差別は人の心から起こるものであって、言葉や表現から起こるものではない。当たり前のことのようだが、最近勘違いする人が増えているようだ。
たとえば、LGBTの人たちをきもいと思うのは勝手だが、表現したらアウトだという種のもの。しかも別にLGBTのことを理解する必要なんかないなんて言い放つやからがいる。
とんでもないことで、差別は無理解から生まれるもので、常に理解しようという努力を怠ってはいけないし、いくら言葉や表現を法律で取り締まっても、心の根っこに差別感情があるなら、社会秩序が何かのはずみで崩壊した時、その感情が突然爆発する危険を孕んでいる。
心の底にある感情を隠し、相手のことを理解しようともせず、うわべだけで接していてもそんな仮面はいつか剝がれる。虐殺が起こるのはそんな時だ。
それは震災でパニックになったときかもしれないし、旧ユーゴのような国家体制が崩壊した時かもしれない。
心に差別感情が残っているなら、いくら表向き建前として表現を抑制した所で何の解決にもならない。大事なのは心を動かすことだ。
もちろんマイノリティーでなくても人というのは簡単に理解できるものではない。だから表現しなくてはならない。間違っていてもいいから声を上げることだ。そして、間違っていたら衝突する。それを繰り返し揉まれながら次第に正しい理解が形成されてゆく。それが大事だ。
そういうわけで勇気を持って表現し続けよう。ポリコレ棒なんてへし折ってやれ。
そういうわけで表現といえば風流、和歌、連歌、俳諧から、今日のジャパンクールに至るまで、日本には長い歴史がある。「宗祇独吟何人百韻」もその中にある。
二十七句目
泪の海をわたる旅人
唐土も天の下とやつらからん 宗祇
宗牧注
天の下とよむなり。
周桂注
もろこしもおなじうき世なればと、をしはかりいへる也。とをき心にはあらず。
泪の海をわたる旅人を異国の人として、中国も同じお天道様の下にある国だから、どこの国でも辛く悲しいことは果てないものだ、となる。
二十八句目
唐土も天の下とやつらからん
すめば長閑き日の本もなし 宗祇
宗牧注
日の字にあたりて、長閑なるべけれども、此国の乱たるにて、のどかならぬゆへに、唐の事をも推量したる也。
周桂注
日本は比興なる所なれど、すめばすまるる心也。日のもとといへば長閑なるべきことはりなれど、心やすき事もなしと也。
中国も辛いのだろうか、日本は長閑ではない。対句的な相対付け。
一四九九年は戦国時代のさなか。この年の七月には細川政元が延暦寺の焼き討ちを行う。
二十九句目
すめば長閑き日の本もなし
桜咲く峰の柴屋に春暮れて 宗祇
宗牧注
桜散と候ハんを、咲と仕立られたる妙也。春暮てにて、落花ニ成たるべし。心は桜も散果折節、すめバ長閑き日本もなしと也。
周桂注
日は峰より出る物なれバ、日のもとととりなせり。ちるとあるべきを、さくといへる寄特也。桜のさき、面白かりし春暮たり。
前句の「日の本もなし」を日が沈んだこととし、春の暮とする。
世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
在原業平
の心で、桜が咲いたので長閑ではなくなったとする。
三十句目
桜咲く峰の柴屋に春暮れて
薄く霞める山際の里 宗祇
宗牧注
山際に二あり。一ハ麓の事、一ハ峰の事也。是はふもとの事なるべし。暮春の霞の名残也。
周桂注
山ぎはに二あり。山のすそをも、又山と空との間をもいふ也。一句は常の山本也。付所は空の心也。源氏に、山ぎハあかりて。
山際に二つあると言うが、この場合は里のある場所だから山と平地との境目であろう。軽く景色をつけて流した感じだ。ちょっと一休みという所だろう。
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