今日はポツリポツリと雨が降った。場所によってはかなり降ったらしい。
「モリカケ」と呼ばれる森友学園、加計学園の問題はもう一年以上続いているが、テレビや野党があれだけ騒ぎ立てている割には、仕事場で、運転手や職人や運行管理の人の会話の中で、このことが話題になっているのをまったく聞いたことがない。
まあ、忖度だの根回しだの口利きだの世間にはよくある話だし、文書の改竄なども軽度なものならそんなに珍しいものではない。交通ルールを完璧に守って走るドライバーがいないようなもので、賄賂だとか横領だとか明らかに私腹を肥やすうような行為がない限り、そんなに世間の関心を引く話題ではない。
かえってあまりにヒステリックに糾弾されてしまうと、それを不快に感じる人が多いのも確かだ。
現実というのは多少なりとも曲がったことがあるもので、あまり理想ばかり言われてしまっても「白河の清きに魚も棲みかねて」になってしまう。
実際にモリカケを騒いでた人たちがどうなったかを見ればわかる。民進党は崩壊し、共産党も大きく議席を減らした。三大新聞も権威を失い、新聞離れに歯止めがかからない。最近の一連のリークは、モリカケで野党を自滅させるために、わざと官邸側が流しているのではないかと疑いたくもなる。
まあ、世間話はそれくらいにして、「宗祇独吟何人百韻」の続きを行ってみよう。
二表に入る。
二十三句目
誰をか問はむ哀れとも見じ
ちぎりてもえやはなべての草の原 宗祇
宗牧注
うき身世にやがて消なば尋ても草の原をばとはじとや思ふ。花宴にあり。朧月夜の内侍督の歌の心也。心はちぎりても、なべて草の原のやうにもあはれをかけて君はとはじと也。又ちぎりてもなべての草の原にぞ問む、こなたを取分ては問給ハじと也。
周桂注
草の原は、しるしのおほき物なれば、我をばとはじと也。花の宴巻に、うき身世にやがて消なば尋ても草の原をばとはじとや思ふ、とあり。此心なれば、此句も恋也。
両方の注が指摘しているのは『源氏物語』の「花宴」巻の源氏の君が尚侍君(かんのきみ)と出会う場面で、弘徽殿南側の三の口の扉が開いているのを見つけた源氏はそこにいた尚侍君と強引に関係を結んでしまう。
そのときの源氏の「まろは、みな人にゆるされたれば、めしよせたりとも、なんでうことかあらん。(麿は万人に許されたものなれば、誰をお召しになろうともなんちゅうこともない。)」と言う言葉は、当時絶頂にあった源氏の君の驕りとも取れる言葉で、このあとの展開の伏線になる。
終った後で「なほ、なのりし給へ。いかでか、きこゆべき。かうでやみなんとは、さりともおぼされじ(せめて名を聞かせてくれ。どうやって連絡を取ればいいんだ。まさかこれっきりなんて言わないでしょうね。)」と言うと、尚侍君は歌で答える。
うき身世にやがて消えなば尋ねても
草の原をばとはじとや思ふ
(不幸にもこのまま死んでしまっても
草葉の陰を尋ねてくれますか)
源氏の言葉を、名乗らないならもうこれっきりというふうに取り、名乗らなければここのまま私が死んでも知らん顔ですか、ときり返す。
これに対し、源氏は、
いづれぞと露のやどりをわかむまに
こざさがはらにかぜもこそふけ
(どこなのか露の棲家を探す間に
小笹が原に風が吹いたら)
と返す。どこの草の原かもわからないのに尋ねてゆけない。
本当に気があるなら、名乗らなくても何としてでも突き止めようとするもの。それこそ草葉の陰まで追いかけても逢おうとするものなのに、これっきりだなんてそれではあまりに薄情で、結局遊びの相手なのね、ということになる。
この名場面を踏まえて、前句の「誰をか問はむ哀れとも見じ(誰が尋ねてくるでしょうか、哀れとも思わないのに)」に、「関係を持ってしまったのに、どうして草葉の陰の果てまでも」尋ねてくれないのでしょうか、哀れとも思ってないんでしょう、と付ける。
二十四句目
ちぎりてもえやはなべての草の原
かへりこむをも知らぬ古郷 宗祇
宗牧注
旅の帰さを大かたに契たる人なれば、かへり来んをも知ぬとなり。
周桂注
旅のかへる也。なべては大かたに契たる心也。治定かへらんといふさへうたがはしきに、なをざりにかへらんといふは、たのまれぬ心也。
前句の「草の原」を文字通りの草ぼうぼうの荒れ放題のかつての畑のこととする。
必ず帰ってくると約束したはずなのに、どうせ帰ってきやしないだろうと思ったか、ふるさとの家や田畑は荒れ放題。人の世は薄情なものだ。恋から羇旅に転じる。
二十五句目
かへりこむをも知らぬ古郷
いかにせし船出ぞ跡も雲の浪 宗祇
宗牧注
雲の浪とは、遠浪の事也。前後ともに漫々なる海上に行船の体なり。
周桂注
かぎりなき遠き旅也。前は悲しき心、当句はただ遠き心也。跡もにて、行末の遠き心みゆ。跡も雲の浪といへる、誠にかへらんをもしらぬ体なるべし。
前句をいつ故郷へ帰れるとも知れない、という意味に取り成し、遥かなる船旅を付ける。振り返っても水平線の雲に至るまで浪ばかり。当然行き先も波ばかり。唐土への旅だろうか。
二十六句目
いかにせし船出ぞ跡も雲の浪
泪の海をわたる旅人 宗祇
宗牧注
遥なる海上を渡る舟人は、只泪の海を渡物也。惣而(そうじて)舟の句に海上を渡と付るは同物也。是は泪の海を渡ると付侍れば替る也。堪能の粉骨也。
周桂注
舟に海をわたるなどは付べからず。是は涙の海なれば各別也。
船は海を渡るものなので、「船」に「海を渡る」と付けるのは当たり前すぎて同語反復に近い。ただ、「泪の海」だと比喩なので、海を渡る船が泪の海をも渡るという意味になり、同語反復を逃れる。
「泪の海」は今のJ-popでも時折用いられる息の長い言葉だ。
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