2018年4月18日水曜日

 今日は昼過ぎまで雨が降った。夕方には晴れて三日月が見えた。弥生なんだな。今日は旧暦三月三日、本来の桃の節句。
 この前の土曜日の国会前のデモは四千人も集まったという。韓国と中国では受け止め方が違うようで、中国人は中国でこんなことやったら戦車を見ることになるといった反応があったという。やはり日本は平和で自由な国。民主主義の国だ。
 あまり平和だと、却って海外の革命に憧れたりするのだろう。朝日新聞には中国の独裁政治を賢人政治として賛美する文章が載ったらしい。一度でいいから戦車の前で命がけで民主化を叫んでみたいという気持ちもあるのだろうか。そりゃ中二病だ。
 それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。三表に入る。

 五十一句目

   苔に幾重の霜の衣手
 起き居つつ身を打ち侘ぶる冬の夜に 宗祇

 宗牧注
 聞えたる体也
 周桂注
 きこえたるままなるべし。

 「侘び」というのは下がることをいう。気持ちが下がること、身分の下がること、頭の下がることなど、多義に用いられる。「打ち」という接頭語は急にということだが、中世だと必ずしも特に意味なく用いられたという。この場合も単に気分が沈みこむという意味で「打ち」に特に意味はなさそうだ。
 何か悩みがあってなかなか眠れなかったのだろう。

 五十二句目

   起き居つつ身を打ち侘ぶる冬の夜に
 月寒くなる有明の空     宗祇

 宗牧注
 おもしろき句がら也。
 周桂注
 かどもなき句也。寄特なりとぞ。

 「寒月」という言葉は漢詩からきたのかと思ったが、検索してみるとなかなか「寒月」という言葉のある詩が出てこない。やっと見つかったのは李白の「望月有懐」という詩で「寒月揺清波」という句が含まれている。
 「寒月」という言葉が盛んに用いられるようになったのは江戸時代中期以降、蕪村の時代の俳諧からではないかと思う。
 本来は冬の月を表現するのに、「月」という秋の季語に「寒し」という冬の季語を組み合わせて用いるところから来た言葉だろう。この句のように。
 気分が沈んで眠れない夜もやがて空は白み、有明になる頃には月も寒くなる。

 五十三句目

   月寒くなる有明の空
 蘆田鶴もうきふししるく音に立てて 宗祇

 宗牧注
 寒夜のうきふしを、有明の月に零(たづ)の音に立て鳴をあはれみたる句也。
 周桂注
 時分の体也。

 「蘆田鶴」は鶴のこと。単に「田鶴」ともいう。本土では鶴は冬鳥だが、鶴が冬の季語になったのは近代のことで、それ以前は秋から春に掛けて広く詠まれていた。また、しばしばコウノトリと混同されたためか、夏に詠まれることもあった。「霜」「冬の夜」「月寒く」と冬の句が三句続いたので、ここで冬の句は出せない。
 「うきふし」は「憂き節」で「蘆」と「節」は縁語になる。「しるく」ははっきりとという意味。
 ところで、何で「零」という字を「たづ」と読むのかはよくわからない。ひょっとして「零(おつ)る」から来た駄洒落か。

 五十四句目

   蘆田鶴もうきふししるく音に立てて
 心ごころにさわぐ浪風    宗祇

 宗牧注
 浪風のさはぎを、零(たづ)の心にもうきふしにしたる也。
 周桂注
 波風のさはぎを、たづもうしとこそ思ふらめと也。

 鶴が何を憂きとするのかという所で波風を付ける。

 五十五句目

   心ごころにさわぐ浪風
 山川も君による世をいつか見む 宗祇

 宗牧注
 川の字すみてよむべし。此川の字を可用(もちゆべき)也。
 周桂注
 一天下君になびくやうにあらまほしき也。

 「山河」だと「さんが」だが「山川」だと「やまかわ」になる。
 前句の「さわぐ浪風」を応仁の乱後の乱れきった戦国の世のこととし、王朝時代の平和な時代をなつかしむ。
 「君」は単に主君のことを表したり、女性が主人のことを呼ぶのに用いたりもするが、ここでは天皇のことと思われる。
 王朝時代が廃れ、政治の実権が武家に移ることを以って中世の人は「乱世」と呼んだ。王朝時代は記憶の中で次第に美化され、失われた黄金時代の理想郷と化してゆく。
 元禄時代の、

 日の道や葵傾く五月雨    芭蕉

の句も、徳川幕府が五月雨の雲の向こうの見えない天道(天皇の道)に傾くことを詠んでいる。こうした失われた王朝時代への憧れは、やがて江戸後期になると一君万民の世に戻そうという運動につながり、明治の王政復古へと引き継がれてゆく。
 「応仁二年心敬独吟山何百韻」にも、

   治れとのミいのる君が代
 神の為道ある時やなびくらん 心敬

の句がある。これもまた応仁の乱で乱れた世を憂いての句だろう。

 五十六句目

   山川も君による世をいつか見む
 危き国や民もくるしき    宗祇

 宗牧注
 山川も君になびく治世を民も悦べし。いかなる無心の民も、危き国をバくるしと思はんと也。乱邦不在危邦不入と云り。
 周桂注
 無心なる民も国のあやうきをばくるしむ物也。

 「乱邦不在危邦不入」は『論語』泰伯の「危邦不入、亂邦不居」のことと思われる。このあと「天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。」と続く。これは君子の振る舞いを言うもので、危険な国に入ってはいけない、乱れた国には住んではいけない、天下に道あれば政治の世界に颯爽として現れ、道なければ隠れて隠士になれ、というもの。
 世が治まれば自ずと天皇はふたたび政治の中心におさまり、乱れた世では表に出ることなくひっそりと暮らすという意味か。
 江戸後期から幕末の議論は、王政を復活させるというほうばかりが先走り、却って幕末の戦乱を引き起こしたが、中世から芭蕉の時代までは、世が治まれば自ずと君に寄ることになる、というふうに考えられていたのだろう。
 「無心なる民」というのは「有心」に対しての「無心」で、無学の民でもというような意味。国が乱れれば無心であろうが有心であろうが苦しいことには変わりない。
 通常の興行ではなかなかこういう政治的な発言は出来ない所、独吟だからこそこれを入れたかったのだろう。心敬の独吟と同様に。

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