2021年11月20日土曜日

 手違いがあって、十八日の風流と十九日の風流の間の「ゑびす講」の巻から「いさみたつ」の巻までが欠落してしまったので、十八日の末尾に追加した。めんごめんご。
 小学館の『仮名草子集』の「けしずみ」を読んだ。元遊女の尼の告白の形を取っている。轡や揚屋の亭主が商品に手を出すのもよくあったことなのか。
 紋日もかなり重要な日だったようだ。一応コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紋日」の解説」には、

 「〘名〙 (「ものび(物日)」の変化した語。「もんぴ」とも) 江戸時代、主として官許の遊里で五節供やその他特別の日と定められた日。この日遊女は必ず客をとらねばならず、揚代もこの日は特に高く、その他、祝儀など客も特別の出費を要した。一月は松の内、一一日、一五日、一六日、二〇日、続いて二月一〇日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日。吉原では三月一八日三社祭、六月朔日富士詣、七月一〇日四万六千日、八朔白無垢、八月一五日名月、九月一三日後の月、一二月一七・一八日浅草歳の市、など多かった。〔評判記・色道大鏡(1678)〕」

とある。
 恋はその執着心と嫉妬の深さから、しばしば刃傷沙汰を引き起こすものとして、識者からは嫌われる傾向にあった。「たきつけ草」にも、

 「つらつらこの親仁といふ根源をたづねみれば、恋路のわけより子をもうけ置きて、その子に恋をさせまいとの異見面は、人のぼらけや嫌ふらんにてはなきか。」

などという逆説があったし、「柳小折」の巻には、

   朝の月起々たばこ五六ぷく
 分別なしに恋をしかかる     去来

なんて句もあった。
 それでも、人は恋をしたからこうして今も種として存続しているもので、危うさを含みながらも避けて通れるものではない。
 特に男の欲望のしばしば陥る暴力性について、いかにそれを抑制するか、いかに女性の立場に立って恋を理解するかというのが『源氏物語』以来のテーマであり、それゆえに「恋」は風流の道の核心ともいえるものだった。
 理不尽な孫の手さんの『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』にもあったが、

 「考えてみろ。自分より明らかに強い奴が、欲望をむき出しにして迫ってきたら、どう思う?」

というのが、一番の根底なのではないか。風流は男の弱さを見せる道なのかもしれない。
 花を見ては泣き、月を見ては泣く、その弱さこそが風流の道なのは理由のないことではない。
 逆に言えば、女の風流に弱さは求められない。男の誘いを突っぱねる気丈さと、恨みや嫉妬をあらわにすることが求められる。今のツンデレ・ヤンデレはその伝統によるものかもしれない。
 コロナの方は今の所実効再生産数が0.8から1.0の間で落ち着いてきている。ワクチン接種は一日二十万人を切って終了に向かっている。一回以上の接種者が78.5%からほとんで増えていないから、この辺でカンストという所か。
 立憲民主党の内部のことはよくわからないので、代表選で誰が良いとかはわからない。
 一応綱領を見てみたが、

 「立憲民主党は、立憲主義と熟議を重んずる民主政治を守り育て、人間の命とくらしを守る、国民が主役の政党です。」(立憲民主党2020年9月15日綱領)

とあるこの「民主政治」が現在の民主主義体制を意味するのか、それとも日本共産党の言うように、今の民主主義は真の民主主義ではなく米帝勢力の独裁で、民主主義の実現のためには自民・公明などの米帝に同調する勢力を排除する必要がある、という意味で言っているのかは不明だ。

 「私たちは、立憲主義を深化させる観点から未来志向の憲法議論を真摯に行います。」(立憲民主党2020年9月15日綱領)

という一文も、日本共産党の言う民主主義革命を意味するなら、言っていることは共産党と一緒だ。
 ただ、表現が曖昧で、現行民主主義を肯定し、更に自衛隊の明記や緊急事態要綱などの論議にも参加するという意味にも取れる。この曖昧さは結局党内部に両方いて、妥協した表現になっているということなのだろう。
 とはいえ、誰が代表になったとしても、今後も共産党との連携を続けるのであれば、レーニン帝国主義論に基づく米帝勢力排除を支持すると受け取られてもしょうがない。
 仮に本質的には革命政党でありながら、いかにもリベラルっぽく見せかけることで国民を欺いているなら、そうでない立憲民主党員は早めに離党した方が良いと思う。
 革命ではなく改革を目指すリベラル勢力が結集するなら、今回の維新の会や国民民主党のように無党派層の支持を得ることは可能だ。改革は支持されるが革命は支持されない。
 米帝云々の妄想や革命思想とは完全に縁を切って、立憲民主党の右派から自民党の石破グループまでが一つの政党としてまとまるなら、政権奪取も夢ではない。
 これくらい煽っておけばいいかな。

 それでは風流の方に戻って。
 同じ春、芭蕉・野坡両吟歌仙「五人ぶち」の巻が作られる。未完になった「寒菊や」の巻のリベンジと言えよう。この巻は『炭俵』に採用される。
 第三。

   日より日よりに雪解の音
 猿曳の月を力に山越て      芭蕉
 (猿曳の月を力に山越て日より日よりに雪解の音)

 「月を力に」は月を頼りにという意味もあるし、月に励まされながらという意味にもなる。『去来抄』「同門評」に、去来の直した、

 夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋   風国

の句がある。
 猿曳、猿回しの芸人は被差別民で、近代でも周防猿回しの会の創始者村崎義正は全国部落解放運動連合会の山口県副委員長でもあった。
 猿曳は正月の風物でもあるが、都会から田舎へと回って行くうちに時も経過し、いつの間にか小正月の頃になり、月も満月になる。

 山里は万歳遅し梅の花      芭蕉

という元禄四年の句もある。
 あまり正月も遅くなってもいけないということで、夜の内に月を頼りに移動してゆく。雪解けの頃で、山道には所々雪も残っていたのだろう。
 六句目。

   暖ふなりてもあけぬ北の窓
 徳利匂ふ酢を買にゆく      芭蕉
 (暖ふなりてもあけぬ北の窓徳利匂ふ酢を買にゆく)

 徳利下げて買いに行くといっても、酒ではなくお酢だった。
 前句を風邪をひかないよう健康に気遣う人と見ての位付けになる。
 十句目。

   真白ふ松も樫も鳥の糞
 うき世の望絶て鐘聞       芭蕉
 (真白ふ松も樫も鳥の糞うき世の望絶て鐘聞)

 松柏の墓所の含みを受けての展開であろう。深い喪失の悲しみの句。
 次の十一句目で「うき世の望絶て」を世捨て人に展開する。

   うき世の望絶て鐘聞
 痩腕に粟を一臼搗仕舞      芭蕉
 (痩腕に粟を一臼搗仕舞うき世の望絶て鐘聞)

 粟も玄米同様臼で搗いて精白する。前句を世捨て人として、質素な生活に転じる。
 十四句目。

   けいとうも頬かぶりする秋更て
 はね打かはす雁に月影      芭蕉
 (けいとうも頬かぶりする秋更てはね打かはす雁に月影)

 これは本歌がある。

 白雲にはねうちかはしとぶ雁の
     かずさへ見ゆる秋の夜の月
               よみ人しらず(古今集)

 鶏頭に降りる霜を鶏頭の頬かぶりに見立てた前句に、この歌の趣向で月夜の雁を付ける。
 十八句目。

   咲花に十府の菅菰あみならべ
 はや茶畑も摘しほが来る     芭蕉
 (咲花に十府の菅菰あみならべはや茶畑も摘しほが来る)

 十府の菅菰は廻り廻って茶畑の覆いとなる。抹茶にする茶畑は新芽が出る頃覆いを掛けて日光を遮る。
 陸奥の十府の菅菰を編む風景から、宇治の茶畑へ展開する。
 二十二句目。

   行儀能ふせよと子供をねめ廻し
 やき味噌の灰吹はらいつつ    芭蕉
 (行儀能ふせよと子供をねめ廻しやき味噌の灰吹はらいつつ)

 行儀よくしろと言いながら自分は焼き味噌の灰を吹き払ったりする。当時のあるあるだったのだろう。
 続く二十三句目。

   やき味噌の灰吹はらいつつ
 一握リ縛りあつめし届状     芭蕉
 (一握リ縛りあつめし届状やき味噌の灰吹はらいつつ)

 「縛り」は「くくり」と読むらしい。
 焼き味噌をおかずにご飯をかき込み、飛脚はあわただしく届状をつかんで走り出す。
 前句の動作を飛脚などのやりそうなこととして付ける。
 三十五句目。

   猫可愛がる人ぞ恋しき
 あの花の散らぬ工夫があるならば 芭蕉
 (あの花の散らぬ工夫があるならば猫可愛がる人ぞ恋しき)

 『源氏物語』若菜巻で柏木が女三宮の姿を垣間見るのは三月末の六条院の蹴鞠の催しで、『源氏物語』のこの場面を描いた絵には桜の木が描かれている。『源氏物語』本文にも「えならぬ花の蔭にさまよひたまふ夕ばえ、いときよげなり。」とある。
 猫の登場する直前には、

 「軽々しうも見えず、ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中のしなのほどにゐたまひぬ。督の君続きて、花、乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそなどのたまひつつ」

とある。ここから「あの花の散らぬ工夫があるならば」という連想は自然であろう。
 督の君は右衛門督(柏木)のことでこの心情と、そのあとの猫の登場とが見事に重なる。
 ここまで物語に付いていると、俤というよりは本説といった方がいいだろう。
 打越の毛を梳かす場面が『源氏物語』から離れているので、あえてこのような『源氏物語』への濃い展開を選んだのだろう。

 同じ春に芭蕉、沾圃、馬莧、里圃による四吟歌仙も作られ、こちらの方は『続猿蓑』に収録される。
 発句は、

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

 これは柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではなく、木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でない主観的なものを治定するので「かな」で結ぶことになる。
 一間は約1.82メートル。八間は十四メートル半になる。
 「八九間」という言葉は陶淵明の「帰田園居」三首の其一に、

 方宅十餘畝 草屋八九間
 楡柳蔭後簷 桃李羅堂前

とある所から来ているという説もある。ただ、中国には「間」という単位はない。この場合は部屋数を言う。「十餘畝」は岩波文庫の『中国名詩選』(松枝茂夫編、一九八四)の注に「およそ五アール強」とある。
 まあ、有名な詩だから芭蕉も当然知っていたとは思うが、語呂がいいから拝借した程度で意味上のつながりはない。そこが「軽み」というものだ。
 ただ、この八九間の柳にはモデルがある。
 支考の『梟日記』に、

 「素行曰、八九軒空で雨降柳哉 といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所たしかならず。
 西華坊曰、この句に物語あり。去来曰、我も有。
 坊曰、吾まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが、續猿蓑に、春の鳥の畠ほる聲 といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。
 去來曰、我はその秌の事なるべし。我別墅におはして、此青柳の句みつあり、いづれかましたらんとありしを、八九軒の柳、さる風情はいづこにか見侍しかと申たれば、そよ大佛のあたりならずや、げにと申、翁もそこなりとてわらひ給へり。」

とある。
 どうやら奈良東大寺の辺りに、白壁の土蔵の方から片枝が大きく通りの方に差し出している柳があり、それが八九間ほど広がってさながら春雨の降るようなな景色にになっている場所があったようだ。関西の方の日との間では、すぐに「ああ、あれか」という柳だったようだ。
 ただ、脇を付けた沾圃は江戸の人なのでこの情景は思い浮かばず、

   八九間空で雨降る柳かな
 春のからすの畠ほる声      沾圃
 (八九間空で雨降る柳かな春のからすの畠ほる声)

と、五柳先生(陶淵明)の柳として田園風景を付けている。
 なお、この一巻には『真蹟添削草稿』が残っていて、添削の過程を知ることができる。
 六句目。

   きのふから日和かたまる月の色
 狗脊かれて肌寒うなる      芭蕉
 (きのふから日和かたまる月の色狗脊かれて肌寒うなる)

 「狗脊」は「ぜんまい」と読む。春の山菜で蕨と並び称される。「狗脊」を「くせき」と読むと漢方薬の原料となる別の植物になる。
 ぜんまいは秋に紅葉する。紅葉というと楓や蔦のイメージがあるが、ぜんまいの紅葉も知る人ぞ知るといったところか。特に湿地に群生するヤマドリゼンマイの紅葉は美しい。
 『真蹟添削草稿』には、

   きのふから日和かたまる月のいろ
 薄の穂からまづ
 ぜんまひかれて肌寒うなる    蕉

とあり、「薄の穂から」の初案があったのが分かる。
 月に薄は付け合いだが、あまりにベタなので何か外のものはないかと思案して、最終的にゼンマイの紅葉の美しさを見出したと思われる。
 九句目。

   孫が跡とる祖父の借銭
 脇指に替てほしがる旅刀     芭蕉
 (脇指に替てほしがる旅刀孫が跡とる祖父の借銭)

 「旅刀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、庶民が旅行中に護身用として帯用した刀。普通の刀よりやや短く、柄と鞘とに袋をかけたものが多い。旅差(たびざし)。道中差。
 ※俳諧・犬子集(1633)一「ぬらすなよ春雨ざやの旅刀」

とある。
 「脇指」は「脇差(わきざし)」で庶民も帯刀することが許されていた。
 「替てほしがる」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、「仕立替えするの意」とある。装飾性のない実用本位の旅刀よりは綺麗な脇差にしつらえた方が、仕立替え費用を差し引いても高く売れたか。
 今でいえば部屋を改装したほうが高く売れるというようなことか。
 『真蹟添削草稿』には、

   みしらぬ孫が祖父の跡とり
 脇指はなくて刀のさびくさり
 脇指に仕かへてほしき此かたな  里

とある。
 初案では脇差はなく、錆びて腐った本差があったということか。だとすると没落した武家の跡取りということになる。
 ウィキペディアの「本差」のところには、「浪人などの一本差しは主に本差だけであり、これに副兵装として万力鎖を持っていたとしても脇差には該当しない。」とある。祖父は一本差しの浪人だったということか。
 改案だと、脇差に作り直して欲しい刀を相続したということで、武家の持つ大小の刀ではなく、町人の持つ刀だということになる。『続猿蓑』の「脇指に替てほしがる旅刀」だと、どういう刀だったかはっきりとする。
 十四句目。

   笹の葉に小路埋ておもしろき
 あたまうつなと門の書つき    芭蕉
 (笹の葉に小路埋ておもしろきあたまうつなと門の書つき)

 前句の笹に埋もれた道を草庵の入口とした。
 「あたまうつな」、つまり今でいう「頭上注意」、小さな門だと必ず書いてありそうだ。
 『真蹟添削草稿』には、

   笹のはにこみち埋りておもしろき
 あたま打なと門の書付      蕉

とあり、これはそのまんな治定。
 二十二句目。

   長持に小挙の仲間そはそはと
 くはらりと空の晴る青雲     芭蕉
 (長持に小挙の仲間そはそはとくはらりと空の晴る青雲)

 青雲というとそんな名前のお線香があったが、ここでは「あをぐも」と読む。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「青みを帯びた灰色の雲」とある。明方や夕方に見られる。
 前句を船着場の光景とし、空が晴れたので荷積みを開始する。快晴ではなく、嵐の雲が去って、薄暗い空に雲が青く輝いている情景をいう。

 『真蹟添削草稿』には、

   長持の小揚の仲間そハそハと
 雲焼はれて青空になる
 くわらりと雲の青空になる    蕉

 芭蕉さんもここでは作り直している。
 明方の天気の回復をイメージして、最初は朝焼けの雲のはれて青空になるとしたが、朝焼けを消して単に雲が晴れたとするが、やはり朝焼けのイメージが欲しかったのだろう。『続猿蓑』では「青雲」という言葉を見出す。
 二十五句目。

   槻の角のはてぬ貫穴
 濱出しの牛に俵をはこぶ也    芭蕉
 (濱出しの牛に俵をはこぶ也槻の角のはてぬ貫穴)

 「濱出し」は年貢米を船で積み出すことで、米俵を運ぶ牛や馬で混雑したという。
 前句の「槻の角」を欅の角材ではなく欅の木のある曲がり角とし、「はてぬ貫穴」を抜け道のことと取り成す。
 浜出しのために年貢を積んだたくさんの牛や馬がごった返し渋滞するので、抜け道をする奴も必ずいる。
 『真蹟添削草稿』には、

   槻の角の果ぬ貫穴
 濱出しの俵を牛にはこぶ也    里

とあり、「俵を牛に」の四三のリズムを嫌い、「牛に俵を」に直しただけで、ほぼ一発治定だったようだ。
 三十句目。

   むれて来て栗も榎もむくの声
 伴僧はしる駕のわき       芭蕉
 (むれて来て栗も榎もむくの声伴僧はしる駕のわき)

 椋鳥が群れる栗や榎を大きなお寺の境内の情景とし、偉いお坊さんが駕籠で行く隣で走っているお伴の僧という、身分の上下をコミカルに描いてみせる。「駕」は「のりもの」と読む。
 『真蹟添削草稿』には、

   むれて来て栗も榎もむくの声
 小僧を供に衣かひとる
 番僧走るのりものの伴      蕉

 「小僧」は年少の僧の意味。後に商家の丁稚もそう呼ぶようになった。お坊さんが小僧を連れて衣類を買いに行ったら、小僧たちがはしゃいで騒がしくてしょうがない、というところか。
 最初は芭蕉さんもこれで良く出来たと思って丸印を付け、少し考えて三角にし、結局は不採用にしたか。
 理由はおそらく展開の不十分ということだと思う。椋鳥の群れの騒がしさをそのまま取るのではなく、別の展開を考えた時、あくまで椋鳥の声を伴奏とし、番僧に伴走させる方に落ち着いた。
 三十三句目。

   まぶたに星のこぼれかかれる
 引立てむりに舞するたをやかさ  芭蕉
 (引立てむりに舞するたをやかさまぶたに星のこぼれかかれる)

 これは静御前の舞い。涙が光に反射し、星のようにきらりと光って零れ落ちたのだろう。
 それとははっきり言わないが、義経と静御前の悲しみが伝わってくる。
 『真蹟添削草稿』には、

   まぶたの星のこぼれかかれる
 引立てむりに舞するたをやかさ  里

これはそのまま治定された。

 元禄七年の初夏、深川芭蕉庵で「空豆の花」の巻が巻かれる。これは『炭俵』の方に収録される。
 五句目。

   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月そっとのぞけば酒の最中)

 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。何だ、みんな酒を飲んでいたか。七夕の頃の宴の句。
 土芳の『三冊子』(元禄十五年成立)には、「前句のそつとといふ所に見込て、宵からねる体してのしのび酒、覗出だしたる上戸のおかしき情を付けたる句也。」とある。
 十句目。

   妹をよい処からもらはるる
 僧都のもとへまづ文をやる    芭蕉
 (妹をよい処からもらはるる僧都のもとへまづ文をやる)

 これは恵心僧都(えしんそうず)の面影。恵心僧都は天台宗の僧、源信(九四二~一〇一七)のことで、横川の僧都とも呼ばれ、『源氏物語』「手習い」に登場する横川の僧都のモデルと言いわれている。
 光源氏の子薫(かおる)と孫の匂宮(においのみや)との三角関係から身投みなげした浮船(うきふね)の介護をし、かくまっていた横川の僧都こそ、恋の相談にふさわしい相手。妹の良縁も真っ先に知らせなくては、ということになる。
 十三句目。

   家のながれたあとを見に行
 鯲汁わかい者よりよくなりて   芭蕉
 (鯲汁わかい者よりよくなりて家のながれたあとを見に行)

 
 鯲は「どぢゃう」。
 「よくなりて」はよく食いてという意味。洪水の後には水の引いた地面にドジョウが落ちていたりしたのか。酸いも甘いも噛み分けてきた老人だけに、そこは落ち着いたもので、これこそ塞翁が馬、災転じて福と成すとばかりに、家の流れたあとを見に行っては、拾ってきたドジョウを食いまくる。
 十八句目。

   雪の跡吹はがしたる朧月
 ふとん丸げてものおもひ居る   芭蕉
 (雪の跡吹はがしたる朧月ふとん丸げてものおもひ居る)

 春は恋の季節で、朧月の夜は寝付けけずに、布団を丸めて物思いにふける。
 この頃の蒲団は冬の夜着で、今のような四角い布団ではない。そのため蒲団は畳むのではなく丸める。春とは言っても雪の跡がまだ残るため、それまでは蒲団を着ていたのだろう。雪がはがれて蒲団もはがれるというあたりが細かい。月の朧も涙によるものでもあるかようだ。
 二十一句目。

   はっち坊主を上へあがらす
 泣事のひそかに出来し浅ぢふに  芭蕉
 (泣事のひそかに出来し浅ぢふにはっち坊主を上へあがらす)

 田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。
 どういう事情でおおっぴらに葬儀ができないのかは、いろいろ想像の余地がある。
 二十九句目。

   堪忍ならぬ七夕の照り
 名月のまに合はせ度芋畑     芭蕉
 (名月のまに合はせ度芋畑堪忍ならぬ七夕の照り)

 夏の旱魃に里芋の生育を気遣う。名月には昔は里芋を具え、豊年を祈った。そのため「芋名月」という言葉もある。
 月の定座だが、七夕の昼の句にそのままでは月は付けられない。こうした場合は時間の経過で違えて付けるのが一応の定石といえよう。この場合は相対付けではなく違え付けになる。
 『去来抄』の

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲く花にかき出す橡のかたぶきて 芭蕉

の句や、

    くろみて高き樫木の森
  咲く花に小き門を出つ入つ   芭蕉

の句もそうした一つの例といえよう。
 三十五句目。

   晒の上にひばり囀る
 花見にと女子ばかりがつれ立ちて 芭蕉
 (花見にと女子ばかりがつれ立ちて晒の上にひばり囀る) 

 女のおしゃべりは雲雀のさえずりにたとえられる。

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