2018年4月27日金曜日

 トランプさんの今までにない強力な経済制裁がやはり利いたのだろうか。もちろん日本もきちんとそれに歩調を合わせたことも効果あったのだろう。ここまで来れば、すでに投了前の形作りに入ったといってもいいのかもしれない。あとはいかに北朝鮮の名誉を保ったまま統一を実現するかだろう。
 「朝鮮半島の非核化」は文面通りなら、北朝鮮の核放棄と同時に南朝鮮からの米軍の撤退を意味するのだろう。トランプさんも選挙の時にそんなことを言っていたし、実現する可能性はある。
 アメリカも世界支配の覇権主義の野望を放棄し、普通の国になったように、あとは中国がアメリカに対抗するような覇権主義や、朝貢国は中国の一部なんていう時代錯誤の中華思想を放棄する番だろう。
 こうして世界は多元主義と国境なきグローバル資本主義の下に、戦争のない上機嫌な時代になってゆけばいいなとおもう。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。

 八十三句目

   秋をかけむもいさや玉緒
 身のうさは年もふばかり長き夜に 宗祇

 宗牧注
 一夜のかなしさも、年々を経ばかりなれば、秋中も待がたきとなり。
 周桂注
 秋の中も過しがたし。其ゆへハ、一夜なれども年もふるやうにながくおぼゆれば也。

 「うさ」は今日でも「憂さ晴らし」というふうに用いられている。「年もふ」は「年も・経(ふ)」。
 ただでさえ「秋の夜長」というが、憂鬱な時はその一夜が一年歳を取るくらい長く感じられる。白髪三千丈までは行かないにしてもやや大袈裟な感じもしないではない。まあ、とにかくその長い夜を繰り返していると、秋の終わるころには寿命も尽きるのではないかと思えてくる、と付く。

 八十四句目

   身のうさは年もふばかり長き夜に
 見えじ我にと月や行く覧    宗祇

 宗牧注
 しの字濁也。うき身にハ月も見えじとゆくらんと也。
 周桂注
 思ひの切なるあまりに、月を友とすれば、はやくうつろふやうにみゆるハ、我にハみえじとて行かと也。誠年もふるばかり長き夜にたのめバ、月のうつろふと見侍るべし。

 鬱がひどくて月を眺める余裕もなければ、月も早々に西の地平へと去って行く。「我に見えじや、と月は行くらん」の倒置。

 八十五句目

   見えじ我にと月や行く覧
 よしさらば空も時雨よ袖の上  宗祇

 宗牧注
 此句名誉の句也。をのをの門弟に作意をいはせられしに、各ハ月に敵対していへり。祇公の作意ハ、下賤のわれに見えじと行月ハ理(ことはり)なるほどに、同心して、空も時雨よとせられたる也。
 周桂注
 月のみえじと行ハことはりなりと也。月をうらみぬ心、尤殊勝の事也。野とならバ鶉となりての作意におなじ。是を人をうらみぬ所簡要也。いつはりの人のとがさへ身のうきにおもひなさるる夕暮の空。

 宗牧注の「名誉」には不思議というような意味もある。月は愛でるべきもので、月の出るのを喜び月が隠れるのを惜しむのが月の本意とされている。ただ、こういうことには必ず逆説がある。
 杜甫の「春望」には「感時花濺涙(時に感じては花にも涙を濺ぎ)」と本来愛でるはずの花も荒れ果てた国の情景であればかえって悲しく感じられる。
 ただ、宗祇のこの句は悲しむにとどまらず「空も時雨よ」ともっと悲しくなる事をあえて望み、月を恨む。私には見えないだろうということで月は行ってしまったのだろうか、と月にまで見放された我が身に、月の馬鹿野郎という感じで身の不遇を嘆く。
 近代でも「青い空なんて大嫌いだ」だとか「海の馬鹿野郎」だとかいう言葉は、かえって悲しみを掻き立てる。惜しむべき月に「空も時雨よ」もまた、悲しみをより掻き立てる効果がある。
 星野哲郎作詞の「花はおそかった」にも、「どんなに空が晴れたってそれが何になるんだ、大嫌いだ白い雲なんて」というフレーズがある。
 もっとも、宗祇の句の場合、「月」が去って行った男のことだとすれば、その背中に「馬鹿」というのはわかりやすい。
 周桂注の「野とならバ鶉となりて」は『伊勢物語』の、

 野とならば鶉となりて鳴きをらむ
     かりにだにやは君は来ざらむ

の歌で、行ってしまうなら私は鶉になって泣いていましょうという歌だが、本来愛でるはずのものを呪うという展開ではないから、ちょっと違う気がする。ただ、去ってゆく男への恨みの言葉という点では共通している。
 もう一つの引用している歌は、

 いつはりの人のとがさへ身のうきに
     おもひなさるる夕暮れの空
             藤原為氏(続後撰和歌集)

 これも同様だ。要するに宗祇のこの逆説は当時としては画期的で、弟子達もなかなかうまく説明できなかったのだろう。

 八十六句目

   よしさらば空も時雨よ袖の上
 たぐひだにある思ひならばや   宗祇

 宗牧注
 空も時雨たらば、我袖の類なるべし。
 周桂注
 空も袖もしぐるる物なれば、袖ばかりしぐるる心也。

 これは先の逆説の補足説明のようでもある。「空も時雨よ」というのは、ならば月も私と同じように悲しんでくれて、同類になってくれる、と。

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