は年寄になれではなく、「年を経てゆくのを感じ取ってくれ」ぐらいの意味に考えた方がいい。
 これに許六が脇を付ける。

   けふばかり人も年よれ初時雨
 野は仕付たる麦のあら土     許六
 (けふばかり人も年よれ初時雨野は仕付たる麦のあら土)

 年を経てもいいように来年のための準備は整ってますという意味で、畑の麦蒔きも終りましたと答える。「あら土」は土のこなれていないという意味だが、それは比喩であり、招待する側の「粗末な所ですが」という謙遜の意味を込めたものと解する方が良い。
 八句目。

   才ばりの傍輩中に憎まれて
 焼焦したる小妻もみ消ス     芭蕉
 (才ばりの傍輩中に憎まれて焼焦したる小妻もみ消ス)

 「才ばり」は小賢しいという意味で、「傍輩中」は同僚。まあ、大体においてこういうのは「嫌な奴」「うるさい奴」という意味だ。
 小姑のように、人の失敗をいちいちチクチク突付くのが趣味というか生きがいのような同僚に、袖の端っこが焦げたのを見つかればえらいことになると、文字通り火を手でもんで「もみ消す」。 芭蕉も伊賀藤堂藩の料理人をやっていた時には、こんな経験もあったのかもしれない。
 十三句目。

   船追のけて蛸の喰飽キ
 宵闇はあらぶる神の宮遷し    芭蕉
 (宵闇はあらぶる神の宮遷し船追のけて蛸の喰飽キ)

 「蛸の喰飽キ」の殺生の罪には釈教で付けるのが普通だが、ここではあえて神祇に展開している。 あらぶる神の宮を移したので船から上がり、蛸を飽るほど食う。
 あらぶる神というのは御霊のような非業の死を遂げた魂で、蛸が須磨・明石の名物であることを考えれば、平氏の怨霊か。
 祟りを恐れて神社を他所へ移したから、もう祟りはないだろうと蛸を好きなだけ食う。そんな人間の勝手な心を宵闇が包んでいる。
 蛸というと『笈の小文』の旅の、

 蛸壺やはかなき夢を夏の月    芭蕉

の句もある。罠にはめられて食われてしまう蛸のはかなき夢のような命を、夏の短い夜の月に例えたものだ。
 その情は、蛸に喰い飽る姿に人間の煩悩を思い、それを月のまだ出ていない闇に例えるこの句にも生かされている。
 十四句目は許六の句。

   宵闇はあらぶる神の宮遷し
 北より荻の風そよぎたつ     許六
 (宵闇はあらぶる神の宮遷し北より荻の風そよぎたつ)

 『去来抄』によると、芭蕉が「宵闇」という月の文字のない月を出したことで、形式的な月を出しておきたいということになる。
 これは元禄二年春の「かげろふの」の巻に前例がないわけではない。これは五句目の初表の月の定座に曾良が「いざよひ」を出した時に九句目で芭蕉が、

   ブトふりはらふともの松明
 五月まで小袖のわたもぬきあへず 芭蕉

の句を付けている。
 そういう事情があって許六は軽く流すような句を要求されたのかもしれない。
 まず、「宮遷し」の方角を「北」とし、「宵闇」に荻の風の音を付つる。荻の風は悲しげな響きがある。
 十五句目は洒堂が形だけの月を出す。

   北より荻の風そよぎたつ
 八月は旅面白き小服綿      洒堂
 (八月は旅面白き小服綿北より荻の風そよぎたつ)

 荻の風のそよぎ立ち、露を散らす風情を旅路の風景とし、「八月は旅面白き」と付く。小服綿は僧の着るもので、僧の行脚の句となる。
 二十三句目。

   夜着たたみ置長持の上
 灯の影めづらしき甲待チ     芭蕉
 (灯の影めづらしき甲待チ夜着たたみ置長持の上)

 土芳の『三冊子』に、

 「前句の置の字の気味に、せばき寝所、漸一間の住居、もの取片付て掃清めたる所と見込み、わびしき甲待の体を付けたる也。珍しの字ひかりあり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.127)

とある。
 長持の上に夜着をたたむところに家の狭さときちんと片付づいた部屋の匂いがあり、そこからいわゆる「清貧」の人物を思い描き、その位で付けている。
 二十八句目。

   いかやうな恋もしつべきうす霙
 琵琶をかかえて出る駕物     芭蕉
 (いかやうな恋もしつべきうす霙琵琶をかかえて出る駕物)

 前句の「恋もしつべき」を恋物語をしつべきと取り成し、霙の降る寒い日に駕籠に乗ってやってきた琵琶法師が、どんな恋の物語をするのだろうか、というふうに付ける。
 琵琶法師というと芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、塩釜で聞いた奥浄瑠璃のことが思い出される。「いかやうな恋」というのは浄瑠璃姫などの恋物語であろう。
 三十三句目は本説付け。

   篠ふみ下る筥根路の坂
 宗長のうき寸白も筆の跡     芭蕉
 (宗長のうき寸白も筆の跡篠ふみ下る筥根路の坂)

 これは連歌師宗長の『宗祇終焉記』で、

 「廿七日、八日、此両日はここに休息して、廿九日に駿河国へと出で立ち侍るに、その日の午刻斗に、道の空にして、寸白といふむしおこりあひて、いかにともやる方なく、薬をもちひけれど露しるしもなければ、いかゞはせん。
 国府津といふ所に旅宿をもとめて、一夜をあかし侍りしに、駿河よりのむかひの馬・人・輿なども見え、素純馬をはせて来たりむかはれしかば、力をえて、あくれば箱根山のふもと、湯本と云所につきしに、道のほどよりすこし心よげにて、湯づけなどくひ、物語[打ち]し、まどろまれぬ。」

 そしてそのあとすぐ、

  「ながむる月にたちぞうかるる
といふ句を沈吟して、我は付がたし、みなみな付侍れなど、たはぶれにいひつつ、ともし火の消ゆるやうにしていきも絶ぬ。」

となる。そのあと宗長は、

 「あしがら山は、さらでだにこえうき山なり。輿にかき入て、[ただ]ある人のやうにこしらへ、跡先につきて、駿河国のさかひ、桃園と云所の山林に、会下あり、定輪寺と云。」

と山を越え、その定輪寺に宗祇の亡骸を埋葬する。
 宗長が宗祇の憂き寸白のことを筆に記し、箱根路の坂を下り、駿河国に宗祇を埋葬する。寸白はサナダムシのこと。直接の死因ではなく、別の病気があったのだと思う。
 三十四句目。この句に許六は、

   宗長のうき寸白も筆の跡
 茶磨たしなむ百姓の家      許六
 (宗長のうき寸白も筆の跡茶磨たしなむ百姓の家)

と付ける。前句を宗長の偽物の書でサナダムシが這ったみたいの筆跡だとして、生半可に茶道をかじっている百姓の家とする。
 宗祇終焉の暗い話題を笑いに転じる、一種のシリアス破壊だ。これは軽みの基本パターンになる。

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