明け方の月が大分細くなり、もうすぐ如月も終わる。終わるといってもまだ如月、春はまだ終らない。
それでは、「宗祇独吟何人百韻」の続き。
十九句目
消えむ煙の行衛をぞ待つ
藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に 宗祇
宗牧注
もいほやく海士は、烟を立る事を業作(なりはひ)也。それさへ月をばたのむほどに、消ん煙の行衛を待と也。更行ば煙もあらじ塩竃のうらみなはてそ秋の夜の月 とよめる面影也。
周桂注
もしほくむ物にとりては、けぶりが所作なるべし。されど月を愛して煙のきえんをまつと也。
藻塩は藻の一種であるホンダワラを海水に浸し、それを焼くことによって作られた塩をいう。藻塩焼く煙は古来和歌に数多く詠まれている。宗牧注が引用しているのは、
ふけゆかば煙もあらじしほがまの
うらみなはてそ秋のよの月
前大僧正慈円(新古今集)
の歌で、夜も更けてゆけば煙も止まるので恨まないでくれ秋の夜の月、というような意味。
宗祇の句はこれを踏まえたもので、藻塩を焼く海士のような卑賤な身とはいえ、やはり月が出ると嬉しいので煙が消えて行くのを待っている、という意味になる。
二十句目
藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に
心なくてや秋を恨みむ 宗祇
宗牧注
藻塩くむ心なき海士だに月をば憑(たのむ)に、心なくて秋をうきものにうらみんやはと、我心を諌ていへる也。
周桂注
無心なる海人さへ月をたのむに、心あらん人、秋の悲しみをうらみん事にあらず。
月夜の風流は藻塩汲む海人でもわかるのに、何でこの私は心無くも秋を恨んでいるのだろうか、と違えて自戒の句として展開する。
「無心」は今日では雑念の無いという良い意味で使われることが多いが、本来は「有心」に対して心無いという意味で用いられていた。
二十一句目
心なくてや秋を恨みむ
かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ 宗祇
宗牧注
かやうにはありそと也。あだことのはに心もなく秋を恨る事を、思ひかへしていへる也。
周桂注
人のあだなるにかかるなよ也。
「かかるなよ」は咎めてには。かくあるなよ(そのようになるなよ)。「あだ言葉(ことのは)のつゆの暮れにかかるなよ」の倒置。その「かく」の内容が前句の「心なくてや秋を恨みむ(心無くて秋を恨みむや)」となる。
偽りの約束の言葉に泪の露に暮れて、心無く秋を恨むなんてことにはなるなよ、という意味。あだ言葉(偽りの約束の言葉)は男の軽はずみな口説き文句で、それが果たされず泪する女の恋の句に転じる。
二十二句目
かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ
誰をか問はむ哀れとも見じ 宗祇
宗牧注
あだなる人の詞なれば、問むといひても誰をか問む。しかれば、こなたには、あはれとも見じといへる也。
周桂注
とはんといふもあだ人なれば、誰をかとはん、我をばとふまじきにと也。我を哀とは見まじき也。其あだことのはにかかるなよと付たる也。
前句の「あだ言の葉」を「問はむ(逢いに行くよ)」という言葉とし、ただ調子のいいだけのあいつの言うことだから、誰が来るもんですか、悲しくなんてない、と強がってみる。
余談だが「調子いい」は業界言葉でひっくり返して「子いい調(C調)」と言う。C調言葉にはご用心あれ。
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