2023年8月13日日曜日

  大坂独吟集「かしらは猿」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「軽口に」の巻の続き。

初裏
九句目

   きんかあたまに盆前の露
 懸乞も分別盛の秋更て

 懸乞(かけごひ)は掛乞で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「掛乞」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「かけごい」とも) 掛売りの代金を請求すること。また、その人。掛取り。《季・冬》
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「きんかあたまに盆前の露 懸乞も分別盛の秋更て〈西鶴〉」
  ※風俗画報‐二五五号(1902)人事門「同十三日は〈略〉、町内掛乞(カケゴヒ)の往来頻繁雑沓を極む」

とある。年の暮れだけでなく、お盆前もその季節になる。
 点あり。

十句目

   懸乞も分別盛の秋更て
 こらへ袋に入相のかね

 「こらへ袋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「堪袋」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 怒りをこらえる度量を袋にたとえていう語。堪忍袋(かんにんぶくろ)。
  ※本光国師日記‐元和六年(1620)正月一九日「拙老心中こらへ袋やふれ候と被二思召一可レ被レ下候」

とある。
 分別盛りなので、払おうとしない相手にもブチ切れることなくぐっとこらえているうちに、入相の鐘が鳴って時間切れになる。
 長点で「よき商人と見え候」とある。「良き」というよりは「よくある」の方か。こういう人情あるあるは西鶴の得意とするところだろう。

十一句目

   こらへ袋に入相のかね
 かひなつく命のうちのしかみがほ

 「かひなつく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「腕引」の意味・読み・例文・類語」の、

 「〘名〙 衆道(しゅどう)または男女の間で、その愛情の深さや誓いの固さを示すために腕に刀を引いて血を出すこと。
  ※浄瑠璃・曾我虎が磨(1711頃)傾城十番斬「心中見たい、指切か、かひな引か、入ぼくろか、此きせるのやきがねかと、一もんじにもってかかる」

の動詞化であろう。
 「しかみがほ」は顔をしかめた状態で、腕引の痛さを堪えた顔になる。変わらぬ恋を命を懸けて誓う。
 点あり。

十二句目

   かひなつく命のうちのしかみがほ
 前髪はゆめさよの中山

 前髪はまだ月代を剃ってない若衆の姿。前句の「命のうち」を「まだ生きてた頃」という意味に取り成して、若衆は腕引で命を落とし、その命は夢となった。
 「命のうち」から、

 年たけてまた越ゆべしと思いきや
     命なりけり小夜の中山
             西行法師

の歌の縁で「小夜の中山」を引き出す。この歌の「命なりけり」もまた「まだ生きてたんだ」という感慨の言葉で「命のうち」に通う。
 点あり。

十三句目

   前髪はゆめさよの中山
 菊川の鍛冶が煙と弟子は成て

 菊川間宿は江戸の方から京へ上る時の直前の宿場になる。矢の根鍛冶五条清次郎のいた所で、そこの弟子が亡くなったとする。
 点なし。

十四句目

   菊川の鍛冶が煙と弟子は成て
 仕きせの羽織のこる松風

 仕着せは従業員に支給される服で、今日でいう制服貸与のようなもの。鍛冶の弟子がなくなって、その弟子に与えた羽織が形見に残される。
 点なし。

十五句目

   仕きせの羽織のこる松風
 今朝見れば霜月切の質の札

 仕着せの羽織も質に入れられてしまい、今朝見れば霜月が期限の質札だけが残っている。羽織が掛かってたところには何もなく、松風の音だけがひゅーーー。
 点なし。

十六句目

   今朝見れば霜月切の質の札
 道場に置二十八算

 道場はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「道場」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 仏がさとりを開いた場所。菩提樹下の金剛座をいう。
  ② 発心(ほっしん)・深心(じんしん)など、さとりを開くもととなる心や布施などの修行をいう。〔法句経〕
  ③ 仏道修行の場所。仏をまつり仏の教えを説く所。寺。寺院。また、寺院としての格を持たない小さな建物や、臨時にしつらえられた法会、法事のための場所などをもいう。
  ※令義解(718)僧尼「凡僧尼非レ在二寺院一。別立二道場一。聚レ衆教化。〈略〉者。皆還俗」 〔白居易‐斎戒満夜戯招夢得詩〕
  ④ 浄土真宗や時宗で、念仏の集まりを行なう場。簡略なものから、寺院までをいった。
  ※改邪鈔(1337頃)「道場と号して簷(のき)をならべ墻をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事」
  ⑤ 特に近世、仏像を安置してあるだけで、寺格もなく住僧も定まらない寺。
  ※咄本・軽口露がはなし(1691)二「去田舎に、一村みな一向宗にて、道場(ダウデウ)へまいりて御讚歎を聴聞いたし」
  ⑥ 弟子が集まり師について武芸を学び、練習する所。
  ※浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡(1712頃)中「妻子引具し旧冬より、上本町の道場の玄関構へ借座敷」
  ⑦ 多くの人々が集まり、団体生活をして精神修養・技術の練成などに励む場所。」

とある。ここでは④の意味であろう。藤沢の遊行寺も藤沢道場と呼ばれていた。
 霜月二十八日は親鸞聖人の命日で、二十一日から七日間報恩講を行う。その時の寄付で借金を返す算段か。
 長点で「おとりこしの折からお殊勝に存候」とある。「おとりこし」は報恩講のことで殊勝は立派なことを意味するが、「お」が付くと皮肉に聞こえる。「何とまあご立派な」という感じか。

十七句目

   道場に置二十八算
 知恵の輪や四条通にぬけぬらん

 知恵の輪はコトバンクの「百科事典マイペディア 「知恵の輪」の意味・わかりやすい解説」に、

 「パズル玩具(がんぐ)の一種。種々の形状の輪をつないだり,はずしたりする遊びで,多くは解き方が一通りしかなく,それを考えるのが楽しみ。起源は不明だが,英国ではチャイニーズ・リングchinese ringと呼ばれており,東洋起源のものと思われる。中国では9個の輪からなる九連環が存在し,17世紀後半に日本に伝来した。」

とある。この九連環はウィキペディアに、

 「『九連環』という名前は輪が9個のもので、それが代名詞的ではあるのだが、9個では手数が少々多く、5個前後のものも多い。逆にもっと多い、11個や13個のもの、さらに多いものも存在する。」

とある。
 ここではあくまで比喩だろう。二十八回いろいろ考えた末、知恵を使った小坊主が、今日の本願寺の道場を抜け出して四条通りに遊びに行く。
 長点で「払子はうたがひなく候」とある。払子(ほっす)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「払子」の意味・わかりやすい解説」に、

 「獣の毛などを束ね、これに柄(え)をつけた仏具。サンスクリット語のビヤジャナvyajanaの訳。単に払(ほつ)、あるいは払麈(ほっす)ともよぶ。葬儀などの法要のとき、導師を務める僧が所持するが、元来はインドで蚊などの虫を追い払うために用いたもので、のちには修行者を導くときにも利用される。『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』などによれば、比丘(びく)(僧)が蚊虫に悩まされているのを知った釈尊は、羊毛を撚(よ)ったもの、麻を使ったもの、布を裂いたもの、破れ物、木の枝を使ったものなどに柄をつけて、払子とすることを許したという。その材料に高価なものを使用することは、他人に盗みの罪を犯させるとの理由から禁止された。中国では禅宗で住持の説法時の威儀具として盛んに用いられた。日本でも鎌倉時代以後に禅宗で用いられるようになり、真宗以外の各宗で用いられる。[永井政之]」

とある。あとで説教されるのは疑いない、ということであろう。ただ、浄土真宗では払子は使わないとのこと。

十八句目

   知恵の輪や四条通にぬけぬらん
 竹の薗生の山がらの籠

 薗生はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「園生」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 植物を栽培する園。その。庭。
  ※万葉(8C後)五・八六四「おくれゐてなが恋せずは御曾能不(みソノフ)の梅の花にもならましものを」

とある。
 ここでは比喩で竹籠を竹の薗生に見立てている。四条辺りにはヤマガラの宙返りの芸などを見せる芸人がいたのだろう。前句の「知恵の輪」を輪くぐりの芸としたか。
 点あり。

十九句目

   竹の薗生の山がらの籠
 わこさまは人間のたね月澄て

 「わこさま」は「わこうさま」と同じで、コトバンクの「デジタル大辞泉 「和子様」の意味・読み・例文・類語」に、

 「良家の男の子を親しみ敬っていう語。わかさま。
「こなたの御大切の―を」〈虎寛狂・子盗人〉」

とある。
 「人間のたね」は『徒然草』第一段の、

 「御門の御位は、いともかしこし。竹の園生の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。」

から来たもので、和子様は良家の子息とはいえ所詮は人間ということ。ヤマガラの芸も盛んだったが、道楽でヤマガラを飼って芸を仕込む人も多かった。金持ちだけど所詮はただの道楽者、というニュアンスだろう。
 鳥を駕籠なんぞに閉じ込めて、真如の月が見ているぞ。
 点なし。

二十句目

   わこさまは人間のたね月澄て
 とりあげばばもくれて行秋

 前句を和子様の誕生として、産婆が出産に立ち会うが、和子様はその後大切に育てられて、産婆は用が済んだら去って行くのみ。違え付けになる。
 点なし。

二十一句目

   とりあげばばもくれて行秋
 見わたせば花よ紅葉よおだい櫃

 「おだい櫃」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「御台櫃」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 飯櫃(めしびつ)。
  ※俳諧・独吟一日千句(1675)第三「松青し雛のあそびのおたひ櫃 霞をすこし一対の錫」
  ② 千木箱(ちぎばこ)のこと。」

とある。
 出産祝いで花見と紅葉狩りが一篇に来たようなお目出度さで飯が振舞われる。その陰でひっそりと産婆さんは帰って行く。
 「花よ紅葉よ」というと、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮れ
            藤原定家

の歌だが、ここではその両方共が揃ったような華やかさの中で、去って行く産婆さんの侘しさが対比される。
 長点で「まかなひのばば見るやうに候」とある。まあ、飯炊きの賄婆も裏方だから似たようなものか。

二十二句目

   見わたせば花よ紅葉よおだい櫃
 浦のとまやのさら世態也

 「花よ紅葉よ」と来たからには定家の卿の歌で逃げることになる。
 さら世態は新世帯(さらせたい)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「新世帯」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「さらぜたい」とも) 新しく持った家庭。あらじょたい。しんしょたい。さらじょたい。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「見わたせば花よ紅葉よおたい櫃 浦のとまやのさら世態也」

とある。浦の苫屋の結婚式に転じる。

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