2018年4月30日月曜日

 昨日は深大寺の神代植物公園へ行った。
 ツツジ、藤、牡丹というところは既に終ったようで、薔薇が咲き始めていた。面積は小さいけどネモフィラが咲いていた。
 「ハクメイとミコチ 植物園の歩き方」というイベントをやっていて、柿の葉のテントや竹の風呂などの展示もあった。
 今日は久しぶりに「フクロウに会える店ふわふわ」に行ってきた。ちょっとブームが一段落しているのか、貸切状態だった。一部に誹謗中傷する団体もあるようだが、人間と動物を分離隔離するのが正義だとは思わない。見近でいろいろな動物と親しめる施設は必要だと思う。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 八十七句目

   たぐひだにある思ひならばや
 誰来てか嵐に堪へむ山の陰    宗祇

 宗牧注
 只独住山の堪忍也。
 周桂注
 たぐひなきひとりずみなるべし。

 「たぐひだにある思ひ」がどういう思いなのか特に指定されてないので、恋から隠士の句に転換する。

 さびしさに堪へたる人のまたもあれな
     庵ならべん冬の山里
            西行法師(新古今集)

の心。

 八十八句目

   誰来てか嵐に堪へむ山の陰
 奥は雲ゐる岩のかけ道     宗祇

 宗牧注
 太山の体也。
 周桂注
 所のさま也。

 ここでは前句を「どんな人がここに来るのだろうか」とし、雲に続くような岩づたいの道を付ける。

 八十九句目

   奥は雲ゐる岩のかけ道
 落ち初めし滝津瀬いづく吉野川 宗祇

 宗牧注
 滝の水上ハ、雲深き山上なれバしらぬと也。
 周桂注
 水上をしらぬ心也。

 ここでいう吉野川は四国のではなく花の吉野を流れる吉野川だろう。水源は大台ケ原の方にある。
 その手前の山上ヶ岳は大峰山と呼ばれ、熊野古道の大峯奥駈道が通っていて、修験道の寺院がある。江戸時代には曾良がここを訪れ、

 大峯やよしのの奥を花の果   曾良

と詠んでいる。
 前句の「雲」は吉野の地名が出ることで花の雲を連想させる。吉野の花の雲のはるか彼方、吉野川の水源がある。
 この百韻は名残の懐紙に花はない。この句を隠し花と見てもいいのかもしれない。
 花は「応安新式」には一座三句もので「懐紙をかふべし、にせ物の花此外に一」とある。「新式今案」ではやはり一座三句者と規定されているが、「近年或為四本之物、然而余花は可在其中」とある。ただ、この百韻では初の懐紙の十五句目に花があり、二の懐紙には三十八句目に花があり、三の懐紙には六十五句目に花がある。
 おそらく宗祇が気にしていたのは、発句にも「花」という文字があることだろう。これを入れると初の懐紙に花が二句になり式目に反してしまう。発句は基本的には桜の句で、その桜の形容として「似たる花なき」が出てくるにすぎないから微妙な所だ。
 独吟では審判の役割を果たす主筆がいないから、宗祇も後になってから初の懐紙に花が二句あるのに気づいたのかもしれない。その埋め合わせで、名残の懐紙は花をこぼすことになったのだと思う。

 九十句目

   落ち初めし滝津瀬いづく吉野川
 はやくの事を泪にぞとふ     宗祇

 宗牧注
 昔の事也。泪の滝に仕立られたり。
 周桂注
 うけたる詞也。涙の滝也。はやくハむかし也。

 「うけたる詞」は「うけてには」、古くは「うけとりてには」とも呼ばれた付け方で、二条良基の『知連抄』には、

 三、うけとりてにはは、(上句に)、
     来秋の心よりをくそでの露
   かかるゆふべは萩のうはかぜ
     通路の跡たえはつる庭の雪
   ふりぬる宿をたれかとふらん
     故郷をおもふ旅ねの草枕
   むすぶちぎりは夢にこそなれ
 (上句)に云止むる言葉をうくるを云也)、袖の露にかかる、庭の雪にふり

ぬる宿と付、草枕にむすぶ(とうくる)、是皆請てには也、自餘是にて料簡在べし、とある。逆に下句に上句を付ける場合は「かけてには」になる。

     すむかひもなき草の庵かな
   はやむすぶ岩屋の内のたまり水

 これは「すむ」に「水」に掛けて付けているため、かけてにはになる。
 宗祇の『連歌秘伝抄』には、

 一、かけ手仁葉の事
     待や忘れぬこころなるらん
   聞なれし風は夕の庭の松
 一、うけ手仁葉の様
     暁のあはれをそふる雨そそぎ
   あまりね覚ぞ身にはかなしき    頓阿

とある。「待つ」に「松」のかけてにははわかりやすいが、うけてにははわかりにくいが「雨そそぎ」の「雨」を「あま」で受けている。
 しかし、このようなはっきりわかる受け方は次第に好まれなくなり、一見するとどこで繋がっているかわからないように受けるのが宗祇以降の時代には好まれるようになる。
 この九十句目はもっとわかりにくい受け方で、「滝津瀬」を「泪」で受けて「泪の滝」としている。
 吉野川の滝がどこから落ちてくるのかわからないように、いつだったか分からないような昔のことに今も涙する。

2018年4月27日金曜日

 トランプさんの今までにない強力な経済制裁がやはり利いたのだろうか。もちろん日本もきちんとそれに歩調を合わせたことも効果あったのだろう。ここまで来れば、すでに投了前の形作りに入ったといってもいいのかもしれない。あとはいかに北朝鮮の名誉を保ったまま統一を実現するかだろう。
 「朝鮮半島の非核化」は文面通りなら、北朝鮮の核放棄と同時に南朝鮮からの米軍の撤退を意味するのだろう。トランプさんも選挙の時にそんなことを言っていたし、実現する可能性はある。
 アメリカも世界支配の覇権主義の野望を放棄し、普通の国になったように、あとは中国がアメリカに対抗するような覇権主義や、朝貢国は中国の一部なんていう時代錯誤の中華思想を放棄する番だろう。
 こうして世界は多元主義と国境なきグローバル資本主義の下に、戦争のない上機嫌な時代になってゆけばいいなとおもう。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 八十三句目

   秋をかけむもいさや玉緒
 身のうさは年もふばかり長き夜に 宗祇

 宗牧注
 一夜のかなしさも、年々を経ばかりなれば、秋中も待がたきとなり。
 周桂注
 秋の中も過しがたし。其ゆへハ、一夜なれども年もふるやうにながくおぼゆれば也。

 「うさ」は今日でも「憂さ晴らし」というふうに用いられている。「年もふ」は「年も・経(ふ)」。
 ただでさえ「秋の夜長」というが、憂鬱な時はその一夜が一年歳を取るくらい長く感じられる。白髪三千丈までは行かないにしてもやや大袈裟な感じもしないではない。まあ、とにかくその長い夜を繰り返していると、秋の終わるころには寿命も尽きるのではないかと思えてくる、と付く。

 八十四句目

   身のうさは年もふばかり長き夜に
 見えじ我にと月や行く覧    宗祇

 宗牧注
 しの字濁也。うき身にハ月も見えじとゆくらんと也。
 周桂注
 思ひの切なるあまりに、月を友とすれば、はやくうつろふやうにみゆるハ、我にハみえじとて行かと也。誠年もふるばかり長き夜にたのめバ、月のうつろふと見侍るべし。

 鬱がひどくて月を眺める余裕もなければ、月も早々に西の地平へと去って行く。「我に見えじや、と月は行くらん」の倒置。

 八十五句目

   見えじ我にと月や行く覧
 よしさらば空も時雨よ袖の上  宗祇

 宗牧注
 此句名誉の句也。をのをの門弟に作意をいはせられしに、各ハ月に敵対していへり。祇公の作意ハ、下賤のわれに見えじと行月ハ理(ことはり)なるほどに、同心して、空も時雨よとせられたる也。
 周桂注
 月のみえじと行ハことはりなりと也。月をうらみぬ心、尤殊勝の事也。野とならバ鶉となりての作意におなじ。是を人をうらみぬ所簡要也。いつはりの人のとがさへ身のうきにおもひなさるる夕暮の空。

 宗牧注の「名誉」には不思議というような意味もある。月は愛でるべきもので、月の出るのを喜び月が隠れるのを惜しむのが月の本意とされている。ただ、こういうことには必ず逆説がある。
 杜甫の「春望」には「感時花濺涙(時に感じては花にも涙を濺ぎ)」と本来愛でるはずの花も荒れ果てた国の情景であればかえって悲しく感じられる。
 ただ、宗祇のこの句は悲しむにとどまらず「空も時雨よ」ともっと悲しくなる事をあえて望み、月を恨む。私には見えないだろうということで月は行ってしまったのだろうか、と月にまで見放された我が身に、月の馬鹿野郎という感じで身の不遇を嘆く。
 近代でも「青い空なんて大嫌いだ」だとか「海の馬鹿野郎」だとかいう言葉は、かえって悲しみを掻き立てる。惜しむべき月に「空も時雨よ」もまた、悲しみをより掻き立てる効果がある。
 星野哲郎作詞の「花はおそかった」にも、「どんなに空が晴れたってそれが何になるんだ、大嫌いだ白い雲なんて」というフレーズがある。
 もっとも、宗祇の句の場合、「月」が去って行った男のことだとすれば、その背中に「馬鹿」というのはわかりやすい。
 周桂注の「野とならバ鶉となりて」は『伊勢物語』の、

 野とならば鶉となりて鳴きをらむ
     かりにだにやは君は来ざらむ

の歌で、行ってしまうなら私は鶉になって泣いていましょうという歌だが、本来愛でるはずのものを呪うという展開ではないから、ちょっと違う気がする。ただ、去ってゆく男への恨みの言葉という点では共通している。
 もう一つの引用している歌は、

 いつはりの人のとがさへ身のうきに
     おもひなさるる夕暮れの空
             藤原為氏(続後撰和歌集)

 これも同様だ。要するに宗祇のこの逆説は当時としては画期的で、弟子達もなかなかうまく説明できなかったのだろう。

 八十六句目

   よしさらば空も時雨よ袖の上
 たぐひだにある思ひならばや   宗祇

 宗牧注
 空も時雨たらば、我袖の類なるべし。
 周桂注
 空も袖もしぐるる物なれば、袖ばかりしぐるる心也。

 これは先の逆説の補足説明のようでもある。「空も時雨よ」というのは、ならば月も私と同じように悲しんでくれて、同類になってくれる、と。

2018年4月26日木曜日

 「宗祇独吟何人百韻」の続き。名残の表に入る。

 七十九句目

   色に心は見えぬ物かは
 たが袖となせば霞にひかるらん  宗祇

 宗牧注
 春の光に乗じて、誰袖となして、霞にひかるるぞと、我心もあらはによ所に見えんと也。
 周桂注
 面白に興じたる体也。うかれたる心也。

 隠していても顔に出てしまう恋は一体誰の袖に引かれたのだろうか、他ならぬ君にだ、というやや浮かれたような恋の歌になる。
 「引かる」は「光る」に掛かり、そこに「霞」を出すことによって、春の女神佐保姫を愛しき女に重ね合わせる。
 佐保姫といえば、

 佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ
     花の錦をたちやかさねむ
               後鳥羽院

の歌がある。
 霞の衣の春の日に光り輝くような女神様のような君ともなれば、そりゃあ表情にも出るわな。
 なお、これより二十五年後の山崎宗鑑撰『犬筑波集』には、

   霞の衣すそはぬれけり
 佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして

の句がある。放尿は今のポルノでも一つのジャンルになっているが。

 八十句目

   たが袖となせば霞にひかるらん
 春さへ悲しひとりこす山    宗祇

 宗牧注
 春は面白時節なれども、独こす山はかなしきと也。然(しかる)をたが袖となして、霞にハひかるるぞと也。
 周桂注
 春山ハおもしろき物なれど、ひとりこゆればかなしと也。誰袖になせばといおふにあたりて、ひとりと付たる也。

 前句の「らん」を反語にして、あの霞も誰かの袖だったら引かれるのに、そんなこともなく、独り越す山は悲しいと付く。恋から羇旅に転じる。

 八十一句目

   春さへ悲しひとりこす山
 おのが世はかりの別れ路数たらで 宗祇

 宗牧注
 北へ行雁ぞ鳴なるつれて来し数ハたらでぞかえるべらなる。ひとりに数たらでと付也。雁をかりの方に取なしたる也。
 周桂注
 北へ行雁ぞなくなるつれてこし数ハたらでぞかへるべらなる。かりの別ぢかりそめにそへたり。

 本歌は、

 北へ行く雁ぞ鳴くなるつれてこし
     数はたらでぞ帰るべらなる

             詠み人知らず(古今集)

 雁と仮を掛けて、我が人生の仮の世の別れ(親族や親友などの死別)があって、秋に来た時より数が減って帰ってゆく春の雁のように、独り越す山は悲しいと付く。

 八十二句目

   おのが世はかりの別れ路数たらで
 秋をかけむもいさや玉緒    宗祇

 宗牧注
 雁ハ春帰て、又秋来るものなり。然を秋かけて、あはむも知ぬ命ぞと、わが身をおもふ也。をのが世を吾事に取べし。
 周桂注
 雁ハ秋来る物なれど、秋までもいのちをしらぬと也。

 親しき人とも死別し、数足らず帰ってゆく雁のような自分には、雁が秋にまた渡ってくるようなこともなく、むしろ秋まで生きながらえることができるだろうか、と付く。

2018年4月25日水曜日

 今日は朝から激しい雨が降り、昼過ぎにようやく止んだ。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 七十五句目

   砌ばかりをいにしへの跡
 植ゑ置きし外は草木も野辺にして 宗祇

 宗牧注
 荒たる所に、さすが植置たる草木ハ別に見ゆる也。其外ハ悉広野と荒果たる体也。
 周桂注
 うへたるハ別にみゆる心也。あれたる体也。

 すっかり野原になってしまったかつての住居も、ところどころ植えられたとおぼしき植物が残っていて、かつてここに人が住んでいたとわかる。

 七十六句目

   植ゑ置きし外は草木も野辺にして
 風は早苗を分くる沢水     宗祇

 宗牧注
 うへをきしハ、早苗の事也。苗の外ハ、山沢の草木を吹風計也。行やう面白句也。
 周桂注
 うへをきしハ苗也。

 中世の田んぼは今のような区画整理された大きな田んぼではなく、山間部などの小さな水の流れに沿って作られた。そのため一区画は小さく、流れに沿って曲線的に作られることが多かった。
 大きな河川の下流域の広大な平野部は水害の危険大きいため、こうした所は江戸後期の新田開発によって出来た所が多い。
 中世の小さな田んぼの周りは、野原だったことも多かったのだろう。前句の「植ゑ置きし」を早苗のこととし、小さな沢水を利用して作られた田んぼの周りは草木の茂る野辺になっていて、風はそこから吹いていた。

 七十七句目

   風は早苗を分くる沢水
 声をほに出でじもはかな飛ぶ蛍 宗祇

 宗牧注
 し文字濁べし。ほにハ顕心也。苗ハ穂に出る物なるに対してかくいへり。
 周桂注
 一句は恋也。蛍ハこゑハなくて、ただおもひをたきてみする心也。

 「ほに出」は表に表れるという意味と穂に出るという意味とを掛けている。蛍は鳴かないから声をほに出すことはない。

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 鳴かぬ蛍が身を焦がす

は都都逸として有名だが、永正十五年(一五一八年)に成立した『閑吟集』にもあるというから、ひょっとしたら宗祇さんも知っていたかもしれない。『閑吟集』の編者は不明だが、水無瀬三吟、湯山三吟をともに巻いたあの宗長だとする説もある。

 七十八句目

   声をほに出でじもはかな飛ぶ蛍
 色に心は見えぬ物かは    宗祇

 宗牧注
 こゑにハたてねど、色には見ゆるを、忍ぶハはかなきと、蛍にいひかけて付る也。
 周桂注
 いはねども色にみゆる物なれバ、忍もかひなし。

 口には出さなくても顔に出てしまっては、忍ぶ意味がない。

 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は
     ものや思ふと人の問ふまで
                平兼盛(拾遺集)

の歌は百人一首でもよく知られている。ただ、蛍の場合は顔に出るというよりも光に出るというべきか。

2018年4月24日火曜日

 ポスト安倍なんてことが話題になるけど、誰が首相になったとしても、持ち上げられるのは最初だけなのはいつものことだと思う。
 左翼の連中やマスコミのお偉方が相変わらず、「資本主義は必然的に侵略戦争を引き起こす」などというレーニン『帝国主義論』の亡霊に取り憑かれている限り、自民党の誰が首相になっても必ず軍国主義者だのレイシストだの言われるだろうし、何をやっても侵略戦争の準備だとか「この道はいつか来た道」なんて言われることになる。
 それは国内だけでなく、外圧を利用するという見地から韓国や中国に広められ、反日感情を煽り続けることになる。
 結局日本が社会主義体制になるまで、彼等はそれを続けるつもりなのだろうな。
 次の首相に求められるのは、こうした野党や、特にマスコミの攻撃に対し、是々非々の態度で望めるかどうかということだろう。小池都知事が希望の党を作ったとき、簡単にマスコミの批判に屈して、結局失敗した。
 今は安倍批判をしてマスコミから持ち上げられていても、それに簡単に流されるような人では、首相になっても一年持てばいいだろう。
 まあ、世間話はこれくらいにして、「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 七十一句目

   只にや秋の夜を明石潟
 遠妻を恨みにたへず鹿鳴きて  宗祇

 宗牧注
 明石ハ鹿をよめり。恨みにたへず打鳴て、ただにや夜をあかすと鹿をあはれみたる句也。
 周桂注
 鹿をよみならハせり。

 明石に鹿を詠んだ例としては、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)はこの歌を例示している。

   夜泊鹿といへるこころをよめる
 夜をこめて明石の瀬戸を漕ぎ出づれば
     はるかに送るさを鹿の声
             俊恵(千載集)

 前書きにあるように「夜泊鹿」という題を出されて詠んだ歌で、実際に明石で鹿の声を聞いて詠んだ歌ではなさそうだ。
 妻恋う鹿というと、

 あらし吹く真葛が原に鳴く鹿は
     恨みてのみや妻を恋ふらむ
             俊恵(新古今集)

の歌がある。この二つの合わせ技と言ってもいいかもしれない。

 七十二句目

   遠妻を恨みにたへず鹿鳴きて
 おもひの山に身をや尽くさん  宗祇

 宗牧注
 鹿のおもひの事也。
 周桂注
 鹿の恋也。おもひの山と成たる也。とをづまなれば、一段思ふらんと也。上作付(うはさづけ)とて嫌事なれど、如此はすべし。分別大事といへり。

 「思ひの山」は本来は恋心の積もり積もって山と成るという意味だが、ここでは鹿だけに「思ひの山」と洒落てみる。鹿は山に住むから思いの山で一生を過ごす。

 七十三句目

   おもひの山に身をや尽くさん
 払ふなよいづくか塵の内ならぬ 宗祇

 宗牧注
 深山幽谷といふも、塵の世の外にハあらぬ物也。然ば、何と払ともちりの世ハのがれがたきを、はらハんとするハ、結句おもひの心となるべしと也。
 周桂注
 おもひの山、ちりひぢの山也。天下皆塵の内なれバ、払えがたき心也。世を遁、山居などをもとめても益なしと也。

 いわゆる咎めてにはでの展開で、前句を俗世を捨てて山にこもってはみるものの、かえって「思いの山」に悩んで悶々と過ごすことになった我が身と見たてての述懐とする。
 悩み尽きない山暮らしに、この世の塵を無理に払おうとするからだ。どこへ行っても世俗の塵からは遁れられないんだと観念せよ、と咎める。
 周桂注の「ちりひぢの山」は、『古今集』仮名序の「とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて、年月をわたり、たかき山も、ふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたも、かくのごとくなるべし。」から来ていて、高い山も土や泥(ひぢ)の積もったものにすぎないように、和歌の道も最初は出雲八重垣の歌から始まり、それが積もり積もってこの『古今集』の千の和歌に至ったとする。
 どうせこの世は塵泥(ちりひぢ)にまみれているなら、それを歌に詠めばいいではないかという意味も含まれているのか。

 七十四句目

   払ふなよいづくか塵の内ならぬ
 砌ばかりをいにしへの跡    宗祇

 宗牧注
 古宅の体ばかり也。
 周桂注
 砌(みぎり)の内悉(ことごとく)塵也。はらハれぬ心也。前句ハ広大なるを、ちいさき砌の内にとりなしたる、色々かはりたる行様也。

 砌(みぎり)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

《「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという》
1 時節。おり。ころ。「暑さの砌御身お大事に」「幼少の砌」
2 軒下や階下の石畳。
「―に苔(こけ)むしたり」〈宇治拾遺・一三〉
3 庭。
「―をめぐる山川も」〈太平記・三九〉
4 ものごとのとり行われるところ。場所。
「かの所は転妙法輪の跡、仏法長久の―なり」〈盛衰記・三九〉
5 水ぎわ。水たまり。池。
「―の中の円月を見て」〈性霊集・九〉

とある。この場合は2の意味か。
 かつて栄えた家も今は石畳を残すのみとなり、それも泥に半分埋まっている。今更綺麗に掃除したところでどうなる物ではない。昔の跡はそっとしておこう。
 この頃は発掘して保存しようなんて考え方もなかった。すべては朽ちるに任せ、自然に帰してゆく。人もまたいつかは灰になり、思い出も消えて行く。

2018年4月23日月曜日

 昨日は代官山へPagan Metal Horde vol.3を見に行った。
 オープニングアクトのAllegiance Reignは日本のバンドで、甲冑を身につけ侍の格好で演じるバンドだが、メタルといっても音はそれほど重くなく、音もケルト風であまり和のテイストはなかった。ハイトーンのボーカルはわりとしっかりしていて、MCが面白かった。
 Ithilienはベルギーのフォークメタルバンドで、ブラック寄りの重い音を出す。ホイッスル、バイオリン、ハーディ・ガーディの加わる大所帯のバンドで、楽器編成はEluveitieに似ている。森の妖精のようだった。エルフ族だろうか。
 Dalriadaはハンガリーのフォークメタルの大御所で、女性ボーカルのローラは思ったより小柄だった。周りの男達が皆でかいので、余計小さく見える。男達はRPGから出てきたような「ぬののふく」を装備した戦士のようだった。これはとにかく盛り上がった。
 四番目からがメインアクトになり、チュニジアから来たMyrathた登場する。これはとにかく歌がうまくて聞かせてくれるし、曲もメタルにしてはポップだ。それにステージはベリーダンス付だった。
 最後に出てきたのはイスラエルのOrphaned Landで、髭を生やしたいかにもユダヤ人という人たちだった。曲だけ聞くとアラビア人とユダヤ人の区別はよくわからないが、MyrathのあとにOrphaned Landが出てくると、顔が全然違うのがわかる。変則的な構成の曲が多いが、それでも盛り上がった。最後のSapariからアンコールのNorra el Norraへ、歌詞はさっぱりだけど、とにかくみんなで合唱になり、盛り上がった。
 なかなか世界からこれだけのメンバーが集まることはないだろう。貴重な一日だった。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き、三裏に入る。

 六十五句目

   風の便もかくやたゆべき
 花ははや散るさへ稀の暮れ毎に  宗祇

 宗牧注
 悉落ちつくしたる花の跡にて、毎夕ちらしたる風の便さへ、かくハ絶べきかと恨たる也。
 周桂注
 花のちるハ悲しけれど、それさへまれに、散つくしたる体也。

 「風の便り」は比喩で噂という意味だが、その「風」を桜を散らす春風に掛けて、花の句に展開する。
 花は散り、その散る花びらすらもはや日に日に稀になってゆく。風が届けてくれる便りもこの花びらのように、こうやって絶えて行くのだろう。

 六十六句目

   花ははや散るさへ稀の暮れ毎に
 日ながきのみや古郷の春     宗祇

 宗牧注
 春の物とてハ、只永日ばかり也、となり。花はちり果ての心なり。
 周桂注
 花の後の古郷、何の興もなき所也。日ながき計古郷の所作也。

 散る花も稀になるにつれて、日もどんどん長くなる。都なら花が散ってもいろいろ楽しいこともあるものを、鄙びた里の退屈さということか。

 六十七句目

   日ながきのみや古郷の春
 糸遊の有りなしを只我が世にて  宗祇

 宗牧注
 糸遊ハ有かと思へば、更に形ハなきもの也。又なき物かと思へば、空に見ゆる物也。われらが生涯如此と也。永きといふより、糸遊を思ひよられたるなるべし。
 周桂注
 あるかなきかの古郷の体也。

 「我が世」は宗牧注によれば「われらが生涯」で、それは陽炎のように有るのか無いのか分からないような頼りないものだ。周桂はそれを都落ちして古郷で暮らす境遇に結びつける。

 六十八句目

   糸遊の有りなしを只我が世にて
 霞にかかる海士の釣舟      宗祇

 宗牧注
 糸遊より蜑(あま)の釣舟ハ出たり、釣の糸の心也。ありなしとハ、霞にうかびたる浜舟の体也。
 周桂注
 つりの糸にとりなせり。霞に釣の糸のありなしを見わかぬ心也。

 「糸」に「釣」は縁語になる。我が生涯の有るか無いか分からないような存在の希薄を、霞の彼方に消えてゆく海士の釣舟に喩える。

 六十九句目

   霞にかかる海士の釣舟
 詠めせん月なまたれそ浪の上   宗祇

 宗牧注
 詠(ながめ)よと思はでしもや帰(かへる)らん月待浦のあまの釣舟。□月とおなじく詠せんと也。月なまたれそとなるべし。
 周桂注
 ながめよとおもはでしもや帰るらん月まつ浪のあまの釣舟。

 本歌は、

   熊野へ詣で侍りしついでに
   切目宿にて海邊眺望といふ心を
   男どもつかうまつりしに
 ながめよと思はでしもや歸るらむ
     月待つ波の蜑の釣舟
         源具親(みなもとのともちか、新古今集)

 別に眺めてくれと思って狙って帰ってくるわけではないのだが、月の出とともに、月に照らされながら帰ってくる海士の釣舟は風情がある。この歌の心を踏まえて、霞の中を顕れてくる帰ってくる釣舟を見ながら、このまま月が出るのを待ってくれ、と付ける。

 七十句目

   詠めせん月なまたれそ浪の上
 只にや秋の夜を明石潟      宗祇

 宗牧注
 明石ハ一段面白き所なれバ、何の興もなくてハいかが也。月もまたれそと所の風景を感じたる句也。
 周桂注
 月出ずバ、大かたにあかさんと也。一句ハ面白所なれバ、おもしろき遊覧も有べしと也。

 明石は昔は流人の地だが、やがて月の名所の歌枕として知られるようになった。
 「明石」という地名を「夜を明かし」に掛けて用いるのもお約束というか。
 浪の上に月が現れるのを待って眺めたい。明石で秋の夜を月も見ずに明かすのは勿体ない、となる。

2018年4月21日土曜日

 甲州街道沿いの国領神社の藤も咲いていた。「国領」の響きは「高句麗(こぐりょう)」を連想させるが、高麗(こうらい、こま)と何か関係があったのだろうか。地名の由来には国衙領から来ただとか諸説あるようだ。
 今日も暑かったが明日はもっと暑くなるらしい。それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。 

 六十一句目

   むなしき月を恨みてやねん
 問はぬ夜の心やりつる雨晴れて 宗祇

 宗牧注
 月夜にハこぬ人またるかきくらし雨もふらなむ侘つつもねん、といへる心を下に持て、人もとはぬをなぐさみてゐたる夜の雨晴て、月の面白に、とはぬ心を恨出て、恨てやねんと仕立られたる句也。妙不思議の句なり。
 周桂注
 月夜にハこぬ人またるかきくもり雨もふらなんわびつつもねん。雨はれてとはぬを、むなしき月とうらみたる心也。

 引用されている歌は、

 月夜には来ぬ人待たるかきくもり
      雨も降らなむわびつつも寝む
             詠み人知らず(古今集)

 「心やり」は思いを外へ吐き出すこと。男の問うてこないもやもやを晴らそうと、それを雨にぶつけていたのに、その雨も上がってしまい、やり場のない思いだけが月への恨みとして残ってしまう。

 六十二句目

   問はぬ夜の心やりつる雨晴れて
 身を知るにさへ人ぞ猶うき   宗祇

 宗牧注
 とはれじのうき身ぞと分別してさへ人ハ猶うきと思ふ也。
 周桂注
 身をしる雨也。

 雨のせいにして鬱憤を晴らしていたけど、雨が上がっても猶来なければ、結局自分の身の問題に跳ね返ってくる。別に自分に落ち度があったとかそういうのではなく、要は身分の問題ということなのだろう。

 六十三句目

   身を知るにさへ人ぞ猶うき
 忘れねといひしをいかに聞きつらん 宗祇

 宗牧注
 わすれねといひしにかなふ君なれどとハぬハつらきものにやハあらぬ。君にわすれよといひしは、我身のうきをのべていへるに、君ハ正直に忘たる也。それを忘よといふは、我思ひを卑下なるを、何とききてわするるぞといふ心なり。
 周桂注
 忘ねといひしにかなふ君なれどとハぬハつらき物にぞありける。真実忘よとにハあらぬを、いかがききつらんと、人ぞ猶うきと也。我身のようなきたはぶれ事をいひたるを、身をしるにさへと付たる心なるべし。

 景色の句のときの注釈は短いが、恋の句となると注釈は長くなる。王朝時代の恋はそれだけ、戦国の武家社会の人にはわかりにくいことだったのだろう。
 「忘れね」は「忘れてくれ」という意味。要するに別れようという意味。
 これは男が別れ話を切り出したのではない。男は来なくなればそれが自然と別れになる。女のほうから、自分の身分のつりあわないのを卑下して「忘れてください」と言ってはみたものの、本当に来なくなるとやはり辛いもの。「忘れられないんだ、身分なんか関係ない」って言ってほしかったのに、というところか。

 六十四句目

   忘れねといひしをいかに聞きつらん
 風の便もかくやたゆべき     宗祇

 宗牧注
 儀なし。
 周桂注
 虚空なる風のたより、それさへたえたる心也。

 これはまた簡潔な注で、まあ、恋離れの逃げ句だからか。
 風の便りは今でも時折用いる「風の噂」のようなもの。
 風というと『詩経』大序を読んだときに、「言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。(これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)」という言葉があったが、風は誰が言うともなく世間に広がるものを言い、風聞だとか風評だとかいう言葉は今でも使う。
 「忘れて」と言ったあの時の言葉をあの人がどう受け止めたかはもはや知るよしもない。風の噂にも聞こえてこないから、と付く。

2018年4月19日木曜日

 四月十六日の日記に書いたあの言葉は、キャバ嬢ではなくキャバ嬢まがいのことをさせられていた女性記者への言葉だとわかった。日本のマスコミの取材方法の闇の部分が暴露されてしまったか。
 日本のマスコミは根っこから腐っている。一度解体して作り直したほうがいいのかもしれない。ただでさえ、日本は記者クラブ制といい、放送法四条といい、海外から改善を求められている。今のマスコミに閉鎖性を打破するには、思い切った規制緩和が必要だと思う。
 では、それとは関係なく「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 五十七句目

   危き国や民もくるしき
 植ゑしよりたのみを露に秋かけて 宗祇

 宗牧注
 青苗をうへ付て、熟不熟をあやぶむ民の心也。
 周桂注
 (なし)

 これは「て」止めなので、後ろ付けに読んだ方がいいのだろう。危うき国で民も苦しいので、今年こそは作物がちゃんと実ってくれと、田植えの頃より頼みの露を掛けて秋の豊作を祈る。
 前句の「危うき」を戦乱ではなく飢饉のせいだとする。

 五十八句目

   植ゑしよりたのみを露に秋かけて
 かりほの小萩かつ散るも惜し 宗祇

 宗牧注
 小萩を植しよりの心に取なせり。
 周桂注
 小萩うへたるかりほなるべし。秋の田のかりほの宿の匂ふまでさける秋萩みれどあかぬかも。

 前句を稲ではなく萩を植えた人のこととする。萩と露は縁があり、萩の露を詠んだ古歌は多数ある。萩の花の散る儚さと消えて行く朝露の儚さは相響き合う。
 周桂が引用しているのは、

 秋田刈る刈廬の宿りにほふまで
     咲ける秋萩見れど飽かぬかも
        詠み人知らず(万葉集、巻十、二一〇〇)

 五十九句目

   かりほの小萩かつ散るも惜し
 衣擣つ夕べすぐすな雁の声    宗祇

 宗牧注
 鳴渡雁の泪や落るらん物思ふ宿の萩の上のつゆ。衣擣にて、かりほをかかへたる也。
 周桂注
 衣うつかり庵なるべし。夕すぐすなにて、かつちるもおしと付たる也。

 宗牧が引用している和歌は、

 鳴きわたる雁のなみだや落ちつらむ
     物思ふ宿の萩のうへの露
            詠み人知らず(古今集)

 萩と雁の声に縁があるだけでなく、和歌として上句から読み下した時、「雁の声」から「かりほ」が導き出される。
 「すぐす」はこの場合やり過ごすという意味。衣打つ夕べには雁も鳴いてくれ、かりほの小萩が散る、と付く。

 六十句目

   衣擣つ夕べすぐすな雁の声
 むなしき月を恨みてやねん  宗祇

 宗牧注
 付所、雁の不来ハむなしきゆふべならんと也。一句ハ恋也。
 周桂注
 雁がなかずバむなしき月也。一句ハ独寝ハむなしき也。

 雁の声をすぐせば、つまり雁が鳴かなかったなら、月に友となるものが何もないまま恨んで寝ることになる。月に雁というと江戸時代の歌川広重の絵が有名だが、

 白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の
     かずさへ見ゆる秋の夜の月
            詠み人知らず(古今集)

から来ている。
 月に雁がないように、自分にも共に過ごす友のない、空しく一人寝る、となる。

2018年4月18日水曜日

 今日は昼過ぎまで雨が降った。夕方には晴れて三日月が見えた。弥生なんだな。今日は旧暦三月三日、本来の桃の節句。
 この前の土曜日の国会前のデモは四千人も集まったという。韓国と中国では受け止め方が違うようで、中国人は中国でこんなことやったら戦車を見ることになるといった反応があったという。やはり日本は平和で自由な国。民主主義の国だ。
 あまり平和だと、却って海外の革命に憧れたりするのだろう。朝日新聞には中国の独裁政治を賢人政治として賛美する文章が載ったらしい。一度でいいから戦車の前で命がけで民主化を叫んでみたいという気持ちもあるのだろうか。そりゃ中二病だ。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。三表に入る。

 五十一句目

   苔に幾重の霜の衣手
 起き居つつ身を打ち侘ぶる冬の夜に 宗祇

 宗牧注
 聞えたる体也
 周桂注
 きこえたるままなるべし。

 「侘び」というのは下がることをいう。気持ちが下がること、身分の下がること、頭の下がることなど、多義に用いられる。「打ち」という接頭語は急にということだが、中世だと必ずしも特に意味なく用いられたという。この場合も単に気分が沈みこむという意味で「打ち」に特に意味はなさそうだ。
 何か悩みがあってなかなか眠れなかったのだろう。

 五十二句目

   起き居つつ身を打ち侘ぶる冬の夜に
 月寒くなる有明の空     宗祇

 宗牧注
 おもしろき句がら也。
 周桂注
 かどもなき句也。寄特なりとぞ。

 「寒月」という言葉は漢詩からきたのかと思ったが、検索してみるとなかなか「寒月」という言葉のある詩が出てこない。やっと見つかったのは李白の「望月有懐」という詩で「寒月揺清波」という句が含まれている。
 「寒月」という言葉が盛んに用いられるようになったのは江戸時代中期以降、蕪村の時代の俳諧からではないかと思う。
 本来は冬の月を表現するのに、「月」という秋の季語に「寒し」という冬の季語を組み合わせて用いるところから来た言葉だろう。この句のように。
 気分が沈んで眠れない夜もやがて空は白み、有明になる頃には月も寒くなる。

 五十三句目

   月寒くなる有明の空
 蘆田鶴もうきふししるく音に立てて 宗祇

 宗牧注
 寒夜のうきふしを、有明の月に零(たづ)の音に立て鳴をあはれみたる句也。
 周桂注
 時分の体也。

 「蘆田鶴」は鶴のこと。単に「田鶴」ともいう。本土では鶴は冬鳥だが、鶴が冬の季語になったのは近代のことで、それ以前は秋から春に掛けて広く詠まれていた。また、しばしばコウノトリと混同されたためか、夏に詠まれることもあった。「霜」「冬の夜」「月寒く」と冬の句が三句続いたので、ここで冬の句は出せない。
 「うきふし」は「憂き節」で「蘆」と「節」は縁語になる。「しるく」ははっきりとという意味。
 ところで、何で「零」という字を「たづ」と読むのかはよくわからない。ひょっとして「零(おつ)る」から来た駄洒落か。

 五十四句目

   蘆田鶴もうきふししるく音に立てて
 心ごころにさわぐ浪風    宗祇

 宗牧注
 浪風のさはぎを、零(たづ)の心にもうきふしにしたる也。
 周桂注
 波風のさはぎを、たづもうしとこそ思ふらめと也。

 鶴が何を憂きとするのかという所で波風を付ける。

 五十五句目

   心ごころにさわぐ浪風
 山川も君による世をいつか見む 宗祇

 宗牧注
 川の字すみてよむべし。此川の字を可用(もちゆべき)也。
 周桂注
 一天下君になびくやうにあらまほしき也。

 「山河」だと「さんが」だが「山川」だと「やまかわ」になる。
 前句の「さわぐ浪風」を応仁の乱後の乱れきった戦国の世のこととし、王朝時代の平和な時代をなつかしむ。
 「君」は単に主君のことを表したり、女性が主人のことを呼ぶのに用いたりもするが、ここでは天皇のことと思われる。
 王朝時代が廃れ、政治の実権が武家に移ることを以って中世の人は「乱世」と呼んだ。王朝時代は記憶の中で次第に美化され、失われた黄金時代の理想郷と化してゆく。
 元禄時代の、

 日の道や葵傾く五月雨    芭蕉

の句も、徳川幕府が五月雨の雲の向こうの見えない天道(天皇の道)に傾くことを詠んでいる。こうした失われた王朝時代への憧れは、やがて江戸後期になると一君万民の世に戻そうという運動につながり、明治の王政復古へと引き継がれてゆく。
 「応仁二年心敬独吟山何百韻」にも、

   治れとのミいのる君が代
 神の為道ある時やなびくらん 心敬

の句がある。これもまた応仁の乱で乱れた世を憂いての句だろう。

 五十六句目

   山川も君による世をいつか見む
 危き国や民もくるしき    宗祇

 宗牧注
 山川も君になびく治世を民も悦べし。いかなる無心の民も、危き国をバくるしと思はんと也。乱邦不在危邦不入と云り。
 周桂注
 無心なる民も国のあやうきをばくるしむ物也。

 「乱邦不在危邦不入」は『論語』泰伯の「危邦不入、亂邦不居」のことと思われる。このあと「天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。」と続く。これは君子の振る舞いを言うもので、危険な国に入ってはいけない、乱れた国には住んではいけない、天下に道あれば政治の世界に颯爽として現れ、道なければ隠れて隠士になれ、というもの。
 世が治まれば自ずと天皇はふたたび政治の中心におさまり、乱れた世では表に出ることなくひっそりと暮らすという意味か。
 江戸後期から幕末の議論は、王政を復活させるというほうばかりが先走り、却って幕末の戦乱を引き起こしたが、中世から芭蕉の時代までは、世が治まれば自ずと君に寄ることになる、というふうに考えられていたのだろう。
 「無心なる民」というのは「有心」に対しての「無心」で、無学の民でもというような意味。国が乱れれば無心であろうが有心であろうが苦しいことには変わりない。
 通常の興行ではなかなかこういう政治的な発言は出来ない所、独吟だからこそこれを入れたかったのだろう。心敬の独吟と同様に。

2018年4月17日火曜日

 蜘蛛の巣より香山リカの発句のきこえたる。

 桜散るネトウヨどもが夢の跡   リカ

 夢の跡なれど落花に春を惜しむ心有。

   桜散るネトウヨどもが夢の跡
 はよくれたれば春の夜の闇    こやん

 花芥森友敷地にゴミはなし    リカ

 花は芥にても愛でるものにてゴミもなしと也。

   花芥森友敷地にゴミはなし
 行春惜しみ鷺の鳴くらん     こやん

 渡米に病んで夢は桜とともに散る リカ

 花の夢の醒むれば悟りたるニ似たり。

   渡米に病んで夢は桜とともに散る
 嵐のあとの春の曙        こやん

 とまあ、戯れはこれくらいにして、「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 四十五句目

   むねならぬ月やみてるをも見む
 霧晴るる山に慰め物思ひ    宗祇

 宗牧注
 霧晴山ハ、自然の道理也。わが思ひも、一度ハ晴む事を思てなぐさめと也。
 周桂注
 むねの霧の晴がたきに、山のけしきをみてはらせと也。

 山の霧は晴れても胸の霧は晴れず、恋にわずらい物思いにふける。月は出ているけど心ここにあらず。
 悟れない気持ちから恋の悩みに転じる。

 四十六句目

   霧晴るる山に慰め物思ひ
 松をば秋の風も問はずや    宗祇

 宗牧注
 まつの字に仕立たる也。彼宮内卿が、きくやいかにうはの空なる風だにも、と心得る也。
 周桂注
 秋かぜの霧に松のあらはれたるをみて、松の風のとふごとく待人もとへかしと也。

 松を「待つ」に掛けて恋の句にするのはよくあること。秋風に霧が晴れて、山の松も見えてくる。それを待っている松を風が訪問したというふうにして、自分にも待ち人が現れないかと問う。
 宗牧が引用している歌は、

   寄風恋
 きくやいかにうはの空なる風だにも
     松に音する習ひ有りとは
              宮内卿(新古今集)

 宮内卿は後鳥羽院に仕えた女房だという。
 「きく」は相手の男性に対して語りかけるとともに、松風の音を聞くという両方の意味を持ち、この両義性がその後も「うはの空」も男のうわの空と風の吹く空、待つに松、「音する」に訪れると音がする、と見事に継承されてゆく。
 松風に問うという言葉も両義性は、宗祇の句の方にも引き継がれている。
 宮内卿の歌の方は江戸時代後期になると男尊女卑の考え方から「きくやいかに」みたいなきつい言い方は女としていかがなものかなんて議論になるが、無粋な話だ。

 四十七句目

   松をば秋の風も問はずや
 人はたが心の杉を尋ぬらん   宗祇

 宗牧注
 心の杉とは心の数奇なり。対句などの心也。
 周桂注
 心の杉とは、心にすきたる心也。好色心也。

 連歌のてにはに「こそ」付けというのがあったが、「ぞ」でも「をば」でも同様に、前句に対し否定的な内容を付け、「何々ではなく何々をば」と付けることが出来る。
 この場合は「松」に「杉」を対比させながら、あの人は誰の心の杉(数奇)を尋ねているのだろうか、松(待っ)ているのに秋の風も問うてくれない、となる。前句の「や」はこの場合反語に取り成される。

 四十八句目

   人はたが心の杉を尋ぬらん
 門ふる道のたえぬさへうし   宗祇

 宗牧注
 たがと云字にあたりて、心のすきをとらはぬ門は古て、道のたえず残たるも憂と也。
 周桂注
 杉の門也。門ふりたれば、道もなくばよからんずるを、さすが道の残りたるをうらめしと也。

 ここでもお約束で前句の「らん」は反語になる。「門」と付くことによって「杉」は「杉の門」になる。

 我が庵は三輪の山もと恋しくは
    とぶらひきませ杉たてる門
              詠み人しらず(古今集)

の用例がある。
 あの人はどうしてこの杉の戸を尋ねてくるなんてことがあるのだろうか、ありやしない。それなのに古びた門にまだ道が残っているのが恨めしい。道が残っていると、通ってきた頃のことが思い出され、却って未練になる。いっそのこと道も埋もれてしまえばいい、という心か。

 四十九句目

   門ふる道のたえぬさへうし
 爪木こるかげも野寺は幽にて  宗祇

 宗牧注
 儀なし。
 周桂注
 野寺の体也。

 「爪木」は薪にする小枝のこと。前句の「たえぬ」を否定ではなく完了の「ぬ」に取り成し、野寺は爪木を取に来る人さえほとんどなく、道も絶えぬと付く。

 五十句目

   爪木こるかげも野寺は幽にて
 苔に幾重の霜の衣手      宗祇

 宗牧注
 野寺ノ住侶の体也。
 周桂注
 寺に住む人の体也。

 野寺の住人である僧の苔の袂は何度ともなく霜が降りている。

2018年4月16日月曜日

 連句を学ぶと言うのは、ニュースの印象操作を見破るのにも役に立つ。
 たいていの言葉は多義で、使い方によっては意味が異なるが、それを混同させようとするのは印象操作のトリックだ。
 たとえば、「胸触っていい?」「手縛っていい?」という言葉も、取材の女性記者を相手に発せられた言葉か、キャバクラのホステスに発せられた言葉かで意味は違う。
 「戦闘」という言葉も日常的には多義に用いられるが、自衛隊を派遣する際の「非戦闘地域」というときの「戦闘」は法的に定義されている。ウィキペディアによると、

 「現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域

のことで、国際的な武力紛争とは

「国または国に準ずる組織の間において生ずる一国の国内問題にとどまらない武力を用いた争い」(平成15年6月26日衆議院特別委員会石破茂防衛庁長官の答弁)

を意味する。
 日報に記載された「戦闘」は、

 「サマワでサドル派の事務所前にイギリス軍の車両が停止しパトロールを始めたため、サドル派は射撃し戦闘が拡大した」(2006年1月22日)

というもので、これが果して「国際的な武力紛争」に当たるかどうかが本当の問題だ。イラク軍とイスラム国戦闘員が交戦している地域は明らかに「戦闘地域」だが、これはどう見ても小競り合いだ。
 連句にするなら、

   イスラム国掃討しようとイラク軍
 さらに戦闘は拡大しけり

という句に、

   さらに戦闘は拡大しけり
 事務所前パトロール隊に発砲し

という句を付けたなら、これは国際的な武力紛争だった「戦闘」を局地的な小競り合いに取り成して付けたということになるだろう。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 四十一句目

   帰らん空もわかぬ春の野
 鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ 宗祇

 宗牧注
 前の春の野を、鳥辺野ニ思ひなしたる句也。
 周桂注
 とりべ野心もありといへり。

 今の言葉で「今日も空しく一日が終る」と言うと、ただ何となく一日が過ぎたという意味になるが、この時代で「空しく」は死を連想させるようだ。「鳥辺野」は墓地。鳥葬が行われていたという。
 前句の「帰らん空」を亡き人の帰らない空と取り成し、「春の野」を鳥辺野のこととし、今日も悲しみにくれながら一日が過ぎてゆく。

 四十二句目

   鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ
 きけども法に遠き我が身よ  宗祇

 宗牧注
 きけどもハ、付所鐘の事也。一句仏法を聴聞して、法にならぬ我心を諌て云る也。
 周桂注
 仏法は聞てもえがたき心也。鐘は法のかね也。

 「きけども」は前句の「鐘ぞ鳴る」を受け、「鐘の鳴るのを聞けども法に遠き我が身よ、今日も空しく過ぎやせむ」となる。

 四十三句目

   きけども法に遠き我が身よ
 齢のみ仏にちかくはや成りて 宗祇

 宗牧注
 此一座、祇公七十九歳といへり。心は、よはひばかり仏にちかく成て、心は仏法に遠きを思ていへる也。
 周桂注
 仏入滅八十歳にや。作者も七十九歳なれバ相応せり。

 これは宗祇自身の述懐で、自分は七十九歳になり釈迦入滅の八十歳にもうすぐだと言うのに、何でこうも違うのか、と謙虚に言う。
 宗祇の連歌論書『宗祇初心抄』には、

 一、述懐連歌本意にそむく事、
   身はすてつうき世に誰か残るらん
   人はまだ捨ぬ此よを我出て
   老たる人のさぞうかるらむ
 か様の句にてあるべく候、(述懐の本意と申は、
   とどむべき人もなき世を捨かねて
   のがれぬる人もある世にわれ住て
   よそに見るにも老ぞかなしき
 かやうにあるべく候)歟、我身はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云たる心、驕慢の心にて候、更に述懐にあらず、(たとへば我が身老ずとも)老たる人を見て、憐む心あるべきを、さはなくて色々驕慢の事、本意をそむく述懐なり、

とある。述懐は単なる回想ではなく、懺悔の意味が込められてなければならない。そうでなく俺はもう悟ったぞみたいな句は「驕慢の心」として嫌われる。

 四十四句目

   齢のみ仏にちかくはや成りて
 むねならぬ月やみてるをも見む 宗祇

 宗牧注
 胸頭の外の月計、みてるをも見むと也。
 周桂注
 我心の月のあらはれがたきを、空の月のみてるをみていへる也。

 月の心は仏の心だが、その月を見ずして、ただ天文現象としての物理的な月を見ているにすぎない我が身を嘆く。

2018年4月15日日曜日

 今日の午前中は春の嵐だった。
 世の中も不穏で、結局また冷戦時代に逆戻りするのか。国会前も、これも一種の冷戦の名残なんだろうな。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。二裏に入る。

 三十七句目

   つらきにのみやならはさるべき
 道有るもかたへは残る蓬生に  宗祇

 宗牧注
 此道は政道の事也。賢君の中にも、又侫人(わいじん)とて悪き人ある也。其悪き人にやならはさるべきと也。蓬生を侫人にたとへいへる也。世中の麻は跡なく成にけり心のままの蓬のみして、とやらん古歌に侍。
 周桂注
 あれたる蓬生の宿にも、道ある人は残りとどまりて、世にもしられぬ事おほし、茅屋のつらきにならはされて、うづもれはてん事を無念と也。

 宗牧が引用している古歌は、

 世の中に麻は跡なくなりにけり
     心のままに蓬のみして
            北条義時(新勅撰集)

 これは『荀子』勧学編の「蓬も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し。」から来ているという。(参考:「『慕帰絵』の制作意図―和歌と絵の役割について」石井悠加) これは地を這う蓬も背の高い麻の間に生えれば直立するように、政治がしっかりしていれば庶民もしっかりするという例えだという。
 この寓意を取るならば、道はあってもその一方で蓬が好き放題に生い茂り、その辛さにみんな慣れてしまっているという意味になる。
 ただ、ここには「麻」は出てこないし、道があるのだから、やや無理があるように思える。
 ここは周桂注の、道ある人も蓬生に埋もれて隠棲を余儀なくされ、辛さを耐え忍んでいると見たほうが良いと思う。

 三十八句目

   道有るもかたへは残る蓬生に
 しる人を知る花のあはれさ   宗祇

 宗牧注
 花を知人はよき人也。其知人をば花も知て、蓬生に咲といへり。道あるハ花を尋る道と付られたり。
 周桂注
 花をしる人を花もしる心也。互ニ心あるなるべし。色をも香をも知人をしる。此本歌引にもをよばざる歟。

 周桂の言う本歌は、

 君ならで誰にか見せむ梅の花
     色をも香をも知る人ぞ知る
             紀友則(古今集)

であろう。道をわきまえてはいても蓬生に不遇をかこう隠士のもとには、そこだけ桜の花が咲き、花の心を知る人のことは花も知っていて咲くのだろう、と付ける。
 二表の三十句目に桜は出ているが花は出ていないので、二の懐紙の二本目の花をここでだし、春に転じる。

 三十九句目

   しる人を知る花のあはれさ
 折にあふ霞の袖も色々に    宗祇

 宗牧注
 花をたづぬる風流の人たるべし。
 周桂注
 花見る人の袖の結構なるに、花も霞もおりにあひたる、誠に花も人をしるやうに見えたり。

 「霞の袖」は、

 くれなゐに霞の袖もなりにけり
     春の別のくれがたの空
               慈円

などの用例がある。
 春の霞は佐保姫の衣に喩えられ、霞の袖とも言われる。その袖も朝日や夕日に色を変え、月が出れば朧月の色に染まる。
 色々に変化する霞の袖は、花を知り花に知られる風流人にはあわれさもひとしおであろう。

 四十句目

   折にあふ霞の袖も色々に
 帰らん空もわかぬ春の野   宗祇

 宗牧注
 霞に交り帰路を忘じたる也。花下忘帰因美景と云句にかよへり。
 周桂注
 野遊の体みえたるまま也。

 「花下忘帰因美景」は白楽天の、

   酬哥舒大見贈 白居易
 去歳歓遊何処去 曲江西岸杏園東
 花下忘帰因美景 樽前勧酒是春風
 各従微官風塵裏 共度流年離別中
 今日相逢愁又喜 八人分散両人同

  哥舒大より贈られた詩に答える
 去年の交歓会はどこでだったか、そう、曲江の西で杏園の東だ。
 景色の美しさに花の下から帰るのを忘れ、樽を前で酒を勧めているのは春風か何か。
 みんなそれぞれ官僚になって風塵にまみれ、離れ離れのままに一年が経過した。
 今日ふたたび逢って喜び悲しむ。散り散りになった八人の内の二人だけの再会だ。

の詩による。『和漢朗詠集』には、

 はなのもとにかへることをわするるはびけいによるなり、
 たるのまへにゑひをすすむるはこれはるのかぜ、
 花下忘帰因美景。樽前勧酔是春風。
                白居易

とある。
 ただ、打越の花の情を引きずるべきではないので、この引用は余計のように思える。先の「世の中に麻は跡なく」の引用の様に、宗牧はやや碩学をひけらかす所がある。
 霞の色もそれぞれに変化し、帰り道を眺めれば、どこまでが野でどこまでが霞かわからない、というだけの句で、遣り句と見ていいだろう。

2018年4月13日金曜日

 すずらんの花が咲いた。早っ。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 三十一句目

   薄く霞める山際の里
 月落ちて鳥の声々明くる夜に  宗祇

 宗牧注
 儀なし。
 周桂注
 かすめる明がたの体なり。

 『枕草子』の「春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」を思わせる。落月に鳥の声を加えることで少し変えている。

 三十二句目

   月落ちて鳥の声々明くる夜に
 露名残なく起きや別れむ    宗祇

 宗牧注
 惣じて、暁の鳥などに別を付は同心也。是は前句の鳥、並の鳥にてなき程に不苦。
 周桂注
 (なし)

 月が出たところで季節は秋になる。月に露は、

 風吹けば玉散る萩のした露に
     はかなくやどる野辺の月かな
              藤原忠通(新古今集)    

など数々の和歌に詠まれている。
 その月も沈み、露もまた儚く消えて行く。
 「起きや別れむ」はここでは露のことだが、当然ながら男と女が明けがたに起きては別れる、いわゆる後朝(きぬぎぬ)への展開を促している。恋呼び出しだが、独吟なので一人恋呼び出しとでもいうべきか。

 三十三句目

   露名残なく起きや別れむ
 身にしめる風のみ袖の記念にて 宗祇

 宗牧注
 身にしめる風のみ袖の形見にて、露のなごりもなくおきわかれんと也。
 周桂注
 露の名残もなけれど、風計(ばかり)名残なるべし。

 風は露を散らしてゆくもので、悲しい後朝の別れにつゆの名残もなく、袖にはただ風が吹いているだけ。
 「つゆ」には露の意味と、副詞として用いられる「少しも」という意味との二つがある。
 季語は「身にしめる(身にしむ)」。秋は最低三句続けなくてはならない。

 三十四句目

   身にしめる風のみ袖の記念にて
 堪へ来し方のゆふべにぞ成る  宗祇

 宗牧注
 恋路の悲しさに堪忍しつる跡の夕に、今の別路の悲しさハなりぬと也。
 周桂注
 あとの悲しかりし夕のやうにおぼゆる也。

 袖には愛し合ったあの頃の痕跡の何もなく、ただ風に吹かれているだけなのに、堪えて待っていたあの頃の夕べが思い出されてしまう。

 しひて猶したふに似たる涙かな
     我も忘れんとおもふ夕べを
            覚助法親王(続後拾遺)

の心か。

 三十五句目

   堪へ来し方のゆふべにぞ成る
 思ふなよ忘れんもこそ心なれ  宗祇

 宗牧注
 過来し跡の事を案じたるハ、誠にへんもなき事なれば、忘れんもこそ心なれと也。
 周桂注
 過にし事を案じて益なき心也。忘たるがまし也。是則連歌の行様なるべし。

 「思ふなよ」は咎めてには。前句の「ゆふべにぞ成る」を堪えて来た日々も夕べ(終わり)に成る、と取り成し、早く忘れることも大事だと説く。
 周桂注の「是則連歌の行様なるべし」は、連歌とはまさに前句の情を忘れ、常に一句一句新しい心情を付けてゆくものだという、連歌のそもそも論といえよう。

 三十六句目

   思ふなよ忘れんもこそ心なれ
 つらきにのみやならはさるべき 宗祇

 宗牧注
 ならはさるべきのさの字、すみてよむべし。つらき事をわすれんこそ心なれと付るなり。
 周桂注
 うきにのみならはされてゐたるは、かひなき心也。

 「ならはさる」は「慣らはされる」という意味で「慣らはざる」という否定の意味ではない。「つらきにのみやならはさるべき」は「辛きにのみ慣らはさるべきや」で、「や」は反語になる。辛いのが当たり前になってしまってはいけない、考えるな、忘れることも大事だ、となる。
 これは去年の十月八日の日記でふれた「こそ付け」になる。前句に「こそ」がある場合は、否定されるべき内容を付ける。

2018年4月12日木曜日

 差別は人の心から起こるものであって、言葉や表現から起こるものではない。当たり前のことのようだが、最近勘違いする人が増えているようだ。
 たとえば、LGBTの人たちをきもいと思うのは勝手だが、表現したらアウトだという種のもの。しかも別にLGBTのことを理解する必要なんかないなんて言い放つやからがいる。
 とんでもないことで、差別は無理解から生まれるもので、常に理解しようという努力を怠ってはいけないし、いくら言葉や表現を法律で取り締まっても、心の根っこに差別感情があるなら、社会秩序が何かのはずみで崩壊した時、その感情が突然爆発する危険を孕んでいる。
 心の底にある感情を隠し、相手のことを理解しようともせず、うわべだけで接していてもそんな仮面はいつか剝がれる。虐殺が起こるのはそんな時だ。
 それは震災でパニックになったときかもしれないし、旧ユーゴのような国家体制が崩壊した時かもしれない。
 心に差別感情が残っているなら、いくら表向き建前として表現を抑制した所で何の解決にもならない。大事なのは心を動かすことだ。
 もちろんマイノリティーでなくても人というのは簡単に理解できるものではない。だから表現しなくてはならない。間違っていてもいいから声を上げることだ。そして、間違っていたら衝突する。それを繰り返し揉まれながら次第に正しい理解が形成されてゆく。それが大事だ。
 そういうわけで勇気を持って表現し続けよう。ポリコレ棒なんてへし折ってやれ。
 そういうわけで表現といえば風流、和歌、連歌、俳諧から、今日のジャパンクールに至るまで、日本には長い歴史がある。「宗祇独吟何人百韻」もその中にある。

 二十七句目

   泪の海をわたる旅人
 唐土も天の下とやつらからん  宗祇

 宗牧注
 天の下とよむなり。
 周桂注
 もろこしもおなじうき世なればと、をしはかりいへる也。とをき心にはあらず。

 泪の海をわたる旅人を異国の人として、中国も同じお天道様の下にある国だから、どこの国でも辛く悲しいことは果てないものだ、となる。

 二十八句目

   唐土も天の下とやつらからん
 すめば長閑き日の本もなし   宗祇

 宗牧注
 日の字にあたりて、長閑なるべけれども、此国の乱たるにて、のどかならぬゆへに、唐の事をも推量したる也。
 周桂注
 日本は比興なる所なれど、すめばすまるる心也。日のもとといへば長閑なるべきことはりなれど、心やすき事もなしと也。

 中国も辛いのだろうか、日本は長閑ではない。対句的な相対付け。
 一四九九年は戦国時代のさなか。この年の七月には細川政元が延暦寺の焼き討ちを行う。

 二十九句目

   すめば長閑き日の本もなし
 桜咲く峰の柴屋に春暮れて   宗祇

 宗牧注
 桜散と候ハんを、咲と仕立られたる妙也。春暮てにて、落花ニ成たるべし。心は桜も散果折節、すめバ長閑き日本もなしと也。
 周桂注
 日は峰より出る物なれバ、日のもとととりなせり。ちるとあるべきを、さくといへる寄特也。桜のさき、面白かりし春暮たり。

 前句の「日の本もなし」を日が沈んだこととし、春の暮とする。

 世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし
               在原業平

の心で、桜が咲いたので長閑ではなくなったとする。

 三十句目

   桜咲く峰の柴屋に春暮れて
 薄く霞める山際の里      宗祇

 宗牧注
 山際に二あり。一ハ麓の事、一ハ峰の事也。是はふもとの事なるべし。暮春の霞の名残也。
 周桂注
 山ぎはに二あり。山のすそをも、又山と空との間をもいふ也。一句は常の山本也。付所は空の心也。源氏に、山ぎハあかりて。

 山際に二つあると言うが、この場合は里のある場所だから山と平地との境目であろう。軽く景色をつけて流した感じだ。ちょっと一休みという所だろう。

2018年4月11日水曜日

 今日はポツリポツリと雨が降った。場所によってはかなり降ったらしい。
 「モリカケ」と呼ばれる森友学園、加計学園の問題はもう一年以上続いているが、テレビや野党があれだけ騒ぎ立てている割には、仕事場で、運転手や職人や運行管理の人の会話の中で、このことが話題になっているのをまったく聞いたことがない。
 まあ、忖度だの根回しだの口利きだの世間にはよくある話だし、文書の改竄なども軽度なものならそんなに珍しいものではない。交通ルールを完璧に守って走るドライバーがいないようなもので、賄賂だとか横領だとか明らかに私腹を肥やすうような行為がない限り、そんなに世間の関心を引く話題ではない。
 かえってあまりにヒステリックに糾弾されてしまうと、それを不快に感じる人が多いのも確かだ。
 現実というのは多少なりとも曲がったことがあるもので、あまり理想ばかり言われてしまっても「白河の清きに魚も棲みかねて」になってしまう。
 実際にモリカケを騒いでた人たちがどうなったかを見ればわかる。民進党は崩壊し、共産党も大きく議席を減らした。三大新聞も権威を失い、新聞離れに歯止めがかからない。最近の一連のリークは、モリカケで野党を自滅させるために、わざと官邸側が流しているのではないかと疑いたくもなる。
 まあ、世間話はそれくらいにして、「宗祇独吟何人百韻」の続きを行ってみよう。
 二表に入る。

 二十三句目

   誰をか問はむ哀れとも見じ
 ちぎりてもえやはなべての草の原 宗祇

 宗牧注
 うき身世にやがて消なば尋ても草の原をばとはじとや思ふ。花宴にあり。朧月夜の内侍督の歌の心也。心はちぎりても、なべて草の原のやうにもあはれをかけて君はとはじと也。又ちぎりてもなべての草の原にぞ問む、こなたを取分ては問給ハじと也。
 周桂注
 草の原は、しるしのおほき物なれば、我をばとはじと也。花の宴巻に、うき身世にやがて消なば尋ても草の原をばとはじとや思ふ、とあり。此心なれば、此句も恋也。

 両方の注が指摘しているのは『源氏物語』の「花宴」巻の源氏の君が尚侍君(かんのきみ)と出会う場面で、弘徽殿南側の三の口の扉が開いているのを見つけた源氏はそこにいた尚侍君と強引に関係を結んでしまう。
 そのときの源氏の「まろは、みな人にゆるされたれば、めしよせたりとも、なんでうことかあらん。(麿は万人に許されたものなれば、誰をお召しになろうともなんちゅうこともない。)」と言う言葉は、当時絶頂にあった源氏の君の驕りとも取れる言葉で、このあとの展開の伏線になる。
 終った後で「なほ、なのりし給へ。いかでか、きこゆべき。かうでやみなんとは、さりともおぼされじ(せめて名を聞かせてくれ。どうやって連絡を取ればいいんだ。まさかこれっきりなんて言わないでしょうね。)」と言うと、尚侍君は歌で答える。

 うき身世にやがて消えなば尋ねても
     草の原をばとはじとや思ふ
 (不幸にもこのまま死んでしまっても
     草葉の陰を尋ねてくれますか)

 源氏の言葉を、名乗らないならもうこれっきりというふうに取り、名乗らなければここのまま私が死んでも知らん顔ですか、ときり返す。
 これに対し、源氏は、

 いづれぞと露のやどりをわかむまに
     こざさがはらにかぜもこそふけ
 (どこなのか露の棲家を探す間に
     小笹が原に風が吹いたら)

と返す。どこの草の原かもわからないのに尋ねてゆけない。
 本当に気があるなら、名乗らなくても何としてでも突き止めようとするもの。それこそ草葉の陰まで追いかけても逢おうとするものなのに、これっきりだなんてそれではあまりに薄情で、結局遊びの相手なのね、ということになる。
 この名場面を踏まえて、前句の「誰をか問はむ哀れとも見じ(誰が尋ねてくるでしょうか、哀れとも思わないのに)」に、「関係を持ってしまったのに、どうして草葉の陰の果てまでも」尋ねてくれないのでしょうか、哀れとも思ってないんでしょう、と付ける。

 二十四句目

   ちぎりてもえやはなべての草の原
 かへりこむをも知らぬ古郷   宗祇

 宗牧注
 旅の帰さを大かたに契たる人なれば、かへり来んをも知ぬとなり。
 周桂注
 旅のかへる也。なべては大かたに契たる心也。治定かへらんといふさへうたがはしきに、なをざりにかへらんといふは、たのまれぬ心也。

 前句の「草の原」を文字通りの草ぼうぼうの荒れ放題のかつての畑のこととする。
 必ず帰ってくると約束したはずなのに、どうせ帰ってきやしないだろうと思ったか、ふるさとの家や田畑は荒れ放題。人の世は薄情なものだ。恋から羇旅に転じる。

 二十五句目

   かへりこむをも知らぬ古郷
 いかにせし船出ぞ跡も雲の浪  宗祇

 宗牧注
 雲の浪とは、遠浪の事也。前後ともに漫々なる海上に行船の体なり。
 周桂注
 かぎりなき遠き旅也。前は悲しき心、当句はただ遠き心也。跡もにて、行末の遠き心みゆ。跡も雲の浪といへる、誠にかへらんをもしらぬ体なるべし。

 前句をいつ故郷へ帰れるとも知れない、という意味に取り成し、遥かなる船旅を付ける。振り返っても水平線の雲に至るまで浪ばかり。当然行き先も波ばかり。唐土への旅だろうか。

 二十六句目

   いかにせし船出ぞ跡も雲の浪
 泪の海をわたる旅人      宗祇

 宗牧注
 遥なる海上を渡る舟人は、只泪の海を渡物也。惣而(そうじて)舟の句に海上を渡と付るは同物也。是は泪の海を渡ると付侍れば替る也。堪能の粉骨也。
 周桂注
 舟に海をわたるなどは付べからず。是は涙の海なれば各別也。

 船は海を渡るものなので、「船」に「海を渡る」と付けるのは当たり前すぎて同語反復に近い。ただ、「泪の海」だと比喩なので、海を渡る船が泪の海をも渡るという意味になり、同語反復を逃れる。
 「泪の海」は今のJ-popでも時折用いられる息の長い言葉だ。

2018年4月10日火曜日

 明け方の月が大分細くなり、もうすぐ如月も終わる。終わるといってもまだ如月、春はまだ終らない。
 それでは、「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 十九句目

   消えむ煙の行衛をぞ待つ
 藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に  宗祇

 宗牧注
 もいほやく海士は、烟を立る事を業作(なりはひ)也。それさへ月をばたのむほどに、消ん煙の行衛を待と也。更行ば煙もあらじ塩竃のうらみなはてそ秋の夜の月 とよめる面影也。
 周桂注
 もしほくむ物にとりては、けぶりが所作なるべし。されど月を愛して煙のきえんをまつと也。

 藻塩は藻の一種であるホンダワラを海水に浸し、それを焼くことによって作られた塩をいう。藻塩焼く煙は古来和歌に数多く詠まれている。宗牧注が引用しているのは、

 ふけゆかば煙もあらじしほがまの
     うらみなはてそ秋のよの月
             前大僧正慈円(新古今集)

の歌で、夜も更けてゆけば煙も止まるので恨まないでくれ秋の夜の月、というような意味。
 宗祇の句はこれを踏まえたもので、藻塩を焼く海士のような卑賤な身とはいえ、やはり月が出ると嬉しいので煙が消えて行くのを待っている、という意味になる。

 二十句目

   藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に
 心なくてや秋を恨みむ     宗祇

 宗牧注
 藻塩くむ心なき海士だに月をば憑(たのむ)に、心なくて秋をうきものにうらみんやはと、我心を諌ていへる也。
 周桂注
 無心なる海人さへ月をたのむに、心あらん人、秋の悲しみをうらみん事にあらず。

 月夜の風流は藻塩汲む海人でもわかるのに、何でこの私は心無くも秋を恨んでいるのだろうか、と違えて自戒の句として展開する。
 「無心」は今日では雑念の無いという良い意味で使われることが多いが、本来は「有心」に対して心無いという意味で用いられていた。

 二十一句目

   心なくてや秋を恨みむ
 かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ 宗祇

 宗牧注
 かやうにはありそと也。あだことのはに心もなく秋を恨る事を、思ひかへしていへる也。
 周桂注
 人のあだなるにかかるなよ也。

 「かかるなよ」は咎めてには。かくあるなよ(そのようになるなよ)。「あだ言葉(ことのは)のつゆの暮れにかかるなよ」の倒置。その「かく」の内容が前句の「心なくてや秋を恨みむ(心無くて秋を恨みむや)」となる。
 偽りの約束の言葉に泪の露に暮れて、心無く秋を恨むなんてことにはなるなよ、という意味。あだ言葉(偽りの約束の言葉)は男の軽はずみな口説き文句で、それが果たされず泪する女の恋の句に転じる。

 二十二句目

   かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ
 誰をか問はむ哀れとも見じ   宗祇

 宗牧注
 あだなる人の詞なれば、問むといひても誰をか問む。しかれば、こなたには、あはれとも見じといへる也。
 周桂注
 とはんといふもあだ人なれば、誰をかとはん、我をばとふまじきにと也。我を哀とは見まじき也。其あだことのはにかかるなよと付たる也。

 前句の「あだ言の葉」を「問はむ(逢いに行くよ)」という言葉とし、ただ調子のいいだけのあいつの言うことだから、誰が来るもんですか、悲しくなんてない、と強がってみる。
 余談だが「調子いい」は業界言葉でひっくり返して「子いい調(C調)」と言う。C調言葉にはご用心あれ。

2018年4月9日月曜日

 昨日篠窪の三嶋神社に行ったとき、前(2015年秋)に来た時にはなかった木彫りのミミズクが拝殿の縁側に置いてあった。そこに、

 木兎(ずく)鳴や雨露千年の椎の森  玉水

が添えてあった。地元の俳人だろうか。「雨露」は古木の洞(うろ)と掛けているのだろうか。「森」も「漏る」に通じ、「雨露」と縁語になる。木兎無くや迂路千年の思惟の森。ちなみに昨日鳴いてたのは鶯だった。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 十五句目

   はなればつらし友とする人
 契りきやあらぬ野山の花の陰  宗祇

 宗牧注
 いづくの人ともしらぬ人に、花の下にて参会してむつまじきを、如此はちぎりきやとなり。さて離ればつらし、いかがせんと云心也。
 周桂注
 あらぬは、しらぬ野山也。おもひかけぬ野山にてあひたる心也。契きやは、かくはちぎらざりしと也。一句の心は、方々の花に執心して、契きやといひかけたるなり。

 「や」は「は」に替る「や」で、「契りきはあらぬ野山の花の陰や」の倒置。
 花の下では老若男女いろいろな人が集まり、酒を酌み交わしたりする。鎌倉や南北朝期の連歌は、こうしたところに集まってくる人の中から、その場の興で始まったりした。これを花の下連歌という。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「鎌倉時代から南北朝時代にかけて行われた連歌の一体。花鎮はなしずめという宗教的な意味をもち、寺社のしだれ桜のもとで、貴賤を問わない市井の数寄者や遁世者により行われた。出し句により、大勢でにぎやかに付けてゆく興行形態をとった。」

とある。
 鎌倉末期の『連證集』にも、

 「命と申こと葉に、さやの中山と付て侍しハいかに。是は、中比の哥仙西行の哥に、年たけてまたこゆへしとおもひきやいのち成けりさやの中山、と侍を、今ハ新古今の作者の哥ハ、連哥の本哥にはとるへきよし、花の下に申侍間、この哥を本哥にて、
   命のうちにいつかとハまし  申句に、
   都にはさやの中山とをければ  と付侍し也。」

とある。これは稚児の問いに僧が答えるという問答形式になっている。

 稚児:「命」という言葉に、「さやの中山」と付けてるのはどーゆーことぅ?
 僧:これはね、平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめにかけて活躍した和歌の仙人、西行法師の歌に、
 年たけて又こゆべきと思いきや
     命なりけり小夜のなかやま
というのがあって、今(鎌倉時代末期)では、「新古今和歌集」の作者の歌も、連歌の本歌として使っていいことになっていることを、身分関係なくに花の下に集る人たちが教えてくれたので、
 命のうちにいつかとはまし
という句に
 都にはさやの中山とをければ
と付けてみたんだよ。

といったところか。
 野山の花にも自然発生的に集まってくる人たちがいて、そこは若い男女の出会いの場所でもあった。日本を始めとして江南系の民族に広く存在していた「歌垣」の伝統によるものであろう。
 そんなところで出会い、不本意ながら契ってしまった人でも、別れるとなるとつらい。前句が「友」なので、一応友情の約束なのだが、隠れた恋句と見ても良いのではないかと思う。日本はGBLTには寛容だった。
 周桂注の「一句の心は、方々の花に執心して、契きやといひかけたるなり。」の「花」も比喩と見ても良いと思う。

 十六句目

   契りきやあらぬ野山の花の陰
 世を遁れても春は睦まじ    宗祇

 宗牧注
 捨世の人は、花なども執心あるまじき也。されども、春は何となく花に対して落花飛葉の観念の便にもむつまじくて、世を捨る心には、如斯ちぎりやと思かへしていへる也。
 周桂注
 遁世者の上ニハ春とも花ともしるまじきを、さすが又花に執心あれば、かくはちぎらざりしをと也。

 この句を恋にしてしまうと、二十一句目にまた恋が出てくるので、四句去りになってしまう。恋と恋は「応安新式」では五句去りになっている。相手は女ではなく花ということにしなくてはいけない。なお、「応安新式」では恋は「已上五句」としかなく、五句までであれば一句で捨ててもよいことになっている。

 十七句目

   世を遁れても春は睦まじ
 身を隠す庵は霞を便にて    宗祇

 宗牧注
 隠士のさま也。
 周桂注
 霞をたよりにしたる、哀なる体成べし。

 「世を遁れ」に「身を隠す」、「春」に「霞」と付く。山々の霞のみをたよりに春の訪れを知る。

 十八句目

   身を隠す庵は霞を便にて
 消えむ煙の行衛をぞ待つ    宗祇

 宗牧注
 霞を便にて、きえん煙の名を待とつけられたる也。
 周桂注
 かすみの庵などに世をいとはん人、きえん時をまつならでは、別の事あるべからず。

 「霞」に「煙」と聳物(そびきもの)を被せてくる。これによって、隠遁者はあの山の霞のように、自分が死んだ時も火葬にされ煙となり、あのようにたなびいてはやがて消えて行くことにしよう。世捨て人なら、何かを残すこともなく、ただ跡形もなく綺麗さっぱり消えて行くのみ。

2018年4月8日日曜日

 今日は秦野市の千村の八重桜を見に行った。2015年の4月19日にも見に行っているが、今年は十日以上も早い。このあたりの八重桜は塩漬けなどにして食用にするための花を取るためのもので、既に収穫が始まっていた。
 前回は頭高山に登ったが、今回は篠窪の方へ抜けた。このあたりにも八重桜の木があり、やはり収穫が始まっていた。
 途中から、古代東海道の旅(鈴呂屋書庫にりまあす)の時に通った道に合流し、富士見塚からは富士山や真鶴半島が良く見えた。
 それでは、「宗祇独吟何人百韻」の続き。初裏に入る。

 九句目

   枯るるもしるき草むらの陰
 鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん  宗祇

 宗牧注
 秋に云掛たる心也。草むらの陰は、むしの鳴所也。枯る草、暮秋をいそぐやう也。
 周桂中
 前句のかげ大事也。虫のなき所也。虫の秋をしたふ心、おもしろき句様成べし。

 「草むらの陰」に「鳴く虫」、「枯るる」に「など急ぐ」と付く。草が枯れる頃、虫も死んでゆく。秋の終わるのを待ってほしい気持ちを付ける。
 「秋など」ではなく、「秋、など急ぐ」で、秋は何で急ぐのだろうかという意味。
 『水無瀬三吟』七句目の、

   霜置く野原秋は暮れけり
 鳴く虫の心ともなく草枯れて   宗祇

の句を思わせる。

 十句目

   鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん
 そのまま烈(はげ)し野分だつ声 宗祇

 宗牧注
 野分が秋をいそぐ体也。
 周桂注
 野分を虫の悲しみあへず野分ニなる心也。秋のいそぐを野分になるにて付たる也。誠に秋をいそぐといはんに似あいたる歟。声といふ字、自然に虫におりあひて面白し。

 「風雲急」という言葉もある。野分の嵐は突然やって来る。前句の「秋が急いていってしまう」という意味から「秋の野分は何で急なんだ」という意味へ読みかえる。

 十一句目

   そのまま烈し野分だつ声
 目にかかる雲もなきまで月澄みて 宗祇

 宗牧注
 一段雲の晴たる体也。野分の連歌をば、付るも一句にもつよく仕立たるをよしといへり。
 周桂注
 野分の時分の体なるべし。

 台風一過で空はすっかり晴れ渡るが、風はまだ音を立てて吹いている。秋も三句目なのでここいらで月の欲しい所だった。

 十二句目

   目にかかる雲もなきまで月澄みて
 清見が関戸浪ぞ明け行く     宗祇

 宗牧注
 彼関の眺望、まことに眼前の句也。清見に雲を読り。
 周桂注
 彼所の眺望也。山もなく平々としたる所也。深(ふけ)てあくるといへる次第也。

 「清見に雲を読り」は「雲」と「清見が関」に本歌があることをいう。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集)の金子金次郎注には、

 清見潟むら雲はるる夕風に
     関もる波をいづる月影
             藤原良経

を引いている。
 「お得区案内図」というサイトの「清見潟」の所には、

 あなしふくきよみがせきのかたければ
     波とともにて立ちかへるかな
             源俊頼
 さらぬだにかはらぬそでを清見潟
     しばしなかけそなみのせきもり
             源俊頼
 よもすがら富士の高嶺に雲きえて
     清見が関にすめる月かな
             藤原顕輔
 清見潟関にとまらで行く舟は
     あらしのさそふ木の葉なりけり
             藤原実房
 きよみがた浪地さやけき月を見て
     やがて心やせきをもるべき
             藤原俊成
 いづるよりてる月かげの清見潟
     空さへこほるなみのうへかな
             藤原定家
 清見潟せきもるなみにこととはむ
     我よりすぐるおもひありやと
             藤原定家

などの歌も記されている。
 清見潟の月が美しく、清見関は嵐で渡れなくなるところから波が関守になるという趣向が古くから繰り返されている。
 雲もなく月が澄めば、清見が関の波の関守も関を開けてくれる。
 清見が関は今の静岡市清水区の興津にあり、東海道五十三次の興津宿にある。南東が海に面しているので、海から月の昇るのが見える。
 今の薩埵峠の道は近世以降のもので、それ以前は波の打ち寄せる海岸を通る難所だったと言われている。それゆえ、波が高いと通れなくなり、そこから清見が関は波が関守だと言われたのだろう。
 なお、周桂は「山もなく平々としたる所也」というが、清見潟の北東には薩埵山があり、近世には薩埵峠の道が開かれる。背後の北西も低い山々が迫っていて「平々としたる所」ではない。
 コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」によると、周桂は「宗碩(そうせき)の門人。師とともに九州,中国,近畿地方をしばしば旅し,指導にあたる」とあるので、東の方の地理には詳しくなかったと思われる。

 十三句目

   清見が関戸浪ぞ明け行く
 いつ来てか住田河原に又も寝む 宗祇

 宗牧注
 すみだ河原、駿河・武蔵両国の名所也。彼関の面白きを感じて、いつ来てか又ねんと也。
 周桂注
 程ちかき名所也。又もねんにて清見が関のおもしろきをいへり。

 住田河原は清見寺の側を流れる波多打川の河原と思われる。興津川や庵原川とちがい、山の間の細い谷を流れる清流で、風情があったのだろう。これから清見が関を越えて吾妻へ行くが、また帰ってこれたらここで一泊したいものだと付く。
 すみだ川といえば武蔵と下総との境界にも有名な隅田川があり、次の句では武蔵の隅田川の方に取り成すことを念頭においていたと思われる。

 十四句目

   いつ来てか住田河原に又も寝む
 はなればつらし友とする人   宗祇

 宗牧注
 是はむさしのすみだ河原にして付たる也。伊勢物語の心なり。
 周桂注
 武蔵の角田川也。伊勢物語にあり。

 前句の駿河の住田川(波多打川)を東京の隅田川に取り成す。
 都鳥の歌でも有名な『伊勢物語』第九段の冒頭には、

 「昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。」

とあり、やがて、

 「なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ」

というところに辿り着き、

 名にし負はばいざこととはむ都鳥
     わが思ふ人はありやなしやと

という歌を詠むことになる。
 かつては隅田川の東、今で言う江東区、墨田区、江戸川区などは下総国だったが、江戸時代初期に江戸市街の拡大によって武蔵・下総の国境が今の位置に変更された。

2018年4月7日土曜日

 今日は風が強かった。晴れてるところもあれば黒い雲が低くたなびく所もあり、それで富士山が隠れたかと思えば角度が変わると急に顕れたり、荒々しい空模様だった。
 では『宗祇独吟何人百韻』の続き。

 脇

   限りさへ似たる花なき桜哉
 静かに暮るる春風の庭      宗祇

 宗牧注
 いかにも悠々と春風の吹たる折節の落花を興じていへり。
 周桂注
 花のしんしんとちる体也。落花に風をつくる事習ある事といへり。此脇句花をさそふ風にあらず。此外落花に風を付たる句、古(いにし)への名句いかほどもあるべし。心を付てみ侍べしとぞ申されし。

 宗牧は単純に春風に花が散ったと言う。周桂も基本的に散る花に春風という古典的な付け合いに寄ったものとしている。
 ただ、ここは花がすっかり落ちてしまったところになお春風が吹き、散る花の俤を残しているところが新しく、「静かに暮るる」にも花見の客も帰り、宴もなく静かだという意味が込められていると思う。それは昔からの友が一人また一人亡くなり孤独になってゆく老いの心境とも重なる。それを見落とすなら平凡な脇で終る。

 第三

   静かに暮るる春風の庭
 ほの霞む軒端の峰に月出でて   宗祇

 宗牧注
 時節の体よく聞え侍り。此句柔和の体なるべし。
 周桂
 五ヶ月もで思惟せられたる独吟なれば、いかやうの名句も出来すべきを、末弟の鏡なれば、ただやすらかに付たる第三也。心は別に注すべき事もなし。

 独吟だから脇に夕暮れの景色を付けた時点で、月への展開は必然だったといえよう。「暮」に「月」、「庭」に「軒端」と四つ手に付け、発句の自らの老境の心情や門弟達への遺誡の意図から離れ、素直に付けている。

 ほの霞む軒端の峰に月出でて静かに暮るる春風の庭

と和歌の形にして詠めば、その完成度がわかる。

 四句目

   ほの霞む軒端の峰に月出でて
 思ひもわかぬかりふしの空    宗祇

 宗牧注
 旅宿之体、方角も分別なき時分に、月のほのかに出たるにて東西を知たる也。
 周桂注
 かりねに方角をしらぬ物也。月の出たるを見て、方角を知たる心也。わかぬといひて、分別したる所きとく也。師説を受べしとぞ。

 どちらも「思ひもわかぬ」を方角がわからないとして、月が出て方角がわかったとする。
 ただ、それではあまりに単純で深みがない。「思ひもわかぬ」は方角に限らず、特に応仁の乱以降の定まらない世であるならなおさら、この先どうなるかわからないという不安を読み取ってもいいと思う。
 暗くてどこへ行くとも知れぬ旅の空にほの霞む月が出ることで、はっきりと道を照らし出してくれるわけではないが、不安な旅の慰めくらいにはなる、そこまでは読みたいものだ。

 五句目

   思ひもわかぬかりふしの空
 こし方をいづくと夢の帰るらん  宗祇

 宗牧注
 夢は来るかたも見えず、帰るかたもしらぬと也。
 周桂注
 夢はきたる方もさるかたもしらぬと也。

 方角のわからない旅寝だから、来し方、つまり連歌の一般的なお約束に従えばこれは都を指すわけだが、都に帰りたいと魂だけが夢に都に向おうとするが、「思ひもわかぬ仮臥し」だから、どっちへ帰れば都に行けるのかもわからない。
 旅体は基本的に都を追われた旅人を本意とする。

 六句目

   こし方をいづくと夢の帰るらん
 行く人見えぬ野辺の杳(はる)けさ 宗祇

 宗牧注
 此句、諸人、行人を夢に見たると心得侍り。祇の作は、夢の覚たる端的は、行人も見えず、便もなき野宿の体なり。
 此句、肖柏・宗長に談合ありし時、両人ともに夢人と意得られたり。ただ夢のさめたる当意也。夢はさめて、行人もなき心也。夢人とは見まじき也、と申されし時、柏・長手をうちて、寄特と申されしと也。

 「夢人(ゆめびと)」はweblio辞書の「三省堂大辞林」によれば、「夢に現れた人。夢で会う恋人。」
 前句を、夢に現れた都へと帰ってゆく人のこととし、「帰るらん」を疑問ではなく反語に取り成す。夢に現れた人は帰って行ったのだろうか、そんなことはない、目が覚めれば誰の姿もなく、ただ野辺だけがはるか彼方まで広がっている。「野辺の杳(はる)けさ」は武蔵野のイメージだろうか。
 この句は、どこか、

 この道やゆく人なしに秋の暮れ  芭蕉

の句を髣髴させる。そして、この句が、

 人声やこの道帰る秋の暮     芭蕉

の句と対になっていたことも。夢では帰る人の声が聞こえ、覚めれば行く人もない、芭蕉は宗祇のこの独吟の句を知っていたのだろうか。

 此秋は何で年よる雲に鳥     芭蕉

の句も、

   わが心誰にかたらん秋の空
 荻に夕風雲に雁がね       心敬

の秋の空に語るしかない孤独に対し、萩には夕風、雲には雁がねと友がいるのに、と付けたのに似ている。芭蕉もある程度連歌の知識があったか、それとも風流を極めると同じような発想になってくるのか。

 七句目

   行く人見えぬ野辺の杳けさ
 霜迷ふ道は幽に顕れて      宗祇

 宗牧注
 儀なし。
 周桂注
 霜はをきまよひて、道はさすがみえながら、ふみ分て行人もなしと付たる也。

 霜がびっしりと降りるとあたり一面真っ白になって、どこに道があるのか一瞬わからなくなる。ただ、それも一瞬のことで、よく見れば道は幽かに現れている。
 行く人がいたならそこに足跡が残り、もっとはっきり道が見えただろうに、というところだろう。
 宗牧は「儀なし」というが、『水無瀬三吟』八句目の

   鳴く虫の心ともなく草枯れて
 垣根をとへばあらはなる道    肖柏

や『湯山三吟』の十二句目、

   故郷も残らずきゆる雪を見て
 世にこそ道はあらまほしけれ   宗祇

にも通じるものがある。やはり応仁の乱に象徴されるようなこの国の道の衰退を暗に風刺しているようにも思える。

 八句目

   霜迷ふ道は幽に顕れて
 枯るるもしるき草むらの陰    宗祇

 宗牧注
 かすかにあらはれて枯る中に、何の草といふ事を知たると也。
 周桂注
 あらはれてといふにつきて、霜にかれたる草も、なにの草ぞとしられたる心也。

 道が現れればその脇の草むらもそれとわかるようになる。

2018年4月6日金曜日

 染井吉野の季節はあっという間に過ぎ去り、八重桜も既に満開で、街路樹のアメリカ花水木(flowering dogwood)も盛りとなる。
 アメリカ花水木はワシントンに桜を送った時の返礼に送られたのが初めだというが、今では日本中至る所にある。
 季節的にはまだちょっと早いが、この時期に読んでみたい連歌がある。それは『宗祇独吟何人百韻』。これを『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)を基にして読んでゆくことにする。
 俳諧には特にこれといったタイトルがついてないのが多いので、発句の上五文字を取って「〇〇〇〇〇」の巻という風に呼ぶことが多いが、連歌では発句の賦し物をタイトルとする場合が多い。
 賦し物というのは『詩経』の詩の六義の一つ「賦」が「賦す」という動詞で用いられる時には「捧ぐ」に近い意味になる。
 たとえば水無瀬三吟は『水無瀬三吟何人百韻』という。これは

 雪ながら山もと霞む夕べかな  宗祇

の発句の「山」をタイトルの「何」の所に当てはめると、「山人」になる。水無瀬三吟は山人に賦す百韻ということになる。
 同じように、『宗祇独吟何人百韻』の発句は、

 限りさへ似たる花なき桜哉   宗祇

で、「花人」に賦す百韻ということになる。
 この百韻は明応八年(一四九九年)三月二十日頃から作り始めたとされている。それから四ヶ月かけてじっくり作ったらしい。このとき宗祇法師は七十九歳(数え)、この三年後の文亀二年(一五〇二年)九月に箱根湯本で世を去ることとなる。最晩年の作と言っていいだろう。それだけに宗祇法師の遺言のような意味もあったのかもしれない。
 発句の「似たる花なき」は跡形もなく散ってしまったという意味。『水無瀬三吟』三十九句目の、

   その面影に似たるだになし
 草木さへふるきみやこの恨みにて  宗祇

は、前句が「似た人はいない」という意味だったのに対し、「似たるだになし」のもう一つの意味の「跡形もない」という意味に取り成して付けている。
 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集)のテキストには宗牧註(古注一)と周桂講釈(古注二)の二つの注が添えられている。
 宗牧は宗長の弟子で、宗祇の又弟子になる。生まれた年は不明で一五四四年没。周桂は宗碩の弟子で、やはり宗祇の又弟子になる。こちらは一四七〇年生まれで一五四四年没。この二人はほぼ同世代と思われる。
 その宗牧注(古注一)にはこうある。

 「此発句種々申人侍。ただ落花を見立たる句也。万木の花は、散時も枝に残などして見ゆるを、桜は散時も枝に執心もなく颯と散を感じていへる也。さへの字に感を興したる心こもれり。」

 「限り」には臨終だとか最後という意味もあり、ここでは散る時という意味だろう。散る時には一斉に散り、あっという間に跡形もなくなる、その散り際の潔さを詠んだといえばわかりやすいが、もちろんそれだけの意味ではないと言う「種々申人」もいる。周桂もその一人だろう。古注二はやや長い。

 「此百韻は、祇公七十九歳三月より同七月に令終(をえしむ)といへり。門弟達の遺誡の為なれば、首尾共ニ安々とつづけられたる也。発句の心は、盛りの時はをきぬ、ちりがたまでも見所ある花也。或は枝にしぼみ付などしてはべる花もあるを、桜は色香をつくして、諸人もてあそびおはりて、何の執心もなくちりたる所を、弥(いよいよ)ほめたる花なるべし。さへの字に初中後の心こもるといへり、世間の盛衰をおもふべくこそ。老後の独吟なれば、桜の何のことはりもなきかぎりを、身の上にうらやましとなるべし。」

 「或は枝にしぼみ付などして」はツツジだろうか。韓国人がムクゲとともに好む花だと言う。最後まであきらめないしぶとさは日本人のメンタリティーとはやはり異なるのだろう。
 門人への遺誡の意味があったのなら、年老いて死期も近い自分を桜の花に喩えて、そこに自分もまた思い残す所なく死にたいものだ、という気持ちを込めたとも思える。そのための弟子に対する手本にもなるべき独吟を意図したとなれば、三ヶ月かけてじっくり詠まれたのも頷ける。
 また、「世間の盛衰をおもふべく」は、跡形もない桜に応仁の乱の後の荒廃した都を惜しむ気持ちを汲み取ってのことだろう。
 深読みを避ける宗牧とあえて深読みする周桂、それぞれのキャラクターが感じられる。

2018年4月5日木曜日

 相撲はかつて宮廷から庶民に至るまで親しまれた遊びだった。別に女が相撲を取って悪いということもなかったし、江戸後期には女相撲の興行も行われた。
 明治に入って西洋的な価値観によって伝統文化が弾圧される時代に入ると、その影響は当然ながら相撲にも及んだ。まずちょん髷はいかがなものかということになるし、また西洋的な価値観から裸もけしからんとの批判に晒されることになった。
 ただ、これだけ国民的な人気を誇る相撲を、さすがに根絶やしにする事はなかった。ただ、女性が男の裸を見るのはいかがなものかということで、女性の観戦が禁止されたらしい。まるで古代オリンピックか、今でも残るイスラム圏のスポーツ観戦かという感じだ。
 やがて観戦は解禁されたが、それでも土俵には上げないという習慣は残ったのだろう。土俵に女が上がってはいけないというのは、結局の所裸の男がいるところに女が入ってはいけないという風紀の問題だったのだと思う。それを正当化するために後付け理由として「穢れ」というのが持ち出されたか。
 まあ、要するに、女が土俵に上がってはいけないというのは、日本の伝統ではないし、別に土俵が神聖なところだったからというわけでもない。西洋のビクトリア時代の極度な性的抑制の習慣が日本にも取り入れられた結果と言えよう。
 女性を穢れたものと見なす観念も本来日本の伝統には存在せず、仏教から来た観念で、平安時代に入って神道が仏教の影響を強く受けるようになってからではないかと思う。
 穢れは本来伝染病をもたらす未知の病原体をあらわすものだから、ウィルスなどの感染の原因になる血を穢れたものとしたため、出産や生理の血を穢れとする分には一定の根拠があったが、女性そのものを穢れと見なす概念は仏教由来と見たほうがいいだろう。
 また、山岳信仰などでの女人禁制には朝鮮半島の文化の影響もあったのかもしれない。
 古代でも近代でも、日本人は本音の部分では昔からの日本人らしさを受け継いではいるが、支配者層は外来の思想に弱かった。それは今でも続いている。外圧を恐れて、外国に支配される前に自己植民地化してしまうのが日本人の常だったといってもいいのかもしれない。
 ある意味、外国の文化に服従している振りをして、それを隠れ蓑にしながら密かに昔ながらの伝統を守ってきたのが日本人の知恵だったのかもしれない。
 さて、あまり風流な話題ではなかったので、最後にお口直しで、

   山家興
 木兎の耳ふる花の吹雪かな    一露

 これは言水編の『新撰都曲』の中の句。今の花吹雪の季節にはふさわしい。ただ、花吹雪を避けるためにミミズクが羽角を振るというのは、ちょっと話を盛っている感じで、そこが大阪談林なのだろう。

 木兎の眠り落たる柳哉      琴風

 これは不卜編の句合『続の原』の句。ミミズクが柳に留まるのかと思ったが、ネットで検索したら柳の上のミミズクの画像が出てきた。やはりこれは蕉門の句だ。

2018年4月3日火曜日

 関西の方では花泥棒が出没しているようだ。
 先月二十七日に市民の通報で東大阪市加納北公園の桜の木十一本の幹や枝が切られたというニュースがあったが、今度は和歌山市の雑賀崎緑地公園の大島桜の木が根元から切断されたという。
 犯行声明がないからテロではあるまい。転売目的の花泥棒で、根元から切って持ち去るのだからプロの仕業だろう。
 花泥棒というと才麿編の『椎の葉』の須磨寺のところに出てきた弁慶筆の制札を思い出す。

 「此花江南所無也、一枝於折盗之輩者、任天永紅葉之例、伐一枝者可剪一指、寿永三年二月日」

 一枝でも指一本切るというのだから、根元から切ったあの犯人は胴体から真っ二つってところかな。弁慶さんが今いなくてよかったね。
 花が綺麗だから一本折ってゆくという種の花盗人には、敦道親王と藤原公任の例もあるし、狂言『花盗人』もあるように、日本人は昔から寛容だった。
 だがそれも程度の問題で、たとえば広い野原で恋人に捧げるために一輪の花を折ってゆくのは美しくても、大勢の男たちが我も我もと押し寄せて野の花を根こそぎ取っていったら醜い。これは一種の合成の誤謬ともいえよう。
 まあ、現実の花泥棒はそんな綺麗なものではないので、やはり弁慶さんに胴体からばっさりやってもらう方がお似合いか。

2018年4月2日月曜日

 昨日は聖峰(伊勢原市)から高取山を経て弘法山(秦野市)まで歩いた。聖峰は長閑な里山の中から山桜の道を登ってゆき、山頂にも桜が咲いていた。眺望も良く、なかなかの穴場だった。
 弘法山は桜の名所だが、既にかなり散っていた。もう少し早く来たかった。
 それでは「うたてやな」の巻の続き。ようやく挙句に。
 四十九句目。

   雁に鷗に浦づくしまふ
 ほとけとは花見る内が仏なり  万海

 これは難しい。何か禅問答みたいだ。
 なぜ目出度いはずの花見で仏が出てくるのかというと、多分この俳諧興行自体が鉄卵の月命日の供養を目的としたものだったからだろう。だから花の定座とはいえ無条件に目出度い花は詠めない。
 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には、

 「花の盛りは七日間、初七日まで供養の舞から諺「花の盛りは七日」を連想し、「春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる(古今集・春上・伊勢)によって付けた。」

とある。
 初七日の供養の舞というのがよくわからないし、それが何で浦尽くしなのかもよくわからない。「花見る内」を七日として強引に初七日に結び付けた感じがする。
 ここはもう少し直感的に読んでもいいのではないかと思う。仏の心は花の心。花見る心が仏の心というわけで、花見を楽しみ雁に鷗に浦尽くしの舞を舞うのが何よりも供養の心になる、というのはどうだろうか。これなら花見の目出度さと供養の心とが両立する。
 挙句。

   ほとけとは花見る内が仏なり
 二十日団子は丸き百日     補天

 「二十日団子」は二十日正月に食べる小豆団子。十月十日に亡くなった鉄卵の百日目(三ヶ月と十日)の百か日法要がこの二十日正月の頃になる。kasikoの「葬制の基礎知識」によれば、

 「四十九日法要後、故人の命日から(命日も含めて)100日目に執り行う法要を百か日法要という。
 百か日法要は卒哭忌(そっこくき)とも呼ばれ、この百か日法要をもって、残された遺族は「哭(な)くことから卒(しゅっ)する(=終わる)」、つまり、悲しみに泣きくれることをやめる日であることも意味する。」

とあり、この法要を過ぎたのだから、もう泣くのはやめて花見を楽しもう。それが仏の心の通じる、と締めくくる。
 「花」に「団子」は付き物。