連句を学ぶと言うのは、ニュースの印象操作を見破るのにも役に立つ。
たいていの言葉は多義で、使い方によっては意味が異なるが、それを混同させようとするのは印象操作のトリックだ。
たとえば、「胸触っていい?」「手縛っていい?」という言葉も、取材の女性記者を相手に発せられた言葉か、キャバクラのホステスに発せられた言葉かで意味は違う。
「戦闘」という言葉も日常的には多義に用いられるが、自衛隊を派遣する際の「非戦闘地域」というときの「戦闘」は法的に定義されている。ウィキペディアによると、
「現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域
のことで、国際的な武力紛争とは
「国または国に準ずる組織の間において生ずる一国の国内問題にとどまらない武力を用いた争い」(平成15年6月26日衆議院特別委員会石破茂防衛庁長官の答弁)
を意味する。
日報に記載された「戦闘」は、
「サマワでサドル派の事務所前にイギリス軍の車両が停止しパトロールを始めたため、サドル派は射撃し戦闘が拡大した」(2006年1月22日)
というもので、これが果して「国際的な武力紛争」に当たるかどうかが本当の問題だ。イラク軍とイスラム国戦闘員が交戦している地域は明らかに「戦闘地域」だが、これはどう見ても小競り合いだ。
連句にするなら、
イスラム国掃討しようとイラク軍
さらに戦闘は拡大しけり
という句に、
さらに戦闘は拡大しけり
事務所前パトロール隊に発砲し
という句を付けたなら、これは国際的な武力紛争だった「戦闘」を局地的な小競り合いに取り成して付けたということになるだろう。
それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。
四十一句目
帰らん空もわかぬ春の野
鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ 宗祇
宗牧注
前の春の野を、鳥辺野ニ思ひなしたる句也。
周桂注
とりべ野心もありといへり。
今の言葉で「今日も空しく一日が終る」と言うと、ただ何となく一日が過ぎたという意味になるが、この時代で「空しく」は死を連想させるようだ。「鳥辺野」は墓地。鳥葬が行われていたという。
前句の「帰らん空」を亡き人の帰らない空と取り成し、「春の野」を鳥辺野のこととし、今日も悲しみにくれながら一日が過ぎてゆく。
四十二句目
鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ
きけども法に遠き我が身よ 宗祇
宗牧注
きけどもハ、付所鐘の事也。一句仏法を聴聞して、法にならぬ我心を諌て云る也。
周桂注
仏法は聞てもえがたき心也。鐘は法のかね也。
「きけども」は前句の「鐘ぞ鳴る」を受け、「鐘の鳴るのを聞けども法に遠き我が身よ、今日も空しく過ぎやせむ」となる。
四十三句目
きけども法に遠き我が身よ
齢のみ仏にちかくはや成りて 宗祇
宗牧注
此一座、祇公七十九歳といへり。心は、よはひばかり仏にちかく成て、心は仏法に遠きを思ていへる也。
周桂注
仏入滅八十歳にや。作者も七十九歳なれバ相応せり。
これは宗祇自身の述懐で、自分は七十九歳になり釈迦入滅の八十歳にもうすぐだと言うのに、何でこうも違うのか、と謙虚に言う。
宗祇の連歌論書『宗祇初心抄』には、
一、述懐連歌本意にそむく事、
身はすてつうき世に誰か残るらん
人はまだ捨ぬ此よを我出て
老たる人のさぞうかるらむ
か様の句にてあるべく候、(述懐の本意と申は、
とどむべき人もなき世を捨かねて
のがれぬる人もある世にわれ住て
よそに見るにも老ぞかなしき
かやうにあるべく候)歟、我身はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云たる心、驕慢の心にて候、更に述懐にあらず、(たとへば我が身老ずとも)老たる人を見て、憐む心あるべきを、さはなくて色々驕慢の事、本意をそむく述懐なり、
とある。述懐は単なる回想ではなく、懺悔の意味が込められてなければならない。そうでなく俺はもう悟ったぞみたいな句は「驕慢の心」として嫌われる。
四十四句目
齢のみ仏にちかくはや成りて
むねならぬ月やみてるをも見む 宗祇
宗牧注
胸頭の外の月計、みてるをも見むと也。
周桂注
我心の月のあらはれがたきを、空の月のみてるをみていへる也。
月の心は仏の心だが、その月を見ずして、ただ天文現象としての物理的な月を見ているにすぎない我が身を嘆く。
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