ポスト安倍なんてことが話題になるけど、誰が首相になったとしても、持ち上げられるのは最初だけなのはいつものことだと思う。
左翼の連中やマスコミのお偉方が相変わらず、「資本主義は必然的に侵略戦争を引き起こす」などというレーニン『帝国主義論』の亡霊に取り憑かれている限り、自民党の誰が首相になっても必ず軍国主義者だのレイシストだの言われるだろうし、何をやっても侵略戦争の準備だとか「この道はいつか来た道」なんて言われることになる。
それは国内だけでなく、外圧を利用するという見地から韓国や中国に広められ、反日感情を煽り続けることになる。
結局日本が社会主義体制になるまで、彼等はそれを続けるつもりなのだろうな。
次の首相に求められるのは、こうした野党や、特にマスコミの攻撃に対し、是々非々の態度で望めるかどうかということだろう。小池都知事が希望の党を作ったとき、簡単にマスコミの批判に屈して、結局失敗した。
今は安倍批判をしてマスコミから持ち上げられていても、それに簡単に流されるような人では、首相になっても一年持てばいいだろう。
まあ、世間話はこれくらいにして、「宗祇独吟何人百韻」の続き。
七十一句目
只にや秋の夜を明石潟
遠妻を恨みにたへず鹿鳴きて 宗祇
宗牧注
明石ハ鹿をよめり。恨みにたへず打鳴て、ただにや夜をあかすと鹿をあはれみたる句也。
周桂注
鹿をよみならハせり。
明石に鹿を詠んだ例としては、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)はこの歌を例示している。
夜泊鹿といへるこころをよめる
夜をこめて明石の瀬戸を漕ぎ出づれば
はるかに送るさを鹿の声
俊恵(千載集)
前書きにあるように「夜泊鹿」という題を出されて詠んだ歌で、実際に明石で鹿の声を聞いて詠んだ歌ではなさそうだ。
妻恋う鹿というと、
あらし吹く真葛が原に鳴く鹿は
恨みてのみや妻を恋ふらむ
俊恵(新古今集)
の歌がある。この二つの合わせ技と言ってもいいかもしれない。
七十二句目
遠妻を恨みにたへず鹿鳴きて
おもひの山に身をや尽くさん 宗祇
宗牧注
鹿のおもひの事也。
周桂注
鹿の恋也。おもひの山と成たる也。とをづまなれば、一段思ふらんと也。上作付(うはさづけ)とて嫌事なれど、如此はすべし。分別大事といへり。
「思ひの山」は本来は恋心の積もり積もって山と成るという意味だが、ここでは鹿だけに「思ひの山」と洒落てみる。鹿は山に住むから思いの山で一生を過ごす。
七十三句目
おもひの山に身をや尽くさん
払ふなよいづくか塵の内ならぬ 宗祇
宗牧注
深山幽谷といふも、塵の世の外にハあらぬ物也。然ば、何と払ともちりの世ハのがれがたきを、はらハんとするハ、結句おもひの心となるべしと也。
周桂注
おもひの山、ちりひぢの山也。天下皆塵の内なれバ、払えがたき心也。世を遁、山居などをもとめても益なしと也。
いわゆる咎めてにはでの展開で、前句を俗世を捨てて山にこもってはみるものの、かえって「思いの山」に悩んで悶々と過ごすことになった我が身と見たてての述懐とする。
悩み尽きない山暮らしに、この世の塵を無理に払おうとするからだ。どこへ行っても世俗の塵からは遁れられないんだと観念せよ、と咎める。
周桂注の「ちりひぢの山」は、『古今集』仮名序の「とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて、年月をわたり、たかき山も、ふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたも、かくのごとくなるべし。」から来ていて、高い山も土や泥(ひぢ)の積もったものにすぎないように、和歌の道も最初は出雲八重垣の歌から始まり、それが積もり積もってこの『古今集』の千の和歌に至ったとする。
どうせこの世は塵泥(ちりひぢ)にまみれているなら、それを歌に詠めばいいではないかという意味も含まれているのか。
七十四句目
払ふなよいづくか塵の内ならぬ
砌ばかりをいにしへの跡 宗祇
宗牧注
古宅の体ばかり也。
周桂注
砌(みぎり)の内悉(ことごとく)塵也。はらハれぬ心也。前句ハ広大なるを、ちいさき砌の内にとりなしたる、色々かはりたる行様也。
砌(みぎり)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、
《「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという》
1 時節。おり。ころ。「暑さの砌御身お大事に」「幼少の砌」
2 軒下や階下の石畳。
「―に苔(こけ)むしたり」〈宇治拾遺・一三〉
3 庭。
「―をめぐる山川も」〈太平記・三九〉
4 ものごとのとり行われるところ。場所。
「かの所は転妙法輪の跡、仏法長久の―なり」〈盛衰記・三九〉
5 水ぎわ。水たまり。池。
「―の中の円月を見て」〈性霊集・九〉
とある。この場合は2の意味か。
かつて栄えた家も今は石畳を残すのみとなり、それも泥に半分埋まっている。今更綺麗に掃除したところでどうなる物ではない。昔の跡はそっとしておこう。
この頃は発掘して保存しようなんて考え方もなかった。すべては朽ちるに任せ、自然に帰してゆく。人もまたいつかは灰になり、思い出も消えて行く。
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