2023年8月11日金曜日

  芭蕉の元禄五年二月十八日付曲水宛書簡に、

 「風雅の道筋、おほかた世上三等に相見え候。点取に昼夜を尽し、勝負を争ひ、道を見ずして走り廻る者あり。かれら風雅のうろたへ者に似申し候へども、点者の妻子腹をふくらかし、店主の金箱を賑はし候へば、ひが事せんにはまさりたるべし。」

とあるのは、昔からよく知られてることだが、見てないけど今テレビを賑わしてるプレバト!! 何かもこの類じゃないかな。
 夏井は一回の点料が何十万とも言われてるけど、代表作をググってもなかなか出てこない。
 ようやくいくつか見つけた。

 泪より少し冷たきヒヤシンス いつき

 まあ冷えるから冷やしんす、というのは分る。それに泪というとちょっとセンチメンタルで、
あつい涙よりは少し冷たいヒヤシンスに冷やしておくれということなのだろうか。

 手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜 芭蕉

のように、秋の霜(母の遺髪)のような冷たい対象に対して熱い涙を流す方が感覚的には合っている。

 消えて行くあつき泪よヒヤシンス

くらいにしておきたい。

 遺失物係の窓のヒヤシンス いつき

 この句は切れ字がないので「窓や」としたいところだ。
 ヒヤシンスに遺失物係の窓という取り合わせは、確かに水栽培の手軽なヒヤシンスなど、役所の窓辺にあってもおかしくないが、あるあるというほどのものでもないし、取り合わせの意味が分からない。それに何の取り囃しもないのも淋しい。
 点者で成功する人は、必ずしも佳句を残しているわけではない。夏井さんのポジションは芭蕉の時代で言えば調和のポジションに近いのかもしれない。
 最後に芭蕉の同じ書簡の言葉。

 「志を勤め情を慰め、あながちに他の是非をとらず、これより実の道にも入るべき器なりなど、はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸を洗ひ、杜氏が方寸に入るやから、わづかに都鄙かぞへて十の指伏さず。君も則ちこの十の指たるべし。よくよく御つつしみ、御修業ごもつともに存じ奉り候。」

 俺はやはりこの方向で行きたいと思う。宗祇の連歌、芭蕉の俳諧の骨を探り古典の筋をたどり、それが大事だと思う。今は宗因の筋も探ってるし、西鶴や其角にも挑戦したい。
 あと「大坂独吟集」第二百韻「松にばかり」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それではX奥の細道の続き。

六月二十一日

今日は旧暦6月20日で、元禄2年は6月21日。酒田。

今日も良い天気で、昨日の三吟の続きをした。
不玉「前句のゑびすを恵比寿講のこととして、そのご馳走の雁を用意する。」

  ゑびすの衣を縫々ぞ泣
明日しめん雁を俵に生置て 不玉

芭蕉「確かに恵比寿講の時って、振り売りが雁を売りに来るな。ここは普通の街ではなく、陣中の市にしようか。秀吉は軍の士気を低下させないように、陣中で市を開いたという。」

  明日しめん雁を俵に生置て
月さへすごき陣中の市 芭蕉

曾良「陣中といえば、お忍びで殿様の奥方が会いに来たりして、さながら真葛が原に通うみたいですな。」

  月さへすごき陣中の市
御輿は真葛の奥に隠しいれ 曾良

不玉「真葛が原に訪ねてきたのは稚児さんだったりして。輿に乗ってたのは高僧で、小袖袴をプレゼントする。」

  御輿は真葛の奥に隠しいれ
小袖袴を送る戒の師 不玉

芭蕉「そのお坊さん、出家前には妻と娘がいて、その娘と再会する。説経節とかにありそうな場面だし、西行物語でも西行が娘と再会する場面があったな。」

  小袖袴を送る戒の師
吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉

曾良「没落した家で母の家も売ってしまったが、母譲りの自分の容色はまだ衰えていない。」

  吾顔の母に似たるもゆかしくて
貧にはめらぬ家はうれども 曾良

不玉「貧しくて衰えたのではないが、家を売るようなことというと、古今伝授のことかな。奈良の饅頭屋に伝授された奈良伝授ってあったよね。」

  貧にはめらぬ家はうれども
奈良の京持伝へたる古今集 不玉

芭蕉「奈良といえば奈良の僧坊酒、南都諸白。花見には欲しいものだ。」

  奈良の京持伝へたる古今集
花に符を切坊の酒蔵 芭蕉

曾良「花の頃は鶯も巣を作り始める。」

  花に符を切坊の酒蔵
鶯の巣に立初る羽づかひ 曾良

不玉「前句の羽づかひを羽箒のこととして、折から孵化した蚕の掃立の作業も始まる。」

  鶯の巣に立初る羽づかひ
蠶種うごきて箒手に取 不玉

芭蕉「みちのくは養蚕が盛んだからな。家の戸に錦木を立てて機を織り続ける謡曲錦木にしてみようか。」

  蠶種うごきて箒手に取
錦木を作りて古き恋を見ん 芭蕉

曾良「大宮人もまたいろんな色を好むものです。大和歌も色好みの道と言いますし。」

  錦木を作りて古き恋を見ん
ことなる色をこのむ宮達 曾良

六月二十二日

今日は旧暦6月21日で、元禄2年は6月22日。酒田。

夜に少し雨が降ったが、今日は朝から曇り。今日も休養に当てよう。
これから帰り道だと思うと気が重い。

芭蕉「そういえばこの前の話だと魂魄は気で消散するけど、魂を祀る心は理で不易だという話だったか。その気と理の違いなんだが。」
曾良「気は目に見えるもの耳に聞こえるもの、森羅万象全てがそれで、理はその根底にあるもの、そう言ったところかな。」

芭蕉「仏教でいう色相と実相の関係か。」
曾良「多分そう言ってもいいんだと思う。朱子学だと気は空間的に捉えられるが、理は時間的なんだ。
ただ様々な物が空間的に併存するのではなく、その因果や成り立ち、始まり終わりを時間的に捉えることで、それを考えたりできる。それが人間だという。」

芭蕉「因果を断つんではないんだ。」
曾良「因果を断つ、つまり輪廻を絶って解脱するというのは朱子学にはない考え方だ。
仏教のような前世来世はないし、あくまで現世に様々な物が混沌と存在してるだけで、そこから因果を見つけ出すことが重要になる。格物窮理とはそういうことだ。」

芭蕉「よくわからないが、人間というのは時間なのかい。」
曾良「難しい所だけど、多分時間そのものというよりは時間を意識できる、時間に対して開かれている、ということではないか。」
芭蕉「この時間には前世や来世はないのか。」
曾良「想像することはできるが、実際にはこの世界しか知らない。」

芭蕉「死んだら終わりということなのか。」
曾良「まあ、魂はこの大気に溶けてゆくということだ。肉体は土に帰り、魂は風となって大地を駆け巡ると思えばいいんじゃないかな。」

六月二十三日

今日は旧暦6月22日で、元禄2年は6月23日。酒田。

昨日の夕方から晴れている。今日もゆっくり休もう。
夜に三郎兵衛の家に招待されている。興行ではないし、発句も別に作っておかなくていいかな。

芭蕉「それでは昨日の続きだが、誠の心というのは理でいいのかい。」
曾良「人間の心は四端と七情に分けられる。七情は普通の喜怒哀楽の情で、これはその時の個人的な感じ方だったりする。これに対して四端から突き起こされる情は理から来る。」

芭蕉「どっちも情だけど気から発するか理から発するかで、私情と本意本情とが決まるわけか。」
曾良「例えば惻隠の心は同じ命あるものへの気遣い。花が咲くのを喜び散るのを悲しむのも、春に万物が生じるのを喜び秋に止むのを悲しむのも、惻隠の心が働いた情ではないかと思う。」

芭蕉「飛花落葉の心は元は一つということか。同じように人が生まれるのを喜び、老いて死んでくことを悲しむ。」
曾良「その気遣いが死後にまで及ぶなら、死者の魂を悼み、蘇ることを願うのも自然の情ということになる。」

夕飯を食ってから近江屋三郎兵衛の家に行った。真桑瓜を一個持ってきて、「発句を詠んだら食べていい」なんてぬかしおった。
食えない奴だから料理してやらないとね。
でもどうやって切ろうか。
曾良と三人で食べるのに四つに切ると一つ余るしなあ。

輪切りにすると六つにできるが、大きいのと小さいのができる。
誰か真桑瓜を正確に三等分する方法を教えてくれ。ってそれを句にすればいいか。

初真桑四にや断ン輪に切ン 芭蕉

三郎兵衛もちょっと考え込んで、悪かったと言って真桑瓜をもう二個持ってきた。
瓜の花の咲く中で瓜が食べられて、両方の盛りがいっぺんに来たとヨイショしようと思って、

花と実と一度に瓜のさかりかな 芭蕉

という句も作ってみた。

六月二十四日

今日は旧暦6月23日で、元禄2年は6月24日。酒田。

昨日の夕方から晴れて、今日は良い天気だ。明日はここを発とうと思う。

芭蕉「俳諧ではよく花実ということを言うし、昨日もそれに掛けて、花と実と一度に瓜のってしてみたが、花は七情で実は四端ということになるのかな。」

曾良「七情というのは四端と対立するものではなく、四端に動かされて七情が表に現れるわけだから、実に対して花という場合はその表に現れた部分という意味じゃないかな。
朱子学には未発既発と言って、既発のものがさまざまな花となるが、未発で表に現れなければそれが実ということになるのか。」

芭蕉「花は句の表に現れた喜怒哀楽の生き生きとした姿で、実は余情として句の裏に隠されたもの、ということでいいんだな。」
曾良「よくある喩えだと、未発は何もしないでいる無為の状態で、既発は座臥行往屈伸伏仰の様々な形となって現れた姿ということになる。」

芭蕉「花が咲くのは嬉しいもんだが、それをただ単にちょっと忙しくて花を見ても何とも思わないだと私情になる。付句では構わないが発句には為し難い。
でも他の四端が働いて花が嬉しくないだったら良いわけだ。

杜甫の感時花濺涙のように、戦乱で国が荒れ果ててるという場合は、悪を憎む是非の心というもう一つの四端が働いていて、それが花への惻隠の心を上回っていれば良いわけだ。」
曾良「なるほど。ならばわかる。」
芭蕉「本意本情は新たな創作の枷にもなるが、それを打ち破っても四端に発するなら可だ。」

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