岩波の『仮名草子集』の「尤之双紙」は仮名草子というよりは俳書に分類しても良いのではないかと思う。
たとえば上巻の「長き物のしなじな」は前句に「長し」とあった時にどういうものが付けられるかを列挙しているようなものだ。
下巻の「引く物のしなじな」で馬を引く、袖を引く、注連を引く、施行を引く、数珠を引く、木地引く、轆轤引く、‥‥と言った列挙は、前句に「引く」という言葉があった時の掛てにはに利用できる題材の列挙として役に立つ。
これは俳諧師が常に練習として行っている、展開の練習の一端と考えればわかりやすいし、読者も俳諧のネタに利用してたのではなかったか。
「清水物語」の方はそれなりに政治的な主張を持って書かれた本なんだろう。当時の細かなことはよくわからないが、基本的には中世の顕密仏教の崩壊と江戸幕府の朱子学国教化の中で、神仏儒道を「天」の概念の下に統合する動きと見ていいのだろう。
それは元は神仏習合の中で生じた本地垂迹説に倣うもので、仏教を本地、神道を垂迹とする両部の考え方は、神道を本地とする唯一神道によって相対化された。本地は神仏儒道をこえて天地自然に具わるものとする考え方が多くの人の同意を得ていく中で、初めて神仏儒道を相対化する江戸時代人の世界観が生まれ、これは今でも日本人の霊性の元になっている。
近代になってキリスト教を取り入れたとしても、キリスト教は神仏儒道と並ぶたまたま西洋に現れた垂迹の一つで、今の日本人にとってのクリスマスやハローウィンはそういったものだ。本地は天地自然、語られぬもの、不可知なもの、それでいて本性として自らに具わるもの、それが答えだ。
この「清水物語」も基本的に「天」の概念を下に幕府の朱子学と仏教とを統合する試みの一つと見ていいんだと思う。芭蕉の不易流行説も基本的にこの延長線上にある。
まあ、それはそうと、左翼もいい加減に今度の選挙で「革命至上主義」は大衆の支持を得られないことに気付くべきだ。かつて「修正主義」という左翼の忌み嫌う言葉があったが、あのころから左翼は変わっていない。
革命と修正が相反するのは、革命は資本主義の矛盾を極限まで顕在化させる方向へ向かわせなくてはいけないからだ。つまり今抱えている問題を解決するのではなく、むしろ問題を破滅に至るまで増幅しなければいけない。
コロナが流行ればコロナで多くの人がばたばたと死んでいく状態を作らなくてはならない。地球環境の問題でも、破滅的状況を作らなくてはいけない。日本の平和の問題にしても、周辺国に誤った情報を流して日本への恨みと警戒感を増幅させ、自ら戦争を焚き付けていると言っていい。核兵器のない世界と言いながら、反米諸国の核保有を容認し、核拡散を助長する。差別の問題でも、マイノリティーとマジョリティーの対立をより暴力的にすることで解決の道を閉ざす。
これを抜け出すためには、日本共産党は米帝(アメリカ帝国主義)の支配が現在では存在していないことと、暴力革命の未来永劫に渡る放棄を宣言し、綱領に盛り込むべきであろう。
そして、それに基づいて「民主主義革命」の文言も消去すべきであろう。民主主義の改革は必要だが革命は必要ないし、特定勢力の排除は民主主義と矛盾する。
日本共産党がこれを行うなら、他の政党や団体の日本共産党との共闘への不安は解消され、強力な野党連合が可能になるし、二大政党制も夢ではない。改革か革命かの究極の選択を回避して、改革の中身で争うことが可能になる。
まあ、これが野党が変わる最後のチャンスではないかと思う。革命を擁護する限り野党は変われない。革命至上主義は野党の足枷であるだけでなく、今の日本の足枷になっている。革命の妄想に囚われている限り、いつまでたっても改革を議論する土壌が生まれない。
それでは風流の方に戻ろう。
元禄二年正月、路通の、
水仙は見るまを春に得たりけり 路通
の発句で始まる。
芭蕉の第三。
窓のほそめに開く歳旦
我猫に野等猫とをる鳴侘て 芭蕉
(我猫に野等猫とをる鳴侘て窓のほそめに開く歳旦)
歳旦から猫の恋へと展開する。
八句目。
婿入に茶売も己が名を替て
恋に古風の残る奥筋 芭蕉
(婿入に茶売も己が名を替て恋に古風の残る奥筋)
平安時代の通い婚を想像したのか、夫が妻の家に入り苗字を変えるとした。ただ、芭蕉はまだ奥の細道に旅立つ前なので、陸奥での経験ではない。想像で付けている。
其角も母方の榎本の姓を名乗っていたし、後に宝井姓に改名したが、これは俗姓で、本来の血統を表す姓ではなく、武家の苗字に準じた苗字帯刀を許されない庶民の姓なのだろう。
婿養子に入ると苗字が嫁の姓に変わり、その息子もまた母方の苗字を名乗るのは、日本独自の習慣だったのだろう。
昔の韓国では代理母(シバジ)というのがあって、昔そんな映画のビデオを借りてきて見た記憶があるが、日本人は血統へのこだわりがあまりなく、跡継ぎがいないなら婿をとればいいという発想だった。姓と苗字の違いもそのあたりの血統へのこだわりのなさの反映なのだろう。
皇室に関しては長いこと例外だったのは、古代に女帝をたぶらかして、後継ぎとなる次代の天皇の父になって権勢を奪おうとした、道鏡という破戒仏のせいだ。
十六句目。
折ふしは塩屋まで来る物もらひ
乱より後は知らぬ年号 芭蕉
(折ふしは塩屋まで来る物もらひ乱より後は知らぬ年号)
京都で「戦後」というと応仁の乱の後のことだとよく冗談に言われるが、この場合の乱もおそらくそれだろう。
都が荒れ果てて商売上がったりの芸人が、仕方なく辺鄙な田舎にまでやって来る。都の情報が入ってこないため、年号が何になったかもわからない。
三十句目。
唐人のしれぬ詞にうなづきて
しばらく俗に身をかゆる僧 芭蕉
(唐人のしれぬ詞にうなづきてしばらく俗に身をかゆる僧)
これは明の滅亡によって亡命して日本にやってきた儒者に感化されて、ということか。朱舜水と水戸光圀公との交流はよく知られている。多分こういう人が何人もいたのだろう。
同じ正月、
衣装して梅改むる匂ひかな 曾良
を発句とした興業が行われる。
芭蕉の七句目。
のた打猪の帰芋畑
賤の子が待恋習ふ秋の風 芭蕉
(賤の子が待恋習ふ秋の風のた打猪の帰芋畑)
夫が夜興引(よごひき)で猪を追い回している間は、賤の妻も待つ恋が習慣になる。
十四句目。
手作リの酒の辛みも付にけり
月も今宵と見ぬ駑馬の市 芭蕉
(手作リの酒の辛みも付にけり月も今宵と見ぬ駑馬の市)
「駑馬(どば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 足のおそい馬。にぶい馬。
※令義解(718)厩牧「細馬一疋。中馬二疋。駑馬三疋。〈謂。細馬者。上馬也。駑馬者。下馬也〉」
※高野本平家(13C前)五「騏驎は千里を飛とも老ぬれば奴馬(ドバ)にもおとれり」 〔戦国策‐斉策五〕
② 才能のにぶい人のたとえ。」
とある。軍馬ではなく運搬や農耕に用いる馬の市が立ち、その頃には新酒も出来上がり満月になる。
馬喰町の馬市がいつかはよくわからないが、名月の頃に立つ馬市もあったのだろう。
あるいは夏の繁殖期に放牧していた馬に仔馬が生まれる頃、一度放牧馬が集められてチェックを受けた後、秋に市場に出す馬が選び出されていたか。
貞享四年の「磨なをす」の巻十二句目に、
古畑にひとりはえたる麦刈て
物呼ぶ声や野馬とるらむ 芭蕉
の句があり、元禄七年五月の「新麦は」の巻第三にも、
また相蚊屋の空はるか也
馬時の過て淋しき牧の野に 芭蕉
の句がある。夏に野馬を取る習慣があり、ひょっとしたら相馬の野馬追もその名残なのかもしれない。
十六句目。
狩衣をきぬたのぬしに打くれて
我おさな名を君はしらずや 芭蕉
(狩衣をきぬたのぬしに打くれて我おさな名を君はしらずや)
「おさな名」は元服前の名前。芭蕉の場合は金作。
ある程度の年になってから妻を貰うと、妻は幼名を知らなかったりしたのだろう。砧打つ姿に母のことを思い出し、幼名で呼ばれてたことを懐かしく思い出す。
二十八句目。
此恋をいわむとすればどもりにて
打れて帰る中の戸の御簾 芭蕉
(此恋をいわむとすればどもりにて打れて帰る中の戸の御簾)
吃音障害のせいで人に見つかった時にうまく説明できず、不審者に間違えられて追い出される。
「中の戸」は『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注に「部屋と部屋の間の戸」とある。
三十五句目。
折にのせたつ草の初物
入過て餘りよし野の花の奥 芭蕉
(入過て餘りよし野の花の奥折にのせたつ草の初物)
吉野に入るには順の峰入りと逆の峰入りとがあるが、時代によって違いがあったのだろう。芭蕉の時代には春に峰入りしている。
貞享四年の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、
別るる雁をかへす琴の手
順の峯しばしうき世の外に入 観水
の句があり、順の峯入りは春の句となっている。
後に曾良が、
大峰や吉野の奥の花の果て 曾良
とあるが、これも峰入りの句だろうか。
の句を詠んでいる。
二月七日には、
かげろふのわが肩に立かみこかな 芭蕉
を発句とする歌仙興行が行われている。もうすっかり『奥の細道』への旅立ちモードに入っている。それだけ、入念に計画された旅立ったのであろう。
ここで路通が外れているところからも、同行は曾良に内定していたか。脇は曾良が付ける。
かげろふのわが肩に立かみこかな
水やはらかに走り行音 曾良
(かげろふのわが肩に立かみこかな水やはらかに走り行音)
春の水の流れる音が聞こえます、というだけの脇だが、「やはらかに走り行く」というところに旅の無事が込められているように思える。
五句目の曾良の句は、
身はかりそめに猿の腰懸
いさよひもおなじ名所にかへりけり 曾良
(いさよひもおなじ名所にかへりけり身はかりそめに猿の腰懸)
と、月の定座だが「いさよひ」という月の字のない月を選んでいる。
十五夜だけでなく、十六日も見ようと、名所を離れかけたが戻ってきた。猿の腰掛に腰かけているように居所を定めない。
これに九句目で、
ブトふりはらふともの松明
五月まで小袖のわたもぬきあへず 芭蕉
(五月まで小袖のわたもぬきあへずブトふりはらふともの松明)
と、「五月」を出してバランスを取る。
同じようなことは元禄五年の「けふばかり」の巻でも行われていて、十三句目の「宵闇」の句を月としたため十五句目に「八月」を出している。
この年は寒くて五月まで小袖の綿を抜かなかった。暑くなったころにはブユが現れる。
二十二句目。
城北の初雪晴るるみのぬぎて
おきて火を吹かねつきがつま 芭蕉
(城北の初雪晴るるみのぬぎておきて火を吹かねつきがつま)
鐘撞は鐘撞の番をして時を知らせる人で、ネット上の「浦井祥子著『江戸の時刻と時の鐘』掲載紙:日本経済新聞(2002.5.24)」には、
「時の鐘の運営も幕府の意向が強く働き、かなり制度化されていた。寛永寺に残る史料などから、鐘撞人の職が世襲である一方で鍾撞人の権利を有する株も存在していたことが分かった。」
とある。城北ならおそらく寛永寺であろう。鐘撞人の生活を多分想像したものだろう。
二十七句目。
黒木ほすべき谷かげの小屋
たがよめと身をやまかせむ物おもひ 芭蕉
(たがよめと身をやまかせむ物おもひ黒木ほすべき谷かげの小屋)
京都大原は古くから炭焼きの盛んなところで、炭だけでなく乾燥させた黒木も薪として大原女が売り歩き、都で用いる燃料を供給していた。
日數ふる雪げにまさる炭竈の
けぶりもさびし大原の里
式子内親王(新古今集)
など、歌にも詠まれている。
天和二年刊の西鶴の『好色一代男』の影響もあったのだろう。大原雑魚寝の女に成り代わって詠んだ句になっている。
大原の雑魚寝の西鶴の記述はうわさ話に基づいて多少盛っている感じはするが、古代の歌垣の名残をとどめていたのだろう。
もちろん原始乱婚制なんてのは論外で、歌垣は結婚相手を探すために歌などを歌い交わす祭りだった。ただ、どこの祭りでも酒が入ったりして嵌め外しすぎるものはいたというだけのことだと思う。
芭蕉の句も、誰と結婚することになるのかという悩みにしている。
三十一句目。
水のいはやに仏きざみて
麦ゑます諏訪の涌湯の熱かへり 芭蕉
(麦ゑます諏訪の涌湯の熱かへり水のいはやに仏きざみて)
「ゑます」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「[1] 〘連語〙 (動詞「えむ(笑)」に尊敬の助動詞「す」の付いたもの) にっこりほほえまれる。笑顔をなさる。
※万葉(8C後)七・一二五七「道の辺の草深百合の花咲(ゑみ)に咲之(ゑましし)からに妻といふべしや」
[2] 〘他サ四〙 (麦などを)水や湯などにつけたり、煮たりしてふくらませる。ふやかす。〔俚言集覧(1797頃)〕」
とある。米のあまりとれない昔の信州では蕎麦や麦を食べていたが、麦を炊くときはぬるま湯につけて柔らかくしてから炊いた。芭蕉も更科を旅した時に食べたのではないかと思う。
諏訪の辺りの山の中なら洞窟に籠って仏像を刻んでいる人がいてもおかしくない。
旅はいろいろと新しいネタを提供してくれる。
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