2023年8月31日木曜日

 有限な地球に無限の生命は不可能である以上、生存競争は生産力に応じた人口のコントロールがなされない限り生存競争は不可避なものとなる。
 多くの動物では個と個の勝負で弱いものから淘汰されるに過ぎないが、人間の場合は集団でかかればどんな強いものでも倒せることを知ってしまったため、生存競争は多数派工作の勝負になった。
 多数派が少数派を排除する。それが人間の生存競争だ。
 マルクス主義が本当に画期的だったのは、支配者階級というわかりやすい敵を発明したことだった。どの社会でも大概支配者階級は少数派だ。そして彼らは良い暮らしをしてるし権力を持っている。
 そこには単純な羨望から来る嫉妬、妬みそねみといったマイナスの感情に容易に正義の仮面を被せることができる。支配された恨みもまた同様だ。
 そこには難しい理屈はいらない。下層階級の不満を容易に社会正義に仕立てられるこの仕組みこそが、マルクス主義が世界中に広まった要因でもあり、最も厄介な理由でもある。
 ただ、この思想はこうした単純な不満に突き動かされた人達に何一つ幸福をもたらすことはない。なぜなら、支配者階級が存在してる理由が高い生産性への指導力にあるため、支配者階級の排除は間違いなく生産性の低下をもたらし、革命の後は必ず飢餓がやってきた。
 単純な話だが、労働者の主体的な生産活動が資本主義よりも高い生産性をもたらすのであれば、社会主義はみんなを幸せにできたかもしれない。
 実際、資本主義が未発達の国であれば、社会主義体制が一種の開発独裁と同じように、国家主導の資本主義をもたらすことである程度の成功をもたらすこともある。中国やベトナムはその成功例と言えるかもしれない。しかし、資本主義が根付けば逆に国家が足枷になり、そこに自ずと限界が生じる。開発独裁は資本主義を作るものにほかならないからだ。
 労働者の主体的な生産が資本主義よりも高い生産性をもたらせるかどうかというのは、例えば組織の上下関係のない完全合議制によって運営させる企業が市場経済の中で勝利を収めることができるなら、社会主義は可能ということになる。
 暴力によって資本主義を排除して、生産性の低いこのシステムに移行させるなら、間違いなく飢餓への道を歩むことになる。生産性が資本主義より高い場合にのみ革命は成功する。
 だから企業の様々な努力の中で、市場競争に勝ち抜こうとする中で最終的に社会正義的なシステムに行き着くなら問題はない。わざわざ負けるシステムのためにより生産性の高いシステムを排除するような革命をするのであれば、飢えることになる。
 単純な妬みそねみ恨みで革命を起こしても、確実に今より生産性を下げることになる。そして革命を起こした指導者は、今度は自分たちがその妬みそねみ恨みの対象となるのを覚悟しなくてはならない。
 結局革命後はその不満を力づくで抑えるために、資本主義が与える以上の恐怖を民衆の与え続けなくてはならなくなる。
 妬みそねみ恨みは勝利することはない。ただ生産性の高いものが最終的に勝利する。それさえわかれば、社会主義は終わるわけだが、今の社会主義は素朴な妬みそねみ恨みが正義の仮面をかぶる所にのみその命脈を保っている。

 あと、大坂独吟集「軽口に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 ではX奥の細道の続き。

七月一日

今日は旧暦6月29日で、元禄2年は7月1日。村上を出る。

雨が時折降る天気で、曾良とその知り合いの人達と一緒に朝のうちに泰叟院に詣でてから村上を発った。
山を越すと湿地帯の広がる低地で、海岸沿いの砂丘の上を歩いた。ちょうど東海道の沼津から田子の浦の辺りのような感じだ。

昼頃乙(きのと)という村に着いて乙宝寺を参拝した。ちょうど着く前に大雨が降って来たがすぐに止んだ。
乙を出てしばらく行くと、夕方にまた雨になり、やっとのことで築地村に辿り着いて宿を借りた。

七月二日

今日は旧暦7月1日で、元禄2年は7月2日。新潟へ。

朝、出る頃には曇ってたが昼には晴れて来た。
とにかくこの辺りは大きな川が集まって形成された広大な湿地帯で、まさに「潟」だ。最近ではあちこち干拓が進められてるともいう。ここが全部田んぼになったらすごいだろうな。

あれからしばらく行くと広大な河口に着き、船で渡った。気持ちのいいアイに風が吹いて、まだ日の高いうちに新潟に着くことが出来た。
ただ、宿は相部屋の所しか空いてないので、大工の源七という人の母の家を借りて泊めてもらうことにした。

七月三日

今日は旧暦7月2日で、元禄2年は7月3日。新潟。

今日はいい天気だ。これから弥彦明神に向かう。
馬に乗ろうと思ったが、大工の源七が馬は馬鹿みたいに高いから歩いた方が良いって言うので、歩いてゆくことにする。
また湿地を避けての砂丘のコースになる。

砂丘の道をゆくと、海の向こうには佐渡島も見える。前の方にあった小高い山が近づいて来て、その麓までくると、海から離れて山の内陸側へと参道がある。
暑かったけど何とか明るいうちに着くことが出来た。宿を取ったら参拝に行こう。

七月四日

今日は旧暦7月3日で、元禄2年は7月4日。弥彦を出る。

今日も良い天気で、弥彦山の宿坊を出て山を越えた。
峠を越えて右の方へ行くと、谷の中にお堂があって、そこで弘智法印像を見た。即身仏だという。
そのあと野積浜に出た。佐渡島が正面に見える。
日は旧暦7月3日で、元禄2年は7月4日。出雲崎。

野積浜を出て寺泊を経て海岸を歩き続けると出雲崎に着いた。暑かったけどアイの風は吹いて、今日も赤々とした太陽が海に沈んでゆく。

日が沈むと4日の月が西に浮かび、暗くなると頭上に天の川があって二星が見えた。
南西から真上を通って北東へと連なる天の川をそのまま回転させ、地上に降ろして目の前の海に重ねたら、自分が織姫の位置になり、佐渡の牽牛がいることになる。

流刑の地と言われる佐渡島の前には日本海の荒波が横たわり、きっと織姫彦星が見る天の川ってこんなんだろうな。
この荒海は佐渡の前に横たう天の川なるや。

荒海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉

七月五日

今日は旧暦7月4日で、元禄2年は7月5日。出雲崎を出る。

夜中から降り出した雨は朝に一旦止んだんで出発したが、すぐにまた雨が降り出した。
相変わらず延々と海岸沿いの道が続く。今日は雨で海も霞んで佐渡島も見えない。

柏崎まで来たので与三郎が紹介してくれた宿に行ったけど、曾良がブチ切れちゃってね。
まあ、普通に商人が利用する宿なんて、相部屋で詰め込むだけ詰め込むのは普通のことでね。新潟もそうだったし。

確かに曾良の紹介で家老やら阿闍梨やら、いろいろ偉い人にアポを取って、今までの旅にはないような経験もできたけどね。
偉い人にに会ったり、そこの屋敷に泊まるから虱はNGだというのもわかるけど。
路通と旅してたらまた違ってたろうな。辻堂とか平気だし、野宿とかも経験できたかな。

結局あれから柏崎を出て鉢崎まで歩いた。俵屋六郎兵衛という人の宿で曾良も納得して、今日はこれで落ち着くことができた。

七月六日

今日は旧暦7月5日で、元禄2年は7月6日。直江津へ。

朝は雨が降っていて、止むのを待ってから出発したら昼頃になった。まあ、ちょっと休憩できた。
曾良の方がかなり参ってるみたいな。気苦労が絶えなくて心配だ。

黒井の先に川があるので、船で海周りで越えて今町に着いた。
直江津は昔国府のあった所で、宗祇法師も最後はここに滞在してた。そんな土地柄だからか、今夜は興行ができそうだ。発句を用意しておこうか。明日は七夕。
今日は旧暦7月5日で、 元禄2年は7月6日。直江津。

また曾良が忙しく歩きまわって、予定してた聴信寺も葬式のため泊まれず、何とか古川市左衛門の家に泊まることができた。夕方から雨も降り出した。

夜になったら聴信寺の眠鴎和尚やその檀家の石塚喜衛門と源助、右雪などが訪ねてきたが、すっかり遅くなったし、明日改めて興行を行う約束して、発句だけ先に渡しておいた。

文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉

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