昨日は深大寺の神代植物公園へ行った。
ツツジ、藤、牡丹というところは既に終ったようで、薔薇が咲き始めていた。面積は小さいけどネモフィラが咲いていた。
「ハクメイとミコチ 植物園の歩き方」というイベントをやっていて、柿の葉のテントや竹の風呂などの展示もあった。
今日は久しぶりに「フクロウに会える店ふわふわ」に行ってきた。ちょっとブームが一段落しているのか、貸切状態だった。一部に誹謗中傷する団体もあるようだが、人間と動物を分離隔離するのが正義だとは思わない。見近でいろいろな動物と親しめる施設は必要だと思う。
それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。
八十七句目
たぐひだにある思ひならばや
誰来てか嵐に堪へむ山の陰 宗祇
宗牧注
只独住山の堪忍也。
周桂注
たぐひなきひとりずみなるべし。
「たぐひだにある思ひ」がどういう思いなのか特に指定されてないので、恋から隠士の句に転換する。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな
庵ならべん冬の山里
西行法師(新古今集)
の心。
八十八句目
誰来てか嵐に堪へむ山の陰
奥は雲ゐる岩のかけ道 宗祇
宗牧注
太山の体也。
周桂注
所のさま也。
ここでは前句を「どんな人がここに来るのだろうか」とし、雲に続くような岩づたいの道を付ける。
八十九句目
奥は雲ゐる岩のかけ道
落ち初めし滝津瀬いづく吉野川 宗祇
宗牧注
滝の水上ハ、雲深き山上なれバしらぬと也。
周桂注
水上をしらぬ心也。
ここでいう吉野川は四国のではなく花の吉野を流れる吉野川だろう。水源は大台ケ原の方にある。
その手前の山上ヶ岳は大峰山と呼ばれ、熊野古道の大峯奥駈道が通っていて、修験道の寺院がある。江戸時代には曾良がここを訪れ、
大峯やよしのの奥を花の果 曾良
と詠んでいる。
前句の「雲」は吉野の地名が出ることで花の雲を連想させる。吉野の花の雲のはるか彼方、吉野川の水源がある。
この百韻は名残の懐紙に花はない。この句を隠し花と見てもいいのかもしれない。
花は「応安新式」には一座三句もので「懐紙をかふべし、にせ物の花此外に一」とある。「新式今案」ではやはり一座三句者と規定されているが、「近年或為四本之物、然而余花は可在其中」とある。ただ、この百韻では初の懐紙の十五句目に花があり、二の懐紙には三十八句目に花があり、三の懐紙には六十五句目に花がある。
おそらく宗祇が気にしていたのは、発句にも「花」という文字があることだろう。これを入れると初の懐紙に花が二句になり式目に反してしまう。発句は基本的には桜の句で、その桜の形容として「似たる花なき」が出てくるにすぎないから微妙な所だ。
独吟では審判の役割を果たす主筆がいないから、宗祇も後になってから初の懐紙に花が二句あるのに気づいたのかもしれない。その埋め合わせで、名残の懐紙は花をこぼすことになったのだと思う。
九十句目
落ち初めし滝津瀬いづく吉野川
はやくの事を泪にぞとふ 宗祇
宗牧注
昔の事也。泪の滝に仕立られたり。
周桂注
うけたる詞也。涙の滝也。はやくハむかし也。
「うけたる詞」は「うけてには」、古くは「うけとりてには」とも呼ばれた付け方で、二条良基の『知連抄』には、
三、うけとりてにはは、(上句に)、
来秋の心よりをくそでの露
かかるゆふべは萩のうはかぜ
通路の跡たえはつる庭の雪
ふりぬる宿をたれかとふらん
故郷をおもふ旅ねの草枕
むすぶちぎりは夢にこそなれ
(上句)に云止むる言葉をうくるを云也)、袖の露にかかる、庭の雪にふり
ぬる宿と付、草枕にむすぶ(とうくる)、是皆請てには也、自餘是にて料簡在べし、とある。逆に下句に上句を付ける場合は「かけてには」になる。
すむかひもなき草の庵かな
はやむすぶ岩屋の内のたまり水
これは「すむ」に「水」に掛けて付けているため、かけてにはになる。
宗祇の『連歌秘伝抄』には、
一、かけ手仁葉の事
待や忘れぬこころなるらん
聞なれし風は夕の庭の松
一、うけ手仁葉の様
暁のあはれをそふる雨そそぎ
あまりね覚ぞ身にはかなしき 頓阿
とある。「待つ」に「松」のかけてにははわかりやすいが、うけてにははわかりにくいが「雨そそぎ」の「雨」を「あま」で受けている。
しかし、このようなはっきりわかる受け方は次第に好まれなくなり、一見するとどこで繋がっているかわからないように受けるのが宗祇以降の時代には好まれるようになる。
この九十句目はもっとわかりにくい受け方で、「滝津瀬」を「泪」で受けて「泪の滝」としている。
吉野川の滝がどこから落ちてくるのかわからないように、いつだったか分からないような昔のことに今も涙する。
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