すずらんの花が咲いた。早っ。
それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。
三十一句目
薄く霞める山際の里
月落ちて鳥の声々明くる夜に 宗祇
宗牧注
儀なし。
周桂注
かすめる明がたの体なり。
『枕草子』の「春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」を思わせる。落月に鳥の声を加えることで少し変えている。
三十二句目
月落ちて鳥の声々明くる夜に
露名残なく起きや別れむ 宗祇
宗牧注
惣じて、暁の鳥などに別を付は同心也。是は前句の鳥、並の鳥にてなき程に不苦。
周桂注
(なし)
月が出たところで季節は秋になる。月に露は、
風吹けば玉散る萩のした露に
はかなくやどる野辺の月かな
藤原忠通(新古今集)
など数々の和歌に詠まれている。
その月も沈み、露もまた儚く消えて行く。
「起きや別れむ」はここでは露のことだが、当然ながら男と女が明けがたに起きては別れる、いわゆる後朝(きぬぎぬ)への展開を促している。恋呼び出しだが、独吟なので一人恋呼び出しとでもいうべきか。
三十三句目
露名残なく起きや別れむ
身にしめる風のみ袖の記念にて 宗祇
宗牧注
身にしめる風のみ袖の形見にて、露のなごりもなくおきわかれんと也。
周桂注
露の名残もなけれど、風計(ばかり)名残なるべし。
風は露を散らしてゆくもので、悲しい後朝の別れにつゆの名残もなく、袖にはただ風が吹いているだけ。
「つゆ」には露の意味と、副詞として用いられる「少しも」という意味との二つがある。
季語は「身にしめる(身にしむ)」。秋は最低三句続けなくてはならない。
三十四句目
身にしめる風のみ袖の記念にて
堪へ来し方のゆふべにぞ成る 宗祇
宗牧注
恋路の悲しさに堪忍しつる跡の夕に、今の別路の悲しさハなりぬと也。
周桂注
あとの悲しかりし夕のやうにおぼゆる也。
袖には愛し合ったあの頃の痕跡の何もなく、ただ風に吹かれているだけなのに、堪えて待っていたあの頃の夕べが思い出されてしまう。
しひて猶したふに似たる涙かな
我も忘れんとおもふ夕べを
覚助法親王(続後拾遺)
の心か。
三十五句目
堪へ来し方のゆふべにぞ成る
思ふなよ忘れんもこそ心なれ 宗祇
宗牧注
過来し跡の事を案じたるハ、誠にへんもなき事なれば、忘れんもこそ心なれと也。
周桂注
過にし事を案じて益なき心也。忘たるがまし也。是則連歌の行様なるべし。
「思ふなよ」は咎めてには。前句の「ゆふべにぞ成る」を堪えて来た日々も夕べ(終わり)に成る、と取り成し、早く忘れることも大事だと説く。
周桂注の「是則連歌の行様なるべし」は、連歌とはまさに前句の情を忘れ、常に一句一句新しい心情を付けてゆくものだという、連歌のそもそも論といえよう。
三十六句目
思ふなよ忘れんもこそ心なれ
つらきにのみやならはさるべき 宗祇
宗牧注
ならはさるべきのさの字、すみてよむべし。つらき事をわすれんこそ心なれと付るなり。
周桂注
うきにのみならはされてゐたるは、かひなき心也。
「ならはさる」は「慣らはされる」という意味で「慣らはざる」という否定の意味ではない。「つらきにのみやならはさるべき」は「辛きにのみ慣らはさるべきや」で、「や」は反語になる。辛いのが当たり前になってしまってはいけない、考えるな、忘れることも大事だ、となる。
これは去年の十月八日の日記でふれた「こそ付け」になる。前句に「こそ」がある場合は、否定されるべき内容を付ける。
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