2023年12月30日土曜日

  秦野市俳句協会のホームページが移転してるが、まだ検索にかからないようだが、https://hadanosihaiku.jimdofree.com/なのでよろしく。
 今年もあとわずか。相変わらずロシアの侵略を止めることができないまま、中東までが火を噴いて、この流れがさらにあちこちに飛び火しそうで、何とも不安な世の中だ。
 せっかくコロナが収まって街もイベントも賑わいを取り戻したのだから、乱世も収まってほしいものだ。

 芭蕉に虚実の論はない。
 虚実の論は芭蕉の花実の論の支考の解釈によるもので、その成立は享保の頃になることに留意する必要がある。支考も『続五論』(元禄十一年刊)では華実論として展開している。

 「詩歌といふは道也。道に華実あるべし。実は道のみちにして人のはなるべからざる道をいふ也。華は道の文章にして神のこころをもやはらげぬべし。」(続五論)

 実は道であり、道は朱子学の理に相当するもので、その人間において現れるものは「誠」という。花実の論は他の蕉門にも見られる。
 虚実の言葉自体はそれより前の『南無俳諧』(宝永四年刊)にも登場するが、それが全面的に展開されるのは『俳諧十論(享保四年刊)になる。
 「実」はこの場合本意本情であり、普遍的な誠を意味する。
近松の虚実皮膜論は近松の死後、元文の頃に登場するもので、この場合の「実」は実事であって関連はない。
 実事はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「実事」の意味・読み・例文・類語」に、

〘名〙 (「実」はまこと、まごころの意)
① 歌舞伎で、分別があり、常識をわきまえた誠実な役柄。また、その演技や演出法。
※評判記・役者大鑑(1692)二「おさまれる実(じつ)事、ぶだうもろ共、大かたにしこなしたまへは」
② まじめなこと。真剣なこと。また、真実みがこもっていること。本当のこと。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)江戸「それは太夫さまともおぼえぬむごき御事と、実事(ジツゴト)を申出せば」

とある。誠という点では俳諧の実と共通しているが、元文三年刊『難波土産』の「発端」には、

 「昔の浄るりは今の祭文同然にて花も実もなきもの成しを、某出て加賀掾より筑後掾へうつりて作文せしより、文句に心を用る事昔にかはりて一等高く、たとへば公家武家より以下みなそれぞれの格式をわかち、威儀の別よりして詞遣ひ迄、其うつりを專一とす。此ゆへに同じ武家也といへ共、或は大名或は家老その外禄の高下に付て、その程々の格をもつて差別をなす。是もよむ人のそれぞれの情によくうつらん事を肝要とする故也。
 浄るりの文句、みな実事を有のまゝにうつす内に、又芸になりて実事になき事あり。近くは女形の口上、おほく実の女の口上には得いはぬ事多し。是等は又芸といふものにて、実の女の口より得いはぬ事を打出していふゆへ、其実情があらはるゝ也。此類を実の女の情に本づきてつゝみたる時は、女の底意なんどがあらはれずして、却て慰にならぬ故也。さるによつて芸といふ所へ気を付ずして見る時は、女に不相応なるけうとき詞など多しとそしるべし。然れ共この類は芸也とみるべし。比外敵役の余りにおく病なる体や、どうけ樣のおかしみを取ル所、実事の外芸に見なすべき所おほし。このゆへに是を見る人其しんしやく有べき事也。」

とあり、女形のセリフが普通の女なら言わないような本音を言うことで、その実を表すとしている。芸というのはいかにも実際にありそうなというだけでなく、その本質(誠)に迫る必要があるという点では俳諧の虚実と共通している。ここからあの有名な、

 「ある人の云、今時の人はよくよく理詰の実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、むかし語りにある事に当世請とらぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、兎角その所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子供だましのあじやらけたる事は取らず。
 近松答云、この論尤のやうなれ共、芸といふ物の真実のいきかたをしらぬ説也。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。成程今の世実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役のごとく顏に紅脂白粉をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生なりあたまは剝なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。」

という虚実皮膜論に展開する。実事は単に実際の家老の姿に似せるのではなく、今でいうテンプレに近いもので、いわばいかにもという家老キャラを作り上げることで、その本質(実)を表す。それを虚実皮膜と呼んだ。
 俳諧の虚実はどのようなものかというと、例えば、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の句で言えば、当時どこにでもあったありふれた古池に、春になると不意に蛙の水音がしてドキッとする、その「あるある」の部分が古池の噂で虚になる。
そこに業平の「月やあらぬ」の悲しみを感じさせるのが実になる。
 芭蕉の古池は近代俳句の感覚からするとそれが写実だという所だが、実際のところ我々は誰も芭蕉が芭蕉庵の古池で蛙の音を聞いたところを見ているわけではないし、我々が知ってるのはあくまでも芭蕉さんのうわさ話にすぎない。この「噂」という言葉は当時の俳諧の議論で良く用いられる。
 いくらもっともらしいことでも基本俳諧は噂であり虚にすぎない。そこに人間の誠の心が込められてるかどうかが大事であり、それを実と呼んでいた。

 近代俳句で言えば、

 鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

のどこにでもありそうな鶏頭の姿が虚になり、「咲きにけり」ではなく、あえて主観的に力強く「ありぬべし」とする所に、死に瀕した病床にあって何でもない鶏頭すら愛しく思えるその心が実になる。
 実相観入という近代の言葉もある。仏教では目に見えるものは色相であり虚の世界、真実の世界は仏様の世界、実相ということになる。
 虚実のこうした逆転現象は近代以前の哲学には洋の東西を問わず普遍的に見られる。カント哲学の「物自体」も物質そのものではなく、神の領域を言う。現実の目に移る世界は現象(Erscheinung)と呼ばれる。
 この前の句会の、

 蓋とれば鰤の白眼にぶつかりし 大石繁子

の句も、鰤鍋に煮上がって美味しそうな様が鰤鍋の噂で虚となり、煮立ってなお睨みつけるような鰤の眼に、生命への畏敬と殺生の罪を感じさせるところがこの句の実になる。

2023年12月24日日曜日

  はぴほりー。と言っても日本にはクリスマス休暇がないので、ホリデーというのも何かおかしい感じがする。まして隠居して毎日がホリデーになってしまった身としては、今更感がある。
 クリスマスは今年は日曜日と重なったが、大抵は一年で一番忙しい日に重なり、残業を命じられたり、やっと仕事が終わっても大渋滞で、なかなか家に帰れないもので、次の日もまた仕事があったりする。昔作った句、

 渋滞も今宵サンタの橇の列

 バブルの頃はホテルを予約してティファニーの宝石を買って、恋人たちの夜として盛り上がったが、その熱量も今は昔。
 イルミネーションもクリスマス飾りの意味合いが薄れて冬中やってたりする。花のない季節の花といったところか。
 コロナ明けのクリスマス、街は盛り上がってるのかな。田舎に引き籠ってしまったのでよくわからないが。田舎でも山の中の公園にイルミネーションが灯る。

 イルミネーション見に山に入る耶蘇祭り

2023年12月13日水曜日

  毎日新聞の記事はクリストファー・ファーガソン氏の意見として、

 「大前提として、『トランスジェンダーを自認する人の多くは、実際にトランスジェンダーで、医療的ケアを必要とする人たちだ』と解説する。」

と書いている。トランスジェンダーは手術やホルモン投与を必要とするものという考え方は、今の日本でも知らないうちに普通に認められるようになってきたのか。大手三大新聞の一つに堂々と書いてあるくらいだからな。
 これ以上書くとそろそろポリコレ棒で叩かれるかな。

 俺の世代だと八十年代のゲイパワーのことは日本でも大きく報道され、有名ミュージシャンのカミングアウトも話題になった。まあ、フレディ・マーキュリーに関しては当然という感じで、髭を生やして現れた時は「えっ?」とは思い、前のひらひら衣装の方が良かったという意見はあったものの、ゲイであることで人気を落とすこともなかった。
 当時女の子の間ではデビッド・ボウイ、デビッド・シルビアン、フレディ・マーキュリーは三強だった。女性的な男の魅力に日本の女子は常に肯定的な反応を示した。このことが日本にその後ビジュアル系というジャンルを生むことにもなった。
 その後のアメリカのゲイの話題は次第に希薄になり、最近になってLGBTという言葉でもっぱら差別のことばかり話題になるようになった。
 LGBTに関してアメリカは明らかに後退した。かつてのような胸を張ってゲイやレズビアンを公言できる時代が終わり、同性愛は治療の必要な病気とみなされ、かつてのゲイやレズビアンは「トランスジェンダー」に一括りにされ、性同一障害と同等に扱われるようになった。
 このことを日本の人権派は見落として、未だに八十年代の栄光から抜け出してないのではないか。
 昔だったらトムボーイと呼ばれてた男勝りのお転婆娘が、今ではトランスの烙印を押され、手術を強要されるというなら、そんなものは決して進んだ人権国家などではない。どうなってんだアメリカ。

2023年12月12日火曜日

 アビゲイル・シュライアーさんのIrreversible damege - the transgender craze seducing our daughters - (回復不能なダメージ─娘たちを誘惑するトランスジェンダーの流行─)は周知のように、日本では「あの子もトランスジェンダーになった─SNSで伝染する性転換ブームの悲劇─」というタイトルで翻訳書が出る予定だったが、一部の狂信的な人権派の人々によって中止させられた。
 基本的には西洋人は長いことキリスト教の支配のもとに、同性愛者を犯罪とみなしてきた、その歪みに由来するトランスジェンダーへの無理解と混乱が原因と思われる。もちろん急速発症性性別違和などというものは医学的に存在しない。我々が知ってるのは中二病のことだ。
 思春期には自分自身の独立への願望から、既存の価値観に反抗するのは、いつの時代でもどこの国でも見られるものだ。ただ、その表れ方はその社会を反映する傾向がある。
 六十年代の若者なら社会主義の革命の闘志になるというのが、一番一般的だっただろう。ヒッピーカルチャーは日本ではそれほど流行らなかったが、それでもインドを放浪したりする人はいた。
 今の日本では違う自分になろうにも、既に社会主義の理想は死に絶え、現実世界で実現できないから、アニメやラノベのキャラを気取るくらいになって、中二病(厨二病)と呼ばれている。ただ、中二病という言葉の用法は、革命の戦士気取りの者にも用いられている。
 当然ながら中二病は成長過程での自然なもので、「病」と付くものの病気ではないし、医学の対象になることはない。つまり中二病などという医学用語は存在しない。
 江戸時代の衆道もあるいはそういう傾向があったかもしれない。いわゆる歌舞伎者(この言葉は「かたぶく」が「かぶく」になったと言われている)
 思春期に一時的なトランスジェンダー的行動が発生することは、日本ではよく知られている。男子校や女子高の疑似恋愛がそれで、それは成人後も空想の世界で様々な形でジャパンクールと呼ばれる諸芸術に取り入れられている。代表的なのはBL、百合、TSだ。他にもケモ耳だとか獣人だとかを好んだり、様々なフェチを伴う性癖がこうした芸術の欠かせぬ要素になっている。
 百合(YURI)もガンダムシリーズの「水星の魔女」で完全に市民権を得てるし、TSは新海誠監督の『君の名は。』で世界的に知られることとなった。BLは七十年代の萩尾望都や竹宮恵子の作品にまで遡れるし、ケモ耳は今は『ウマ娘』が知られている。
 こうしたトランスジェンダー的なものへの憧れは自然なもので、リアルな肉体的性癖とは関係なく、大人になっても維持されていることが多い。古くは衆道を気取った芭蕉さんや歌舞伎の女形が千両役者になったりもした。近代には宝塚の男役が多くの女の子を魅了してきた。
 基本的に人がトランスジェンダーをかっこいいと思いそれに憧れるのは自然な感情で、それは逆説的に現実社会で要求されるジェンダーの縛りの窮屈さと裏腹なものだ。トランスジェンダーは自由の象徴と言っても良い。それは今の欧米社会でも同じだと思う。
 こうした思春期に顕著に表れる、憧れとしてのトランスジェンダーはもちろんのこと、リアルなトランスジェンダーの多くも正常なものであり、病気ではない。そのため本来こうした人たちにホルモンの投与や外科手術など必要とはされてこなかった。それらが必要なのはいわゆる性同一性障害に限定される。病気でもない一般のLGBTにホルモン投与や外科手術を施すこと自体、日本では考えられないことだ。
 むしろ欧米社会の方が、長いこと同性愛を犯罪とみなしてた歴史があって、それがつい最近俄に解放されたため、未だにどう扱っていいかわからず戸惑ってるのではないかと思う。
 性同一性障害ではなく、普通のトランスジェンダーにホルモン投与や外科手術を施すのは、まだ彼らを病気と見て社会から排除しようとしているとしか思えない。ミシェル・フーコーは三つの排除の形式、禁止・狂気・非合理を挙げていたが、ようやく犯罪者(禁止)を免れたLGBTが、結局治療を必要とする精神病として扱われているのではないかと疑わざるを得ない。どうしてもLGBTをそのまま放っておくことができないみたいだ。
 あるいはノンケなのかLGBTなのかはっきりしない連中を白黒つけなくては気が済まないのか。何が何でも心が男であるか女であるかという型にはめないと気が済まないのか。現実のLGBTはそんなにはっきりと分類できるものではない。
 虹のシンボルで言えば、日本では虹は七色とされているが、国によっては六色だったり五色だったり四色だったりする。色の変化は連続的で境目のないグラデーションを形成している。それを分けるのはあくまで人間の側の任意の便宜的なものにすぎない。LGBTという虹は本来は境界など存在しないし、同じようにノンケ(英語ではストレートだとかシスだとか言うのか)とLGBTとの間の明確な境界線も存在しない。
 リアルなトランスジェンダーは病気ではないし、治療の必要はない。まして中二病でトランスジェンダーを気取りたがる若者を治療する必要などない。明らかに欧米社会は狂っている。transgender crazeはまさにtransgender crazyだ。
 そして、何よりも情けないのは、こういう遅れた野蛮な西洋のトランスジェンダー観を崇拝している日本の人権派の連中だ。むしろ我々は彼らに教えてやらなくてはならない。あんたらのトランスジェンダーの扱い方は根本的に間違ってると。同性愛を犯罪として排除することのなかった日本人だからこそ言えることだ。
 もちろん、「あの子もトランスジェンダーになった─SNSで伝染する性転換ブームの悲劇─」が速やかに出版され、反面教師とされることを願う。

2023年12月10日日曜日

秦野市俳句協会のホームページが移転したのでよろしく。
用いた画像は四日前の十二月六日に震生湖で撮影したオリジナル。
今日も震生湖まで散歩したが、紅葉から冬枯れへの移行期で、まだまだ西日が当たると黄色く輝いて奇麗だった。

  震生湖の秋
地滑りの跡ソーラーの秋日和
弁天の律の調べや風に波
秋思とは地のさけぶ声の閑かさや
潜龍の淵何もなく鮒を釣る

これは先月の震生湖誕生百年俳句大会に応募した句で、句会だから一句として審査されるが、連作にもなっている。
「律の調べ」「潜龍の淵」などマニアックな季語を使うと選者の受けが良いというのは、カドカワの俳句大会で学んだことだった。「律の調べ」の句は三人の選者に選ばれて九位、「潜龍の淵」も二人の選者が選んでくれた。
鈴呂屋書庫の方もX芭蕉終焉記をアップした。

2023年11月28日火曜日

 今日は芭蕉さんの命日で時雨忌とも言うけど、旧暦と新暦との関係で結構ややこしいことになっている。
 芭蕉さんが大阪で亡くなったのは元禄七年十月十二日で、その日は新暦の十一月二十八日だから、今日がその命日になる。
 ただ、単純に旧暦十月十二日ということだと、命日は今年の場合新暦の十一月二十四日ということになる。
 それだけでなく、新暦の十月十二日を命日とする人もいるし、明治政府が旧暦の行事を禁じたため、月遅れで十一月十二日を命日としている所もある。伊賀上野ではこの日にイベントが行われっている。
 つまり、芭蕉の命日と言っても十月十二日、十一月十二日、十一月二十四日、十月の二十八日と四回あることになる。
 人生は旅で、旅の中でみんな旅をしている。慈鎮和尚の歌に、

 旅の世に又旅寝して草枕
     夢のうちにも夢を見るかな

とある通りだ。

 時雨きや今日八十億旅途中

 芭蕉さんの死を看取った之道の門人に呑舟と舎羅がいた。その発句。

 初めての千鳥も啼や礒の塚   呑舟(枯尾花)
 をく霜に声からしけり物狂   呑舟(有磯海)
 日ざかりの花やすずしき雪の下 吞舟(有磯海)

 短夜を明しに出るや芥子畠   舎羅(西華集)
 起々の心を宿の新茶かな    舎羅(西華集)
 慰に斎ふるまはむ鉢たたき   舎羅(西華集)

2023年11月11日土曜日

 「野ざらし」のあとがきに、

 ≪本書は平成十二(二〇〇〇)年に東京図書出版会から共同出版した『野ざらし紀行─異界への旅─』を一部加筆修正したもので、あれから十二年たったとはいえ、句の解釈などの基本的な部分はほとんど変えてはいない。ただ、社会情勢などは随分変ったので、書き改めた部分のほとんどはそれに関わる部分だった。
 「俳句を解説した本はこれまでも数多くあるが、その大半は俳句の作者、いわゆる『俳人』によって書かれたものだ。」と以前に前書きで書いたが、その状況は今でも何も変ってないと思う。大学の研究者とはいえ、やはり何らかの形で俳人と交流し、俳句の指導を受けたり、結社に所属したりしていて、実質的には「俳人」と何ら変わりない。彼らのにとって大事なのは、今の自分達の俳句をいかに正当化するかであり、そのための研究だけが粛々と進められている。
 作者と研究者と結社、それにその結社の背後となる政治団体、それは「俳句村」といってもいい。古典俳諧にしても近代俳句にしても、自由な研究はこうした俳句村の外から行なわれなくてはならない。また、従来の結社の論理にとらわれない新しい古典の読解こそが、むしろ俳句の創作の方でも新たな可能性を切り開くのではないかと思う。
 今日では俳句の世界は高齢化が進み、その権威も世間に与える影響力もかなり弱まっている。芭蕉に関しても、一見研究され尽くされたかのように見えるが、むしろ本当の研究はこれから始まるのではないかと思っている。本書もそのきっかけになれば幸である。≫

とあったが、これを書いた二〇一二年の頃から何一つ状況はかわっていないので、結局こう書き加えておいた。

 ≪と、このあとがきを書いてからさらに十一年が経過し、再び大幅に修正することとなったが、状況は未だに何一つ変わってないのには驚きというよりもすでにあきらめの境地に入っている。願わくばこのまま俳句が永遠に日本から消え去るなんてことのないことを祈るのみだ。≫

2023年11月4日土曜日

  高濱虚子の「五百句」に、

 もとよりも恋は曲者の懸想文 虚子

の句があった。今となっては難しい句だ。
 まず季語は懸想文で春(歳旦)だが、これは正月にやって来る懸想文売りというのがいて、寛文三年の「増山井」に、

 けさう文売 俳 同 桃符 桃板 桃梗 仙木 鬱塁 神荼
 是ハもろこしのならはしに桃の木の札に神荼鬱塁の二神の形を絵に書て元日に門にたてて凶鬼を防ぐ業し侍りこれを桃符とも桃梗とも桃板仙木などもいへり 事文

とある。事文は「事文類聚」の引用ということか。
 懸想文は現代では京都須賀神社の節分の時に授与するものとして残っている。
 句の方では、呪符としての懸想文に本来の恋文の意味を掛けて、恋は曲者の懸想文と繋げている。
 この「恋は曲者」も出典のある言葉で、謡曲『花月』に由来する。
 七歳の息子が天狗にさらわれ、世を儚んで出家した僧が清水の門前で小歌を謡い曲舞を舞う少年のことを知る。その小歌の中に「恋は曲者」のフレーズがあり、少年が僧に体を売る衆道であることが仄めかされる。
 このフレーズは延宝六年の、「実や月間口千金の通り町 桃青」を発句とする歌仙の挙句に、

   花の時千方といつし若衆の
 恋のくせもの王代の春 卜尺

という形で、やはり衆道を仄めかすものとして用いられている。
 この句の意味は札に描かれた神荼鬱塁の二神がどちらも髭面の男で、それが懸想文と呼ばれていることから、この二神は同性愛者で「もとよりは恋の曲者」だということだろう。
 五百句の初めの方に位置することから、明治二十年代の、まだ子規が生きていた頃の句だろうか。江戸の俳諧の名残を留めていてなかなか面白い。
 この句は高濱虚子に季重なりの句がないかどうか朝日文庫の「高濱虚子集」をめくって見つけたものだ。一つ前の句は、

 しぐれつつ留守守る神の銀杏かな 虚子

で、予想通り「時雨」「神の留守」「銀杏」と三つの季語を用いた句が存在していた。この時代の人が季重なりに頓着しなかったのは明らかだ。

 あと、鈴呂屋書庫の『笈の小文─風来の旅─』の書き直しが終わったのでよろしく。

2023年10月29日日曜日

  鈴呂屋書庫の方は「奥の細道─道祖神の旅─」に続いて、「笈の小文─風来の旅─」も少しづつ直している。それと、X奥の細道のほうも「呟き 奥の細道」というタイトルで手直ししてアップしている。
 また、「現代語訳奥の細道」の方は、前書きにも書いておいたが、ルビの方を読むと原文が読めるように作られている。
 しばらくは何か新しいものを読むというより、今まだ書いたもので古いものは二十年以上も経過していて、今読むと恥ずかしいし、間違ってたなと思う部分も多いので、書き直しの方に専念しようかと思う。
 今までは水戸偕楽園の好文亭の画像を特に意味もなく使ってたが、丹沢の麓に居を移したということで丹沢の写真に変えたのと、あとトップの画面の二匹の猫も、九月二十五日に鈴呂屋の名前のもとになったすずちゃんが亡くなり、その情報を記すとともに、最近庭に来る二匹の猫(ふさちゃんとまるちゃん)の画像も追加した。
 ゆきちゃんの治世が二十年続き、すずちゃんの代も十八年、今はふさまるの時代となった。鈴呂屋の名前は今のところ変える予定はない。

   すずちゃんは綱島で生れ、横浜で十七年、
   秦野で一年ともに暮らした猫で、令和五
   年の九月二十五日午前六時三十二分、眠
   りに落ちるが如く安らかに旅立っていっ
   た。
 目開けたまま猫の仕事をはじめけり

2023年10月19日木曜日

 芭蕉が大垣に帰ってしばらくすると、越人と曾良が同じ九月三日にやってくる。芭蕉はその時如行の家に滞在中で、路通も敦賀からずっと一緒にいる。その日は越人と曾良には会わず、その夜芭蕉は不知(俳号なのか、名前がわからなくこう記したかはよくわからない)の餞別興行に参加する。
 翌九月四日。この日も芭蕉と路通は大垣藩の家老次席の戸田権太夫(如水)に呼ばれて、

 こもり居て木の実草のみひろはゞや  芭蕉
   御影たづねん松の戸の月     如水
 思ひ立旅の衣をうちたてて      如行
   水さはさはと舟の行跡      伴柳
 ね所をさそふ烏はにくからず     路通
   峠の鐘をつたふこがらし     誾如

 それぞれにわけつくされし庭の秋   路通
   ために打たる水のひややか    如水
 池の蟹月待ッ岩にはい出て      芭蕉

の句を興行する。
 そしてその夜左柳亭での興行で曾良と越人は再会する。
 翌九月五日。如行の家に路通とともに戻った芭蕉は、六日に伊勢へ向かうということで如水から南蛮酒一樽と紙子を餞別に貰う。南蛮酒はおそらく焼酎に薬草を入れたあらき酒であろう。延宝の頃の興行の付け句にも詠まれている。
 おそらく、この時はたまたま如行の弟子の竹戸がいて、新しい紙子が来たので要らなくなった古い紙衾を処分しようと思い、竹戸が欲しがったので与えたのではないかと思う。
 芭蕉も機嫌よく、紙衾の記を書く。そのあと越人がやってきて、悔しがったのではないかと思う。竹戸もそれにこたえて、

   題衾四季   竹戸
 花の陰昼寐して見む敷衾
 むしぼしのはれにかざらむ衾かな
 ながき夜のねざめうれしや敷衾
 首出して初雪見ばや此ふすま

を書き記す。
 如行もまた、

 「はせを師翁回国恙もなく我郷大垣にむかへ、とりて枕瀬の水を汲みて草鞋を解かしむ。ある夜油単の内より紙の衾を取り出でて、我門人竹戸といふものに得させたるなり。沙門ならば是を禅定の衾とせん。勇士はこれを母衣ぎぬに替へん。敢汝そこなふ事なかれ。身を終るまて愛して棺の中に敷けとぞに云。
          如行
 ものうさよいづくの泥ぞ此ふすま」

と記す。
 ならばと、路通も、

 「いろ香を先とするものは見る事華やかにして、さめてのち愛をうしなふ。その匠の業こまやかなるものは用る事あやうく、破れて後憂れふ。皆路によるもののとらざる処なり。此紙の衾ひとつハみちのく蚶泻のあたりより、いぶせき草の枕にうちはへ、雪の高濱有磯海蔭の山秋篠の里までも、疲れたる肩にかけ細りたる腰につけて、はるばる美濃の国までのぼりつき給ふを、竹戸といふおのこへ譲りあたへける也。衾一身旧里をはなれ辺土穢れたる肉眼にらまれたまひ、うき寐の夢のはかなきたのちに、かかる衾のうへにこそ有しめと肝に染ておぼえ侍る。紙と糊とのさかひは日を追て離れやすかるべし。志しと情けとは年経るとも損なふ事なかるべし。
         路通
 露なみだつつみやぶるな此衾」

と記す。
 そのあと遅れて越人がやって来たのだろう。紙衾のことを悔しがり、かなり感情的に、

 「阿難は世尊入滅の後に来り。孔子は周の衰へにいて、實房ハ嵐や庭の松に答へんとある庵を見、こゝに芭蕉老人は霞とゝもに武蔵野を出、能因西行の跡を慕ひひだるき事寒き事を泣く日に、松嶋白川を眺め漸(やうやう)秋風立つ越路を経て、濃州の市隠如行のもとにものし給ふよし、
夕に聞て其朝走り着て、先達てめづらしなんと泣笑ふその道の程、
前に聞こえつる衾は竹戸にもらはれけむこそこはいかに。富貴官位ハは徳大寺の如くうらやまし。
此衾とられけむこそ本意なけれ。貴妃李夫人か後を泣つゝけたるはうつけたる話になりぬ。越人/\おそく来てくやしからん越人、と越人の云

 くやしさよ竹戸にとられたる衾」

と記す。
 そのあと曾良がやってきて、これまでの書かれたものを読んで、ならばと付け加える。

 「さきだつて殊おくれて来り。此衾の記を読てやまず。このふすまハ是果てしなきみちのくより、荒海の北の浜辺をめぐり、みのの国まで翁のもち給へり。我したがつて旦夕にこれを収む。いま竹戸にあたへられし事をそねんで、奪はんとすれば大石のごとくあがらず。おもふべし、衾のものたる薄うして其まことの厚き事を。

 たゝみのは我手のあとぞ其衾」

 越人が奪い取りそうなのを咎めて、自分の手の垢もついてるぞ、と付け加える。
 「左比志遠理」の収録されたなかなか面白いやり取りで、相変わらず古文書は苦手だが、「みを」という古文書読解のAIアプリの力を借りて読んでみた。間違ってるかもしれない。

2023年10月14日土曜日

 それではX奥の細道の続き。

八月十四日

今日は旧暦8月13日で、元禄2年は8月14四日。敦賀へ。

昨日の雨も止んで、今日はよく晴れた。敦賀までの距離も考え、久しぶりに夜明け前に出発した。洞哉も一緒で、今夜は敦賀で月見ができるかな。

福井の街を出ると、また広い湿地帯があった。ここが俊成卿の、

夏刈りの芦のかり寝もあはれなり
  玉江の月の明けがたの空

の歌に詠まれた玉江だという。
月はまだ沈んでなかったが、ただ今は夏刈りをしないのか、芦が茂ってて、水に映る月は見れなかった。

月見せよ玉江の芦を刈ぬ先 芭蕉

玉江から少し行くと催馬楽に

浅水の橋のとどろとどろと
降りし雨の古りにし我を
たれぞこのなか人立てて
みもとのかたち消息し
訪ひに来るや さきんだちや

と歌われ、枕草子にも「橋はあさむつの橋」と言われた浅水橋があった。小さな橋だった。

この辺りでちょうど日の昇る明け六つなので「あさむつ」

あさむつや月見の旅の明ばなれ 芭蕉

日永嶽は北陸道の武生宿を出ると左に見えてくる。
今のところ晴れててこの山がはっきり見えてるから、今夜も、明日の名月も晴れますように。
日永というから、日が長く出ていますように。

あすの月雨占なはんひなが嶽 芭蕉

武生宿と今庄宿の間に湯尾峠がある。分水嶺ではなく小さな峠だが、そこに茶店があって疱瘡除けのお札が売られてた。
名月は里芋をお供えするので芋名月とも言うが、疱瘡の方のイモは特に名月とは関係ない。

月に名を包みかねてやいもの神 芭蕉

今庄宿に着くと目の前に燧山があった。木曾義仲の燧ケ城のあった所だ。

義仲の寝覚の山か月かなし 芭蕉

今庄宿から敦賀へ行く途中に木ノ芽峠があり、越の中山と呼ばれているという。
この峠を越えて降りてきた頃には月が登ってた。
西行法師の、

年たけてまた越ゆべきと思ひきや
   命なりけり小夜の中山

の歌を思いおこした。

はるばる松島象潟を回ってきて、生きてここまで戻れたんだなと思う。

中山や越路も月はまた命 芭蕉

敦賀に着くと出雲屋に宿を取って、さっそく気比明神に参拝した。
参道に白い砂が敷き詰められてたが、その昔遊行二世の他阿が、参道が元々沼地でぬかるんでるのを見て、自ら白い砂を運んできて敷いたという。

秋の夜の月も澄み渡ってるが、この砂もそれに劣らず澄み切ってる。

月清し遊行のもてる砂の上 芭蕉

昨今はいろんな国でその土地の何々百景とか作るのが流行りのようで、敦賀にもあるらしい。
金崎夜雨、天筒秋月、気比晩鐘、野坂暮雪、櫛川落雁、常宮晴嵐、清水帰帆。

ただ、気比神宮は煙ることなく空は澄み切っていて、後ろの天筒山の上に十四夜の月が明るく光る。

国々の八景更に気比の月 芭蕉

良い月見ができた。明日も晴れますように。

八月十五日

今日は旧暦8月14日で、元禄2年は8月15日。敦賀。

今日は朝から曇ってる。昨日の疲れもあって、まずは一休みだ。
午後になって晴れそうだったら、西行法師ゆかりの色の浜に行ってみたいな。でも宿の主人はこういう雲行きだと雨になると言ってる。

宿の主人が言った通り、夕方から雨になった。

名月や北国日和定なき 芭蕉

まあ、定めないのは月だけでないな。曾良が病気になったりしたし。まあ、おしなべて人生は定めないものだが。

八月十六日

今日は旧暦8月15日で、元禄2年は8月16日。敦賀。

今朝は晴れた。
昨日はあれから、雨が止んで月が出ないかと遅くまで起きて、宿の主人といろいろ話をした。
主人が言うに、金ヶ崎の戦いの時に海に沈んだ鐘は、その後引き上げようとしたけど海底で逆さになってて、吊り上げる時の取手となる竜頭が埋もれていたので、引き上げることができなかったという。

月いづく鐘は沈める海の底 芭蕉

また、敦賀は元々角鹿(つぬが)で、なんでも昔イルカの群れが打ち上げられて、その血が臭かったから「ちうら」といい、「つぬが」になったらしい。

イルカの肉はクジラ同様美味しく、これをもたらした御食津大神が気比大神になったって、この辺は曾良の専門だから、いたらうるさかっただろうな。

ふるき名の鹿角や恋し秋の月 芭蕉

天屋五郎右衛門という人の案内で、船に酒と肴を積んで色の浜へ向かった。もちろん洞哉も一緒。
色の浜は船で北の方へ行った所にあった。
敦賀の北の方に開いた入江に逆向きの南に開いた入江と小さな小島が重なり合い、見事な景観を生み出している。

西行法師の、

汐染むるますほの小貝拾ふとて
   色の浜とは言ふにやあるらむ

の歌でも知られている。
砂浜に砕けた貝殻は小萩が散ったみたいで、壊れてない貝は盃のようだ。

小萩ちれますほの小貝小盃 芭蕉

ようやく色の浜に月が昇った。
「ますほ」は真蘇芳色をしてるところからその名があり、紅葉の色に見立てられるが、血の色だという人もいる。稀に月もこの色になる。

衣着て小貝拾はんいろの月 芭蕉

浜辺の月というと源氏物語の須磨巻も思い浮かぶ。この北の海の渺漠としたうら寂しさはそれにも勝る。

寂しさや須磨にかちたる浜の秋 芭蕉

八月十七日

今日は旧暦8月16日で、元禄2年は8月17日。敦賀。

今日も良い天気だ。
昨日はあれから近くの本隆寺に泊まった。9日には曾良も来てたようだ。手紙も置いてあった。
敦賀の出雲屋の手配も、天屋の船の手配もみんな曾良がやってくれたんだ。病人なのに律儀な奴だ。
洞哉が昨日の句を書いて寺に奉納した。

本隆寺の日蓮御影堂を拝んでから、船で出雲屋へ戻ると、路通がいた。昨日の夕方に到着して入れ違いになったようだ。
近江粟津の家にいたところ、13日に彦根から曾良の手紙を受け取って、急いで来てくれた。

八月十八日

今日は旧暦8月17日で、元禄2年は8月18日。敦賀。

今日は雨。もう1日ここで休んでいこう。
一昨日の路通の敦賀到着の時の句があった。

目にたつや海青々と北の秋 路通

八月十九日

今日は旧暦8月18日で、元禄2年は8月19日。敦賀を出る。

今朝は晴れた。1日遅れになったが洞哉は福井へ、自分たちは長浜へ向けて夜明け前に旅だった。
いずれにせよ長い馬旅だ。曾良が一両置いていってくれたので、路通と一緒に乞食行脚する必要はなさそうだ。

塩津で琵琶湖が見えた時は、帰ってきたというのを実感した。
路通が北へ山一つ隔てた所にある余呉の湖の話をしてくれた。沢山の鳥が集まるというので、結局寄り道して余呉の湖を見て、長浜まで行かずに、木之本宿に宿を取った。

路通「毎度。路通でやんす。
余呉の湖の鳥もまだ季節が早いのか、まだ眠ってるかのように静かでやんすね。

鳥どもも寝入てゐるか余呉の湖 路通

あれ、これは季語は?水鳥の句だから冬だって師匠は言ってたでやんす。」

八月二十日

今日は旧暦8月19日で、元禄2年は8月20日。木之本を出る。

今日も天気が良く、ここから大垣まで一気にに行けなくもないが、ゆっくり行くことにしよう。
それにしても路通は天然でよくわからないが、時々凄い句を作るからな。阿羅野の次の撰集のことも考えなくちゃ。

日が高くなってからゆっくり出発して、北国脇往還の方を通った。小谷城のあった小谷宿、伊吹山を真近に見る春照宿を経て、中山道の関ヶ原宿に着いた。
今日はここに宿を取って、大垣に手紙を書くことにしよう。
長い旅ももうすぐ終わりだ。

八月二十一日

今日は旧暦8月20日で、元禄2年は8月21日。大垣着。

今日も天気が良く、日も高くなってから関ヶ原を出て、昼には大垣に着いた。如行や宮崎家の人たちなど、大垣のすぐに集まれる人たちが宿場の入り口まで迎えに来ていた。

胡蝶の夢なんて言うが、死んで胡蝶になることもなく、元の青虫のまま帰って来れた。
ふと思ったんだが、荘周が胡蝶になったと言うけど、いきなり蝶になるんじゃなくて、まずは青虫に生まれて蛹になって蝶になるんだよな。

胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉 芭蕉

如行「そうかそうか。青虫さんか。ここには貧しい秋茄子しかなくて残念ですが、くつろいでいってください。」

  胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉
種は淋しき茄子一もと 如行

曾良も無事に伊勢長島に帰って、今も療養中だという。伊勢の式年遷宮には一緒に行けるかな

2023年10月13日金曜日

  日本の男性アイドルの文化は結局のところジャニー北川さんの恩恵によるところが大きいし、その影響は韓流アイドルにも引き継がれていると思う。ロシアで韓流アイドルがゲイだと言われて排除されてるのも、ジャニさんに始まる男性アイドル文化が少なからず同性愛的な要素を含んでいるからではないかと思う。
 男の視点だと、男性アイドルは背が高くてマッチョな、男らしい男という方向に行きやすいのではないかと思う。そうではなく背が低くて「可愛い」男が案外女性に需要があるというのを見出したのは、ジャニさんが女性的な視点を持っていたからではないかと思う。
 日本にはソドムの歴史はない。源氏物語にも光源氏と頭の中将が二人で舞うシーンが紅葉賀巻のメインになっているし、江戸時代初期には衆道の相手も兼ねた若衆歌舞伎があって、それが禁制になったために今の野郎歌舞伎に落ち着いたが、それでも女形(おやま)にその名残をとどめている。
 戦後の芸能界でも美輪明宏さん、ピーターさん、カルーセル麻紀さんなどがテレビに出てお茶の間を賑わしていた。そうした中にジャニさんの存在もあった。

 それではX奥の細道の続き。

八月六日

今日は旧暦8月5日で、元禄2年は8月6日。小松。

立松寺に戻ってきた。今日は雨で一休みかな。
曾良は全昌寺でどうしてるかな。雨だから無理せずに一休みかな。

八月七日

今日は旧暦8月6日で、元禄2年は8月7日。小松。

今日はいい天気だ。觀生から誘いがあって、今日は興行できるかな。

觀生の家で皷蟾を交えて三吟を巻いた。発句はこの前多田八幡に奉納した句で、実盛の兜からそれが野に落ちてた姿を想像して、地面に虫が鳴いてたかなと、それを季語にした。謡曲実盛の首検分の台詞を引用して、

あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

觀生「まさに虫の息というところか。霜枯れに草には鳴く虫の声も弱ってゆく。」

  あなむざんやな冑の下のきりぎりす
ちからも枯し霜の秋草 觀生

皷蟾「晩秋の草原は河原でしょうな。丘の麓の川縁で渡し守が月明かりで綱を撚っているといったところでしょうか。」

  ちからも枯し霜の秋草
渡し守綱よる丘の月かげに 皷蟾

芭蕉「なら、その渡し守の居所がそこにある。仮小屋だけど住めば屋敷のようなもの。」

  渡し守綱よる丘の月かげに
しばし住べき屋しき見立る 芭蕉

觀生「見立てというからね。そのしばしの屋敷は実は唐傘を屋敷に見立ててるだけだったりして。」

  しばし住べき屋しき見立る
酒肴片手に雪の傘さして 觀生

皷蟾「雪の笠というと、一輪開いた冬の梅のようでもありますな。ここは見立てではなく、雪の寒梅を見ながら酒を飲むとしましょう。」

  酒肴片手に雪の傘さして
ひそかにひらく大年の梅 皷蟾

芭蕉「梅というと立派な庭園で水が流れてて、大晦日に咲いた梅は2日になるともう散って流れて来て、薄墨を流したような色になる。」

  ひそかにひらく大年の梅
遣水や二日流るる煤の色 芭蕉

觀生「煤の色を文字通り煤が流れて来た色として、煤の出るような安い油を使ってるのが隣にばれて恥ずかしい。」

  遣水や二日流るる煤の色
音問る油隣はづかし 觀生

皷蟾「油売りはいろんな家を回ってはそこで噂話をして、油売ってたりするもんですな。そんな人に恋文なんぞ見られたら、そりゃあ恥ずかしい。」

  音問る油隣はづかし
初恋に文書すべもたどたどし 皷蟾

芭蕉「初恋でたどたどしい手紙を恥ずかしそうに届けてねなんて頼まれたりしたら、使いの僧の方が惚れちまうな。」

  初恋に文書すべもたどたどし
世につかはれて僧のなまめく 芭蕉

觀生「僧もひそかに湯女のいる風呂屋に提灯持って通ったりする。」

  世につかはれて僧のなまめく
提灯を湯女にあづけるむつましさ 觀生

皷蟾「湯女の所に風呂屋で使う提灯を納品しますと、お礼に温泉玉子なんか貰えると嬉しいですね。」

  提灯を湯女にあづけるむつましさ
玉子貰ふて戻る山もと 皷蟾

芭蕉「玉子というと煮て食うもので、納豆汁に玉子があれば言うことはない。納豆はお寺で冬に作って配るもので、それを叩いて細かくして納豆汁にする。これがまた旨い。」

  玉子貰ふて戻る山もと
柴の戸は納豆たたく頃静也 芭蕉

觀生「正月準備の頃かな。茅の輪にする竹を取りに行く。ただ季語は露にして秋に転じておこう。月の定座も近いし。」

  柴の戸は納豆たたく頃静也
朝露ながら竹輪きる薮 觀生

皷蟾「竹を取るところでは、同じ竹でモズを取る若者なんかもおりますな。捕まえたモズの目を縫い付けて竹の上に縛り付けて、その鳴き声に釣られて寄ってきたモズを獲るなんて、可哀想なことをするもんです。」

  朝露ながら竹輪きる薮
鵙落す人は二十にみたぬ顔 皷蟾

芭蕉「モズを獲るのは殺生人と呼ばれる人たちで、河原に縁のある者。真如の月のもとで成仏できると良いな。」

  鵙落す人は二十にみたぬ顔
よせて舟かす月の川端 芭蕉

觀生「月夜には釜を抜かれるというけど、河原の者は鍋も持ってなさそうだな。ここでは花もないということで花に持ってっていいかな。」

  よせて舟かす月の川端
鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり 觀生

皷蟾「鍋もないほど貧しい芦葺きの家に住んでますのは、いくさが続いたせいでしょうな。そこら辺にはまだ野ざらしの白骨が残ってたりしましてな。」

  鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり
去年の軍の骨は白暴 皷蟾

芭蕉「時は戦国時代ということで、この頃の薮入りは奉公人の帰省ではなく、嫁が実家に帰る日だったという。」

  去年の軍の骨は白暴
やぶ入の嫁や送らむけふの雨 芭蕉

觀生「帰省の日で久々に親に会うんだったら、特別に髪を洗ったりする。」

  やぶ入の嫁や送らむけふの雨
霞にほひの髪洗ふころ 觀生

皷蟾「思いがけぬ所で仏像が発見されたりしますと、吉祥だということで御所に献上されたりしますな。正月の髪を洗う頃、めでたいものです。」

  霞にほひの髪洗ふころ
美しき仏を御所に賜て 皷蟾

芭蕉「では御所を碁所に取り成して、仏像の御利益で連戦連勝。」

  美しき仏を御所に賜て
つづけてかちし囲碁の仕合 芭蕉
甘柿舎鈴呂屋こやん

觀生「碁の試合(しあはせ)を幸せに取り成して、勝利が続いて大金を手にした所で、正月には大勢の人に餅を振る舞う。」

  つづけてかちし囲碁の仕合
暮かけて年の餅搗いそがしき 觀生

皷蟾「正月といえばかぶら寿司ですな。能登の志賀の方の名物です。」

  暮かけて年の餅搗いそがしき
蕪ひくなる志賀の古里 皷蟾

芭蕉「古里といえば陶淵明の田園の居に帰る。狗吠深巷中 鶏鳴桑樹巓で、犬の声がする。」

  蕪ひくなる志賀の古里
しらじらと明る夜明の犬の声 芭蕉

觀生「犬というと墓場にいたりして不気味なものだ。ここは謡曲舎利のイメージで、舎利が盗まれたので僧が祈ると韋駄天が現れて取り返してくれる。」

  しらじらと明る夜明の犬の声
舎利を唱ふる陵の坊 觀生

皷蟾「舞台は都の泉湧寺ですな。名前の通り泉が湧く所ですので、筧を作ってそれを引いてきましょうか。」

  舎利を唱ふる陵の坊
竹ひねて割し筧の岩根水 皷蟾

芭蕉「苗代水かなと思ったけどここは夏にして田植えの頃の水にしておこう。水だけでなく早苗も貰う。」

  竹ひねて割し筧の岩根水
本家の早苗もらふ百姓 芭蕉

觀生「貰った早苗はねこに乗せて運ぶもので、ここでは乳母車にしておこう。子連れで苗を貰いに行って、苗を乗せたら赤子は本家に預けて行く。」

  本家の早苗もらふ百姓
朝の月囲車に赤子をゆすり捨 觀生

皷蟾「子を連れての仇討ちの旅ですな。かたきの人相書きを見ながらこの秋も本懐を遂げられず、悲しいもんです。」

  朝の月囲車に赤子をゆすり捨
討ぬ敵の絵図はうき秋 皷蟾


八月十一日

今日は旧暦8月10日で、元禄2年は8月11日。小松。

今日も良い天気だ。小松の滞在も長くなったが、今日の昼頃にはここを発って全昌寺に向かう。
一人でというわけにもいかないので、北枝が同行してくれる。福井からは洞哉という人が同行してくれるという。敦賀から先は曾良が手配してるらしい。

北枝と二人で今夜は全昌寺に泊まる。5日には曾良が泊まって、

終宵秋風聞や裏の山 曾良

の句を残して行った。西側が山に面している。
曾良は7日にここを発ったので、明日ここを経てば五日遅れということか。

八月十二日

今日は旧暦8月11日で、元禄2年は8月12日。全昌寺を出る。

朝、福井に向けて出発する時、若い僧が揮毫をせがんできた。只というわけにはいかない。
寺に泊まった時は出る時に掃除するのが慣わしだが、それを代わりにやってくれるなら考えてもいいぞ。

庭掃て出ばや寺に散柳 芭蕉

よし、取引成立だ。

吉崎の入江は大きな干潟で、ここを船で渡って海側の汐越しの松を見た。西行法師が、

よもすがら嵐に波をはこばせて
   月をたれたる汐越の松

と詠んだ所だ。今は昼だし、こういう干潟の風景は象潟以来何度も見てきたな。

象潟の楽しかった思い出が蘇ってきてしまって、なんか上手く句にならないな。名月だったらまた違ってたかもしれない。

松岡という所で洞哉と落ち合った。ここで北枝ともお別れだ。扇子に、

物書いて扇子へぎ分くる別れ哉 芭蕉

と書いて渡した。実際に引き裂いたりはしてない。

今日は洞哉の家に泊まる。昨日まで天気が良かったが、今日は曇ってて月が見えない。それにもっきり涼しくなった。

八月十三日

今日は旧暦8月12日で、元禄2年は8月13日。福井。

今日は雨。一日ここで休んでいこう。
明後日が十五夜だし、これから敦賀へ向かうが、どこでお月見すると良いか尋ねてみようと思った。
まあ、福井にももう通り過ぎたが汐越の松もあるし、福井に引き止められそうだな。

名月の見所問ん旅寝せむ 芭蕉

今日は一日雨で、月見もできそうになく、ただ洞哉といろいろ世間話をして過ごした。
洞哉という老人は寛文の頃に活躍した人で、そういえば伊賀にいた頃名前は耳にしていた。その後の俳諧の流れにはついてゆけず、静かに妻と二人で隠居暮らしをしてる。

小さな庭で夕顔やヘチマを育て、鶏頭の花が咲き、コキアは勝手に生えてきたものか。一見草に埋もれているようでも、しっかり手入れはされている。
昨日はたまたま松岡の知り合いのところに行ってて、そこで会うこととなった。

2023年10月12日木曜日

  ノーベル賞を受賞したゴールディンさんの「なぜ男女の賃金に格差があるのか」を途中まで読んだ。
 ゴールディンさんはピルの解禁を過大評価しすぎてるように思う。日本ではピルは解禁されなかったが、やはり七十年代の中頃から結婚年齢の上昇が見られ、今では男は三十、女は二十八くらいになっている。
 七十年代前半くらいは大体女は二十四が適齢期と言われ、二十六にもなると「売れ残り」と言われてた。日本では中ピ連が話題にはなってたが、日本の西洋かぶれの活動家にありがちな、スローガンばかりで現実から遊離してて、今でもそうだが笑い者になるだけだった。今でもフェミは嫌われてる。アメリカで流行ってることの鸚鵡返しで、現実的な提案を何一つしないからだ。アメリカのウーマンリブもそうだったのかもしれないけど。
 ピルが解禁されなくても、生涯のキャリアを持ちたいという欲求が女性に起これば、自然に結婚時期は遅れるものだと思う。
 子どもが出来ての予期せぬ結婚を防ぐには、必ずしもピルは必要としない。七十年代前半の、ヒッピー文化のフリーセックスは急速に廃れていったし、むしろ八十年代以降性的モラルが強化される傾向あったんではないかな。アメリカでも未成年のヌードが禁止されたし。
 日本では特にオタクの間での処女崇拝が強化されていって、日本のエンタメ・コンテンツにも影響を与えている。
 俺も早く結婚した第三グループの最後の世代だから、第四グループ以降の変化は正直ついていけないところがある。

 それではX奥の細道の続き。

八月一日

今日は旧暦7月30日で、元禄2年は8月1日。山中温泉。

天気の良い日が続くが、曾良は療養に専念し、温泉に入っている。
自分は北枝と久米之助に俳諧の指導をしたりしながら過ごした。
近くの黒谷橋の辺りを散歩した。

八月二日

今日は旧暦8月1日で、元禄2年は8月2日。山中温泉。

そういえば昨日は八朔だっけ。こういう浮世離れした温泉宿ではよくわからない。
街道から離れてるけど、朝早く旅立つ人の馬が出て行く。

  轡ならべて馬のひと連
日を経たる湯本の峰も幽なる 斧卜

ってこの前の興行の句があったな。

八月三日

今日は旧暦8月2日で、元禄2年は8月3日。山中温泉。

今日は久しぶりに雨が降った。降ったり止んだりの天気だ。
久米之助に俳号をつけてやろうと思った。今までも身内に桃隣、桃印がいて、黒羽では桃翠桃雪桃里がいるからな。やはり桃の一字で桃妖にしようかな。

詩経に桃夭という詩があったからな

桃之夭夭 灼灼其花
之子于帰 宜其室家

少年だけど婚期の少女のような美しさということで、まあそのまんまではなく妖の字に変えておくけどね。

桃妖も北枝も俳諧の筋がいいのは、この地に安原貞室がいたせいなんだろうな。貞室というと、

これはこれはとばかり花の吉野山

の句は知らない人がいないくらい有名だし、その人がこの地で点料を取らずに指導してたというからな。

貞門の指導を受けた人は古典の素養がしっかりしてる。桃妖の祖父もその教えを受けた一人で、それがある程度桃妖にも受け継がれてるのだろう。

昔貞室が少年の頃ここに来て、俳諧のことで難じられて、京で貞徳の門に入ったのが、貞室とこの土地の縁の元となったという。
小松でしつこく引き止められるくらい俳諧が盛んなのもそのせいだろう。

それも世吉や五十韻など、速吟ができるのが、これまで回ったみちのくとは違うなと思う。
貞室は寛永9年に亡母追悼百韻を重頼に難じられたが、この時は毅然とやり返して、その論戦は語り草になってる。
もっともその重頼さんにはお世話になってるから、そこはなんとも言えない。

昔お世話になった師匠さんでも、重頼さんや任口さんはすでに鬼籍で、季吟さんは存命とは聞くが、長いことご無沙汰している。俳諧より古典の注釈書に専念してるようだし。
まあ、俳諧という所もやたら絡んでくるやつっているからな。桃妖も負けるな、だな。

桃の木の其葉ちらすな秋の風 芭蕉

八月四日

今日は旧暦8月3日で元禄2年は8月4日。山中温泉。

あれから雨が降ったり止んだりが続いている。
ようやく伊勢長島から若い者がこちらに到着した。明日は曾良とお別れだ。
曾良は伊勢長島に向かい、自分は小松に戻ってもう少し俳諧を楽しもうと思う。

曾良が伊勢長島に行くことが決まったので、午後から北枝と三人で餞別興行をすることになった。
桃妖も執筆で参加できれば勉強になると思ったけど、宿の方が忙しいとのこと。とりあえず北枝がメモを取っておいてくれるこのになった。

北枝「では曾良さんが明日馬に乗って、故郷同然の伊勢長島に行ってしまうということで、そんな曾良さんのイメージに、秋に南に渡って行く燕のイメージを重ね合わせて、燕を追いかけるように、という意味で。」

馬かりて燕追行別れかな 北枝

曾良「これから幾つも山を越えての帰り道になります。山の峠の曲がり目にはきっと秋の草花も咲くことでしょう。」

  馬かりて燕追行別れかな
花野に高き山のまがりめ 曾良

芭蕉「花野を馬でゆくなら、『花野みだるる』の方がいいかな。咲き乱れるとも言うし。では、その花野を相撲で踏み荒らして乱すと言うことにして、月夜の相撲にしようか。」

  花野みだるる山のまがりめ
月はるる角力に袴踏ぬぎて 芭蕉

芭蕉「月はるるは景だが、月よしとだといかにも『さあやるぞ』って感じで良いかな。」
北枝「なら、相撲をしてて喧嘩になって、刀に手をかけるってあるよね。周囲に止められて、『なに、刀が勝手に滑っただけだ』ってことで収める。」

月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしを友のとめけり 北枝

芭蕉「ここで人倫を出してしまうと次の次の句で制約がかかるし、鞘走りが複数の人間のいる場面に限定されて、展開が重くなる。『やがてとめけり』で良いんじゃないか?」

曾良「一人の場面でもいいなら、すわっ、曲者!って刀に手をかけたら、という展開にできますね。」

  鞘ばしりしをやがてとめけり
青淵に獺の飛こむ水の音 曾良

芭蕉「何だか古池に蛙が飛び込んだみたいだな。まあ、あの句も思わぬ音にハッとする場面ではあるが、それを『曲者!』に?青淵でなくても二、三匹でいいんじゃない?」
曾良「いや、これはパロディだから面白いんだし、二、三匹じゃ緊張感ないでしょう。」

芭蕉「まあ、そうだな。だったら青淵だと深山に限定されるし、山類で応じるか。」

  青淵に獺の飛こむ水の音
柴かりたどる峰のささ道 芭蕉

芭蕉「たどる、かよふ、何か盛り上がらないな。まあ、びっくりしてだと打越と被っちゃうけど、ここは俳諧らしく取り囃して、柴かりこかすにしておくか。」

北枝「なるほど、柴かりこかすだと、柴刈がコケるのではなく、柴を刈りこかすとも取りなせる。なら柴刈は山賤でなく、山奥の小さな寺に隠棲する僧にしよう。」

  柴かりこかす峰のささ道
松ふかきひだりの山は菅の寺 北枝

芭蕉「松深きだと松の下生えを刈り払って山が荒れないようにすれば、秋には松茸も取れると、それは理屈だが、ここは何かもっと厳しい所にしたいな。たとえば霰降るとか。」
曾良「なら山は遠くに見えてそっちには寺があるとできますね。平野の街道の風景に転じましょう。」

霰降るひだりの山は菅の寺
役者四五人田舎わたらひ 曾良

芭蕉「この前市振で遊女に会ったしな。ドサ回りの役者もいいけど、田舎わたらいの遊女にすれば花があるし、恋を仕掛けられる。遊女四五人。」

芭蕉「宿の部屋の腰張の部分なんかによく落書きがしてあって、結構伝言板代わりに利用している人もいるし、いろいろなローカルな情報があって面白い。田舎わたらいの遊女も、そこに愛しい人の名を見つけたりするのかな。」

  遊女四五人田舎わたらひ
こしはりに恋しき君が名もありて 芭蕉

芭蕉「腰張の伝言板は旅をしてる人はすぐわかるけど、知らない人は分らないかな。落書きの方がわかりやすいか。」
北枝「お寺にも落書きがあったりする。巡礼の記念みたいに名前を書いていったりして。愛しい人の名があると、別れた後順礼の旅に出たんだなと思って、女も出家はしなくても、肉食を断ったりする。」

  落書きに恋しき君が名もありて
髪はそらねど魚くはぬなり 北枝

曾良「魚は殺生だから可哀想だと言いますが、植物だって生きてるのに植物は何で良いのか、その辺はよくわかりませんね。蚕から絹を取るのは殺生だからと言って、当麻寺の中将姫は仏様の蓮台の蓮の茎を刈り取って、そこから糸を取って曼荼羅を折ったと言いますが。」

  髪はそらねど魚くはぬなり
蓮のいととるもなかなか罪ふかき 曾良

芭蕉「本説の句の後は中将姫から離れなくてはならないのが難しい。蓮の糸は何かその家の代々続く習慣として、贅沢を禁じて来たというのがいいかな。」

  蓮のいととるもなかなか罪ふかき
四五代貧をつたへたる門 芭蕉

芭蕉「おっと、四五代はさっきの遊女四五人と被ってた。先祖の貧にしよう。」

北枝「この辺で月を出した方が良いのかな。その門は祭りを執り行う上代で、頑固な人だったから代々の貧を改めることもない。」

  先祖の貧をつたへたる門
宵月に祭りの上代かたくなし 北枝

芭蕉「みんなが浮かれてる宵月に、頑として加わらないというと、普通に付き合いの悪い感じだね。有明に早起きして厳粛に祭りを執り行う、そういう人柄の方が良いかもしれない。有明にしよう。」
曾良「有明の祭の儀式といえばこれですな。」

  有明に祭の上代かたくなし
露まづはらふ猟の弓竹 曾良

芭蕉「狩といえば殺生だからね。露は涙に通じるし、露を散らすのは秋風。殺生の悲しさに狩に付き従った子供も無言で涙する。」

  露まづはらふ猟の弓竹
秋風はものいはぬ子もなみだにて 芭蕉

北枝「これは秀逸だな。」
芭蕉「いやいや君たちの句もこれに劣るものではない。」
北枝「涙だと、哀傷に展開するのが良いかな。」

  秋風はものいはぬ子もなみだにて
しろきたもとのつづく葬礼 北枝

曾良「花の定座ですね。白き袂に桜の花の白のイメージを重ねまして、『あおによし奈良の都は咲く花の』にしましょうか。」

  しろきたもとのつづく葬礼
花の香に奈良の都の町作り 曾良

「奈良の都だと、時代設定が古代になってしまうから、ここは『奈良はふるきの』にしておこうかな。
古今集の奈良伝授は饅頭屋伝授で、堺伝授は形だけ箱を渡す箱伝授になった。いにしえの和歌の道も箱に残ってるだけだし、紹巴の連歌の伝授にも架空の箱伝授があったことにしようか。」

  花の香に奈良はふるきの町作り
春をのこせる玄仍の箱 芭蕉

北枝「玄仍の箱は何か浦島の玉手箱みたいなものとして、水辺に転じようか。難波の浜で三月上巳の潮干狩りで貝を取る。」

  春をのこせる玄仍の箱
長閑さやしらら難波の貝多し 北枝

芭蕉「大阪だったらいろいろ手の込んだ料理をしそうだし、貝尽くしというのはどうだ。」
曾良「そうですね。大阪商人なら貝尽くしを食って、銀の小鍋で鴨と一緒に芹焼きにしたり、豪勢でしょうね。」

  長閑さやしらら難波の貝づくし
銀の小鍋にいだす芹焼 曾良

二十句目まで終わった所で夕食にして、そのあと曾良は疲れたと言って寝てしまったため、北枝とさしで続きをやった。
芭蕉「芹焼か。なら冬だな。囲炉裏端でのんびり芹焼を作って、煮えるのを手枕して待つ。」

  銀の小鍋にいだす芹焼
手枕におもふ事なき身なりけり

芭蕉「これじゃ普通過ぎて面白くないよな。何か良い取り囃しがあると良いが。」

手まくらに軒の玉水詠め侘

芭蕉「まあ、こいふに景色を一つ加える手もある。北枝だったらどうする?」
北枝「手枕の情景で面白くするんでしょ。」

手枕によだれつたふてめざめぬる

芭蕉「ははは、ありそうだな。まああまり綺麗でないし、それにキャラが馬鹿そうな奴に限定されて展開がしにくい。」
北枝「それなら。」

てまくらに竹吹わたる夕間暮

芭蕉「囲炉裏の火加減を竹で吹いて調整するのに手枕は無理がないか?ここはもっと何気ない軽いあるあるで。」

  銀の小鍋にいだす芹焼
手まくらにしとねのほこり打払ひ 芭蕉

北枝「なるほど手枕で居眠りしようと思って、手が痛くならないように座布団の埃を払って、そこに敷く。これなら女でも良いってことか。遊郭で客を待ってる遊女を覆面してやってきた客が品定めする。」

  手まくらにしとねのほこり打払ひ
うつくしかれと覗く覆面 北枝

芭蕉「男女ネタから衆道ネタにするのはお約束かな。寺に出入りする薫物売りは若衆で、編笠を覆面にして、男なのに振袖を着たりするが、ここでは古風に継ぎ小袖で。」

  うつくしかれと覗く覆面
つぎ小袖薫うりの古風也 芭蕉

芭蕉「両吟だからここは二句づつ行こう。古風な薫物売りに古風な別の職業を対比させてみようか。ぎりぎりで禁中に出入りできる非蔵人が重陽の菊を育てて売りに来る。」

  つぎ小袖薫うりの古風也
非蔵人なるひとのきく畠 芭蕉

北枝「これは前句の寺の場面から離れるために、あえて異なる職業を対句的に並べる、いわゆる迎え付けをしたわけだ。」
芭蕉「いかにも。」

北枝「重陽だったらご馳走にシギとかを食うけど、シギといえば西行法師の鴫立沢の秋の夕暮れを思い起こして、なんか寂しげだ。」

  非蔵人なるひとのきく畠
鴫ふたつ台にのせてもさびしさよ 北枝

芭蕉「なかなかいい展開だ。」
北枝「ここで台を題に取り成して、発句の題が鴫二羽で寂しげなので、脇は三日月をあしらう。」

  鴫ふたつ台にのせてもさびしさよ
あはれに作る三日月の脇 北枝

芭蕉「あっなるほど、その手で来たか。
そうだな、『三日月の脇』を三日月の見えるその脇でって感じで野宿にしようか。出家して最初の旅の草枕。」

  あはれに作る三日月の脇
初発心草のまくらに旅寝して 芭蕉

芭蕉「取り囃しもなくて凡庸な句になったが、一巻に一句くらいはこういう句もあるもんだな。
初発心といえば西行法師法師のように、京を出たら鈴鹿の山を越えて、まずは伊勢参りかな。」

  初発心草のまくらに旅寝して
小畑もちかし伊勢の神風 芭蕉

北枝「では伊勢の有り難さを引き立てるべく、疫病の流行も治ってと違え付けで。」

  小畑もちかし伊勢の神風
疱瘡は桑名日永もはやり過 北枝

芭蕉「違え付けの見本のようだな。」
北枝「疱瘡が流行ったけど、薬になる枇杷の葉がちょうど次々と芽吹いて、その葉を煎じて何とか凌いだ。」

  疱瘡は桑名日永もはやり過
雨はれくもる枇杷つはる也 北枝

芭蕉「一雨ごとに、でいいんじゃない。」

芭蕉「つはるは盛りになるという意味だったね。ここでは枇杷を琵琶に取り成して、雨の中、華やかに琵琶を掻き鳴らすということで、仙女の琵琶にしてみようか。琵琶の音に枇杷が育ってゆく。

  一雨ごとに枇杷つはる也
細ながき仙女の姿たをやかに 芭蕉

北枝「なるほど、一巻にもう一つ山場の欲しい所に仙女か。恋ではないし、神祇でも釈教でもない。」
芭蕉「仙女といえば機織りだね。ここは織るのではなく茜染めにしよう。」

  細ながき仙女の姿たをやかに
あかねをしぼる水のしら波 芭蕉

北枝「これは流血に取り成せと言ってるようなものだな。何か本説で、宇治川合戦じゃベタだから、その前の以仁王の挙兵で宇治川で押し返される場面にしようか。仲綱はここを逃れて平等院で死ぬんだっけ。」

  あかねをしぼる水のしら波
仲綱が宇治の網代とうち詠め 北枝

芭蕉「お見事。仙女から合戦への展開。この一巻の飾りとなったな。」
北枝「ここは逃げ句で、前句を仲綱で名高い宇治の網代ですねと使いの者の挨拶にする。」

  仲綱が宇治の網代とうち詠め
寺に使をたてる口上 北枝

芭蕉「花の定座だからな。寺に使いが来たというのは花見の誘いで間違いないな。朝の鐘を撞いたら、今日はもう何もせずに一日遊びましょう。早くしないと花は散っちゃいますよ、ってとこかな。」

  寺に使をたてる口上
鐘ついてあそばん花の散かかる 芭蕉

芭蕉「『散らば散れ』というのもありかな。いやそれじゃ禅問答だ。普通に花の散る前に花見ができたのを喜んで、北枝とこの一巻を満尾できたことにも感謝を込めて。」

  鐘ついてあそばん花の散かかる
酔狂人と弥生くれ行 芭蕉

八月五日

今日は旧暦8月4日で、元禄2年は8月5日。山中温泉。

夜中の雨は止んだが、朝から曇ってる。
昼頃ここを出て小松に向かうが、途中那谷までは曾良も一緒だ。そこから曾良は全昌寺に向かう。
あと、桃妖ともお別れだ。

湯の名残今宵は肌の寒からむ 芭蕉

温泉に入れないって意味だからね。

出発の時が来た。曾良もこの山中温泉に名残を惜しんで、

秋の哀入かはる湯や世の景色 曾良

とまるでこの世の名残の景色を惜しんでるかのようだ。
さすがにさっきの句を並べるのは恥ずかしので、作り直した。

湯の名残り幾度見るや霧のもと 芭蕉

霧のかかってるのを見ると、温泉の湯気の向こうに桃妖がいるようなイメージを、あくまで言葉の裏に隠しておいた。

那谷に着いた。ここで曾良ともお別れだ。
学者で顔も広く、その土地の有力者にも取り次いでくれたして、本当に有能な男だ。博識で古代の道にも詳しいし、朱子学も分かりやすく解説してくれた。おかげで蕉門の理論付けができそうだ。

でも、象潟でもっと北へ行きたいと言った時に止めたのは、きっと二十年に一度の伊勢神宮の式年遷宮に行きたかったからだな。
だからどのみち生きていれば伊勢で会うことになるんだろうな。あんなに遷宮祭を楽しみにしてたからな。まあ、とにかく死ぬなよ。

今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉

曾良「まあ、途中で病で動けなくなったとしても、その時は師匠が後からどのみち通ると思うと心強いです。倒れても、そこが花野なら誰かが来てくれる。」

跡あらん倒れ臥すとも花野原 曾良

曾良と別れてから北枝と一緒に那谷寺を見て回った。奇岩が多く、それも透き通るように白かった。
折から秋風が吹いて、秋もまた五行説では白だが、目にはさやかに見えない秋風は完全に透き通っていた。

石山の石より白し秋の風 芭蕉

小松に着いた。かねてから呼ばれていた生駒万子のところに行った。加賀藩の武士で立派な屋敷に住んでた。

2023年10月11日水曜日

 鈴呂屋書庫の「奥の細道─道祖神の旅─」をプロローグとエピローグ以外の本文を大幅に書き改めたのと、現代語訳「奥の細道」をアップしたのでよろしく。現代語訳の方はルビの方を読むと原文が読めるようにしてある。

 それではX奥の細道の続き。

七月二十六日

今日は旧暦7月に25日で、元禄2年は7月26日。小松。

夜中に降り出した雨は朝には止んだ。昨日は四十四句の世(よ)吉(よし)を満尾(まんび)させるまでやったので、疲れた。夜に今度は觀生の家で興行するので、それまではゆっくり休もう。

朝は止んでた雨は一転して豪雨になり、風も酷かった。いわゆる野分(のわき)というやつだ。おかげで今日はゆっくり休むことができた。
夕方には晴れて、觀生の家での興行は夜からになった。

芭蕉「いやあ、見事な萩だが、今日の雨で露を乗せたままなので、通るとみんなびしょ濡れだ。まあ、昔から萩に露は付き物で、これも一興だ。あとは月があればいうことないが、26日じゃな。」

ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩 芭蕉

曾良「下駄を履いてるからぬかるみは平気だが、萩の葉から落ちる露は気をつけよう。」

心せよ下駄のひびきも萩の露 曾良

北枝「人だけでなく、茂みのカマキリもびしょ濡れだ。」

かまきりや引こぼしたる萩の露 北枝

觀生「では芭蕉さんの発句で興行を始めましょう。萩といえばススキということで、ススキが生えてるだけじゃなく、屋根もススキで葺いて雨露をしのぐ。」

  ぬれて行や人もおかしき雨の萩
すすき隠(がくれ)に薄葺(すすきふく)家 觀生

曾良「ススキというと河原ですな。月の夜は猟師も猟を休んで、船遊びと洒落込む。」

  すすき隠に薄葺家
月見とて猟(れふ)にも出(いで)ず船あげて 曾良

北枝「船あげては船を陸にあげてにも取りなせる。船が沈んでびしょ濡れになって、船をやっとのこと引き上げると、帷子(かたびら)を干す。」

  月見とて猟にも出ず船あげて
干ぬかたびらを待(まち)かぬるなり 北枝

皷蟾「松風の寂しげな音に夢を破られて目を醒ますと、帷子もまだ乾いていない。まあ、人生というのはそんないっときの邯鄲(かんたん)の夢ですな。」

  干ぬかたびらを待かぬるなり
松の風昼寝の夢のかいさめぬ 皷蟾

志格「松並木ということにして街道の風景にしようか。物流を支える馬子たちが集まって昼寝してるというのもよく見る。」

  松の風昼寝の夢のかいさめぬ
轡(くつわ)ならべて馬のひと連(つれ) 志格

斧卜「馬が並んでるというと温泉かな。人が大勢来るし、療養で何日も滞在する。」

  轡ならべて馬のひと連
日を経たる湯本の峯も幽(かすか)なる 斧卜

塵生「温泉で酒飲んだやつはみんな出来あがっちゃって、飲めないやつが酒樽を運ばされる。」

  日を経たる湯本の峯も幽なる
下戸(げこ)にもたせておもき酒樽(さかだる) 塵生

李邑「いくさで敵が酒盛りやってるところを襲撃するって話、よくあるよね。やられた方は飲んでない奴に酒樽持たせて逃げて、そのまま落人(おちうど)になる。」

  下戸にもたせておもき酒樽
むらさめの古き錣(しころ)もちぎれたり 李邑

視三「落武者は道の辻堂で一夜を明かしたりする。ここでは地蔵堂にしておこう。」

  むらさめの古き錣もちぎれたり
道の地蔵に枕からばや 視三

夕市「地蔵堂で野宿しようとすれば日が暮れて、入相(いりあい)の鐘にカラスの声が混じる。」

  道の地蔵に枕からばや
入相の鴉の声も啼(なき)まじり 夕市

芭蕉「懐風(かいふう)藻(そう)に金烏望西舎、鼓声催短命ってあったな。大津の皇子(みこ)の処刑の詩だったか。罪人は船で運ばれて来て、辞世の歌を促される。」

  入相の鴉の声も啼まじり
歌をすすむる牢(らう)輿(ごし)の船 芭蕉


七月二十七日

今日は旧暦7月26日で、元禄2年は7月27日。小松。

今朝は晴れた。また暑くなるのかな。
ここのお諏訪(すわ)様が祭りだというから参拝して、それから山中温泉の方に行く。曾良の療養にもなるというので勧められた。
最悪の場合は曾良を先に返すことになるが、その時は曾良にも自分にも同行者が欲しい。

小松を出る時に、斧卜と志格がまた引き留めようとやって来たが、長居はできない。
多田八幡に寄って発句を奉納した。

あなむざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす 芭蕉

北枝も一緒に山中温泉に来てくれる。

まだ明るいうちに山中温泉に着いた。泉屋久米之助の宿に泊まる。主人の久米之助はまだ少年、それもとびきりの美少年でこれからの滞在が楽しみ、っとそれはともかく、久米之助の父は貞徳の門人で、俳諧の方も期待できそうだ。

山中温泉の湯に早速入った。白くて硫黄の匂いがして、不老長寿の薬効があるという。重陽(ちょうよう)の菊(きく)酒(ざけ)も用はないか。
加賀には加賀(かが)菊(きく)酒(ざけ)というのがあって、これは通常の菊の花の入った酒ではなく、諸白(もろはく)のような清酒だった。

精米歩合がやや低くて、江戸の酒ほど黒くないけど、ほんのり黄色い色がついて、それを重陽の菊酒になぞらえて、菊酒の名前があるという。
もちろん温泉に加えて菊酒もあれば言うことはない。

山中や菊はたおらぬ湯の匂(にほひ) 芭蕉


七月二十八日

今日は旧暦7月27日で、元禄2年は7月28日。山中温泉。

昨日も夕立があったが、今朝は晴れた。ここなら金沢の人たちも来ないし、ゆっくり休養しよう。
曾良も温泉に入れて取り敢えずは満足してるようだ。昨日の諏訪祭りは曾良が見に行きたがったし、神社のこととなると病気を忘れるようだ。

曾良は金沢にいる時にあちこちに手紙を書いてたから、そのうち迎えの者が来るのかもしれない。多分返事は小春(しょうしゅん)の方に届くのだろう。そこから使いが来るのか、それまではここで休養だ。

夕方曾良と一緒に街の辺りを散歩した。薬師堂があって、曾良は興味深そうにしてた。
夜になって雨が降り出した。


七月二十九日

今日は旧暦7月28日で、元禄2年は7月29日。山中温泉。

今日は一日ゆっくり休んで、夜になってから久米之助の道明が淵のカジカ漁を見に行かないかと誘われ、他の宿の人も一緒に見に行った。
町からちょっと川上に行った所で、そんなに遠くはなかった。
曾良はそれほど興味なさそうで、宿に残った。

道明が淵はというと、月のない夜で真っ暗な上、篝(かがり)火(び)の煙がひどくてよく見えなかった。これじゃカジカもさぞ煙たかろう。

漁り火に鰍(かじか)や浪の下むせび 芭蕉


七月三十日

今日は旧暦7月29日で、元禄2年は7月30日。山中温泉。

今日も晴れた。7月も今日で終わり。
昨日は真っ暗でよく見えなかった道明(どうみょう)が淵を、あらためて昼間見に行った。今日は曾良も同行で、そうそう北枝がいたのも忘れてはいけない。
北枝には暇な時に少しづつ俳諧の指導をしている。

2023年10月2日月曜日

 このままロシアの侵略が既成事実化されてゆくと、それは世界全土に武力による国境の変更は許されるというメッセージを与えることになる。
 そしてこうした行為に対して国連は無力だし、アメリカが世界の警察となることもなく、まして国際世論なんてのが糞の役にも立たないということが証明されてしまうと、第三次世界大戦は米露の戦争でもなければ米中の戦争でもなく、中東やアフリカを中心とした国境の再編ではないかと思う。
 戦後の国連体制では国境の変更を基本的に認めない立場で、局地的な紛争はあっても全面戦争は抑えらて来た。もし仮にロシアとウクライナの武力による国境の変更を国際社会が認め、これに対する市民のデモもわずかでしかないということになれば、これは国境の変更にGOサインを出したようなものだ。
 このままロシアとウクライナの戦闘が膠着するなら、地球規模での国境の引き直しが、グレート・リセットが起こるのではないかと思う。まあ、言ってみれば戦国時代になるということだ。
 実際、植民地時代に西洋列強によって引かれた国境を持つ地域では、これを願ってもないチャンスと思う人も少なからずいるだろうし、彼らはロシアの勝利に期待してることだろう。
 これまで平和のために作られてきた技術が、急テンポで軍事に転用されるようになるだろう。いわばAIとロボットと遠隔操作と情報操作の戦争になる。いわば、こうした軍事技術を持つ軍事輸出国がこれからは繫栄することになる。
 戦争に勝つことより、戦場になることを免れた国が、最終的には繁栄することになる。

2023年9月18日月曜日

  永久平和のためには何をすればいいかというと、基本的には生存競争の必然性のない世界、つまり争わなくても生きることのできる世界を作る必要がある。
 まず、「社会」ではなく「世界」だ。一部の社会だけがそれを達成しても、それ以外の社会に不満が残る。だから世界中がそれを達成した時、初めて本当の平和は訪れる。

 生存競争の必然性のない社会とは、基本的には高い生産性と人口の安定、この二つが必要になる。十九世紀以降の産業革命は生産性を飛躍的に高めてきたが、人口は急増した。人口の安定は二十世紀後半の一部の先進国のみで成し遂げられ、その後経済成長を遂げた他の地域にも広がっていったが、まだ世界全体からすれば十分ではない。
 地球の人口増加が止まり、それ以降、各国の生産力に応じた適正人口が維持されなくてはならない。理想を言えばその国の食料生産量で養える人口が望ましい。ただ、小国や砂漠の国などでそれが難しくても、健全な市場経済で適切な貿易が行われていれば問題はそれほど大きくない。ただ、世界全体の生産力に応じた世界人口は絶対に維持されなければならない。

 そしてこれが本当に難しい所だが、高い生産性は持続可能でなくてはならない。

 どの国も高い生産力でもって国民が飢える心配もなく豊かな生活を送れるのであれば、他国を侵略する必然性は薄れる。これが平和の第一条件になる。

 第二の世界平和の条件は、文化的多様性の確保され、同一地域に複数のルールの共存を避けなくてはならない。そのために国境が必要とされ、諸国家の独立が保障されなくてはならない。
 同一地域での複数のルールの共存は、その地域のルールの信頼性を損ねるもので、無政府状態を招く。
 喩えで言うなら、車が右側を走るか左側を走るかは、別にどっちが良いとは言えない問題だが、それでもどっちかに決めなければいけない。それと同じように、様々な社会的なルールには、必ずしもどれが優れるとは言えないものも多い。また様々なルールを思考錯誤する中でより良いルールが形成されてゆく以上、世界全体を一つのルールで縛ることはルールの発展性を奪うことになる。
 様々な国が様々なルールを試すことで、よりよいルールが発見されることになる。
 様々な民族の生活習慣に簡単に優劣をつけることができない以上、複数のルールは併存しなくてはならないが、同一地域で二つのルールが共存すれば無法状態になる。そのため、様々な異なるルールは地域を区切って行われなくてはならない。それが国家の存続する根拠となる。
 基本的にはたとえ複数の民族が共存するにしても、一つの地域での一つのルールは守られなくてはならない。郷に入れば郷に従え、と昔から言う通りだ。

 昔から民族国家という考え方はあり、社会主義でも民族自決の思想がある。基本的に民族ごとに国家を得られるようにする必要がある。ただ、それは国境の変更を認めない今の国際社会との間に深刻な矛盾を生じさせることになる。
 たとえばクルド人のような国家を持たないが、決して少数民族とは言えない規模を持つ集団もある。その一方で世界中に散在していたユダヤ人をイスラエルという小さな国に押し込むのも明らかに無理があった。ましてや国家を持たない少数民族は無数に存在する。
 彼らが地域的にまとまって生活しているのであれば、その独立を認めなくてはならない。一地域の独立であれば国境の変更とは矛盾しない。ただ国境が増えるだけになる。
 これにもロシアが行ったような危険な抜け道がある。つまり入植、独立、併合のプロセスで結果的に国土を拡大するというやり方だ。これは絶対に禁止されなくてはならない。独立の権利のあるのは、本来そこに住んでいたか、過去に強制移住させられた(ロヒンギャのような)に限定されなくてはならない。自発的な移民や入植での独立は認めてはならない。
 もちろん、実際は自発的にやって来た外国人労働者が、強制連行されたという虚偽の主張することも決して認めてはならない。

 民族の移動は実際に国家が労働力を求めて行うことが多いが、これも慎重に行わなくてはならない。基本的には自発的にやって来た者は、その土地のルールに従い、独立を認めないということを守って行く必要がある。複数ルールが横行すれば法治国家は崩壊して無政府状態になる。

 第三の世界平和の条件は、独裁国家を無くすということだ。独裁体制であれば、ほんの一握りの人の意思で戦争を起こすことができる。世界征服の野望であったり、対立民族の殲滅であったり、そういうことを企てる人間は、そうそう多数派にはならない。
 戦争が日常化してた前近代であれば、そういう人たちが多数派になることもあったが、長い平和になれた人たちが、簡単にその平和を捨てようとは思うまい。だが、独裁体制なら、そうした平和を望む多数派を押さえつけてでも戦争を起こすことが可能だ。
 これはこれまでの二つの条件、持続可能な高い生産性と人口の安定、同一地域の単一ルールが実現されていても、ほんの一部の人の気まぐれで戦争が起こる原因になる。地球規模での民主化を促す必要がある。

 持続可能な高い生産性と人口の安定、同一地域の単一ルール、地球規模での民主主義。この三つは今の世界の現実からすると、まだまだほど遠い。
 この理想に反する国家に対して、有効な制裁の手段も今のところは存在しない。国連はもう長いこと機能不全の状態にある。まして「世界の警察」と呼ばれてた国も、その国が呼びかける多国籍軍もウクライナには何の機能も果たさなかった。
 ここにもう一つ第四の難問がある。今までの三つの理想はそれぞれの国民の間で共有されれば実現可能だが、四番目の違反国に対する制裁は最も困難な問題なのかもしれない。

2023年9月10日日曜日

  キリスト教文化圏の人からすると、日本のジャニーズ事務所への対応は奇異なものに映るかもしれないが、日本には同性愛そのものを犯罪としてきたソドム法の歴史がないし、聖書の「ソドムの罪」の物語も知らない。
 そういう文化では、男性の男性に対するレイプは存在しても、女性に対するレイプと比較すると軽微だと考えるのは自然だと思う。
 先ず男性と女性ではレイプの意味が大きく異なる。それは男性がばら撒く性として進化してきたのに対し、女性は選ぶ性として進化してきたことで、性的選択権の重みは男性と女性では大きく異なる。つまり、男性は女性に無理やり性交を迫られても、スキャンダルになるからヤバいとか、美人局ではないかとかいう懸念はあっても、それほど嫌ではないものだ。
 男の同性愛者、いわゆるゲイもまた不特定多数との性交を求める傾向があるが、これはノンケの男が見境なく女を求めるのと一緒で、男の遺伝子を持つものとしては自然な行動だ。そのため、ゲイの集団は特定のパートナーを持たなずに自由にしていることも多い。
 男にとって、カマを掘られることもまた、昔から名誉の問題として捉えられることが多かった。(これはキリスト教以前の古代ギリシャでもそうだという。)不名誉なことでプライドを傷つけられても、女性のレイプほどの命にかかわるような問題ではなかった。
 また、同性へのレイプには「血統に対する罪」も存在しない。女性へのレイプは洋の東西を問わず血統を汚すということと結びつけられ、重罪とされてきた。近代でも組織的なレイプによって民族の血統を抹消しようとする、民族浄化の一環としてしばしば行われている。
 西洋のソドミーは同性愛をのものが重罪であるところから、レイプはそのまま証拠隠滅のための殺人と結びつくことが多かったのではないかと思うが、日本ではそのような必要はなかった。
 日本のポルノではサド侯爵の小説のような虐殺を描くことがほとんどない。そこから、同性による強姦事件も、一般的にはそれほど深刻なものとは受け止められず、「カマ掘られちゃったよ」くらいで笑い話になることも多かった。

 それではX奥の細道の続き。

七月二十一日

今日は旧暦7月20日で、元禄2年は7月21日。金沢。

今日も晴れてる。
曾良はまた病気がぶり返して、高徹という医者の所に行った。
そういうわけで今日も曾良抜きで、北枝と一水と一緒に卯辰山の麓の寺に行った。句空という僧が隠棲していて、陶淵明に倣ってか柳の木があった。

卯辰山に登ると遠くに越の白嶺が見えた。残暑厳しい中で雪を被っていて白く涼しげだった。
この山を吉野の花に喩えた俊成卿の、

み吉野の花の盛りを今日見れば
   越の白嶺に春風ぞ吹く

の歌を思い出し、「こしの白嶺を国の花」と下七五が浮かび上五をどうしようかあれこれ考えたが、今一つ決まらなかった。「風かほる」も良さそうだが、これは夏の季語だ、今は秋だからな。

七月二十二日

今日は旧暦7月21日で、元禄2年は7月22日。金沢。

相変わらず暑い日が続く。曾良の病気は良くならず、今日はその高徹という医者の方から来てくれるという。今日の一笑の追善会の参加は無理かな。

一笑の追善会は朝飯が済んでから願念寺に集まって、法要が営まれた。午後から曾良も来て、暮に終わった。丿松さんお疲れ様でした。
追善の句。

塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉

七月二十三日

今日は旧暦7月22日で、元禄2年は7月23日。金沢。

今日も晴れ。曾良の病気はだいぶ良くなった。今日一日しっかり休養すれば、明日は小松に向けて出発できると思う。
今日も雲口に誘われて、曾良抜きで宮ノ越を見に行く予定だ。内海で象潟ほどではないにせよ、景色の良い所だという。

宮ノ越を見た。なるほど景色は良いが、今日も暑い。アイの風で涼んだ象潟とはやはり違う。
とはいえ、外海の浜に来た時、冠石で詠んだ、

小鯛挿す柳涼しや海士が妻
  北にかたよる沖の夕立

の句を思い出した。

小春「前句が夏だから、秋の初めの夕暮れに転じようかな。秋に転じるなら月、初めだから三日月をあしらっておこうか。」

  北にかたよる沖の夕立
三日月のまだ落つかぬ秋の来て 小春

雲口「七月の初めというと、重陽の開花に間に合うように菊の摘心をしなくてはな。」

  三日月のまだ落つかぬ秋の来て
いそげと菊の下葉摘みぬる 雲口

北枝「菊の摘心の作業をするために羽織を脱いでおいたら、草の露で濡れてしまった。」

  いそげと菊の下葉摘みぬる
ぬぎ置し羽織にのぼる草の露 北枝

牧童「羽織を脱ぐというと相撲かな。ただ秋が三句続いたので、相撲という季語は入れずに、土俵を表す四方の柱にしておこう。」
  ぬぎ置し羽織にのぼる草の露
柱の四方をめぐる遠山 牧童

夕方に牧童と紅爾が来て、もう少しここに留まって欲しいと言われた。
曾良が言うには、高徹は悪い医者ではないが、できれば早く伊勢長島まで行って、馴染みの医者の所に行きたいとのこと。
そう言うわけで明日は予定通り出発することにした。

七月二十四日

今日は旧暦7月23日で、元禄2年は7月24日。金沢を出る。

今日もまた良い天気で、曾良も馬に乗って移動できる程度に回復した。
小春、牧童、乙州も街外れまで、送ってくれた。
雲口、一泉はもう少し先まで来てくれるという。

小春「名残惜しいですね。ここに来た日に一泊してくれたことは一生の思い出です。同じ蚊帳の中に寝たなんて自慢です。」

寝る迄の名残なりけり秋の蚊帳 小春

芭蕉「あの日はお盆で満月だったけど、一笑の死を知らされて、せっかくの月も庇を閉ざしたような気分になってしまったな。」

  寝る迄の名残なりけり秋の蚊帳
あたら月夜の庇さし切 芭蕉

曾良「月夜なのに庇を閉ざすといえば嵐ですね。」

  あたら月夜の庇さし切
初嵐山あるかたの烈しくて 曾良

北枝「私はこれから一緒に小松に行って、しばらく芭蕉さんのお供をさせていただきます。では、前句の嵐で増水した水に流されて魚が川の縁の外に出てしまった。」

  初嵐山あるかたの烈しくて
江ぶちのり越ス水のささ魚 北枝

今日は旧暦7月23日で、元禄2年は7月24日。金沢を出る。

雲口や一泉とは野々市で別れた。餞別の餅や酒を貰った。曾良のこともあるし、途中休憩しながらゆっくり行こう。

まだ日も高いうちに小松に着いた。竹意がここまで一緒に着いてきてくれて、近江屋という宿を紹介してくれたので、今日は曾良が走り回ることもなかった。北枝も一緒に泊まる。

七月二十五日

今日は旧暦7月24日で、元禄2年は7月25日。小松。

今日も良い天気だ。曾良の病気のこともあって、容態の良い時に一刻も早く伊勢長島へと思ってたが、例によって小松の俳諧好きが集まってきて、北枝にもう少し留まるように頼まれた。
曾良も了解し、立松寺で泊めてくれるというので、そっちに移動する。

多田八幡へ詣でて、実盛の甲冑や木曽願書を見た。木曽願書といえば須賀川の興行で、

  梓弓矢の羽の露をかはかせて
願書をよめる暁の声 芭蕉

ってネタにしたっけ。このあと山王神社の神主さんに呼ばれて、そこで興行する。

山王神社での興行。
芭蕉「では小松という地名に掛けて、松風だと蕭々として凄まじく聞こえるけど、ものが小松なだけにしおらしい音しか出なくて、自分も曾良も本調子ではなく、句のしおらしさもご容赦願おう。」

しほらしき名や小松ふく萩芒 芭蕉

皷蟾「山王神社の神主です。小松吹く程度のしおらしい風くらいが、萩芒の露も散らなくて、月夜には月の光でキラキラしてちょうどいいですね。」

  しほらしき名や小松ふく萩芒
露を見しりて影うつす月 皷蟾

北枝「名月ではなく盆の月にしようか。それも遠くから盆踊りの音を聞くと、低い太鼓の音だけで、これも寂しいものだけど。」

  露を見しりて影うつす月
躍のおとさびしき秋の数ならん 北枝

斧卜「遠くで聞く盆踊りというと、自宅で留守番かな。芦の網戸を訪う人もない。」

  躍のおとさびしき秋の数ならん
葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ 斧卜

塵生「誰も来ず戸を閉ざすのは雪でしょう。ここの冬は雪が深くて。」

  葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ
しら雪やあしだながらもまだ深 塵生

志格「雪で一面真っ白な所に真っ黒なカラスをあしらっておこうか。嵐の風で飛ばされたのか、カラスが集まる。」

  しら雪やあしだながらもまだ深
あらしに乗し烏一むれ 志格

夕市「嵐が来たんで漁船が戻ってきたら、カラスの群れが魚を取りに来て、それを追っ払おうと何かないかと見たら、磯に矢が落ちてた。」

  あらしに乗し烏一むれ
浪あらき磯にあげたる矢を拾 夕市

到益「磯に矢というと矢の雨が降ったのかな。臼杵湾の洲崎岩ヶ鼻の八坂神社は大友宗麟の弾圧を受けた。」

  浪あらき磯にあげたる矢を拾
雨に洲崎の岩をうしなふ 到益

觀生「海辺に鳥居が立ってる神社って、結構本殿は海岸から遠かったりする。なかなか火の灯る所に辿り着けない。」

  雨に洲崎の岩をうしなふ
鳥居立松よりおくに火は遠く 觀生

曾良「神社で火を焚くというと、乞食に物を食わせてやろうと炊き出しをやってたんでしょうね。」

  鳥居立松よりおくに火は遠く
乞食おこして物くはせける 曾良

北枝「蝉が飛んで来て笠に当たって来たんで、乞食が目を覚ましたんでしょう。眠ったままなら通り過ぎようと思ったけど、まあ何か食わせてやろうか。」

  乞食おこして物くはせける
夏蝉の行ては笠に落かへり 北枝

芭蕉「夏の暑い盛りは喉が渇くと気分も悪く意識も朦朧として倒れたりもする。生水はお腹壊すからお湯がいいんだが、唐茶だったらもっと良いな。唐茶はお茶の葉を鍋で炒ってから揉んで作る。」

  夏蝉の行ては笠に落かへり
茶をもむ頃やいとど夏の日 芭蕉

斧卜「お茶を揉んでたら夕立で山伏が雨宿りに来る。」

  茶をもむ頃やいとど夏の日
ゆふ雨のすず懸乾にやどりけり 斧卜

北枝「その山伏というのは何でも一言多くて、雨宿りをした家の子供を褒めてやるんだが。」

  ゆふ雨のすず懸乾にやどりけり
子をほめつつも難すこしいふ 北枝

皷蟾「お侍さんは人の生死を預かる仕事ですから、子供も厳しく育てますね。ただ、いきなり叱りつけるのではなく、褒めてから叱る。これ大事ですね、」

  子をほめつつも難すこしいふ
侍のおもふべきこそ命なり 皷蟾

觀生「かつては命を張って戦ってたお侍さんも、こういう平和な時代で晩年を迎えて、算盤を習う。」

  侍のおもふべきこそ命なり
そろ盤ならふ末の世となる 觀生

志格「平和で商業が発展して豊かなのは良いことだ。月の定座だし、涙することがあっても月は豊の光。」

  そろ盤ならふ末の世となる
泪にさす月まで豊の光して 志格

夕市「中秋の名月は芋名月で、ここは十三夜の栗名月にしようか。今年も栗は豊作。」

  泪にさす月まで豊の光して
皮むく栗を焚て味ふ夕市

午後雨が降ったがすぐに止んだ。俳諧の方はみんな乗って来たのかまだまだ続きそうで、ここに泊まることにした。

2023年9月7日木曜日

 それではX奥の細道の続き。

七月十六日

今日は旧暦7月15日で、元禄2年は7月16日。金沢。

今日も良い天気で、朝はゆっくり休んだ。
竹雀が籠屋屋を連れて迎えにきてくれて、宮竹屋喜左衛門の家に移った。

七月十七日

今日は旧暦7月16日で、元禄2年は7月17日。金沢。

昨日の午後から、金沢で俳諧をやってるという人が二、三訪ねて来た。まあ、深川にいる時はいつもそうだし、旅でも長く滞在してると必ず人がやってくる。
源意庵から誘いがあって今日は出かけることにするが、曾良がまた具合が悪くなって心配だ。

源意庵は川の近くでここで夕涼みをした。俳諧興行ではなく、みんなで発句を詠んだ。
この前から何度となく海に傾く夕日を見たけど、それに耳で聞く秋風と取り合わせて、

あかあかと日はつれなくも秋の風 芭蕉

我ながらよくできたと思った。

曾良から預かった句もあって、

人々の涼みに残る暑さかな 曾良

病気で暑い部屋に取り残されたからな。
その他、宿の主人の、

入相や盆の過ぎたる鐘の音 小春

源四郎の、

橋見れば少し残暑の支へたり 北枝

の句もあった。
あとは、

白鷺やねぐら曇らす秋の照り 此道
川音やすごきに退かぬ残暑哉 雲口
雲立ちの今日も変らぬ残暑哉 一水

の句もあったかな。

七月十八日

今日は旧暦7月17日で、元禄2年は7月18日。金沢。

昨日は源意庵から帰ったあと、夜中に強い雨が降ったが、明け方には止んで、今は快晴だ。
曾良の調子も良くならないし、今日は一日ゆっくり休みたい。

昨日の「あかあかと」の句。曾良によると、秋風は春に生じた生命の秋に止むの、その目に見えない暗示だそうで、それに太陽がつれなくも沈んでゆくのと響き会うとのこと。

七月十九日

今日は旧暦7月18日で、元禄2年は7月19日。金沢。

今朝も晴れた。曾良の調子もだいぶ良くなってきたという。明日の興行は大丈夫かな。
今日もゆっくり休もう。

昼も過ぎた頃だったか、去年の夏、大津にいた時に入門してきた乙州と再会した。明日の興行に参加するという。大阪商人の何処も一緒だった。
一昨日招かれた源意庵の源四郎も来た。牧童の弟で北枝とかいったか。

七月二十日

今日は旧暦7月19日で、元禄2年は7月20日。金沢。

午後から一泉の家で興行した。
芭蕉「ではお盆も終わったことで、お供えしてた瓜や茄子のお下がりを頂いたので、みんなで食べましょう。茄子は生では何だから、それぞれ料理してね。」

残暑暫手毎にれうれ瓜茄子 芭蕉

一泉「暑いけど日は短くなって暮れるのも早くなったが、今日はまだ日の高いうちで、暑いと思いますが。」

  残暑暫手毎にれうれ瓜茄子
みじかさまたで秋の日の影 一泉

左任「では旅体に転じようか。日が出たからすぐに月に行かなくてはね。短い日が沈んで月と入れ替わるように、野の末で馬も乗り換える。」

  みじかさまたで秋の日の影
月よりも行野の末に馬次て 左任

丿松「弟が参加できなくて残念だけで、頑張ります。月よりも、月ではなく高い生垣ばかり目について、月がよく見えない。」

  月よりも行野の末に馬次て
透間きびしき村の生垣 丿松

竹意「弟さんは本当に残念でした。でもまあここは湿っぽくならずに。生垣の家が並ぶと言えば三条に釘を作流ために集まった鍬鍛治屋さん。そこらじゅうで槌の音を響かせている。」

  透間きびしき村の生垣
鍬鍛治の門をならべて槌の音 竹意

語子「鍛冶屋といえば水が必要。」

  鍬鍛治の門をならべて槌の音
小桶の清水むすぶ明くれ 語子

雲口「毎日朝夕水を汲みに行く人は、七つの頃から育ててもらった老女に恩を返す意味で、毎日介護をしている。」

  小桶の清水むすぶ明くれ
七より生長しも姨のおん 雲口

乙州「その老女は既に亡くなっていて、追善に放生会をする。加賀にも放生津八幡があるしね。でも場所はそれっぽい架空の場所ということで、西方浄土の西に掛けて、西の栗原。」

  七より生長しも姨のおん
とり放やるにしの栗原 乙州

如柳「放たれた鳥が西の栗原に遊んでるのを見ると、昔読み習った西行法師の、

心なき身にもあはれは知られけり
   鴫立つ沢の秋の夕暮れ

の歌を思い出す。」

  とり放やるにしの栗原
読習ふ歌に道ある心地して 如柳

北枝「歌の心といえば月花だから、この辺で月を出そうか。油がなくなって行灯の火が消えたと思ったら、いいタイミングで雲間から月が出た。心ある月だ。」

  読習ふ歌に道ある心地して
ともし消れば雲に出る月 北枝

曾良「渡し守の朝にしましょう。明るくなって灯しを消すと、雲の切れ目から有明の月が見えて、今日はいい天気になりそうだ。でも明け方は冷えるので、咳をする。」

  ともし消れば雲に出る月
肌寒咳きしたる渡し守 曾良

流志「渡し場の景を添えておこう。肌寒い頃には干し残した稲が近くにあったりする。」

  肌寒咳きしたる渡し守
をのが立木にほし残る稲 流志

一泉「稲が干したまま取り残されてるなんて、夫婦喧嘩でもしたかな。元から不本意な縁組をされたとか。」

  をのが立木にほし残る稲
ふたつ屋はわりなき中と縁組て 一泉

芭蕉「わりなきという言葉は良い意味に転用して使われることもあるからな。逆に評判の思いっきり仲の良い夫婦ということにして。」

  ふたつ屋はわりなき中と縁組て
さざめ聞ゆる国の境目 芭蕉

北枝「国の境目というと、そこを越えて駆け落ちする恋人同士というところかな。変装のための衣を縫う。」

  さざめ聞ゆる国の境目
糸かりて寝間に我ぬふ恋ごろも 北枝

雲口「ここは筒井筒の健気な幼馴染みとしようか。夫の旅の無事を祈り、

風吹けば沖津白波たつた山
  夜半には君が一人越ゆらむ

の心で。」

  糸かりて寝間に我ぬふ恋ごろも
あしたふむべき遠山の雲 雲口

浪生「明日踏む遠山の雲は吉野の花の雲ですな。草庵に住む人が正月に飾る野老(ところ)にその花を思う。」
芭蕉「思い出すな、万菊丸と吉野へ行った時を。採用。」

  あしたふむべき遠山の雲
草の戸の花にもうつす野老にて 浪生

曾良「野老とか自然のものだけで生活していて、みう何年も畑を耕してい隠者なんでしょうね。まあ、仙人出ないなら、徳があって米をくれる人がいるんでしょうな。」

  草の戸の花にもうつす野老にて
はたうつ事も知らで幾はる 曾良

興行が半歌仙で終わったあと、野畑という所へ行った。前田家の墓所のある所で、小高い山になる。ここでまた、つれなく沈んでゆく夕日を見た。帰ってから夜食に瓜茄子を食べた。
明後日は一笑の追善会をやる。

2023年9月2日土曜日

  所詮同じ人間じゃないか、そう思う普遍的な感情は基本的人権の源泉であり、民主主義の基礎でもある。
 ただ、こう言われるのを侮辱だと感じる人もいるようで、そういう人が独裁政治をやりたがるのだろう。

 それではX奥の細道の続き。

七月十一日

今日は旧暦7月10日で、元禄2年は7月11日。高田を出る。

今日はよく晴れた。高田を出て午前中に直江津の五智国分寺と越後国一之宮の居多神社を見て回った。これからまた海岸沿いの道だ。それにしても暑い。

あれから海岸沿いの道を延々と歩いて、夕暮れには能生に着き、玉屋五郎兵衛の宿に泊まった。今日も夕日が海に沈む。月も南の空に見える。大分丸くなってきた。お盆も近い。

七月十二日

今日は旧暦7月11日で、元禄2年は7月12日。能生を出る。

今日も良い天気で、昨日に続いてまた海岸の道を延々と歩いてる。
途中早川という川を渡ってる時に転んでびしょ濡れになった。まあ、この日差しならすぐ乾くが。

昼は糸魚川の荒屋町の左五左衛門の宿で休憩した。前日名立に泊まった場合はここで宿泊する予定だったようだ。名立からの返事がなかったので能生まで行ったんだという。
ここでも加賀大聖寺から何か連絡があったようだ。曾良はしっかり仕事している。

糸魚川を出てしばらく行くと親知らず子知らずという断崖絶壁の迫るところがあったが、今日は天気も良く波も穏やかで問題はなかった。
この辺りまで来るとうっすらと能登が見えてくる。
夕日が能登に傾く頃、市振に着いた。

市振に宿を取ると新潟から来たという遊女二人と付き添いの老人が泊まってた。
遊郭の遊女は籠の鳥だが、田舎の方では結構こういう自由な遊女がいて、そんな珍しくもないけどね。
これから伊勢へ行くという。遷宮の年だし自分もこれから行くからね。

一つ家に遊女も寝たり‥、そのまんまだけど何か季語を入れたら発句になるかな。
遊女は臥すものだから萩。そこに真如の月が照らすと、萩の露がきらきら光る。

一家に遊女もねたり萩と月 芭蕉

七月十三日

今日は旧暦7月12日で、元禄2年は7月13日。市振を発つ。

市振を出ると能登の方に虹がかかってた。不安定な天気のようだ。
ちょっと行くと玉木村という所に川があって、ここを渡ると越中になる。
渡るとすぐ先に境の関があった。加賀藩の領内の入るとさすが加賀百万石だ。馬に乗れた。

入善まで来ると広い川の河川敷になっていて、ここは馬で通れないという。黒部川の河口はたくさんの川に分かれていて、その都度足を濡らして越えなくてはならない。曾良が人を雇って荷物を持たせて、何とか渡ることができた。今日は転ばないよ。

川上に一里半行った所には橋があるので、雨が続く時はみんなそっちを通るという。

黒部川を渡ったあと、雨が降ってきたが、晴れるとまた暑い。
まあ、でも馬での移動は楽だ。明るいうちに滑川に着いた。

七月十四日

今日は旧暦7月13日で、元禄2年は7月14日。滑川を出る。

今日も良い天気で滑川を出た。また海岸沿いの道が続く。高田を出てから異常に暑い日が続いてるが、歩かなくていいのは助かる。昔詠んだ、

命なりわづかの笠の下涼み 桃青

の句を思い出す。

東岩瀬までは3里ほどだった。渡し船で大きな川の河口を渡った。
ここを通れば富山藩の手形なしに向こう側に行くことができる。分断された加賀藩の回廊のようなものだ。
富山城は一里ほど川上になるらしい。

川を渡ると久しぶりに湿地帯の広がる場所に来て、やがて大きな入江になる。ここが那古の浦か。

越の海あゆの風吹く那古の浦に
   船は留めよ波枕せむ
       藤原仲実

の歌に詠まれた所か。今日はアイの風もなく暑い。

那古の大きな干潟を見ながら海沿いを行くと、放生津八幡宮があった。放生会をするところからその名があるという。
そういえば尾花沢の興行でも放生会をネタにしたっけな。
この先また大きな川の河口を渡る。

川を渡り、右に折れると海岸沿いに能登へ行くという。こっちへ行くと氷見という所に歌枕名寄の、

この頃は田子の藤波なみかけて
   ゆくてにかざす袖や濡れなむ
       土御門院

の歌に詠まれた田子の藤波があるという。

行ってみたいが狭い道を5里歩かなくてはならないだとか、行っても泊まる所がないと言って曾良に止められた。
この辺りへ来ると田んぼで早稲を作ってるのか、独特な匂いがする。曾良はいい匂いだというが、やっぱ臭い。

わせの香や分入右は有磯海 芭蕉

高岡に着いた。二上山は目の前にある。

玉くしげ二上山に鳴く鳥の
   声の恋しき時は来にけり

これも歌枕名寄にあった。
ここで一泊だが、何だかとにかく疲れた。

七月十五日

今日は旧暦7月14日で、元禄2年は7月15日。金沢へ。

今日はお盆で、これから倶利伽羅峠を越えて金沢に向かう。木曽義仲の火牛の計は俳諧でもネタにされてるが、本当なのだろうか。
今日も暑い日になりそうだ。昨日はあれから気分が悪くなった。気をつけよう。

埴生八幡に参拝した。木曽義仲もここで戦勝祈願をしたという。
ここまでは平坦な道だったが、ここから山越の道になる。
埴生八幡から少し行って川を渡ると、西へと尾根道を登ってゆくことになる。道は結構広いし馬で越えられるのは有り難い。

稜線の尾根道を行き、高いところまで来ると、左に源氏山、右に卯の花山が見える。木曽義仲もこの辺りに陣を張ったという。
道は一度下ってから卯の花山の北側の脇を抜けて行き、ここが倶利伽羅峠になる。

倶利伽羅峠を越えた。その火牛の計のあったという谷は山の裏側で、結局見えなかった。
そのあとまた稜線上のだらだらとした道が続く。
曾良はこういう直線的な尾根道は古代の駅路の名残だというが、どうでもいい情報だ。

やはり馬は楽だ。暑い一日だったけど意外に早く金沢に着いた。京屋吉兵衛の宿の泊まることになった。
竹雀と一笑を呼んできてもらったが、竹雀は牧童を連れてすぐにやってきたが、一笑が去年の12月に亡くなったことを知った。

とにかく今日の木曽義仲の旧跡を見てきた楽しい気分が一気に吹っ飛んだ。まだ若かったはずだ。
出発前に名古屋の荷兮に今度の撰集阿羅野の序文を送ったが、その阿羅野には一笑の句が載っていた。

元日や明すましたるかすみ哉
いそがしや野分の空に夜這星
火とぼして幾日になりぬ冬椿

会いたかった。

一笑の死のショックは大きかったが、集まった金沢の人達に慰められながら、気を紛らわす意味でもお盆の発句を作ってみた。
九郎判官義経に成敗された盗賊の頭の熊坂長範は加賀の生まれだったということで、この辺りだと親類縁者がいるのかな。

だとすると熊坂長範の魂を持つる人達もいるのかなって思った。

熊坂がゆかりやいつの玉まつり 芭蕉

一笑の魂も初盆で帰ってきてくれてるなら聞いてるかな。

2023年9月1日金曜日

  それではX奥の細道の続き。

七月七日

今日は旧暦7月6日で、元禄2年は7月7日。直江津。

今日も朝から雨。村上から歩きっぱなしだし、ゆっくり休みたい。
曾良もまた昨日の宿のトラブルで疲れ切ってる。

聴信寺から何度も使いが来て招待されて、ずっと断ってたが、結局午後には行ってきた。
夜は右雪の家で昨日約束した興行を行う。

石塚喜衛門「俳号は左栗だすけ、よろしく。では、発句は昨日出てたので、脇から。六日は常の夜には似ずというのは芭蕉さんがいらしたからで、我々落ちかけてた桐の葉にも露の輝く。」

  文月や六日も常の夜には似ず
露をのせたる桐の一葉 左栗

曾良「では露の光ということで、朝の情景に転じましょう。仁徳天皇の民の煙の賑わいを喜ぶということで。」

  露をのせたる桐の一葉
朝霧に食焼烟立分て 曾良

眠鴎「煙が立つと言えば海人の藻塩だすけ、磯の情景ということで。」

  朝霧に食う焼烟立分て
蜑の小舟をはせ上る磯 眠鴎

石塚善四郎「俳号は此竹。海人の小舟といえば、昔の須磨明石の流刑人。帰る所もない。ねぐらのないカラスのような。」

  蜑の小舟をはせ上る磯
烏啼むかふに山を見ざりけり 此竹

石塚源助「俳号は布嚢。山がないから見渡す限り湿地帯の越後の国。海辺の松並木の木の間の道を大名行列が行く。」

  烏啼むかふに山を見ざりけり
松の木間より続く供やり 布嚢

右雪「ではその大名行列を庭から見てるということで。」

  松の木間より続く供やり
夕嵐庭吹払ふ石の塵 右雪

執筆(しゅひつ)「夕暮れの庭では庭師が仕事を終え、削った石の屑を払うために行水をする。」

  夕嵐庭吹払ふ石の塵
たらい取巻賤が行水 執筆

左栗「行水の水を引いてる筧に鳥が水を飲みに来る。」

  たらい取巻賤が行水
思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ 左栗

曾良「思いすらかけてくれない、と取り成して、つれなくもさっさと帰って行った男を起き上がることもなく見送る女としましょうか。行ってしまった後には鳥がいるだけ。」

  思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ
きぬぎぬの場に起もなをらず 曾良

義年「何だみんな恋の句は駄目かい?なら飛び入りで。前句をもう二度と会うこともない別れとして、ようやく起き上がると残された恨みの品を捨ててしまおうと並べ始める。」

  きぬぎぬの場に起もなをらず
数々に恨の品の指つぎて 曾良

芭蕉「実際あなたが私にくれたものってこうやって見てみると、笑うっきゃないねって、貰った鏡を見ながら思う。」

  数々に恨の品の指つぎて
鏡に移す我がわらひがほ 芭蕉

左栗「恋を離れるといっても何も思い浮かばない。この辺りで月を出してくれというし、やはり朝の月しかないかな。」

  鏡に移す我がわらひがほ
あけはなれあさ気は月の色薄く 左栗

右雪「うちの犬は鹿を追っ払ってくれるどころか、何故か子鹿を連れてきてしまったよ。何考えてるんだ。」

  あけはなれあさ気は月の色薄く
鹿引て来る犬のにくさよ 右雪

眠鴎「犬は鹿を連れて来るというのに、隠棲してるこの坊主には砧を打ってくれる人はいない。」

  鹿引て来る犬のにくさよ
きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣 眠鴎

左栗「砧を自分で打ったことのないような元高貴な尼さんにしようかな。嵯峨野の祇王と祇女の姉妹がいいかな。」

  きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣
たつた二人の山本の庵 左栗

義年「さっきの句が良かったからって、いきなり花を持てだ何て光栄な。二人の山暮らしだから寒山拾得なんてどうだ。舞い散る花に拍手しながら夕暮れになったら星を数える。」

  たつた二人の山本の庵
華の吟其まま暮て星かぞふ 義年

右雪「なら邯鄲の夢から覚めたみたいに、花見で浮かれてて気づくと夜で蝋燭が揺れてる。」

  華の吟其まま暮て星かぞふ
蝶の羽おしむ蝋燭の影 右雪

芭蕉「すまんが自分も曾良も疲れてて、ここで一句づつ付けるから後は何とかみんなで満尾しておいてくれ。前句は和尚さんの遷化で、弔いに稚児も剃髪する。」

  蝶の羽おしむ蝋燭の影
春雨は剃髪児の泪にて 芭蕉

曾良「稚児といえば恋ですね。いろんな人と付き合って、相手によって違う香を焚いた手紙が届くが、中には悲しい手紙もありまして。」

  春雨は剃髪児の泪にて
香は色々に人々の文 曾良

七月八日

今日は旧暦7月7日で、元禄2年は7月8日。直江津。

朝は雨が止んだので高田の池田六左衛門の所に行こうかと思ったが、喜衛門に呼ばれて昼食をご馳走になった。

昼飯を終えて少し休んでから高田へ出発した。一里かそこらしかないのですぐ着くと思う。
別れ際に、

星今宵師に駒引いて留たし 右雪

曾良「私もせめて早稲の新米の取れる頃まで留まりたかったところです。」

  星今宵師に駒引いて留たし
色香ばしき初刈の米 曾良

芭蕉「(早稲って香ばしいかな。あれ臭いよね。まあ、それは言えない。)早稲の取れる頃にはお盆かな。漬け込んで天日で干した晒し木綿を搗いて糊付けする頃。」

  色香ばしき初刈の米
さらし水踊に急ぐ布つきて 芭蕉

そうそう忘れるところだったが、右雪だけでなく、

行月をとどめかねたる兎哉 此竹
七夕や又も往還の水方深く 左栗

の餞別句も貰った。

高田に着くと細川春庵とかいう者の使いが来た。
知らない人なので、先に予定してた池田六左衛門のところに行くと、お客さんが来てるというので、近くの高安寺の観音堂で一休みしてたら、今度は使いの者が春庵からの手紙を持ってきた。

薬草園があるというので、何となく知らない花があるんじゃないかと思って行ってみることにした。

薬欄のいづれの花をくさ枕 芭蕉

春庵は棟雪という俳号で、着くと早速四句目まで興行した。
棟雪「薬草園の中で野宿ですか?萩の簾に月が見えてそれは素敵なことでしょう。でもちゃんと部屋で寝てってくださいね。」

  薬欄にいづれの花をくさ枕
萩のすだれをあげかける月 棟雪

鈴木与兵衛「俳号は更也です。萩の簾を、萩の枝を乾燥させたもので作った簾にして、部屋ではなく工房ということにしましょうか。」

  萩のすだれをあげかける月
炉けぶりの夕を秋のいぶせくて 更也

曾良「炉の煙でけぶたいので、それを避けて藪の方を馬で通り過ぎるということにしましょう。」

  炉けぶりの夕を秋のいぶせくて
馬乗ぬけし高藪の下 曾良

このあと六左衛門の息子の甚左衛門が呼びにきたので、一応六左衛門と会ってから春庵の家に泊まることにした。

七月九日

今日は旧暦7月8日で、元禄2年は7月9日。高田。

今日は朝から時折小雨が降る天気で、ゆっくり休めそうだ。
昨日四句で終わった俳諧の続きだが、曾良疲れて寝てるので、そっとしといてやろう。

何とか歌仙一巻満尾した。
いつもは曾良が書き留めておいてくれるけど、今日はなしで。

七月十日

今日は旧暦7月9日で、元禄2年は7月10日。高田。

昨日から時々小雨が降るような天気が続いてる。
今日は中桐甚四郎という人に招かれてこれから興行をする。曾良は今日もお休み。

中桐甚四郎の家での興行も終わり、夜には春庵の所に戻った。雨も上がって晴れた。
明日はここを出て、また海岸の道になるのかな。

2023年8月31日木曜日

 有限な地球に無限の生命は不可能である以上、生存競争は生産力に応じた人口のコントロールがなされない限り生存競争は不可避なものとなる。
 多くの動物では個と個の勝負で弱いものから淘汰されるに過ぎないが、人間の場合は集団でかかればどんな強いものでも倒せることを知ってしまったため、生存競争は多数派工作の勝負になった。
 多数派が少数派を排除する。それが人間の生存競争だ。
 マルクス主義が本当に画期的だったのは、支配者階級というわかりやすい敵を発明したことだった。どの社会でも大概支配者階級は少数派だ。そして彼らは良い暮らしをしてるし権力を持っている。
 そこには単純な羨望から来る嫉妬、妬みそねみといったマイナスの感情に容易に正義の仮面を被せることができる。支配された恨みもまた同様だ。
 そこには難しい理屈はいらない。下層階級の不満を容易に社会正義に仕立てられるこの仕組みこそが、マルクス主義が世界中に広まった要因でもあり、最も厄介な理由でもある。
 ただ、この思想はこうした単純な不満に突き動かされた人達に何一つ幸福をもたらすことはない。なぜなら、支配者階級が存在してる理由が高い生産性への指導力にあるため、支配者階級の排除は間違いなく生産性の低下をもたらし、革命の後は必ず飢餓がやってきた。
 単純な話だが、労働者の主体的な生産活動が資本主義よりも高い生産性をもたらすのであれば、社会主義はみんなを幸せにできたかもしれない。
 実際、資本主義が未発達の国であれば、社会主義体制が一種の開発独裁と同じように、国家主導の資本主義をもたらすことである程度の成功をもたらすこともある。中国やベトナムはその成功例と言えるかもしれない。しかし、資本主義が根付けば逆に国家が足枷になり、そこに自ずと限界が生じる。開発独裁は資本主義を作るものにほかならないからだ。
 労働者の主体的な生産が資本主義よりも高い生産性をもたらせるかどうかというのは、例えば組織の上下関係のない完全合議制によって運営させる企業が市場経済の中で勝利を収めることができるなら、社会主義は可能ということになる。
 暴力によって資本主義を排除して、生産性の低いこのシステムに移行させるなら、間違いなく飢餓への道を歩むことになる。生産性が資本主義より高い場合にのみ革命は成功する。
 だから企業の様々な努力の中で、市場競争に勝ち抜こうとする中で最終的に社会正義的なシステムに行き着くなら問題はない。わざわざ負けるシステムのためにより生産性の高いシステムを排除するような革命をするのであれば、飢えることになる。
 単純な妬みそねみ恨みで革命を起こしても、確実に今より生産性を下げることになる。そして革命を起こした指導者は、今度は自分たちがその妬みそねみ恨みの対象となるのを覚悟しなくてはならない。
 結局革命後はその不満を力づくで抑えるために、資本主義が与える以上の恐怖を民衆の与え続けなくてはならなくなる。
 妬みそねみ恨みは勝利することはない。ただ生産性の高いものが最終的に勝利する。それさえわかれば、社会主義は終わるわけだが、今の社会主義は素朴な妬みそねみ恨みが正義の仮面をかぶる所にのみその命脈を保っている。

 あと、大坂独吟集「軽口に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 ではX奥の細道の続き。

七月一日

今日は旧暦6月29日で、元禄2年は7月1日。村上を出る。

雨が時折降る天気で、曾良とその知り合いの人達と一緒に朝のうちに泰叟院に詣でてから村上を発った。
山を越すと湿地帯の広がる低地で、海岸沿いの砂丘の上を歩いた。ちょうど東海道の沼津から田子の浦の辺りのような感じだ。

昼頃乙(きのと)という村に着いて乙宝寺を参拝した。ちょうど着く前に大雨が降って来たがすぐに止んだ。
乙を出てしばらく行くと、夕方にまた雨になり、やっとのことで築地村に辿り着いて宿を借りた。

七月二日

今日は旧暦7月1日で、元禄2年は7月2日。新潟へ。

朝、出る頃には曇ってたが昼には晴れて来た。
とにかくこの辺りは大きな川が集まって形成された広大な湿地帯で、まさに「潟」だ。最近ではあちこち干拓が進められてるともいう。ここが全部田んぼになったらすごいだろうな。

あれからしばらく行くと広大な河口に着き、船で渡った。気持ちのいいアイに風が吹いて、まだ日の高いうちに新潟に着くことが出来た。
ただ、宿は相部屋の所しか空いてないので、大工の源七という人の母の家を借りて泊めてもらうことにした。

七月三日

今日は旧暦7月2日で、元禄2年は7月3日。新潟。

今日はいい天気だ。これから弥彦明神に向かう。
馬に乗ろうと思ったが、大工の源七が馬は馬鹿みたいに高いから歩いた方が良いって言うので、歩いてゆくことにする。
また湿地を避けての砂丘のコースになる。

砂丘の道をゆくと、海の向こうには佐渡島も見える。前の方にあった小高い山が近づいて来て、その麓までくると、海から離れて山の内陸側へと参道がある。
暑かったけど何とか明るいうちに着くことが出来た。宿を取ったら参拝に行こう。

七月四日

今日は旧暦7月3日で、元禄2年は7月4日。弥彦を出る。

今日も良い天気で、弥彦山の宿坊を出て山を越えた。
峠を越えて右の方へ行くと、谷の中にお堂があって、そこで弘智法印像を見た。即身仏だという。
そのあと野積浜に出た。佐渡島が正面に見える。
日は旧暦7月3日で、元禄2年は7月4日。出雲崎。

野積浜を出て寺泊を経て海岸を歩き続けると出雲崎に着いた。暑かったけどアイの風は吹いて、今日も赤々とした太陽が海に沈んでゆく。

日が沈むと4日の月が西に浮かび、暗くなると頭上に天の川があって二星が見えた。
南西から真上を通って北東へと連なる天の川をそのまま回転させ、地上に降ろして目の前の海に重ねたら、自分が織姫の位置になり、佐渡の牽牛がいることになる。

流刑の地と言われる佐渡島の前には日本海の荒波が横たわり、きっと織姫彦星が見る天の川ってこんなんだろうな。
この荒海は佐渡の前に横たう天の川なるや。

荒海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉

七月五日

今日は旧暦7月4日で、元禄2年は7月5日。出雲崎を出る。

夜中から降り出した雨は朝に一旦止んだんで出発したが、すぐにまた雨が降り出した。
相変わらず延々と海岸沿いの道が続く。今日は雨で海も霞んで佐渡島も見えない。

柏崎まで来たので与三郎が紹介してくれた宿に行ったけど、曾良がブチ切れちゃってね。
まあ、普通に商人が利用する宿なんて、相部屋で詰め込むだけ詰め込むのは普通のことでね。新潟もそうだったし。

確かに曾良の紹介で家老やら阿闍梨やら、いろいろ偉い人にアポを取って、今までの旅にはないような経験もできたけどね。
偉い人にに会ったり、そこの屋敷に泊まるから虱はNGだというのもわかるけど。
路通と旅してたらまた違ってたろうな。辻堂とか平気だし、野宿とかも経験できたかな。

結局あれから柏崎を出て鉢崎まで歩いた。俵屋六郎兵衛という人の宿で曾良も納得して、今日はこれで落ち着くことができた。

七月六日

今日は旧暦7月5日で、元禄2年は7月6日。直江津へ。

朝は雨が降っていて、止むのを待ってから出発したら昼頃になった。まあ、ちょっと休憩できた。
曾良の方がかなり参ってるみたいな。気苦労が絶えなくて心配だ。

黒井の先に川があるので、船で海周りで越えて今町に着いた。
直江津は昔国府のあった所で、宗祇法師も最後はここに滞在してた。そんな土地柄だからか、今夜は興行ができそうだ。発句を用意しておこうか。明日は七夕。
今日は旧暦7月5日で、 元禄2年は7月6日。直江津。

また曾良が忙しく歩きまわって、予定してた聴信寺も葬式のため泊まれず、何とか古川市左衛門の家に泊まることができた。夕方から雨も降り出した。

夜になったら聴信寺の眠鴎和尚やその檀家の石塚喜衛門と源助、右雪などが訪ねてきたが、すっかり遅くなったし、明日改めて興行を行う約束して、発句だけ先に渡しておいた。

文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉

2023年8月30日水曜日

 それでは「鼻のあなや」の巻の続き、挙句まで。
 あと、手違いで八月二十八日の三裏が抜けてしまったので、そちらの方をまず先に、そのあと名残の裏に続く。

三裏
六十五句目

   あつかひ口もねぢた月影
 御もたせの手樽ののみの露落て

 手樽はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「手樽」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 柄を二本の角のように上に出し、手にさげるように造った樽。柄樽。角樽(つのだる)。柳樽。
  ※虎明本狂言・千鳥(室町末‐近世初)「てだるに一つ、よひ酒をつめてくだされひ」

とある。ただ、「デジタル大辞泉 「手樽」の意味・読み・例文・類語」のイラストを見ると、樽の上の部分に注ぎ口が付いていて、その反対側に上に取っ手が付いているものが描かれている。上に二本出てるのは柄樽となっている。
 この場合はそそぎ口が付いた方の手樽で、前句の「あつかい口」をそのそそぎ口として、取っ手を持ち上げると樽が傾いて、取っ手と反対側の口から酒の露がこぼれるということではないかと思う。
 御もたせは手土産のこと。
 点あり。

六十六句目

   御もたせの手樽ののみの露落て
 羽織の下にはるる秋霧

 手樽持参で訪れた客は、酒だけでなく羽織の「袖の下」も用意していて、これにて一件落着となった。
 点なし。

六十七句目

   羽織の下にはるる秋霧
 夕あらし膝ぶしたけに吹通り

 羽織は膝丈なので、膝の下は風が通る。夕嵐に秋霧の晴れるという景と重ね合わせる。
 長点だがコメントはない。

六十八句目

   夕あらし膝ぶしたけに吹通り
 湯ぶねにけづる杉のむら立

 湯船にお湯を張る水風呂(据え風呂とも言う)はこの当時お寺や上流の間で広まりつつあった。特に山の中の修験の寺などでは、豊富にある杉の木を用いた檜風呂があったのだろう。
 とはいえまだ、湯船を作っている所で、嵐の風が膝下を吹き抜けて行く。
 点なし。

六十九句目

   湯ぶねにけづる杉のむら立
 めづらしき御幸をまてる大天狗

 やはり水風呂は修験のイメージなのか、御幸に行くと大天狗が風呂桶を作って待っている。
 点なし。

七十句目

   めづらしき御幸をまてる大天狗
 さて京ちかき山ほととぎす

 京の近くの天狗というと鞍馬天狗だろうか。牛若丸に兵法を授けたと言われている。ただ、鞍馬の方へ御幸というと謡曲『大原御幸』になる。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、

 「岸の山吹咲き乱れ、八重立つ雲の絶間より、山郭公の一声も、君の御幸を、待ち顔なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1689). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 長点だがコメントはない。

七十一句目

   さて京ちかき山ほととぎす
 はせよしの残らずめぐるむら雨に

 時鳥に村雨というと、

 心をぞ尽し果てつる郭公
     ほのめく宵の村雨の空
             藤原長方(千載集)

の歌がある。初瀬や吉野の桜に心を尽くして京まで帰ってくると、ホトトギスの声が聞こえてくる。
 点あり。

七十二句目

   はせよしの残らずめぐるむら雨に
 ちりさふらふよ花の中宿

 吉野が出たので花の定座を繰り上げることになる。長いこと初瀬や吉野を廻ってるうちに村雨が降って花散らしの雨になる。
 点なし。

七十三句目

   ちりさふらふよ花の中宿
 今朝見れば春風計の文ことば

 前句の「花の中宿」に男女の「仲」を掛ける。
 後朝の別れの後に残された手紙を読むと、春風のように二人の仲を散らして行くような激しい言葉が書き連ねられていた。
 点あり。

七十四句目

   今朝見れば春風計の文ことば
 猶うらめしき寺のわか衆

 相手を女ではなく寺の男色の相手に転じる。
 点なし。

七十五句目

   猶うらめしき寺のわか衆
 竹箆をくるるものとはしりこぶた

 「しりこぶた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「尻臀」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 尻の、肉の多い左右のふくらみ。しりこぶら。しりたぶら。しりたぶ。しりたむら。しりぶさ。しりむた。しりゅうた。
  ※俳諧・伊勢山田俳諧集(1650)長抜書「鬼もねふとのてくるくるしみ ねつきする地獄のかまのしりこふた」
  ※文明田舎問答(1878)〈松田敏足〉徴兵「病犬(やまいぬ)が出て、老人や子供の、脛や尻臀(シリコブタ)に噛つく」

とある。
 竹箆(しっぺい)は座禅の時肩を打つ竹で作ったへら状の坊で、てっきりこれで肩を打つのかと思ったら、なにやらお尻の方に別の竹箆が、という下ネタでした。
 指ではじく「しっぺ」もこれが語源だという。
 長点だがコメントはない。

七十六句目

   竹箆をくるるものとはしりこぶた
 ひねるとこそはかねて聞しか

 尻はつねるもんだと思っていたが、ということで、普通に叩かれたことにして逃げる。
 点なし。

七十七句目

   ひねるとこそはかねて聞しか
 三枚のかるたの外に月の暮

 この頃のかるたは「うんすんかるた」であろう。ウィキペディアに、

 「うんすん
  3人から6人。1人に3枚ずつ3回、9枚宛の札を配り、残りは山札として裏向きに重ねておく。
  親から順に左廻り、山札から1枚を引き、不要な札を1枚捨てることを繰り返す。
  3枚以上の同数値のセット、もしくは3枚以上の同スート、続き数値の札のセットができると場にさらす。
  手札が無くなった者が出た時点、もしくは同スートのウン、スン、ロバイを揃えた者が出た時点で、その者の勝とし、1回のゲームを終わりとする。
  上がった者を0点とし、後は手札によってマイナス点とする。数札はその数値、絵札10点、ロバイ15点。
  基本は以上であるが、「つけ札」「拾う」などの細則がある。

とある。
 前句の「ひねる」を勝負事で負ける意味に取り成す。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「捻・拈・撚」の意味・読み・例文・類語」に、

 「⑤ 相撲などを、かるくやる。また一般に、勝負事などで相手を軽く負かす。
  ※浄瑠璃・五十年忌歌念仏(1707)上「若い時は小相撲の一番もひねったおれぢゃ」

とある。今でも「軽くひねられた」というふうに用いる。

七十八句目

   三枚のかるたの外に月の暮
 気疎秋ののらのより合

 「気疎」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「気疎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘形口〙 けうと・し 〘形ク〙 (古く「けうとし」と発音された語の近世初期以降変化した形。→けうとい)
  ① 人気(ひとけ)がなくてさびしい。気味が悪い。恐ろしい。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)四「なれぬほどは鹿狼(しかおほかみ)の声もけうとく」
  ※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「あな哀れ、わかき御許のかく気疎(ケウト)きあら野にさまよひ給ふよ」
  ② 興ざめである。いやである。
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)二「角落して、きゃうとき鹿の通ひ路」
  ③ 驚いている様子である。あきれている。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Qiôtoi(キョウトイ) ウマ〈訳〉驚きやすい馬。Qiôtoi(キョウトイ) ヒト〈訳〉不意の出来事に驚き走り回る人」
  ④ 不思議である。変だ。腑(ふ)に落ちない。
  ※浄瑠璃・葵上(1681‐90頃か)三「こはけうとき御有さま何とうきよを見かぎりて」
  ⑤ (顔つきが)当惑している様子である。
  ※浄瑠璃・大原御幸(1681‐84頃)二「弁慶けうときかほつきにて」
  ⑥ (多く連用形を用い、下の形容詞または形容動詞につづく) 程度が普通以上である。はなはだしい。
  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)一「気疎(ケウト)く見事なる品もおほかりける」
  ⑦ 結構である。すばらしい。立派だ。
  ※浄瑠璃・伽羅先代萩(1785)六「是は又けふとい事じゃは。そふお行儀な所を見ては」

とある。この場合は①か。
 人気のない所で人が集まってカルタをしている。何だか妖しげな雰囲気だ。無宿人だろうか。
 点なし。

名残裏
九十三句目

   湯漬も玉をみだす春風
 油断すな花ちらぬまの早使

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『鞍馬天狗』の、

 「花咲かば告げんといひし山里の、告げんといひし山里の、使は来たり馬に鞍、鞍馬の山のうず 桜、手折枝折をしるべにて、奥も迷はじ咲きつづく、木蔭に並みゐていざいざ、花を眺めん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.4009). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。西谷の僧正に仕える能力が、花の盛りを知らせに東谷の僧の所にやって来るところから物語は始まる。
 こうした花の便りを伝える使いに、春風で花はすぐに散るから油断するな、とする。
 点なし。

九十四句目

   油断すな花ちらぬまの早使
 頓死をなげく鶯の声

 鶯に散る花は、

 花の散ることやわびしき春霞
     たつたの山のうぐひすのこゑ
              藤原後蔭(古今集)
   うぐひすのなくをよめる
 木づたへばおのが羽風に散る花を
     誰におほせてここらなくらむ
              素性法師(古今集)

などの歌がある。
 花の散った後の鶯の声の侘しさは、頓死を歎くかのようだが、花がまだ散らぬ間なら「頓死を歎く」はよくわからない。鶯の羽風で花が散るから気を付けろという意味なんだろうけど、うまく言葉がつながっていない。
 点なし。

九十五句目

   頓死をなげく鶯の声
 跡敷の公事は霞てみとせまで

 跡敷(あとしき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「跡式・跡職」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 相続の対象となる家督または財産。また、家督と財産。分割相続が普通であった鎌倉時代には、総領の相続する家督と財産、庶子の相続する財産をいったが、長子単独相続制に変わった室町時代には、家督と長子に集中する財産との単一体を意味した。江戸時代、武士間では単独相続が一般的であったため、原則として家名と家祿の結合体を意味する語として用いられたが、分割相続が広範にみられ、しかも、財産が相続の客体として重視された町人階級では、財産だけをさす場合に使用されることもあった。
  ※今川仮名目録‐追加(1553)一一条「父の跡職、嫡子可二相続一事勿論也」
  ※三河物語(1626頃)一「松平蔵人殿舎弟の十郎三郎殿御死去なされければ、御跡次(あとつぎ)の御子無しと仰せ有つて、其の御跡式(アトシキ)を押領(をうれう)し給ふ」
  ② =あとしきそうぞく(跡式相続)
  ※禁令考‐別巻・棠蔭秘鑑・亨・三・寛保三年(1743)「怪敷儀も無之におゐては、譲状之通、跡式可申付」
  ③ 家督相続人。遺産相続人。跡目。あとつぎ。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「頓死をなげく鶯の声 跡識の公事は霞てみとせまで」

とある。家督相続でもめて裁判になって、三年の月日が流れる。頓死で遺言もなかったのだろう。死を嘆く鶯の声は訴訟の終わらないもやもやの中にある。
 点なし。

九十六句目

   跡敷の公事は霞てみとせまで
 彼行平のちうな分別

 「ちうな」は中納言のこと。謡曲『松風』に、

 「(クドキ)さても行平三年の程、御つれづれの御舟遊び、月に心は須磨の浦の夜汐を運ぶ蜑乙女に、おととい選はれまゐらせつつ、折にふれたる名なれやとて松風村雨と召されしより、月にも 馴るる須磨の蜑 の、 
 シテ   「塩焼き衣、色かへて、
 シテ・ツレ「縑の衣の、空焚きなり。 
 シテ   「かくて三年も過ぎ行けば、行平都に上り給ひ、 
 ツレ   「いく程なくて世を早う、去り給ひぬと聞きしより、」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.1561-1562). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあることから、中納言の遺産が松風・村雨という二人の妻の間で訴訟沙汰になったということか。
 長点だがコメントはない。

九十七句目

   彼行平のちうな分別
 無疵ものあげて一尺五六寸

 行平というと平安時代末期から鎌倉時代前期の豊後国の刀工に紀新大夫行平がいる。ここでは前句の行平を刀鍛冶としてその作品の無傷の一尺五六寸の刀とする。ただ日本刀の標準は二尺三寸くらいだから、これは脇指になる。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注には、中脇指だから「ちうな分別」だという。
 なお、この注には大和の刀匠左衛門大夫行平の名が挙げられていて鬼切丸の作者だという。ネットではこの人物は確認できなかった。酒吞童子を倒すのに用いられたという鬼切丸は、ウィキペディアによると、伯耆国の刀工大原安綱の銘があるが、後の追刻という説もあるという。、
 点あり。

九十八句目

   無疵ものあげて一尺五六寸
 命しらずの麻の手ぬぐひ

 前句の一尺五六寸を手拭の長さとして、麻の手拭は丈夫なので「命しらずの麻の手ぬぐひ」とする。
 点あり。

九十九句目

   命しらずの麻の手ぬぐひ
 柄杓よりつたふ雫のよの中に

 重労働の末に柄杓の水でかろうじて喉を潤すような世の中では、命知らずの麻の手拭は有り難い味方だ。
 長点だがコメントはない。

挙句

   柄杓よりつたふ雫のよの中に
 あらんかぎりはのめよ酒壺

 酒壺の酒を柄杓ですくって、さあこの辛くも儚い浮世をせめては飲みつくそうではないか、と一巻は目出度く?終わる。
 点あり。

 「愚墨六十句
     長廿七

 伝きく天宝の唐がらし、鼻より入て口よりい
 づる色あひは、たちうり染のもみ紅梅、一句
 一句のこまやかなるは、おいまがけしかのこ、
 後藤がほり、すがたうるはしくやすらかなる
 は、柳に桜、あさぎにうこん源左衛門が海道
 下り、筆でかくとも即合点、おそれながらも
 候べく候
      西幽子(さいゆうし)判」

 点の数は鶴永(西鶴)に並ぶが、長点の数は大差をつけて勝っている。西鶴とはまた違った意味で談林俳諧の頂点を感じさせる作品で、由平はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前川由平」の解説」に、

 「?-1707ごろ 江戸時代前期の俳人。
和気由貞の子。大坂の人。西山宗因にまなぶ。井原西鶴,和気遠舟とともに大坂俳壇の三巨頭といわれた。元禄(げんろく)のころ雑俳点者として活躍。宝永4年ごろ死去。通称は江助,江介。別号に半幽,自入,舟夕子(しゅうせきし),瓢叟(ひょうそう)など。著作に「由平独百韻」「俳諧(はいかい)胴ほね」。

と後の大阪談林を代表する人物となっていった。
 ここでも後藤祐乗の彫金の技術と野郎歌舞伎の名女形の右近源左衛門の優雅さに喩えられ、多くの加点となった。

2023年8月29日火曜日

  よくよく思い出してみると、昔は日本人も何かというと抗議の電話を掛けてたな。多分最近は威力業務妨害になるのが恐くてあまりしなくなったんじゃないかと思う。昔は何かというと抗議の電話が殺到したなんてニュースになってた。
 今の処理水放出でも、日本人がそれをやらないというのは、左翼もそれだけ冷静だし、騒いでるのは極一部、れいわが中心で多少の共産党員を巻き込んでるくらいじゃないかと思う。
 中国からの抗議の電話も、中国の人口を考えるならそんなたいした量ではないから、多分そんな組織的なものではないんじゃないかと思う。せいぜいチンケな右翼団体がネットで煽ったとかそういうもんじゃないかな。まあ、国家ぐるみで人海戦術でやったら、国際電話の回線がパンクして全然意味がなかったりして、やるならネットでサーバーをパンクさせることを考えるだろう。
 逆に考えれば、台湾有事になった時には本気で嫌がらせをしてくる可能性がある。甘く見ない方が良いとも言える。

 それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

名残表
七十九句目

   気疎秋ののらのより合
 その犬のまたほえかかる村薄

 前句の「のらのより合」を野良犬のこととする。野良犬は群れになってることが多い。
 薄は手招きするように揺れるので、妖しい奴と思って吠え掛かる。
 長点だがコメントはない。

八十句目

   その犬のまたほえかかる村薄
 夜ふけて誰じゃ萩の下道

 夜更けに番犬が吠えるから、誰が来たのかと思う。
 村薄に萩は、

 秋萩の花野に混じる村薄
     草の袂ぞ色にいでゆく
             藤原為家(夫木抄)

の歌がある。萩に混じってた薄に吠えたとも取れる。
 点あり。

八十一句目

   夜ふけて誰じゃ萩の下道
 火打箱さがすや露の置所

 火打箱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「火打箱・燧箱」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 火打道具を入れておく箱。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「夜ふけて誰じゃ萩の下道 火打箱さがすや露の置所〈由平〉」
  ② 狭く小さい家をあざけっていう語。
  ※浄瑠璃・傾城反魂香(1708頃)上「家まづしくて身代は、うすき紙子の火打箱」

とある。
 夜更けに尋ねてきた人がいたので、急いで火打ち箱を探して灯りを灯そうとする。前句の萩に露の置き所と付く。
 長点だがコメントはない。

八十二句目

   火打箱さがすや露の置所
 手きざみたばこ風にみだるる

 刻み煙草はキセルに用いる。「手きざみ」というのは刻んでない葉煙草を自分の手で砕いて吸うということか。煙草の葉を刻んで、さあ吸おうと思うと、火打ち箱が見つからず、探しているうちに煙草の葉が風で飛んでしまう。
 点なし。

八十三句目

   手きざみたばこ風にみだるる
 むら消る雲にしゃくりの声す也

 しゃっくりをしたら、その息でキセルの葉が吹き飛んで火が消える。火が消えて煙草の煙が止むのを、風に雲が吹き飛ばされるのに喩える。
 点あり。

八十四句目

   むら消る雲にしゃくりの声す也
 引立見ればひづむ天の戸

 引立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「引立」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 横になっている物や人を引っ張って立つようにする。引き起こす。
  ※蜻蛉(974頃)上「生糸(すずし)のいとを長うむすびて、一つむすびては、ゆひゆひして、ひきたてたれば」
  ② 戸、障子などを、引き出してたてる。引いて閉じる。
  ※落窪(10C後)二「やり戸あけたりとておとどさいなむとて、ひきたてて、錠(ぢゃう)ささんとすれば」
  ③ 引いてきた車などを、とめる。車をとどめる。
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開下「車ひきたててみる」
  ④ 馬などを、引いて連れ出す。引いて連れて行く。
  ※延喜式(927)祝詞「高天の原に耳(みみ)振立(ふりたて)て聞く物と、馬牽立(ひきたて)て」
  ⑤ いっしょに連れて行く。いっしょに行くようにせきたてる。また、無理に連れて行く。連行する。
  ※源氏(1001‐14頃)夕霧「やがてこの人をひきたてて、推し量りに入り給ふ」
  ⑥ 人や、ある方面の事柄を、重んじて特に挙げ用いる。特に目をかける。ひいきにする。
  ※古今著聞集(1254)一「重代稽古のものなりけれども、引たつる人もなかりけるに」
  ⑦ 勢いがよくなるようにする。気分・気力の勢いをよくする。気を奮い立たせる。
  ※新撰六帖(1244頃)六「杣山のあさ木の柱ふし繁みひきたつべくもなき我が身哉〈藤原家良〉」
  ⑧ 一段とみごとに見えるようにする。特に目立つようにする。きわだたせる。
  ※俳諧・七番日記‐文化七年(1810)九月「夕顔に引立らるる後架哉」
  ⑨ 注意を集中する。特に、聞き耳を立てる。
  ※うもれ木(1892)〈樋口一葉〉八「引(ヒ)き立(タ)つる耳に一と言二た言、怪しや夢か意外の事ども」

とある。戸だから②の意味であろう。
 天照大神が天の岩戸を閉ざそうとするとするが、戸が歪んでうまく閉まり切らず、しゃっくりの声が漏れてくる。しゃっくりが出たのを知られるのが恥ずかしくて、岩戸を閉ざして引き籠ったのか。
 点あり。

八十五句目

   引立見ればひづむ天の戸
 ぬか釘も時雨もみねによこおれて

 ぬか釘はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「糠釘」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 非常に小さい釘。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 「ぬか(糠)に釘」の略。
  ※浄瑠璃・心中刃は氷の朔日(1709)上「鉄鎚こたへぬぬか釘で、後は吹きあげ鞴ふく」

とあり、この場合は天の戸を止めている①の釘であろう。
 前句の「引立」を①の立てるの意味に取り成して、時雨の雲が嶺に横たわってるので、それを無理やり立たせて見たら天の戸の釘が外れて歪んでた、とする。
 時雨は天の戸の雲の通い路のひずみから来るという新説?
 点あり。

八十六句目

   ぬか釘も時雨もみねによこおれて
 磯部の松の針とがり行

 「ぬか釘も」を「ぬか釘の」の強調として、ぬか釘のような松の針も時雨の雲が嶺に横たわって尖って行く、とする。
 磯の松に時雨は、

 袖濡らす雄島が磯の泊りかな
     松風寒み時雨ふるなり
            藤原俊成(続古今集)

の歌がある。
 点なし。

八十七句目

   磯部の松の針とがり行
 はれもののうみすこし有須磨のうら

 海と膿を掛けて、腫物の膿を出すために磯辺の松の針を用いる。
 長点だがコメントはない。

八十八句目

   はれもののうみすこし有須磨のうら
 瘤はかたほに見ゆる舟人

 片方(片頬)と片帆を掛ける。瘤が片方だけなので、須磨の浦の腫物のあるその舟人は瘤を片帆にして航行しているみたいだ、とする。
 日本の船は帆を吊るす帆桁がマストに固定されてないため、左右同じようにして真横になるように張ると横帆になり、片側に寄せて斜めにすると縦帆になる。前者を真帆といい、後者を片帆という。
 点あり。

八十九句目

   瘤はかたほに見ゆる舟人
 柴かりのいはれぬはなし又一つ

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、

 「鬼に片頬の瘤を取られた柴刈の翁の話(宇治拾遺物語)によって前句に付く。」

とある。童話「瘤取り爺さん」の元ネタで、柴刈のそういう話があるから、下手に鬼が瘤を取ってくれるなんてことは言わない方が良い。両方くっつけられる。
 点なし。

九十句目

   柴かりのいはれぬはなし又一つ
 雪の山路もくちへ出るまま

 柴刈りの山賤に雪というと、

 ま柴かる道やたえなん山がつの
     いやしきふれる夜はの白雪
              藤原頼氏(続拾遺集)

だろうか。夜の雪の山路で迷った話を、口から出るままに大袈裟に話を盛って、延々と語ってくれたのだろう。
 点あり。

九十一句目

   雪の山路もくちへ出るまま
 照月の氷も谷へさらさらさら

 月に氷は、

 あまの原そらさへさえや渡るらん
     氷と見ゆる冬の夜の月
              恵慶法師(拾遺集)
 夜を重ね結ぶ氷の下にさへ
     こころふかくも宿る月かな
              平実重(千載集)

などの歌に詠まれている。
 前句の雪の山路に氷るような月の光が谷へとさらさらと落ちて行く美しい句だが、俳味に欠けるというのがマイナスだったか。
 点なし。

九十二句目

   照月の氷も谷へさらさらさら
 湯漬も玉をみだす春風

 湯漬けはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「湯漬」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 飯を湯につけて食べること。また、その食事。蒸した強飯(こわめし)を熱い湯の中につけ、また、飯に湯を注いだ。食べるときに湯を捨てることもある。夏は「水漬」といって、水につけることがあった。
  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「侍従のまかづるにぞあなる。ゆづけのまうけさせよ」
  ※夢酔独言(1843)「酔もだんだん廻るから、もはや湯づけを食うがよひとて」

とある。
 春風は、

 春風も吹きな乱りそ青柳の
     糸もて貫ける露の玉ゆら
             空静(延文百首)

などの歌にあるように柳の露の玉を乱すものだが、ここでは湯漬けの強飯の玉をみだして、さらさらにする。「お茶漬けさらさら」という時の「さらさら」と同じ。それを氷った月が溶けてゆくのに喩える。
 点なし。綺麗だがこういう句は貞門時代には有りがちで、それほど新味はなかったのかもしれない。

2023年8月27日日曜日

  それでは「鼻のあなや」の巻の続き。

三表
五十一句目

   きのふも三人出がはる小もの
 不埒なる酒のかよひの朝がすみ

 三人ほどいつも連れ立って酒屋通いで朝まで飲んだくれてたので、結局首になった。
 点あり。

五十二句目

   不埒なる酒のかよひの朝がすみ
 念比しられぬ晋の七賢

 竹林の七賢は晋の時代の人。特に劉伶は大酒飲みで『酒徳頌』を書いたことでも知られていた。
 その他阮籍も大酒飲みで知られているし、総じて全員酒飲みだったようだ。晋の酒屋にたむろしてたのだろう。
 点ありで「酒代さしのべらるべし。不律儀はいかなれ、七賢に候」とある。

五十三句目

   念比しられぬ晋の七賢
 法度ぞと孔子のいはく衆道事

 孔子が衆道は法度だと言ったかどうかは知らないが、七賢の中に懇ろの関係の者がいてもおかしくはないか。七角関係で乱れたらちょっと問題だ。孔子も顔回との噂がないではないが。
 点なし。

五十四句目

   法度ぞと孔子のいはく衆道事
 遊女のいきは論におよばず

 衆道を禁止するくらいだから遊郭なんてもってのほかだろうな。
 点なし。

五十五句目

   遊女のいきは論におよばず
 絵草子と成はつべきの心中に

 絵草子は挿絵の多く入った浄瑠璃本や仮名草子で、寛文期には数多く出版されてた。寛永の頃の活字本から木版印刷に変わると、文字を掘る手間も絵を掘る手間もそれほど変わらなくなったのだろう。
 心中はこの頃は特に自殺を意味するものではなかった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「心中」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① ⇒しんちゅう(心中)
  ② まごころを尽くすこと。人に対して義理をたてること。特に、男女のあいだで、相手に対しての信義や愛情を守りとおすこと。真情。誠心誠意。実意。
  ※仮名草子・都風俗鑑(1681)一「われになればこそかくは心中をあらはせ、人には是ほどには有まじと」
  ※浄瑠璃・道成寺現在蛇鱗(1742)二「若い殿御の髪切って、廻国行脚し給ふは、御寄特(きどく)といはうか、心中(シンヂウ)といはうか」
  ③ 相愛の男女が、自分の真情を形にあらわし、証拠として相手に示すこと。また、その愛情の互いに変わらないことを示すあかしとしたもの。起請文(きしょうもん)、髪切り、指切り、爪放し、入れ墨、情死など。遊里にはじまる。心中立て。
  ※俳諧・宗因七百韵(1677)「かぶき若衆にあふ坂の関〈素玄〉 心中に今や引らん腕まくり〈宗祐〉」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)四「女郎の、心中(シンヂウ)に、髪を切、爪をはなち、さきへやらせらるるに」
  ④ (━する) 相愛の男女が、合意のうえで一緒に死ぬこと。相対死(あいたいじに)。情死。心中死(しんじゅうじに)。
  ※俳諧・天満千句(1676)一〇「精進ばなれとみすのおもかけ〈西鬼〉 心中なら我をいざなへ極楽へ〈素玄〉」
  ⑤ (━する) (④から) 一般に、男女に限らず複数の者がいっしょに死ぬこと。「親子心中」「一家心中」
  ⑥ (━する) (比喩的に) ある仕事や団体などと、運命をともにすること。
  ※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉猟官「這般(こん)なぐらつき内閣と情死(シンヂュウ)して什麼(どう)する了簡だ」
  [語誌]近世以降、特に遊里において③の意で用いられ、原義との区別を清濁で示すようになった。元祿(一六八八‐一七〇四)頃になると、男女の真情の極端な発現としての情死という④の意味に限定されるようになり、近松が世話物浄瑠璃で描いて評判になったこともあって、情死が流行するまでに至った。そのため、この語は使用を禁じられたり、享保(一七一六‐三六)頃には「相対死(あいたいじに)」という別の言い回しの使用が命じられたりした〔北里見聞録‐七〕。」

とある。
 寛文の頃の絵草子だとしたら③の意味で、刃傷沙汰などのスキャンダラスなものではあっても、元禄後期の近松門左衛門のような心中ものではなかったのではないかと思う。
 遊女とのトラブルは最後は絵草子ネタになる。
 点あり。

五十六句目

   絵草子と成はつべきの心中に
 銭一もんのかねことのすゑ

 「かねこと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「予言・兼言」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「かねこと」とも。かねて言っておく言葉の意) 前もって言うこと。約束の言葉、あるいは未来を予想していう言葉など。かねことば。
  ※後撰(951‐953頃)恋三・七一〇「昔せし我がかね事の悲しきは如何契りしなごりなるらん〈平定文〉」
  ※洒落本・令子洞房(1785)つとめの事「ふたりが床のかねごとを友だちなどに話してよろこぶなど」

とある。
 銭一文で占ってもらったらとんでもないことになったということか。
 点なし。

五十七句目

   銭一もんのかねことのすゑ
 わかれより始末を告る鳥の声

 別れの鳥と言えば後朝に鳴く鶏のことだろう。別れの時の言葉は愛の言葉ではなく、金返せだった。クドカンの「ジョニーに伝えて1000円返して」みたいなギャグか。
 点なし。

五十八句目

   わかれより始末を告る鳥の声
 またあふ坂とおもふ腎水

 始末には節約の意味もある。年取って若い頃のような無茶ができなくなったか。ほどほどにしておこうということか。昔は腎水がなくなると腎虚になると言われていた。
 延宝六年の「さぞな都」の巻五十七句目の、

   首だけの思ひつつしみてよし
 憂中は下焦もかれてよはよはと  桃青

の下焦(げしょう)も腎虚のこと。
 点あり。

五十九句目

   またあふ坂とおもふ腎水
 道鏡や音に聞えし音羽山

 怪僧道鏡は女帝の孝謙天皇に取り入って皇位簒奪を企てた人で、この事件で道鏡が排除されることで万世一系の天皇制が確立されるとともに、その後長いこと女帝が途絶えることにもなった。
 なおその後女帝は寛永の頃に明正天皇が皇位について、一度復活している。幼少期に皇位についたため、退位してからの方が長く、実はこの頃も存命で元禄九年まで生きたという。
 道鏡は女天皇をたらし込んだということで巨根伝説もある。
 音羽山は前句の逢坂との縁で、特に道教と関連があるわけではない。腎水から勢力絶倫だと言われていた道教の噂に転じ、逢坂に掛けて「音に聞こえし音羽山」とする。
 点あり。

六十句目

   道鏡や音に聞えし音羽山
 かたりもつくさじ其果報者

 果報者というのは多分巨根や絶倫伝説の方で、男なら憧れるというものだろう。
 点なし。

六十一句目

   かたりもつくさじ其果報者
 身体も次第にはり上はり上て

 身体はこの場合は身代のこと。「はり上げ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「張上」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① いちだんと高く張る。高い所に張る。
  ※改正増補和英語林集成(1886)「ホヲ hariageru(ハリアゲル)」
  ② 声を強く高く出す。大きな声を出す。
  ※浮世草子・世間胸算用(1692)四「投げ節を、息の根つづくほどはりあげて」
  ③ 財産などをふやす。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「かたりもつくさじ其果報者 身躰も次第にはり上はり上て〈由平〉」

とある。果報者と言えば女か金かで、ここは財産の方に転じる。
 点なし。

六十二句目

   身体も次第にはり上はり上て
 天竺震旦からかさの下

 まあ、今は「傘下に収める」という言葉があるが、この時代にその言い回しがあったかどうかはわからない。
 ここでは前句の「はり上げ」から連想であろう。
 長点で「ありがたくも此寺の一本からかさか」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「傘\唐傘一本」の意味・読み・例文・類語」に、

 「破戒僧が寺を追放されること。寺を追放される時、からかさを一本だけ持つことを許されたところからいう。出家の一本傘。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「お住持の不儀はへちまの皮袋 からかさ一本女郎町の湯屋〈意楽〉」
  ※浮世草子・風流曲三味線(1706)一「若衆ぶりして諸山の浮気坊主の心を蕩(とらかし)〈略〉後傘一本(カラカサいっポン)になる時見ぬ顔せらるる」

とある。蝉丸が蓑笠を貰ったように、雨の多い日本にあって、雨露を凌げるというのが最低限の人間の尊厳だったのだろう。お寺だとそれが唐傘になる。だからこそ、笠がないというのは芭蕉の、

 初時雨猿も小蓑をほしげ也 芭蕉

の句はもとより、近代のJ=popでもしばしば「傘がない」というのは象徴的な言い回しとして用いられる。
 一本の唐傘からスタートして成功した人の物語だろうか。さすがに当時は中国(震旦)インド(天竺)を股に掛けることはなく、あくまで比喩だろうけど。

六十三句目

   天竺震旦からかさの下
 大きにもやはらげ来る飴は飴は

 当時の飴売は唐傘を持ってたようで、「十いひて」の巻八十七句目にも、

   からかさ一本女郎町の湯屋
 飴を売人の心もうつり瘡

の句があった。天保の頃の『近世流行商人狂哥絵図』にも、唐傘を立てた飴売りが描かれている。飴売の伝統なのだろう。
 「大きにもやはらげ来る」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『白楽天』の、

 「それ天竺の霊文を唐土の詩賦とし、唐土の詩賦を以つてわが朝の歌とす。されば三国を和らげ 来たるを以つて、大きに和らぐと書いて大和歌とよめり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.639). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。「大きに和らげ」で大和になる。
 詩はインドにも中国にもあるもので、同様の物が我が国では大和歌(和歌)だということで、詩の普遍を説くものだが、飴もインドや中国にもあって日本のは大和飴ということになるのか。
 長点だがコメントはない。

六十四句目

   大きにもやはらげ来る飴は飴は
 あつかひ口もねぢた月影

 「あつかひ口」は扱い言のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「扱言」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仲裁の口をきくこと。仲裁に立つこと。
  ※読本・春雨物語(1808)樊噲「かれら首にしてかへり、主の君にわびん。扱ひ言して法師も命損ずな」

とある。前句の「大きにもやはらげ」を受ける。
 「ねじた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「捩・捻・拗」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 棒状や糸状など細長いものの両端を持って、互いに逆の方向に回す。また、一端が固定された他の一端をにぎって、無理に回す。ひねる。
  ※仮名草子・可笑記(1642)一「ねぢり殺さうの、なげすてうのとどしめけども」
  ② 回転するようにつくったスイッチや栓などを右または左に回す。また、螺旋のついたものをひねって動かす。ひねる。
  ※明暗(1916)〈夏目漱石〉二八「電燈のスヰッチを捩(ネヂ)った」
  ③ 盛んに苦情や文句をいいたてる。なじり責める。
  ※いさなとり(1891)〈幸田露伴〉五五「反対(あべこべ)に捻(ネヂ)られ、無念にはおもへど」

とあり、③の意味に捻り飴を掛ける。
 「大きにもやはらげ来るあつかひ口もねぢた」と仲裁に来たのに逆になじられるということなのか、それに「飴は飴は」と「月影」がよくわからない。
 点なし。