昨日篠窪の三嶋神社に行ったとき、前(2015年秋)に来た時にはなかった木彫りのミミズクが拝殿の縁側に置いてあった。そこに、
木兎(ずく)鳴や雨露千年の椎の森 玉水
が添えてあった。地元の俳人だろうか。「雨露」は古木の洞(うろ)と掛けているのだろうか。「森」も「漏る」に通じ、「雨露」と縁語になる。木兎無くや迂路千年の思惟の森。ちなみに昨日鳴いてたのは鶯だった。
それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。
十五句目
はなればつらし友とする人
契りきやあらぬ野山の花の陰 宗祇
宗牧注
いづくの人ともしらぬ人に、花の下にて参会してむつまじきを、如此はちぎりきやとなり。さて離ればつらし、いかがせんと云心也。
周桂注
あらぬは、しらぬ野山也。おもひかけぬ野山にてあひたる心也。契きやは、かくはちぎらざりしと也。一句の心は、方々の花に執心して、契きやといひかけたるなり。
「や」は「は」に替る「や」で、「契りきはあらぬ野山の花の陰や」の倒置。
花の下では老若男女いろいろな人が集まり、酒を酌み交わしたりする。鎌倉や南北朝期の連歌は、こうしたところに集まってくる人の中から、その場の興で始まったりした。これを花の下連歌という。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「鎌倉時代から南北朝時代にかけて行われた連歌の一体。花鎮はなしずめという宗教的な意味をもち、寺社のしだれ桜のもとで、貴賤を問わない市井の数寄者や遁世者により行われた。出し句により、大勢でにぎやかに付けてゆく興行形態をとった。」
とある。
鎌倉末期の『連證集』にも、
「命と申こと葉に、さやの中山と付て侍しハいかに。是は、中比の哥仙西行の哥に、年たけてまたこゆへしとおもひきやいのち成けりさやの中山、と侍を、今ハ新古今の作者の哥ハ、連哥の本哥にはとるへきよし、花の下に申侍間、この哥を本哥にて、
命のうちにいつかとハまし 申句に、
都にはさやの中山とをければ と付侍し也。」
とある。これは稚児の問いに僧が答えるという問答形式になっている。
稚児:「命」という言葉に、「さやの中山」と付けてるのはどーゆーことぅ?
僧:これはね、平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめにかけて活躍した和歌の仙人、西行法師の歌に、
年たけて又こゆべきと思いきや
命なりけり小夜のなかやま
というのがあって、今(鎌倉時代末期)では、「新古今和歌集」の作者の歌も、連歌の本歌として使っていいことになっていることを、身分関係なくに花の下に集る人たちが教えてくれたので、
命のうちにいつかとはまし
という句に
都にはさやの中山とをければ
と付けてみたんだよ。
といったところか。
野山の花にも自然発生的に集まってくる人たちがいて、そこは若い男女の出会いの場所でもあった。日本を始めとして江南系の民族に広く存在していた「歌垣」の伝統によるものであろう。
そんなところで出会い、不本意ながら契ってしまった人でも、別れるとなるとつらい。前句が「友」なので、一応友情の約束なのだが、隠れた恋句と見ても良いのではないかと思う。日本はGBLTには寛容だった。
周桂注の「一句の心は、方々の花に執心して、契きやといひかけたるなり。」の「花」も比喩と見ても良いと思う。
十六句目
契りきやあらぬ野山の花の陰
世を遁れても春は睦まじ 宗祇
宗牧注
捨世の人は、花なども執心あるまじき也。されども、春は何となく花に対して落花飛葉の観念の便にもむつまじくて、世を捨る心には、如斯ちぎりやと思かへしていへる也。
周桂注
遁世者の上ニハ春とも花ともしるまじきを、さすが又花に執心あれば、かくはちぎらざりしをと也。
この句を恋にしてしまうと、二十一句目にまた恋が出てくるので、四句去りになってしまう。恋と恋は「応安新式」では五句去りになっている。相手は女ではなく花ということにしなくてはいけない。なお、「応安新式」では恋は「已上五句」としかなく、五句までであれば一句で捨ててもよいことになっている。
十七句目
世を遁れても春は睦まじ
身を隠す庵は霞を便にて 宗祇
宗牧注
隠士のさま也。
周桂注
霞をたよりにしたる、哀なる体成べし。
「世を遁れ」に「身を隠す」、「春」に「霞」と付く。山々の霞のみをたよりに春の訪れを知る。
十八句目
身を隠す庵は霞を便にて
消えむ煙の行衛をぞ待つ 宗祇
宗牧注
霞を便にて、きえん煙の名を待とつけられたる也。
周桂注
かすみの庵などに世をいとはん人、きえん時をまつならでは、別の事あるべからず。
「霞」に「煙」と聳物(そびきもの)を被せてくる。これによって、隠遁者はあの山の霞のように、自分が死んだ時も火葬にされ煙となり、あのようにたなびいてはやがて消えて行くことにしよう。世捨て人なら、何かを残すこともなく、ただ跡形もなく綺麗さっぱり消えて行くのみ。
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