今日は津久井城山(標高375m)に登った。登山というほどのものでもなく、午前中に終わるハイキングだった。山頂は城跡になっていた。
山頂から鷹射場までの稜線には飯縄神社があり、大正十五年銘の狛犬があった。神社から少し下りたところから相模湾の方が見渡せる。鷹射場からは東京・横浜方向が見渡せる。津久井湖方面の眺めは所々で見られる。
時間が余ったので車を走らせ、旧甲州街道の猿橋を見に行った。いつも仕事で甲州街道を通ってた時、気になっていたものだ。
岩に挟まれて川が狭くなるところに作られた橋で、付近の紅葉も見られ、なかなかの景色だ。
猿橋は刎橋(はねばし)でウィキペディアに、
「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」
とある。日光東照宮の神橋もかつては刎橋だったということを、前に「舞都遲登理」の日光の所で調べた。
芭蕉も天和三年に谷村に行ったなら、ここを通ったはずだ。句は残していないが。
さて、その芭蕉の風流の続き。
五月には尾花沢の清風の所に到着する。かつて江戸の小石川で「涼しさの」の巻、「花咲て」の巻の興行をともにした仲だった。
発句は、
すずしさを我やどにしてねまる哉 芭蕉
で、自分ちのように寝て暮らしてますと挨拶する。
八句目の、
ふりにける石にむすびしみしめ繩
山はこがれて草に血をぬる 芭蕉
(ふりにける石にむすびしみしめ繩山はこがれて草に血をぬる)
は、那須の殺生石であろう。
殺生石
石の香や夏草赤く露あつし 芭蕉
の句もあり、草の赤いのを「血をぬる」とする。
十一句目。
秋田酒田の波まくらうき
うまとむる関の小家もあはれ也 芭蕉
(うまとむる関の小家もあはれ也秋田酒田の波まくらうき)
これは相対付けで海の旅も辛いが、陸の旅で関を越えるのも哀れだ、と付ける。
十六句目。
入月や申酉のかたおくもなく
鳫をはなちてやぶる草の戸 芭蕉
(入月や申酉のかたおくもなく鳫をはなちてやぶる草の戸)
前句の明け方の風景を旅立ちの時として、草の戸を打ち破るとする。「雁をはなちて」というのは雁を食おうと思ったが哀れになって放したということで、発心が動機のようだ。
『猿蓑』の「市中は」の巻二十九句目に、
ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
草庵に暫く居ては打やぶり 芭蕉
の句があり、草庵を捨てて去る時には「やぶる」という言い方をする。
十九句目。
去年のはたけに牛蒡芽を出す
蛙寝てこてふに夢をかりぬらん 芭蕉
(蛙寝てこてふに夢をかりぬらん去年のはたけに牛蒡芽を出す)
長閑な田舎の晩春ということで蛙と胡蝶を付ける。荘子の「胡蝶の夢」を引いてきて、寝ている蛙が夢で胡蝶となる、とする。
二十七句目。
わかれをせむる炬のかず
一さしは射向の袖をひるがへす 芭蕉
(一さしは射向の袖をひるがへすわかれをせむる炬のかず)
「一さし」は今でもいう「さしで勝負」、つまり一対一で戦う、タイマンを張ることをいう。古代の戦闘では名乗りを上げて大将同士の一騎打ちで決着をつけることもあった。
「射向の袖」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「射向の袖」の解説」に、
「鎧(よろい)の左袖。⇔馬手(めて)の袖。
※吾妻鏡‐文治五年(1189)八月一一日「義盛与二国衡一互相二逢于弓手一、義盛之所レ射箭中二于国衡一訖、其箭孔者甲射向之袖二三枚之程定在レ之歟」
とある。
射向の袖をひるがへすというのは弓を射かける体勢に入るということであろう。一騎打ちが始まる。
三十二句目は旅の思い出か。
たまさかに五穀のまじる秋の露
篝にあける金山の神 芭蕉
(たまさかに五穀のまじる秋の露篝にあける金山の神)
金山彦神(かなやまひこのかみ)はウィキペディアに、
「『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)と対になるともされる。
神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。
岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社、京都府京都市の御金神社及び幡枝八幡宮末社の針神社を始め、全国の金山神社で祀られている。」
とある。
金華山は元禄九年に「舞都遲登理」の旅で桃隣が行くことになるが、芭蕉は石巻までは行ったが金華山へは行かなかった。芭蕉の見残しといえよう。
石巻から金華山を眺め、明け方にそこに灯る漁師の篝火が印象に残ってたのかもしれない。
同じ尾花沢でもう一つ、
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
を発句とする興行が行われる。芭蕉の脇は、
おきふしの麻にあらはす小家かな
狗ほえかかるゆふだちの簑 芭蕉
(おきふしの麻にあらはす小家かな狗ほえかかるゆふだちの簑)
興行は夕方行われたのであろう。夕立の中を簑をきて会場にやってきて、その時に犬に吠えられたと、その時の状況をそのまま詠んだものと思われる。
五句目。
石ふみかへす飛こえの月
露きよき青花摘の朝もよひ 芭蕉
(露きよき青花摘の朝もよひ石ふみかへす飛こえの月)
青花(あをばな)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「青花」の解説」に、
「ツユクサ (『万葉集』などでは「つきくさ」) の花。また,これからとった青い染料,もしくはその液汁を和紙に吸収させた青花紙をいう。青花に似ているところから,藍染めの青い色を花色と呼ぶ。「つきくさずり」は青花を布地にすり染めにしたもので,古くから行われたが,水に濡れると退色するため,のちにはすたれた。滋賀県草津近郊で産する青花紙は,藍花紙 (あいばながみ) ,縹紙 (はなだがみ) とも呼ばれ,この退色する性質を利用して,友禅 (ゆうぜん) や臈纈 (ろうけち) の下絵を描くのに用いられる。」
とある。
前句をツユクサ摘みを職業とする人とする。「朝もほひ」は朝食時で、朝飯のために川原に帰ってきたか。
十句目。
立どまる鶴のから巣の霜さむく
わがのがるべき地を見置也 芭蕉
(立どまる鶴のから巣の霜さむくわがのがるべき地を見置也)
前句の鶴を高士の比喩としたか。空き家になった庵に、ここに住もうかと内見に来る。
芭蕉が次の年に一時的に住むことになる幻住庵も、曲水の伯父である幻住老人の空き家になっていた別荘だった。
十七句目。
つかねすてたる薪雨にほす
貧僧が花よりのちは人も来ず 芭蕉
(貧僧が花よりのちは人も来ずつかねすてたる薪雨にほす)
貧しい僧でも吉野に庵を構えていれば、それこそ
花見にと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜の科にはありける
西行法師
の歌だ。ただ、桜の季節が終わればまた誰も来なくなる。余った薪をゆっくり干す暇もある。
二十五句目。
鳥はなしやる月の十五夜
舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた 芭蕉
(舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた鳥はなしやる月の十五夜)
舎利は『校本芭蕉全集 第四巻』の補注に、
「青森県東津軽郡の今別・平館付近の浜辺から産する一種の白石。その形状、小なるものは仏舎利に似る。」
とある。正確には青森県東津軽郡今別町袰月で、翡翠だとか石英だとか言われている。今は護岸工事によって消滅したという。まあ、産業になるほどの高価なものでもなかったのだろう。
『奥の細道』の旅で芭蕉が行ってみたいと思ってた名所のひとつだったあろう。象潟で津軽から蝦夷に行きたいというのを曾良に止められなければ、実際にこの目で見ていたかもしれない。
三十三句目。
簗にかかりし子の行へきく
繋ばし導く猿にまかすらん 芭蕉
(繋ばし導く猿にまかすらん簗にかかりし子の行へきく)
甲州街道の猿橋のことか。ウィキペディアに、
「猿橋が架橋された年代は不明だが、地元の伝説によると、古代・推古天皇610年ごろ(別説では奈良時代)に百済の渡来人で造園師である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。」
とある。「繋(つなぎ)ばし」は刎橋(はねばし)のことであろう。他には日光の神橋が有名。
前句の簗にかかった子のところに駆けつけるために、猿に導かれて架けたと言われる橋を渡って行く。
尾花沢を出て五月二十九日・三十日、出羽大石田一榮宅で、
さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉
を発句とする興行が行われる。この句は後に、
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
と改作され、『奥の細道』の中の有名な句の一つとなった。
九句目。
松むすびをく國のさかひめ
永樂の古き寺領を戴て 芭蕉
(永樂の古き寺領を戴て松むすびをく國のさかひめ)
明の永楽帝の在位は一四〇二年から一四二四年。日本ではほぼ足利義持の時代。能では世阿弥の活躍した時代で、宗祇が生れたのもこの時代。韓国では朝鮮(チョソン)の時代で、一四一八年には世宗(セジョン)が即位し、最盛期を迎える。
日韓の国交も回復され、中国とは勘合貿易が盛んに行われ、東アジアに強力な経済文化圏が生じた時代でもあった。まさに東アジア共同体の時代だった。そのため、永楽帝の時代の貨幣「永楽銭」は日本でも大量に流通することになる。
永楽帝の古い時代から受け継がれてきた寺領のことだから、何かその境界に松を結んだりしてもおかしくない。そういう空想による付けで、別に史実があるというわけではないから、本説ではない。
十九句目。
ねはむいとなむ山かげの塔
穢多村はうきよの外の春富て 芭蕉
(穢多村はうきよの外の春富てねはむいとなむ山かげの塔)
穢多というと、かつての貧農史観の影響のせいで、一般の農民も貧しかったのだから、その下の身分の人たちはもっと貧しかったに違いないという偏見の目でもって見られることが多かった。
こうした観点からこの句を読むと、穢多が経済的に裕福なはずはない、これはあくまで精神的な豊かさを言っているのだろう、という解釈になる。これは偏見である。
実際の穢多えたは農地を所有し、中には豊かな村もあった。
江戸時代には一般の寺と区別して穢多寺(浄土真宗の寺が多いというが、必ずしも浄土真宗とは限らない)がこうした被差別民に押し付けられていった。裕福な穢多が立派な仏舎利の立つお寺で、涅槃会を営むこともあったのだろう。
ただ、自らの差別の理由となっている宗教で、今度は穢多に生れないことを祈るというのは、何か変な感じがする。この種の問題はまだまだ多くの闇に包まれているのだろう。
二十句目、は曾良の句だが、
穢多村はうきよの外の春富て
かたながりする甲斐の一乱 曾良
(穢多村はうきよの外の春富てかたながりする甲斐の一乱)
穢多は単に動物関係の職業に付くだけではなく、警察に近い役割を持っていた。
戦国時代に穢多が栄えたのは、もちろん武具などに動物の皮などが多用されているせいもあるが、一般人と異なる立場にいる穢多の人たちが、一般人を監視する役割を担ったとも言われている
反乱があれば、それを鎮圧するために刀狩が行なわれる。その実行役を任されたのも穢多だったという。
二十七句目。
柴売に出て家路わするる
ねぶた咲木陰を昼のかげろひに 芭蕉
(ねぶた咲木陰を昼のかげろひに柴売に出て家路わするる)
「ねぶた」は合歓ねむの花はなこと。「かげろひ」は影が動くということだが「かげ」に光と影という相反する意味がある。ここでは影が動くという意味。
合歓の木の木陰で休んでいると、その花はなの影がゆらゆらとして、まるで催眠術のように眠りに誘われていったのだろう。すっかり家に帰るのを忘れてしまったという前句がここで生きてくる。
三十二句目。
雪みぞれ師走の市の名残とて
煤掃の日を草庵の客 芭蕉
(雪みぞれ師走の市の名残とて煤掃の日を草庵の客)
昔は家の中の物も少なく、大掃除といってもはたき掛けが主だった。そんなに重労働でもなく、むしろ一年の打ち上げのお祭りのようなものと言った方がいいのかもしれない。それも人がたくさんいる商家などの話。
草庵の一人暮らしの者にとって、煤払いも一人淋しく行なわなくてはならない。そんなときにお客さんが来てくれれば、それはそれは嬉しいもの。どうせ小さな草庵のこと、掃除はあっという間に終って、あとは酒でも、ということになりそうだ。
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