今日の午前中は春の嵐だった。
世の中も不穏で、結局また冷戦時代に逆戻りするのか。国会前も、これも一種の冷戦の名残なんだろうな。
それでは「宗祇独吟何人百韻」の続き。二裏に入る。
三十七句目
つらきにのみやならはさるべき
道有るもかたへは残る蓬生に 宗祇
宗牧注
此道は政道の事也。賢君の中にも、又侫人(わいじん)とて悪き人ある也。其悪き人にやならはさるべきと也。蓬生を侫人にたとへいへる也。世中の麻は跡なく成にけり心のままの蓬のみして、とやらん古歌に侍。
周桂注
あれたる蓬生の宿にも、道ある人は残りとどまりて、世にもしられぬ事おほし、茅屋のつらきにならはされて、うづもれはてん事を無念と也。
宗牧が引用している古歌は、
世の中に麻は跡なくなりにけり
心のままに蓬のみして
北条義時(新勅撰集)
これは『荀子』勧学編の「蓬も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し。」から来ているという。(参考:「『慕帰絵』の制作意図―和歌と絵の役割について」石井悠加) これは地を這う蓬も背の高い麻の間に生えれば直立するように、政治がしっかりしていれば庶民もしっかりするという例えだという。
この寓意を取るならば、道はあってもその一方で蓬が好き放題に生い茂り、その辛さにみんな慣れてしまっているという意味になる。
ただ、ここには「麻」は出てこないし、道があるのだから、やや無理があるように思える。
ここは周桂注の、道ある人も蓬生に埋もれて隠棲を余儀なくされ、辛さを耐え忍んでいると見たほうが良いと思う。
三十八句目
道有るもかたへは残る蓬生に
しる人を知る花のあはれさ 宗祇
宗牧注
花を知人はよき人也。其知人をば花も知て、蓬生に咲といへり。道あるハ花を尋る道と付られたり。
周桂注
花をしる人を花もしる心也。互ニ心あるなるべし。色をも香をも知人をしる。此本歌引にもをよばざる歟。
周桂の言う本歌は、
君ならで誰にか見せむ梅の花
色をも香をも知る人ぞ知る
紀友則(古今集)
であろう。道をわきまえてはいても蓬生に不遇をかこう隠士のもとには、そこだけ桜の花が咲き、花の心を知る人のことは花も知っていて咲くのだろう、と付ける。
二表の三十句目に桜は出ているが花は出ていないので、二の懐紙の二本目の花をここでだし、春に転じる。
三十九句目
しる人を知る花のあはれさ
折にあふ霞の袖も色々に 宗祇
宗牧注
花をたづぬる風流の人たるべし。
周桂注
花見る人の袖の結構なるに、花も霞もおりにあひたる、誠に花も人をしるやうに見えたり。
「霞の袖」は、
くれなゐに霞の袖もなりにけり
春の別のくれがたの空
慈円
などの用例がある。
春の霞は佐保姫の衣に喩えられ、霞の袖とも言われる。その袖も朝日や夕日に色を変え、月が出れば朧月の色に染まる。
色々に変化する霞の袖は、花を知り花に知られる風流人にはあわれさもひとしおであろう。
四十句目
折にあふ霞の袖も色々に
帰らん空もわかぬ春の野 宗祇
宗牧注
霞に交り帰路を忘じたる也。花下忘帰因美景と云句にかよへり。
周桂注
野遊の体みえたるまま也。
「花下忘帰因美景」は白楽天の、
酬哥舒大見贈 白居易
去歳歓遊何処去 曲江西岸杏園東
花下忘帰因美景 樽前勧酒是春風
各従微官風塵裏 共度流年離別中
今日相逢愁又喜 八人分散両人同
哥舒大より贈られた詩に答える
去年の交歓会はどこでだったか、そう、曲江の西で杏園の東だ。
景色の美しさに花の下から帰るのを忘れ、樽を前で酒を勧めているのは春風か何か。
みんなそれぞれ官僚になって風塵にまみれ、離れ離れのままに一年が経過した。
今日ふたたび逢って喜び悲しむ。散り散りになった八人の内の二人だけの再会だ。
の詩による。『和漢朗詠集』には、
はなのもとにかへることをわするるはびけいによるなり、
たるのまへにゑひをすすむるはこれはるのかぜ、
花下忘帰因美景。樽前勧酔是春風。
白居易
とある。
ただ、打越の花の情を引きずるべきではないので、この引用は余計のように思える。先の「世の中に麻は跡なく」の引用の様に、宗牧はやや碩学をひけらかす所がある。
霞の色もそれぞれに変化し、帰り道を眺めれば、どこまでが野でどこまでが霞かわからない、というだけの句で、遣り句と見ていいだろう。
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