2017年5月30日火曜日

 『嵯峨日記』といえば落柿舎。その落柿舎の名前の由来については、去来の俳文、「落柿舎ノ記」に記されている。「落柿舎ノ記」は宝永三年(一七〇六)刊許六選の『風俗文選』に収められている。
 ただ、この俳文の末尾にある、

 柿ぬしや梢はちかき嵐山    去来

の発句は元禄四年の『猿蓑』にあるから、元禄三年秋までには成立していたと思われる。
 「落柿舎ノ記」の解説はググればいくらでも出てくるので省略するとして、要するに庭に四十本もの柿の木がありながら一夜にして落ちてしまったので、この柿主の所有する柿の木の梢は嵐山に近いから嵐で散ったんだ、と洒落てみたというわけだ。
 いくら嵐山だからって嵐で柿が散ったわけではないだろう。ネットで調べれば柿の落下の原因はいろいろ出てくる。不受精、強樹勢、ヘタムシ、カメムシ、落葉病など、柿の落下にはいろいろ原因があるが、一夜にして大量に落下したとすれば原因はカメムシの大量発生だろう。
 ヒントは『嵯峨日記』の中にもある。

 「落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、処々頽廃ス。中々に作(つくり)みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさなこそ心とどまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、画(えがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、」

 この「葎」が問題だったのではなかったか。カメムシは果実食で、杉や檜の実のほか、カナムグラの実も好んで食べる。また、カナムグラはつる性で、クズなどとともにつる性の植物はカメムシの産卵に用いられる。荒れ果てた庭は実はカメムシの繁殖に適していたのではなかったか。
 『嵯峨日記』の文章はこのあと、

 「竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、

 柚の花や昔しのばん料理の間
 ほととぎす大竹藪をもる月夜
   尼羽紅
 又やこん覆盆子(いちご)あからめさがの山」

と続く。

 柚の花や昔しのばん料理の間  芭蕉

 柚子は今でも和食には欠かせない。昔はこの柚子を使ったご馳走がたくさん並べられたんだろうな、と元伊賀藤堂藩料理人らしい一句だ。

 ほととぎす大竹藪をもる月夜

 ただの竹やぶではなく「大竹藪」というのがいかにも荒れた感じを出している。「もる」は「漏れる」と「守る」を掛けている。
 羽紅の句は赤くなった苺を持ってまた来たいという句だが、「覆盆子あからめ」は頬を赤らめた様子も連想させる。さすがおとめさんだけあって乙女チックな一句だ。

2017年5月29日月曜日

 夕方の空に三日月と半月の中間のような月が出ていた。ということは旧暦だともう皐月、道理で皐月の花が咲いているわけだ。福島の復興桜を見に行ってからもう一ヶ月たつんだな。
 芭蕉の『嵯峨日記』にも挑戦しようかなと思ったが、これは卯月十八日から皐月四日までの日記だから、昨日で終わっている。最後の日の日記に「明日は落柿舎を出んと」とあるから、今日が落柿舎を出た日だ。
 昨日はネットで臨川寺、虚空蔵あたりを調べてみた。「松尾の竹の中に小督(こがう)屋敷と云有」のところで、何で松尾なのかというところに引っかかってしまった。
 今の小督塚は渡月橋の北岸を西に行ったところにある。渡月橋のすぐそばの車折神社嵐山頓宮の前には駒留の橋もある。小督塚はこのすぐ西にあり、さらに西へ行くとかつて三軒茶屋があって、それが「墓ハ三間屋の隣、藪の内にあり」の「三間屋」だとされている。ただ、ここは松尾ではない。
 ルートとしても、臨川寺を見て大井川(今の桂川)から嵐山や松尾の里をながめ、虚空蔵菩薩を安置する法輪寺に行ったなら、川を渡って南岸へ行っている。ここから南へ行って松尾に行ったとする方が自然なように思える。
 「都(すべ)て上下の嵯峨ニ三所有、いづれか慥(たしか)ならむ。」と芭蕉の時代には小督屋敷と呼ばれている場所が三つあったようだ。だから、松尾にも同じように駒留の橋や三間屋があったのかもしれない。
 これだとそこそこ距離もあるから、「斜日に及て落舎ニ帰ル」とあるのも納得できる。

2017年5月28日日曜日

 初夏の花というとケシの花の句も多い。ケシは桃山時代から江戸時代に渡来し、園芸植物として発達した。狩野重信「麦芥子図屏風 」をはじめ、ケシの花は画題としても定番だった。
 幸い日本にはアヘンを吸う文化は育たなかった。そのためアヘンを取るためのケシと阿片の取れないケシ(ポピー)との区別もなかった。江戸時代の園芸品種の多くはアヘンの取れるケシだったため、昭和二十九年のあへん法施行以降、それまで栽培されていた多くのケシが焼却処分され、いくつかあったケシ園も閉鎖されていった。
 今はケシというと帰化植物の雑草、ナガミヒナゲシがいたるところで小さなオレンジ色の花を咲かせている。
 芭蕉七部集の一つで荷兮編の『阿羅野』にも、ケシの句が五句ある。

 しら芥子にはかなや蝶の鼠色     嵐蘭

 「蝶の鼠色」はシジミチョウのことか。胡蝶という場合は、たいていは紋黄蝶のことをさす。
 ケシの花も一日花で儚いが、ケシの大きな花びらに比べるとシジミチョウの羽は小さくて地味で、すぐに飛び去ってしまうあたりから余計に儚げに見える。

 鳥飛であぶなきけしの一重哉     落梧

 これもケシの花が蝶々のように見えるからか。

 けし散て直に実を見る夕哉      李桃

 一日花のケシも散るとすぐに芥子坊主になる。花は儚くても実りは多い。

 大粒な雨にこたえし芥子の花     東巡

 ケシの花は一見弱々しく見えるから、大粒な雨で散ってしまうのではないかと心配してしまう。

 散たびに兒(ちご)ぞ拾いぬ芥子の花 吉次

 そのままの意味だと散った芥子の花を稚児が拾うということだが、子供の髪型の「芥子坊主」に掛けたものか。
 ケシの句というと、『猿蓑』の、

   別僧
 ちるときの心やすさよ米嚢花(けしのはな) 越人

の句もよく知られている。
 一日花の儚さを送別の際の潔さに転じている。芭蕉に破門された路通との別れの句。同じ『猿蓑』に芭蕉の路通との別れの句、

   望湖水惜春
 行春を近江の人とおしみけり     芭蕉

がある。

2017年5月27日土曜日

 今日は楚常・北枝編の『卯辰集』から蕪村の「牡丹散て」の句の縁から、牡丹の句を拾ってみよう。

 牡丹ちり芍薬ひらく旦(あした)かな 桃英

 俳号のところに「少人」とある。これは少年と同じと考えていいだろう。ただ、数えで十五歳くらいで元服する時代だから、今でいう中一、中二くらいか。
 牡丹と芍薬はよく似ているが、牡丹は草で芍薬は低木だし、咲く時期も芍薬の方が遅い。句としては咲く時期の違いを詠んだだけだが、発句として、挨拶として読むなら、華麗な牡丹の花が散って惜しいけど、芍薬がこうして開けば寂しくもありません、というようなかなり立派な挨拶となる。

 一輪のぼたんやちりてそこら内    其糟

 「そこら内」は「そこらうちじゅう」「そこらじゅう」ということ。牡丹の散る時は花びらがはらはらとそこらじゅうに広がって落ちる。全体としてみれば「そこら内」その中の一点だけに目を留めれば蕪村の句にあるように「打かさなりぬ二三片」になる。

 何事ぞぼたんをいかる猫の様     南甫

 唐獅子牡丹といえば健さんの背中の刺青だが、獅子に牡丹は定番の画題の一つにもなっている。猫が何に怒っているのかは本当に知らないが、牡丹の下で耳を倒して、いわゆるイカ耳になった猫の姿は獅子のようでもある。
 もう少し時代が下ると猫と牡丹の取り合わせも定番の画題となる。

 牡丹や白金の猫黄金の蝶       蕪村

の句もある。

   四睡が武府にゆくおり
 牡丹散て心もおかずわかれけり    北枝

 これは送別の句。牡丹が散って寂しくなるというのに、この心も癒えぬままにお別れとはそれに重ねても寂しく辛いことです、といったところか。

 ちる事は催しに似ぬ牡丹かな     牧童

 「催しに似ぬ」は兆しも見せず突然に、ということか。
 蕪村の「牡丹散て」の句の前身として、このような句があったことも気に留めておこう。季題の心というのは用例の積み重ねでもある。

 話は変わるが、貞徳の句として伝えられている、どんな五七五にも付けられる万能の付け句というのがある。

 それにつけても金のほしさよ

という句だ。「つけても」が付け句の「付けても」にかかるあたりは芸が細かい。「それにつけても」は話題の転換の言葉なので、前にどんな話題が来てもいい。それに「金のほしさ」と言われれば、誰だっていつだってお金はあったほうがいい。だから万能の付け句になる。
 カールおじさんの歌(『いいもんだな故郷は』高杉治朗作詞)もこれにヒントを得たのだろう。付け句にすればこんな所か。

   故郷はいいな娘と盆踊り
 それにつけてもおやつはカール

   故郷は狐啼きたる里の秋
 それにつけてもおやつはカール

 万能の付け句だから何に付けてもいい。

   牡丹散て打ちかさなりぬ二三片
 それにつけてもおやつはカール

 明治製菓のカールは関東地区では終売になるという。

2017年5月25日木曜日

 さて、「牡丹散て」の巻も二裏に入り、残す所あと六句。難解な出典関係によらず軽くつけていったのが幸いしたのか、結構終盤は盛り上がる。

三十一句目

   しころ打なる番場松本
 駕舁(かごかき)の棒組足らぬ秋の雨  几董
 (駕舁の棒組足らぬ秋の雨しころ打なる番場松本)

 秋の冷たくしとしと降る雨は勤労意欲をそぐもの。宿場町の駕籠かきも欠勤が多い。

季題は「秋の雨」で秋。降物。「駕舁(かごかき)」は人倫。

三十二句目

   駕舁の棒組足らぬ秋の雨
 鳶も鴉もあちらむき居る    蕪村
 (駕舁の棒組足らぬ秋の雨鳶も鴉もあちらむき居る)

 秋の雨に出歩く人も少なく閑古鳥の啼く駕籠屋では、閑古鳥ならぬトンビやカラスもそっぽ向いている。

無季。「鳶も鴉も」は鳥類。

三十三句目

   鳶も鴉もあちらむき居る
 祟なす田中の小社神さびて   几董
 (祟なる田中の小社神さびて鳶も鴉もあちらむき居る)

 田中の小社は石祠が立っている程度のものだろう。道祖神や庚申さんや馬頭観音やお稲荷さんは今でもよく見る。非業の死を遂げた旅人の塚なんかもこれに含まれるか。そういうものは祟りを恐れて祀られている。
 お供え物を狙うトンビやカラスが背中向けていると、何だか祟りを畏れているみたいだ。

無季。「小社」は神祇。

三十四句目

   祟なす田中の小社神さびて
 既玄番(すでにげんば)が公事も負色 蕪村
 (祟なす田中の小社神さびて既玄番が公事も負色)

 玄蕃寮は律令時代の機関で、ウィキペディアには「度縁や戒牒の発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館の管理を職掌とした。」とある。
 時代が下ると何とかの守と同様、武将が名目上こういう役職名を名前の中に入れていたのか、戦国時代の遠江国の井伊家の家老に小野玄蕃朝直という人物がいる。
 おそらく本来の仏教関係者の雰囲気を持たそうとしたのだろう。小社のある土地が神社のものかお寺のものか訴訟になっていたのだろうか。芭蕉が慕っていた仏頂和尚は、徳川家康によって寄進された鹿島根本寺の寺領五十石を鹿島神宮が不当に占拠しているかどで訴訟を起こし、勝利している。だが、この句の玄番さんの訴訟では神社の勝利で「神さびて」いる。

無季。

三十五句目

   既玄番が公事も負色
 花にうとき身に旅籠屋の飯と汁  蕪村
 (花にうとき身に旅籠屋の飯と汁既玄番が公事も負色)

 「花にうとき身」は西行法師の「こころなき身にもあはれは知られけり」だろうか。月花の心など知らぬ無風流なものでも、桜の季節となれば旅籠屋の飯と汁も、心なしか花見のご馳走に見えてくる。

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の句の心を踏まえていると思われる。公事の方が負けて花と散ったあとだけに桜の散るのが余計に哀れに思える。

季題は「花」で春。植物、木類。「身」は人倫。

挙句

   花にうとき身に旅籠屋の飯と汁
 まだ暮やらぬ春のともし火    几董
 (花にうとき身に旅籠屋の飯と汁まだ暮やらぬ春のともし火)

 薄暗くなって行灯に火をともすものの、日が長くて暮れそうで暮れない。昼行灯じゃないが、何となく影が薄い。
 前句の「花にうとき」の謙虚な心を受けて、昼行灯のようなものですよ、と謙虚に結ぶ。

季題は「まだ暮やらぬ春(遅日)」で春。

2017年5月24日水曜日

 「牡丹散て」の巻の続き。

二十五句目

   勅使の御宿申うれしさ
 江(かう)に獲たる簣(あぢか)の魚の腹赤き 蕪村
 (江に獲たる簣の魚の腹赤き勅使の御宿申うれしさ)

 「簣(あぢか)」は竹などで編んだ籠のことで、ネットで検索すると天秤棒の前後にぶら下がった大きな竹籠のイラストを見ることができる。
 腹の赤い魚と言うのはおそらくウグイだろう。婚姻色は春に生じるものだが、時に季語にはなっていない。
 「江に獲たる」と言う漢文っぽい言い回しは、芭蕉の天和調を意識したものか。特に意味はなく、ただ一巻の変化をつけるためにやってみたという感じだ。
 王朝時代に行われていた「腹赤の奏」を意識したと思われるが、どれくらいの人がそのことを理解できたのかはよくわからない。あまり知られてないような故事や出典で付けるのは、いかにも博識をひけらかしているようで好感は持てないが、こういう句が詠まれるようになった背景には、俳諧がマニアックになって、いわばオタク化したからではないかと思う。
 仲間内にだけわかればいいという創作態度は今日の純文学でもしばしば見られる。ただ、そうなってしまうと一般社会から遊離して先細りになる。先細りになれば新たな創作への活力が失われ、あとは過去のパターンのリバイバルを繰り返すだけで、やがて保存の時代に入ってゆく。

無季。「腹赤奏」は曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』では春の正月の所に記されているが、ここでは春としては扱われていない。「江」と「魚」は水辺。

二十六句目

   江に獲たる簣の魚の腹赤き
 日はさしながら又あられ降   几董
 (江に獲たる簣の魚の腹赤き日はさしながら又あられ降)

 前句の魚の腹が赤くなる季節が春なら、この句も前句と合わせれば春の霰の句になるが、一句としては冬の句になる。
 春になっても雪は降るし、霰が降ることも珍しくない。霰は積乱雲が発生した時に、湿った空気が急激に上昇し、急速に凍ることで生じるため、夕立の雨と同様局地的で、日が差しているのに降ってくることがある。

季題は「あられ」で冬。降物。「日」は天象。

二十七句目

   日はさしながら又あられ降
 見し恋の児(ちご)ねり出よ堂供養 蕪村
 (見し恋の児ねり出よ堂供養日はさしながら又あられ降)

 稚児というと男色を連想するが、ここでは若い修行僧の稚児ではなく堂供養の際の稚児行列の稚児。というわけで、このお稚児さんは蕪村さんの大好きな女児のことであろう。
 「見し恋」というのは若紫の姿を垣間見た源氏の君の俤だろうか。

無季。「見し恋」は恋。「児」は人倫。「堂供養」は釈教。

二十八句目

   見し恋の児ねり出よ堂供養
 つぶりにさはる人にくき也    几董
 (見し恋の児ねり出よ堂供養つぶりにさはる人にくき也)

 稚児髷は関西で流行した女児の髪形。その髪に触っている人は親だか師匠だか知らないが妬ましい。
 どうにでも取り成せる句で恋離れの句。

無季。「人」は人倫。

二十九句目

   つぶりにさはる人にくき也
 十六夜(いざよひ)の暗きひまさへ世のいそぎ 蕪村
 (十六夜の暗きひまさへ世のいそぎつぶりにさはる人にくき也)

 月の定座なので十六夜を出す。月の出が遅く、日が暮れてしばし真っ暗になる時間があるが、その隙すら世の中は忙しく人が行き来し、人の手が頭にぶつかったりする。ともすると喧嘩になりそうだ。

季題は「十六夜」で秋。夜分、天象。「日」から二句隔てている。

三十句目

   十六夜の暗きひまさへ世のいそぎ
 しころ打なる番場松本     几董
 (十六夜の暗きひまさへ世のいそぎしころ打なる番場松本)

 曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』の碪(きぬた)の所に「碪 四手打、綾巻、衣打、しころ打」とあり、「しころは槌の名也。槌にて打をいふ」とある。
 番場は今の滋賀県にある中山道の宿場。琵琶湖東岸から関が原へ向う所にある。松本は大津宿の近くの石場一里塚のあたりか。この二つの地名の意味はよくわからない。
 街道のあたりは夜でも急ぐ人がいたのだろう。砧の音が聞こえてくる。

季題は「しころ打」で秋。

2017年5月23日火曜日

 マンチェスターでのテロ事件は痛ましい限りだ。ただ、人を憎んで自爆した人の魂と、幸せな時をみんなで作り上げた人たちの魂とでは、まだ後者の方が救われているのかもしれない。テロリストに屈することなく、これからも人生を楽しもう。
 さて、「牡丹散り」の巻、って書いてたけど正確には「牡丹散て」の巻だったか。二の表に入る。

十九句目

   春のゆく衛の西にかたぶく
 能登どのの弦音かすむ遠かたに  蕪村
 (能登どのの弦音かすむ遠かたに春のゆく衛の西にかたぶく)

 「能登どの」は能登守平教経(たいらのつねのり)で、『平家物語』では壇ノ浦の戦いで死んだことになっている。
 壇ノ浦の戦いが三月二十四日だったことから春の行方を平家の栄華の終わりに重ねあわせ、「西にかたぶく」には壇ノ浦が都の西にあることと西方浄土の死の暗示とを重ねあわせている。
 諸行無常の響きを感じさせる句で、やはり釈教から離れ切れていない。ただ、江戸後期的にはこういうのを三句の渡りと呼んだのであろう。近代連句でいうようなイマジネーションのシークエンスの先駆だといわれればそのとおりということになるのか。

季題は「かすむ」で春。聳物(そびきもの)。「能登どの」は人倫。

二十句目

   能登どのの弦音かすむ遠かたに
 博士ひそみて時を占ふ     几董
 (能登どのの弦音かすむ遠かたに博士ひそみて時を占ふ)

 魔除けのために弓を鳴らす鳴弦は『源氏物語』にも描かれているが、それで占いをしたのかどうかはよくわからない。ここは単に遠くで弓を射っている能登殿を影で見守りながら博士が戦況を占っているというだけかもしれない。

無季。「博士」は人倫。

二十一句目

   博士ひそみて時を占ふ
 粟負し馬倒れぬと鳥啼て    蕪村
 (粟負し馬倒れぬと鳥啼て博士ひそみて時を占ふ)

 『論語』に登場する公治長という人物については『論語義疏』に鳥の言葉を介したという逸話が記されている。
 雀の声を聞いて、「雀鳴嘖嘖雀雀、白蓮水邊有車翻覆黍粟、牡牛折角、收斂不盡、相呼往啄。(雀が騒ぎ立てているのは白蓮水のほとりで車がひっくり返ってキビやアワをぶちまけてしまい、牛の角が折れて収拾が付かなくなっているから、そのキビアワを食べに行こうという話で盛り上がってるからだ)」と言い、人に見に行かせるとその通りだったという。鳥の話から遺体の場所を言い当てたら犯人と間違えられて投獄されていたが、このことで疑いが晴れたという。
 まあ、孔子の時代より千年も後の伝説だが、江戸中期以降の古学の影響で、こういう話も一般に知られるようになっていたのか。牛を馬に変えるのは本説付けのお約束。
 ただ、この公治長の伝説と前句がどういうふうに結びつくのかよくわからない。ウィキペディアによると「後半の雀の言葉は、ほとんど同じものが『太平広記』巻13と巻462にも見える」とあるので、あるいはそちらの本説か。『太平広記』のテキストが見つからなかったので確認できなかった。

無季。「馬」は獣類。「鳥」は鳥類。

二十二句目

   粟負し馬倒れぬと鳥啼て
 樗(あふち)咲散る畷八町     几董
 (粟負し馬倒れぬと鳥啼て樗咲散る畷八町)

 樗は日本では「あふち」と訓じられ、栴檀の古名ともいう。中国では『荘子』逍遥遊編で恵子と荘子の対話の中に登場し「無用の用」の例とされている。
 前句の中国の説話を受けて、「樗」という中国風の木を登場させたのであろう。
 「畷」はあぜ道のこと。東海道川崎宿には八丁畷という地名もあり、芭蕉の元禄七年の最後の旅の時、弟子たちがここまで送ってきたという。

季題は「樗」で夏。植物、木類。曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』の夏の

所に「楝(あふち)の花」という項目がある。

二十三句目

   樗咲散る畷八町
 立あへぬ虹に浅間のうちけぶり   蕪村
 (立あへぬ虹に浅間のうちけぶり樗咲散る畷八町)

 田舎のあぜ道に浅間山の虹を付ける。小諸あたりの景色だろうか。きれいなアーチ状の虹ではなく半分消えて根元だけが東の空に見えているのは夕立の後だろうか。そこに俄に浅間山の噴煙が上がる。
 富士山を祭る神社も浅間神社というが、「あさま」は本来火山のことを広く指す一般名詞だったのだろう。語源については諸説ある。
 この頃は長閑な田舎の景色だったが、三年後の天明三年、浅間山は大噴火する。

無季。「虹」は近代では夏になる。「浅間」は名所。山類。

二十四句目

   立あへぬ虹に浅間のうちけぶり
 勅使の御宿申うれしさ       几董
 (立あへぬ虹に浅間のうちけぶり勅使の御宿申うれしさ)

 勅使は天皇の代理として宣旨を伝える者のことだが、江戸時代だと将軍宣下、つまり将軍が変わる時に征夷大将軍に任ずる儀式のための使いであろう。中山道を通ることもあったのか。何らかの事情で中山道を通ったので思いもかけず勅使をお泊めすることになったということか。

無季。「勅使」は人倫。「御宿」は旅体。

2017年5月21日日曜日

 昨日の差別が感染症への恐怖から来るという話、ちょっと補足しておこう。
 同和差別の根底にも、死体や動物を扱う職業の人がそこからの感染を通じで疫病の蔓延の原因になったという疑いが根底にあったと思われる。隔離された理由はそこから説明するのが一番合理的だからで、「汚いから近づくんじゃありません」なんて言葉が繰り返されてきたのも病人扱いだからだ。
 「穢れ」という言葉は、病原体についての知識のなかった時代の人が考えた架空の病原体ではなかったかと思う。死穢、産穢、動物などの穢れは感染症を防ぐための経験的な理由があったのだと思われる。
 だからこそ、今日原発避難者が受けている差別も、しばしば「菌」という言葉が用いられているし、「放射能がうつる」なんて言い方も放射能を病原菌扱いしているとしか思えない。
 病原体に関しては一部の専門家以外は基本的に無知といっていい。無知なるがゆえにどこまで安全でどこまで危険かの線引きができないため、ほとんどの場合過剰反応を生む。「自分はいいが子供たちは守らなくてはならない」と言われると、反論も困難になる。こうして、右翼だろうが左翼だろうが関係なく、子供の健康を人質にとられると容易に人は差別主義者になる。
 口唇口蓋裂についても、他の遺伝性が疑われる疾患に対しても、「自分はいいが生まれてくる子供が」と言われると弱い所がある。それが結婚の際に露骨な差別を生むことになる。
 科学は万能ではないし、いくら安全だと言われても疑念は残る。「絶対にないとは言い切れない」と言われれば、この世の全てに関して絶対はない。
 民族対立や宗教対立による差別も、基本的には彼らがいつ反乱を起こしたり侵略してきたりするかわからないという不安によるものだ。それこそ「絶対にないとは言い切れない」という心理が過剰な防衛反応を生む。
 明治以降の日本の侵略戦争も、西洋列強がやがて日本を飲み込み、白人優越主義の彼らは容赦なく日本人を根絶やしにするかもしれないという恐怖から生じた過剰反応だった。今でも例えばゴジラ映画などでも、アメリカ人は日本に核を落とすことなどなんとも思ってないなんて言葉がつい出てしまうものだ。広島と長崎の原爆だって、ドイツに落とさずに日本に落としたのは黄色人種だったからだ、なんて言う人はたくさんいた。
 差別をなくすには、基本的には恐怖を煽るような言動には注意し、抑制しなくてはならない。原発に関しても例外にしてはいけない。全ての差別は結局その時代その時代の危険厨が引き起こしているようなものだったんだと思う。
 また、レイシズムの危険なんかでも過剰の煽るようなことをやってはいけない。なぜなら人種差別は相互に起こるものだからだ。一方のレイシズムの危険を煽ると、被害者側の人間が過剰反応を引き起こす危険が大きい。それが相互に行われると危険は現実になる。
 恐怖に負けるな、笑い飛ばせ。それが俳諧だと思う。

2017年5月20日土曜日

 今日も暑くてついついコーラを二本も飲んだ。左翼の人たちは今でもコーラを飲むと骨が溶けると信じているのかな?
 では「牡丹散り」の巻の続き。早く終わらせよう。

十一句目

   秋をうれひてひとり戸に倚
 目ふたいで苦き薬をすすりける   几董
 (目ふたいで苦き薬をすすりける秋をうれひてひとり戸に倚)

 食わず嫌いのものを人に食べさせる時には「目をつぶって食ってみろ」と言ったりするが、まあ飲みたくない薬を飲む時には目をつぶって一気にすするというのはわかる。
 秋はこれから寒くなる季節で、寒くなれば健康に不安もある。この冬を乗り切れるかなんて思いながら不安そうに薬をすする姿が浮かんでくる。

無季。

十二句目

   目ふたいで苦き薬をすすりける
 当麻へもどす風呂敷に文      蕪村
 (目ふたいで苦き薬をすすりける当麻へもどす風呂敷に文)

 当麻は奈良の当麻寺のあるあたりで、古くから竹内街道と長尾街道が通っている。どちらも大阪から大和行く道だ。この道は伊勢へ行く道でもある。
 当麻寺というと蓮の糸で曼荼羅を織ったという中将姫伝説が有名で、芭蕉が『奥の細道』の旅の途中山中温泉で曾良を送るために行った「山中三吟」十一句目にも、

    髪はそらねど魚くはぬなり
 蓮のいととるもなかなか罪ふかき   曾良

の句がある。神道家の曾良だから、魚は食わなくても蓮の命を奪ってるなんて突っ込みを入れたかったのかもしれない。大事なのは殺生は生きてゆくうえで避けられないもので何をやったって免罪はされない、あとは心の問題、罪の自覚の問題ということだ。
 ここではそれに関係なく、関西に住むものにとって馴染みのあるちょっと田舎の地名ということで引き合いに出しただけだろう。
 病気で薬を飲んで養生しながら、当麻から送ってきた風呂敷に手紙を添えて返してやる。蕉風というよりは大阪談林っぽい人情句だ。

無季。「当麻」は名所。「山田」から三句隔てている。

十三句目

   当麻へもどす風呂敷に文
 隣にてまだ声のする油うり    几董
 (隣にてまだ声のする油うり当麻へもどす風呂敷に文)

 江戸時代には夜の明りとして菜種油や綿実油が用いられた。油は生活の必需品となり天秤に大きな油桶を下げた油売りは各家庭に上がり込んでは油を補填するため、ご近所の噂話などにも詳しく、油を充填する間に顧客と噂話に花咲かせ、そこからだらだらおしゃべりして時間を過ごすことを「油を売る」と言うようになった。
 風呂敷包みを当麻に返しにお使いを頼もうにも、いつまでも油売りとぺちゃくちゃ油売ってる声がして、なかなかその油売りは帰ろうとしない。ありそうなことだ。

無季。「油うり」は人倫。

十四句目

   隣にてまだ声のする油うり
 三尺つもる雪のたそがれ    蕪村
 (隣にてまだ声のする油うり三尺つもる雪のたそがれ)

 油売りがなかなか帰らないのを雪のせいとした。三尺というと1メートル近いから、そりゃ帰りたくないだろう。帰るに帰れないうちに日も暮れてくる。

季題は「雪」で冬。降物。

十五句目

   三尺つもる雪のたそがれ
 餌(ゑ)にうゆる狼うちにしのぶらん 几董
 (餌にうゆる狼うちにしのぶらん三尺つもる雪のたそがれ)

 三尺の雪を山奥の田舎の景色とし、飢えた狼が家の近くに潜んでるとした。
 村人の狼に対しての生々しい感情はなく、生活感なしにさらっと描くのが蕪村流の俳諧というところか。

季題は「狼」で冬。獣類。「うち」は居所。

十六句目

   餌にうゆる狼うちにしのぶらん
 兎唇(いくち)の妻のただ泣になく  蕪村
 (餌にうゆる狼うちにしのぶらん兎唇の妻のただ泣になく)

 兎唇は「みつくち」と読むと今日では差別用語になるので、口唇口蓋裂と言わなくてはならないが、「いくち」はいいのかどうか。
 今日ではみんな手術で治してしまうため、実際に口唇口蓋裂の人を見ることはないし、いないなら差別のしようもないのだが、差別用語としては残っている。ただ今でも五百人から七百人に一人の割合で生まれているという。
 ただ、この句には殺生の因果と結び付けられて解釈されてきた歴史がある。前句を狼をひそかに飼っている狩人とみて、その因果のせいで妻が口唇口蓋裂になったというのはかなり無理な解釈に思えるが、蕪村の句もあまり付きが良くないので、そう読めといわれればそう読めてしまう。
 前句を特に取り成さずに、狼が潜んでいると思うと恐くて泣いていると読むほうがわかりやすい。単に奇をてらって「兎唇」を出してみただけではなかったか。まあ、ひょっとしたら兎唇フェチの人もいたかもしれないし。

無季。「妻」は人倫。

十七句目

   兎唇の妻のただ泣になく
 鐘鋳ある花のみてらに髪きりて  几董
 (鐘鋳ある花のみてらに髪きりて兎唇の妻のただ泣になく)

 鐘を新たに鋳造するというので、髪を切ってお寺に寄進する。兎唇(いくち)の妻も因果のことを気にしているのだろう。因果のことで泣いているのか、それともこれで救われると思って泣いているのか、蕉風の俳諧ならそれも笑いに転じてくれそうだが、蕪村流は大阪談林に近く湿っぽい。花の定座なのにあまり目出度くない。
 口唇口蓋裂差別もただ手術で直して見てわからないからなくなっただけで、それがなければ今でも何かしら深刻な事態として残っていただろう。
 同和差別にしても原発避難民差別にしても、差別の根源にあるのは感染症の恐怖の記憶で、それが本来感染らないはずのものまで拡張されてしまところに人間の無知からくる愚かさがある。
 ただ、誰も完璧な人間はいないので、それも責められないところがあって難しい。本来差別に厳しいはずの人権派の人たちが、原発となると話は別になって差別を擁護する側に回っているのは悲しいことだ。

季題は「花」で春。植物、木類。「鐘鋳」「てら」「髪きりて」は釈教。

十八句目

   鐘鋳ある花のみてらに髪きりて
 春のゆく衛の西にかたぶく    蕪村
 (鐘鋳ある花のみてらに髪きりて春のゆく衛の西にかたぶく)

 「西にかたぶく」は西方浄土を暗示させ、釈教から離れきらない。この展開の緩さも蕉門的ではない。
 花に行く春の付け合いも古典的だし、鐘鋳だけに付きすぎの感がある。

季題は「春のゆく衛(ゆく春)」で春。

2017年5月19日金曜日

 今日も暑かった。昼間は頭がぼおっとなってくる。
 夜になって、さあ「牡丹散り」の巻の続きだが、句の展開も何だか眠くなってきそうな‥‥。とにかく初裏に入る。

七句目

   百里の陸地とまりさだめず
 哥枕瘧(おこり)落たるきのふけふ  几董
 (哥枕瘧落たるきのふけふ百里の陸地とまりさだめず)

 「瘧」はマラリアのことで、昔は珍しくなく、『源氏物語』では源氏の君もこの病気になり、療養中に若紫と出会った。「落(おち)たる」は病気の良くなることで源氏の時代には「おこたる」と言った。
 芭蕉以来、歌枕を尋ね歩く旅は江戸時代には盛んに行われていたのだろう。歌枕を尋ねての百里の旅は途中でマラリアになることもあったが、それでも終わることなく続く。

無季。「瘧」は今では夏の季語になっているが、当時は不明。源氏の君は春三月桜の季節にマラリアにかかっている。

八句目

   哥枕瘧落たるきのふけふ
 山田の小田の早稲を刈頃     蕪村
 (哥枕瘧落たるきのふけふ山田の小田の早稲を刈頃)

 早稲は旧暦七月から八月に収穫する。
 「山田」は伊勢山田か。

 聞かずともここをせにせむほととぎす
     山田の原の杉のむら立ち
               西行法師

の歌に詠まれているから歌枕といえる。もちろん次の句では単なる山の間の田んぼに取り成すことができる。
 「哥枕」に「山田」を付け、マラリアの治る季節ということで「早稲の刈頃」を付けている。四手付けというべきか。

季題は「早稲を刈る」で秋。「山田」は名所。

九句目

   山田の小田の早稲を刈頃
 夕月に後れて渡る四十雀    几董
 (夕月に後れて渡る四十雀山田の小田の早稲を刈頃)

 四十雀は留鳥で渡り鳥ではない。この場合の渡るは寝ぐらに帰る程度の意味か。
 夕月はまだ日にちの浅く夕方に現れては暗くなると沈んでゆく月を言う。夕月が見えて来る頃、それにやや遅れて暗くなった空に四十雀が群を成して飛んでゆく。
 初表は蕪村二句几董二句の進行だったが、ここからは一句づつになる。

季題は「夕月」で秋。夜分、天象。「四十雀」は鳥類。

十句目

   夕月に後れて渡る四十雀
 秋をうれひてひとり戸に倚(よる) 蕪村
 (夕月に後れて渡る四十雀秋をうれひてひとり戸に倚)

 夕月に秋を憂うと付く。わりかし紋切り型の展開だ。「ひとり戸に倚」もどういうシチュエーションなのかがはっきりしない。
 それ初裏も四句目なのに句が大きく展開せず、遣り句めいた平板な句の連続で、このあたりも芭蕉の時代の俳諧とだいぶ意識が違うように思われる。
 基本的にいえるのは生活感がないということで、それが蕪村の離俗と言ってもいいのかもしれない。現実の世界をしばし忘れ、遠い空想のノスタルジーの世界に読者を誘い込むというのが狙いなのだろう。手紙のやり取りで興行のような談笑の世界ではないから、笑いを取ろうと狙う必要もない。

季題は「秋」で秋。「ひとり」は人倫。

2017年5月18日木曜日

 今日は夕立があったらしいが、仕事でたまたま行ってた場所では多少雲はあったけど晴れていた。
 それでは「牡丹散り」の巻の続き。

四句目

   すはぶきて翁や門をひらくらむ
 婿のえらびに来つるへんぐゑ   蕪村
 (すはぶきて翁や門をひらくらむ婿のえらびに来つるへんぐゑ)

 延宝五年(一六七七)に『諸国百物語』が刊行され、芭蕉の時代には百物語が流行したようだ。『俳諧次韻』に収められている延宝九年秋の「鷺の足」の巻にも、

    先祖を見知ル霜もの夜語
 灯火をくらく幽灵を世に反ス也   其角

の句がある。前句の「夜語」を百物語に取り成した句だ。
 江戸中期になると、芭蕉とも交流のあった英一蝶の門人佐脇嵩之の『百怪図巻』や、鳥山石燕『画図百鬼夜行』などの今でいう妖怪図巻が作られ、上田秋成の『雨月物語』を始め、多数の妖怪怪異を題材とした草紙が出版された。そういう意味でも、この句は流行の句と言っていいのだろう。
 すはびき爺さんを御伽噺に出てくるようなお爺さんとし、その爺さんのもとに婿を探しに来た変化がやって来る。女狐か何かだろうか。
 この頃はまだ「妖怪」という言葉はあまり用いられず、蕪村も「へんぐゑ(変化)」という言葉を用いている。

無季。「婿」は人倫。

五句目

   婿のえらびに来つるへんぐゑ
 年ふりし街(ちまた)の榎斧入れて  蕪村
 (年ふりし街の榎斧入れて婿のえらびに来つるへんぐゑ)

 江戸の王子には装束榎と呼ばれる榎の巨木があって、そこに大晦日になると狐たちがたくさん集まってきて衣装を改め、王子稲荷に参詣したといわれている。
 おそらく似たような話はかつて他にもあったのだろう。町中にあった榎なら切り倒されたりすることもあったのか。句はうしろ付けになっていて、「へんぐゑの婿のえらびに来つる年ふりし街の榎、斧入れて」の倒置になる。
 「て」止めのうしろ付けは古くから普通に行われている。

無季。「榎」は植物、木類。

六句目

   年ふりし街の榎斧入れて
 百里の陸地(くがぢ)とまりさだめず 几董
 (年ふりし街の榎斧入れて百里の陸地とまりさだめず)

 「百里」は遥か遠いことのたとえで、きっちり四百キロというわけではない。「陸地(くがぢ)」は陸路に同じ。「泊りわびしき」という初案があり、この方がわかりやすい。遥かな旅をして、そこで榎の古木のことを耳にして行ってみると既に切り倒されてたりする。そのように月日は留まることを知らない。

無季。「百里の陸地」は旅体。

2017年5月17日水曜日

 さて、季節のほうも夏になったし、次は何を読もうかと思って「木のもとに」の巻3でお世話になった小学館の『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』をめくっていたら、蕪村の「牡丹散り」の句を発句とする一巻があった。芭蕉の俳諧と比較する意味で面白いかもしれないと思った。
 ただ、この一巻はどうも興行された俳諧ではないようだ。作品解説によると、蕪村と几董との書簡のやり取りから生まれたものだという。
 まずこの「ももすもも」には「俳諧桃李序」という序文が付いている。ちなみに漢和辞典によると「桃李」には自分が引き立てたり推薦したりした者、立派な人物という意味や、顔色の美しいことのたとえという意味も出てくる。ネットで検索すると松坂桃李がトップに来る。蕪村もなかなか気負ったタイトルをつけたものだ。
 この序にはまず、

 「いつのほどにか有けむ、四時四まきの可仙有。春秋はうせぬ、夏冬はのこりぬ。」

とあるが、これは嘘だという。いかにも興行があったかのように偽装しているだけだ。

 「壱人請て木にゑらんと云。壱人制して曰、この可仙ありてややとし月を経たり。」

 一人がこれを木版印刷しようと言うと、一人が随分前のものなのでやめようよと言うという意味だが、これも作りに決まっている。別に蕪村と几董がこう話し合ったというわけではあるまい。というのも、「とし月を経たり」というのも嘘だからだ。昔こういう興行があったという偽装にすぎない。

 「おそらくは流行におくれたらん。余笑て曰、夫俳諧の活達なるや、実に流行有て実に流行なし、たとはば一円廓に添て、人を追ふて走るがごとし。先ンずるもの却て後れたるものを追ふに似たり。」

 こういう一文があると、流行に疎い今の俳句爺さんたちは泣いて喜びそうだ。
 まあ、確かに流行は繰り返すという側面もある。60年代にはやったミニスカートは80年代に復活したし、60年代後半から70年代にはやった「長髪」は80年代のパンク・ニューウエーブで急にダサいものになったが、90年代のグランジあたりからまた復活し、いわゆる「ロンゲ」という言葉を生んだ。
 ただ、たまたま流行が戻ってきたからといっても、以前にはやった時とは微妙に違うものになっているので、時代遅れなやつは所詮時代遅れなのには変わりない。

 「流行の先後何を以てわかつべけむや。」

 俳諧に限らず、一つのジャンルが確立されてゆく時期にはいろいろな試行錯誤が為され、そのつど新しい試みが為されるが、ひとたび完成されてしまうと後は今までやったパターンをちょっとアレンジし直す程度で、大体同じようなパターン繰り返しに陥る。
 芭蕉の時代は俳諧はまだ未完成でこれから作ってゆくものだったから、次から次へと新しい実験がなされ、そのつど流行していった。
 しかし、蕪村の時代ともなると俳諧は芭蕉のリバイバルみたいなもので、芭蕉が年次を追って作り上げてきたさまざまな風を、ただいろいろ並べ替えるだけに終始する。蕪村の時代には芭蕉の時代のような顕著な流行はなかったのだろう。それはどちらかというと俳諧そのものが時代遅れになっているという意味なのだが。
 蕪村も会心の俳諧興行ができず、書簡で時間をかけて両吟をやるという形で、わずか二巻を「木にゑらん」としたのも、そのせいだと思われる。
 だから、今の俳人も流行を気にする必要など何もない。俳句そのものが時代遅れなのだから。

 「ただ日々におのれが胸懐をうつし出て、けふはけふのはいかいにして、翌は又あすの俳諧也。題してももすももと云へ、めぐりよめどもはしなし。是此集の大意也。」

 「ももすもも」というタイトルは上から読んでも下から読んでも横から読んでもももすももなので、終わりがないというわけだ。でも本当は、司馬遷『史記』の「桃李不言下自成蹊」や日蓮の「桜梅桃李」を踏まえているんでしょ?って言いたくなる。この二つは松坂桃李の名前の由来らしい。
 そういうわけで、ようやく発句に辿り着く。

発句

 牡丹散て打かさなりぬ二三片   蕪村

 まずこの句は興行の当座の興で詠んだ句ではない。安永二年(一七七三)刊の『あけ烏』に収録されている。少なくとも七年前の句だ。
 句の内容については説明の必要はないだろう。そのまんまの句だ。

季題は「牡丹」で夏。植物、草類。



   牡丹散て打かさなりぬ二三片
 卯月廿日のあり明の影      几董
 (牡丹散て打かさなりぬ二三片卯月廿日のあり明の影)

 この脇は一応発句に対する返礼の形になっている。だが、卯月廿日もあくまで架空の興行の日付だろう。牡丹の散った庭に夜も白み有明の月の光にその姿がほの見えて来る。「影」はここでは「光」の意味。
 発句の景を生かすためか、あえて月の定座を引き上げている。

季題は「卯月」で夏。「有明」はここでは夏の月になる。夜分、天象。

第三

   卯月廿日のあり明の影
 すはぶきて翁や門をひらくらむ  几董
 (すはぶきて翁や門をひらくらむ卯月廿日のあり明の影)

 中世連歌や芭蕉の時代には「らん」とはねるのが普通だが、あえて「らむ」とするのは国学の影響か。
 「すはぶきて」は「しはぶきて」に同じ。咳をすること。明け方に何で翁が門を開くのか、そん辺の設定は不明。何となく雰囲気で付けたという所か。

無季。「翁」は人倫。

2017年5月16日火曜日

 「木のもとに」の巻3もいよいよあと二句で終わり。

三十五句目

   医者のくすりは飲ぬ分別
 花咲けば芳野あたりを欠廻(かけまはり) 曲水
 (花咲けば芳野あたりを欠廻医者のくすりは飲ぬ分別)

 さて、花の定座で順番がかわり珍碩ではなく曲水になる。一の懐紙の花を珍碩が詠んだから、二の懐紙は曲水に一句づつという配慮だろう。
 芭蕉も持病を抱えながら『笈の小文』の旅では芳野あたりを駆け回ったし、みちのくも旅してきた。
 薬といっても当時の薬は科学的な根拠にも乏しく、ほとんど気休めのようなもので、だったらやりたいことをやって人生を楽しむ方がよっぽど薬になるというもの。
 最近でも薬漬けの末期医療は間違いというところから緩和治療が重視されるようになってきている。まだ元気があるなら登山をしたりして、人生の最後を楽しく締めくくるという考え方が見直されている。
 芭蕉はこの四年後におそらく末期癌(大腸癌説に従うなら)と思われる状態で江戸を出て伊賀、近江、京都などの門人たちの所を尋ねて廻り、最後は大阪で息を引き取った。この最後の大阪の旅が珍碩改め酒堂と大阪の之道との喧嘩の仲裁のためだったのも何かの縁か。このときに曲水(曲翠)に宛てた手紙が残っている。その中に、

 「さて洒堂一家衆、其元御衆、達而御すすめ候に付き、わりなく杖を曳き候。おもしろからぬ旅寝の躰、無益の歩行、悔み申すばかりに御座候。先伊州にて山気にあたり、到着の明る日よりさむき熱晩々におそひ、漸頃日、常の持病ばかりに罷り成り候。」

とある。芭蕉は曲水と大和路を旅する約束をしていたが、それも果たせなかった。その悔しさをこう綴っている。

 「伊賀より大坂まで十七八里、所々あゆみ候ひて、貴様行脚の心だめしにと奉り候へ共、中々二里とはつづきかね、あはれなる物にくづほれ候間、御同心必ず御無用に思召すべく候。」

 曲水も珍碩も、こうなるなんてこの時は夢にも思ってなかっただろう。

季題は「花」で春。植物、木類。「芳野」は名所。「欠廻」は旅体。

挙句

   花咲けば芳野あたりを欠廻
 虻にささるる春の山中
 (花咲けば芳野あたりを欠廻虻にささるる春の山中)

 病気をおしての旅の句でちょっとしんみりした所で、最後は笑いに持っていって落ちをつける。この句は解説する必要はないだろう。

季題は「春」で春。「虻」も春。は虫類。「山中」は山類。

2017年5月15日月曜日

 「木のもとに」の巻3の続き。二裏に入る。

三十一句目

   月夜月夜に明渡る月
 花薄あまりまねけばうら枯て  芭蕉
 (花薄あまりまねけばうら枯て月夜月夜に明渡る月)

 月にススキは付き物で、今でも十五夜にはススキが欠かせない。
 風にそよぐススキの穂が手招きしているように見えることは、

 秋の野の草の袂か花薄
    穂に出でて招く袖と見ゆらむ
              在原棟梁『古今和歌集』
 我が心ゆくとはなくて花すすき
    招くを見れば目こそとどまれ
              和泉式部
 ゆく人を招くか野辺の花すすき
    こよひもここに旅寝せよとや
              平忠盛『金葉和歌集』

などの古歌に歌われている。

   毒海長老、我が草の戸にして身まかり侍るを葬りて
 何ごとも招き果てたる薄哉  芭蕉『続深川集』

は貞享の頃の句とされている。招きすぎて招き果ててしまうと、あとは枯れて逝くのみ。月夜が続き月に夜を明かしているうちにも死は忍び寄ってくる。まあ、人生短いから精一杯楽しもう。

季題は「花薄」で秋。植物、草類。

三十二句目

   花薄あまりまねけばうら枯て
 唯四方なる草庵の露     珍碩
 (花薄あまりまねけばうら枯て唯四方なる草庵の露)

 「四方」という言葉は「方丈」という言葉を連想させる。おそらく「方丈」というとあまりに鴨長明の『方丈記』に結びついてしまうため、似た言葉に言い換えて俤にしたのであろう。「方丈」なら本説、「四方」なら俤といったところか。
 元禄三年の八月から九月頃の興行で『猿蓑』に収録された「灰汁桶の」の巻の十七句目の、

    何を見るにも露ばかり也
 花とちる身は西念が衣着て   芭蕉

もまた、西行を西念に変えることで俤にしている。
 ただ、平安時代後期に西念という僧が実在したらしい。ウィキペディアによると、「明治39年(1906年)11月、京都の松原通(現在の京都市東山区小松町)において、仏事供養目録および極楽往生にまつわる和歌(極楽願往生歌)が発見され、その内容から元は彼の所有物であったと考えられている。」とのこと。また、埼玉県吉川市に西念法師塔というのがあり、鎌倉時代の親鸞の弟子だという。江戸初期に奥州伊達之郡にも西念という僧がいたという。
 芭蕉の句はそれとは関係なく、西行に似ていていかにもありそうな名前として用いただけと思われる。
 ちなみに方丈は約3メートル四方で、四畳半よりは少し大きい。

季題は「露」で秋。降物。「草庵」は居所。

 三十三句目

   唯四方なる草庵の露
 一貫の銭むつかしと返しけり  曲水
 (一貫の銭むつかしと返しけり唯四方なる草庵の露)

 一貫は銭一千文。江戸時代は金銀銭がそれぞれ変動相場で動く三貨制度が取られていた。芭蕉の時代の銭一貫は五分の一両くらいだったと思われる。元禄後期になると四分の一両くらいになり、銭高金安になったらしい。
 それほどの大金ではないから、ただ細かくて面倒(むつかし)なので一分金にしてくれという所か。
 まあ、別に草庵の住人に限らず、銭一貫はかさばるし重いし「むつかし(面倒な、うざい)」という感覚はあったのだろう。ただ、凡人はやはり貰えるものは貰っておこうとなりがちだ。それを面倒だからときっぱり断る所はやはり物に執着しない風流人なのだろう。
 古註に兼好法師と頓阿法師との借金のエピソードによるとする説があるが、それだと二裏に入ってからの展開がやや重い感じになる。

無季。

三十四句目

   一貫の銭むつかしと返しけり
 医者のくすりは飲ぬ分別    芭蕉
 (一貫の銭むつかしと返しけり医者のくすりは飲ぬ分別)

 前句の「返しけり」をお金ではなく薬のこととする。
 薬の値段が一貫だったため、ちょっと高いなと思い、それなら薬に頼らなくても自然に治るんじゃないかと思い、一貫はちょっと面倒だなとばかりに薬を返したのだろう。
 江戸後期の文政期だと大工さんの年収なんかがわかっているようだが、元禄期の一般的な庶民の収入はよくわからない。多分銭一貫は今の感覚だと数万円といったところで、ちょっと二の足を踏む値段ではなかったかと思う。芭蕉の句はそのあたりの機微を感じさせる。
 芭蕉さんの得意な経済ネタだ。

無季。「医者」は人倫。

2017年5月14日日曜日

 今日は生田緑地ばら苑へ行った。バラはほぼ咲きそろっていた。人が多く駐車場も列ができていた。バスで行ってよかった。
 どこかの国がミサイルを発射したけど、今日も平和な一日だった。まあ、いつ何が起こるかわからない世の中だから、楽しいことは今のうちにやっておいた方がいい。
 さて、「木のもとに」の巻3の続き。

二十三句目

   熊野みたきと泣給ひけり
 手束弓紀の関守が頑(かたくな)に  珍碩
 (手束弓紀の関守が頑に熊野みたきと泣給ひけり)

 「紀の関」は万葉集に登場するが、どこにあったのかははっきりしない。後の時代でも、所在がはっきりしないまま手束弓(小型の弓)を持った紀の関守は一人歩きして、一種の架空の関として多くの古歌に詠まれている。
 弓を持った関守が頑なに通行を拒んで熊野詣の人を困らせているとはいえ、当時としてもそんなリアリティーがあったとは思えないし、これは遣り句と考えていいと思う。

無季。

二十四句目

   手束弓紀の関守が頑に
 酒ではげたるあたま成覧    曲水
 (手束弓紀の関守が頑に酒ではげたるあたま成覧)

 禿げネタというのはいつの時代にもあるもので、今は「斉藤さんだぞ」だが、この手のギャグは昔からあった。
 いかにも居丈高に威張り散らしている関守を見て、それよりそのハゲ頭何とかしろと言いたくなる気持ちはわかるが、あまりレベルの高い笑いではない。ちょっと息切れしてきたか。

無季。

二十五句目

   酒ではげたるあたま成覧
 双六の目をのぞくまで暮かかり  芭蕉
 (双六の目をのぞくまで暮かかり酒ではげたるあたま成覧)

 まあ、禿げネタに芭蕉さんもどう展開していいか悩んだのではなかったか。
 「双六」は今で言うバックギャモンの遠い親戚のようなもので、昔は主に賭け事に用いられた。鳥獣人物戯画でも双六盤を担ぐ猿の姿が描かれている。
 前句の酒ばかり飲んでる禿げ爺さんを博徒と見ての付け。
 『三冊子』「あかさうし」には、「気味の句也。終日双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の気味を付たる也。」とある。「気味」は「匂い」とほぼ同じ。頭がはげるまで飲み続けるような人は、日が暮れるまで双六を続けるような人でもある。響き付けといっていいだろう。

無季。

二十六句目

   双六の目をのぞくまで暮かかり
 假の持仏にむかふ念仏     珍碩
 (双六の目をのぞくまで暮かかり假の持仏にむかふ念仏)

 持仏というのはいわばマイ仏陀で、お寺の仏や道端の石仏のような公共のものではなく、自分専用の仏を言う。手のひらサイズの小型の仏像は旅の際に持ち歩いた。
 博徒というのはサイコロの目が思い通りにならないように、何か超自然的な力を信じてたりするものだ。人知の限界を知る、己の無知を知るというのは全ての信仰の根底にあるのではないかと思う。そういう意味では博徒はそれを知っている。

無季。「持仏」「念仏」は釈教。

二十七句目

   假の持仏にむかふ念仏
 中々に土間に居(すわ)れば蚤もなし 曲水
 (中々に土間に居れば蚤もなし假の持仏にむかふ念仏)

 蚤は茣蓙や蒲団を介してうつることが多いので、土間にじかに座るとかえって蚤の心配がなかったのだろう。
 みすぼらしい乞食僧となれば、家に上げてもらえずに土間で過ごすことも多くて、それを「蚤もなし」と割り切るのも一つの知恵か。

季題は「蚤」で夏。虫類。「土間」は居所。

二十八句目

   中々に土間に居れば蚤もなし
 我名は里のなぶりもの也    芭蕉
 (中々に土間に居れば蚤もなし我名は里のなぶりもの也)

 まあ要するにハブられている(村八分にされている)わけだが、それで平然と開き直れるのは、やはり一本筋の通った人物だろう。なかなか力強い一句だ。
 『三冊子』「あかさうし」にはこうある。

  「能登の七尾の冬は住うき
 魚の骨しはぶる迄の老を見て
 前句の所に位を見込、さもあるべきと思ひなして人の体を付たる也。
   中々に土間にすはれバ蚤もなし
 わが名は里のなぶり物也
 同じ付様也。
   抱込て松山広き有明に
 あふ人毎に魚くさきなり
 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の体に思ひなして付顕す也。」

   能登の七尾の冬は住うき
 魚の骨しはぶる迄の老を見て  芭蕉

の句は元禄三年六月、つまり「木のもとに」の巻の二ヵ月後、京都の凡兆宅で巻いた「市中は」の巻の十一句目で、『猿蓑』に収録されている。前句の能登の七尾からいかにもそこにいそうな老人を付けている。

   抱込て松山広き有明に
 あふ人毎に魚くさきなり

の句は元禄七年閏五月、京で巻いた「牛流す」の巻の十二句目。同じく漁村の風景にその場にいそうな魚臭い人を登場させる。漁師と言わずに「魚くさき」というだけで漁師を文字通り匂わせている。
 「我名は里の」の句はいつも土間にいる人からハブられている匂いを嗅ぎ取り、そういう人の言いそうな言葉を付けている。
 この巻の十句目の

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
 中にもせいの高き山伏     芭蕉

も、いかにもその場にいそうな人の付けだが、これを山伏と言わずして山伏を匂わせる表現ができたなら匂い付けということになるのだろう。

無季。「我」は人倫。「里」は居所。

二十九句目

   我名は里のなぶりもの也
 憎まれていらぬ躍(をどり)の肝を煎(いり) 珍碩
 (憎まれていらぬ躍の肝を煎我名は里のなぶりもの也)

 月の定座だが。この前句ではちょっと難しかったか。
 「肝を煎る」というと「いらつく、やきもきする」という意味だが、「肝煎り」だと「世話を焼く」という意味になる。江戸時代では「肝煎」は役職名にもなっている。
 句の意味は、日ごろから憎まれているため、やらなくてもいいような踊りに腐心しなくてはならない、といったところだろう。普段の仕事ではどんくさくて人の足を引っ張ってばかりだから、せめて宴会では主役になり存在感をアピールするというわけか。

無季。

三十句目

   憎まれていらぬ躍の肝を煎
 月夜月夜に明渡る月   曲水
 (憎まれていらぬ躍の肝を煎月夜月夜に明渡る月)

 何だかこれでもかというくらい月を出してきた感じだ。何日にも渡って夜明けまで月、月、月。月もいいけど芸人は楽ではない。
 前句の村の憎まれっ子からプロ芸人、いわゆる「芸能」の人に取り成したのだろう。「芸能」は士農工商外の非人の身分だった。月の季節は連日の興行で大忙しだ。

季題は「月」で秋。夜分、天象。

2017年5月13日土曜日

 今日は雨が降り気温も下がった。梅雨も近いのかな。
 それでは「木のもとに」の巻3の続き。二の懐紙に入る。

二表

十九句目

   巡礼死ぬる道のかげろう
 何よりも蝶の現(うつつ)ぞあはれなる 芭蕉
 (何よりも蝶の現ぞあはれなる巡礼死ぬる道のかげろう)

 『荘子』の「胡蝶の夢」は有名だが、胡蝶の現(うつつ)とは如何に。
 「胡蝶の夢」というのは荘周が夢で胡蝶となった飛んでた所で目が覚めて、はたしてどっちが夢やらという話だが、まあ、普通に考えれば、いくらリアルな夢を見ていても夢と現実の区別くらいはつく。蝶になってたのが本当の姿で、今ここにいる人間としての自分は夢なんだなんて、哲学的な仮定としては可能だが普通の人からすればどうでもいいことだ。
 巡礼者の死はまぎれもなく現実であり、決して彼が蝶になったわけではない。そんな話は慰めにもならない。死は現実で蝶が飛んでるのもあくまで現実だ。現実だから哀れで悲しい。
 『荘子』には老聃(老子)が死んだ時、弟子たちが悲しんでるのを見て、師が悲しいものでないことを教えられなかったんだから老聃もたいしたことはない、という話がある。
 人が蝶になったり蝶が人になったりという単なる形而上学上の仮説を現実と同等に扱い、人の死を死とも思わない冷淡さは危険だし、それこそ焚書坑儒の大量虐殺に繋がる発想だ。死が悲しくないなら殺したっていいじゃないかって、さすがにそれを認めることはできない。
 胡蝶の夢なんてのは単なる遊びであって哀れではない。本当に哀れなのは現実だ。そんな皮肉が込められているが、でもこの句はあくまで俳諧の常としての、句を付けるために拵えた嘘ぴょーんというわけだ。虚において実を行う、それが俳諧だ。
 巡礼者の死も作り話だし、現の蝶も作り話だ。それでも哀れなのは、現実を思い出すからだ。
 「蝶の現」は「胡蝶の夢」の逆説でなかなか面白い。さすが芭蕉さんだ。

季題は「蝶」で春。虫類。

二十句目

   何よりも蝶の現ぞあはれなる
 文(ふみ)書ほどの力さへなき  珍碩
 (何よりも蝶の現ぞあはれなる文書ほどの力さへなき)

 「あはれ」を良い方の意味で「あはれ」に取り成すのも一つの付け筋で、筆者のような凡庸な作者ならそうしたかもしれない。珍碩さんの答は違っていた。
 「蝶の現」という言葉が「胡蝶の夢」に対しての言葉であるところから、これに「蝶の夢うつつ」という意味を見つけ出す。夢うつつ、英語で言えばデイ・ドリーム・ビリーバー?そんで彼女はクイーンというわけで、恋に転じることになる。
 こうして、文を書くほどの気力もないまま、ただ夢うつつのぼーとした毎日を過ごす片思いの句が出来上がる。なるほど、その手があったか。

無季。「文書」は恋。

二十一句目

   文書ほどの力さへなき
 羅(うすもの)に日をいとはるる御(おん)かたち 曲水
 (羅に日をいとはるる御かたち文書ほどの力さへなき)

 前句の手紙を書く気力もない理由を身分違いのせいにした。
 ここで相手は高貴な女性とそのまま詠むのではなく、薄絹を纏って日焼けを防いでる姿を描くことで、それとなく高貴な相手を匂わせる。これが匂い付けだ。
 これを「向え付け」とする説もあるが、前句が高貴な女性に惚れる賤しい人の様だというのは句が付いてから発生する意味で、前句そのものに身分を示す手懸りはない。これが、

   賤しき身には文さえもなし
 羅に日をいとはるる御かたち

だったら向え付けだ。
 また、前句を薄物を纏った高貴な女性だから文書く力さへなき、とする説もある。解釈としては可能だが、意味がよくわからないし、それって面白いかなあ?
 また、三句の渡りを持ち出す説に関しては論外。芭蕉の時代に「三句の渡り」という発想はない。打越は去るのみ。

季題は「羅(うすもの)」で夏。衣装。「日」は天象。

二十二句目

   羅に日をいとはるる御かたち
 熊野みたきと泣給ひけり    芭蕉
 (羅に日をいとはるる御かたち熊野みたきと泣給ひけり)

 前句を特に高貴な男性、つまり天皇か上皇の位として花山天皇(花山院)の俤を付けている。
 花山天皇は歴代天皇の中でもとりわけ破天荒な人で、即位の日に儀式の始まる直前、大極殿の高座の上で馬内侍とセックスしていたという。
 その花山天皇は怟子という女御を溺愛し死なせてしまったあたりは『源氏物語』の桐壺帝のモデルとも思われる。その一方では『拾遺和歌集』を編纂し、風流の心をもった天皇でもあった。このあたりも桐壺帝と重なる。
 その花山天皇が怟子を失ったあと突如失踪し、出家してしまう。十数年後に京に帰ってくるのだが、その間のことは謎が多く、このことから様々な伝説が生じることとなる。それこそ諸国を漫遊しただとか、西国三十三所を巡礼しただとか、那智の滝で千日滝籠行をしただとか、熊野にまつわる話も多い。
 悲しみに暮れた花山天皇が出家への思いを募らせていた時なら、熊野が見たいと泣き叫んだなんてこともいかにもありそうだ。

無季。「熊野」は名所。

2017年5月12日金曜日

 この頃暑い日が続く。昼は飲み物がたくさん必要になって、出費が増える。
 さて、「木のもとに」の巻3も佳境に入る。

十五句目

   月見る顔の袖おもき露
 秋風の船をこはがる波の音   曲水
 (秋風の船をこはがる波の音月見る顔の袖おもき露)

 これは「秋風の波の音に船をこはがる」の倒置。上句下句合わせると、「秋風の波の音に船をこはがる月見る顔の袖おもき露」となる。
 これは『源氏物語』「須磨」の俤か。

 「すまには、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、せきふきこゆるといひけむうらなみ、よるよるはげにいとちかくきこえて、又なくあはれなる物は、かかる所の秋なりけり。
 御前にいと人すくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、枕をそばだててよものあらしをきき給ふに、なみただここもとに立ちくる心ちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。」

 須磨では今まで以上に気を滅入らすような秋風が吹き、海は少し遠いものの在原行平中納言の「関吹き越ゆる」と詠んだ浦に寄る波は夜ともなるとすぐそばのように聞こえて、これ以上悲しくない所はないような秋となりました。
 お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。

 このあと沖を船が通る場面がある。

 「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ。」

 沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。

 そして光が差し込み十五夜だったと知る場面が来る。

 「月のいとはなやかにさし出でたるに、こよひは十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御あそびこひしく、所所ながめ給ふらんかしとおもひやり給ふにつけても、月のかほのみまもられ給ふ。」

 月の光が煌々と差し込んでくると、「今夜は十五夜だったな」とふと思い出して、宮廷にいた頃の楽器の演奏に耽ったのが恋しく、みんなじっとあの月を見ているのかなと思うと、みんなの顔が月になって見守っているかのようです。

 源氏の君の御一行は岸にいるが、それを船で旅する趣向に変えれば、何となくこんな感じの句になる。

季題は「秋風」で秋。「船」「波の音」は水辺。

十六句目

   秋風の船をこはがる波の音
 雁ゆくかたや白子若松     芭蕉
 (秋風の船をこはがる波の音雁ゆくかたや白子若松)

 次は花の定座ということで、春の帰る雁にも取り成せるように配慮された「花呼び出し」の一句。
 白子若松は東海道四日市宿から鈴鹿の方へ行かずに南へ行ったところにある伊勢若松とその先の白子のこと。昔は伊勢街道が通っていた。今は近鉄名古屋線が通っている。
 ここでは東海道七里の渡しのこととしたか。帰る雁は北へ行くが、秋の雁は南へ向かう。ちょうどその方向に伊勢若松や白子がある。芭蕉も何度となく通っている道だ。芭蕉の「杖つき坂詞書」、

 「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。
 漸々桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やや起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、

 かちならば杖つき坂を落馬哉

終に季の言葉いらず。」

にある、飛脚がガン飛ばして怒ってたのもこの七里の渡しか。別の意味で恐い。
 『三冊子』「あかさうし」には、「前句の心の余りを取て、気色に顕し付たる也、」とある。船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。

季題は「雁」で秋。鳥類。「白子若松」は名所。

十七句目

   雁ゆくかたや白子若松
 千部読(よむ)花の盛の一身田(いしんでん) 珍碩
 (千部読花の盛の一身田雁ゆくかたや白子若松)

 一身田は伊勢街道を更に南へ向かい、志登茂川にかかる江戸橋を渡ったあたりの田園地帯で、本山専修寺がある。春になると桜が咲き、千部読経の声が聞こえてきたのだろう。
 白子若松の南になるから、春の帰る雁は北にある白子若松へ向かう。

季題は「花」で春。植物、木類。「千部読」は釈教。

十八句目

   千部読花の盛の一身田
 巡礼死ぬる道のかげろう    曲水
 (千部読花の盛の一身田巡礼死ぬる道のかげろう)

 前句を定例の千部会ではなく千部供養に取り成したか。死者を弔うのに千部読経を行うのは、『源氏物語』「御法」の紫の上の葬儀でも見られる。
 「かげろう」はしばしば死者の霊に喩えられる。おそらく火葬と結びついてのことだと思う。
 今では陽炎というと夏の暑い時にアスファルト上にゆらゆらゆれて見えるあれのことだが、本来は焚き火や野焼きなどをした際の炎が上がらず燻った状態の時に現れるゆらゆら(シュリーレン現象)のことを言ったのであろう。春の野焼きに結び付けられていたために春の季語になったと思われる。

季題は「かげろう」で春。「巡礼死ぬる」は哀傷。

2017年5月11日木曜日

 昨日は「日本ダービー(東京優駿)も三歳馬によって争われる。」なんて書いたが、考えてみると昔は数え年で今の満年齢とは違うから、芭蕉の句の三歳馬はいまの二歳馬に相当する。こんなことに気づかなかったなんて面目ない。
 まあ、気を取り直して次へ。

十一句目

   中にもせいの高き山伏
 いふ事を唯一方へ落しけり   珍碩
 (いふ事を唯一方へ落しけり中にもせいの高き山伏)

 「中にもせいの高き」を「中にも勢の高き」に取り成したか。「居丈高」なんて言葉もあるように、上から目線で高飛車に物を言う人間はいつの時代にもいた。
 あるあるネタだが皮肉が利いていて面白い。

無季。

十二句目

   いふ事を唯一方へ落しけり
 ほそき筋より恋つのりつつ   曲水
 (いふ事を唯一方へ落しけりほそき筋より恋つのりつつ)

 ここで恋に転じる。
 ほんのちょっとしたことから妄想を膨らまし「もしかしてだけどー、もしかしてだけどー」なんてどぶろっくのネタではないが、自分に気があると勘違いして、相手の言うことをことごとくそういう意味にゆがめてしまう。
 一時的な麻疹みたいなので済めばいいが、こじらすとストーカーへと一直線。あぶないあぶない。

無季。「恋つのる」は恋。

十三句目

   ほそき筋より恋つのりつつ
 物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉
 (物おもふ身にもの喰へとせつかれてほそき筋より恋つのりつつ)

 ストーカーから一転して拒食症。「ほそき」を痩せ細ると掛けているあたりも芸が細かい。前句の男の体を女の体の取り成すのは定石。
 こうした盛り上がりは「木のもとに」の前の二つの巻にはなかったから、やはり名作とされている一巻は違う。

無季。「物おもふ」は恋。

十四句目

   物おもふ身にもの喰へとせつかれて
 月見る顔の袖おもき露    珍碩
 (物おもふ身にもの喰へとせつかれて月見る顔の袖おもき露)

 これは恋離れの逃げ句だが、

 嘆けとて月やはものを思はする
     かこち顔なるわが涙かな
              西行法師

の歌あたりをイメージしたもの。本歌とまでは密接に寄っているわけではなく、西行の俤と言っていいだろう。「涙」と言わずに「袖おもき露」に留めた所で、次の展開が楽になる。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「顔」は人倫。「袖」は衣装。「露」は降物。

 連句を残すというのは一体何なのか、何の意味があるのか。
 談笑ならその場で言い捨てるべきことで、残すべきものではないというのが近代文学の立場だった。
 それは「真実」とは何かという根本的な問いなのだろう。
 近代文学は事実をありのままに書いたものが真実だと考えた。だが、どんな客観的に物を書いても、その題材は主観的に選択され、そこには一定の思想のバイアスがかかっている。近代文学はむしろより激しいバイアスのかかった「思想のあるもの」を良しとしてきた。
 つまり一定の思想的な見地からこれが真実だと信じて記したバイアスのかかった事実、それが文学だった。今日の十一句目ではないが「いふ事を唯一方へ落しけり」だ。

   いふ事を唯一方へ落しけり
 思想なくては成らぬ文学

とでも言うべきか。
 芭蕉の時代の人が真実だと考えてたのは、そういう近代的真実ではなかった。それは「心の花」とでも言うべきものだった。
 季節が循環するように人は生まれては死んで行き、それを果てしなく繰り返してゆく。その営みの中で真実というのは、その営みを続けてゆくための「花」と「実」だった。
 厳しい生存競争の中にあっても、つかの間の人と人とのふれあいがあり、そこで親しく談笑し、一時の平和で長閑なひと時を過ごす瞬間は何にも変えがたいものだった。
 人は戦うために生まれてきたのではないし、歴史を作るために生きているのでもない。それぞれに人が思い描く夢や野望はどんなに永久平和への情熱に溢れていたとしても、結局互いに衝突しあって終わりのない戦いの修羅の道に迷い込むことになる。
 真実だと思って記述したものも、言葉なんてどういう意味にも取れるもので、解釈によってまた争いが生じるし、人間の記憶なんてのもあやふやなものだし、時間が立てば無意識の内に自分の都合のいいように「構造化」されてゆくものだから、立場が違えば記憶もまったく違ったものになる。歴史認識は平和をもたらすどころか、いつでも戦争をもたらすばかりだ。
 そんなあいまいな「事実」の記述に血眼になった近代文学に、一体何ができただろうか。ただ分断をもたらしただけだった。文壇だけに、なんちゃって。
 大事なのは心の花だけ。それを知ってた昔の風流人は、ただ一つ、みんなが和気藹々と平和な時間を過ごした、その真実だけを書き残す。それが連歌であり俳諧だったのではなかったか。
 世界はまたそれぞれの国の相容れない歴史認識の違いから再び戦争への道を歩み始めている。風流人にできるのは、ただそんなことよりもっと大切な時間があったということを書き残すだけだ。

2017年5月10日水曜日

 「木のもとに」の巻3の続き。

四句目

   旅人の虱かき行春暮て
 はきも習はぬ太刀のひきはだ  芭蕉
 (旅人の虱かき行春暮てはきも習はぬ太刀のひきはだ)

 「ひきはだ」は革偏に背と書くが、フォントが見つからなかった。「蟇肌」とも書く。
 「ひきはだ」は山刀などを収める皮の鞘のこと。旅人が護身用に持ち歩く。「はきも習はぬ」は身に着けるのに慣れていないという意味。護身用とはいえ刀の類は物騒なので、使い慣れているよりは慣れてないほうが風流といえよう。
 芭蕉は『野ざらし紀行』の伊勢の所で「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。」と言っているから、山刀は携帯してなかった。
 『奥の細道』で山刀伐(なたぎり)峠を越える時には、「さらばと云(いふ)て人を頼待(たのみはべ)れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫(かし)の杖を携たづさへて、我々が先に立(たち)て行(ゆく)。」と護衛をつけている。

無季。

五句目

   はきも習はぬ太刀のひきはだ
 月待て假の内裏の司召(つかさめし) 珍碩
 (月待て假の内裏の司召はきも習はぬ太刀のひきはだ)

 太刀を身につけるのに慣れてない人を平安貴族とした。
 司召除目は秋除目とも呼ばれ、ネットで検索するとブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説として、

 「京官除目,秋除目ともいう。在京の官司すなわち京官 (けいかん) を任じる朝廷の儀式。 11月または 12月に行われる。地方官を任命する春の県召除目 (あがためしのじもく) に対し司召除目を秋除目といった。古代以来行われてきたが,室町時代には廃絶した。」

と出てくる。

季題は「月待ち」で秋。夜分、天象。脇の「西日」から二句隔てている。

六句目

   月待て假の内裏の司召
 籾臼つくる杣がはやわざ    曲水
 (月待て假の内裏の司召籾臼つくる杣がはやわざ)

 仮の内裏というところから田舎の舞台設定として、林業に従事する杣人がいて、籾摺る臼を簡単にさくっと作ってくれる。
 前句と言いこの句と言い、過去の王朝時代を想像して作った句でリアリティーには欠ける。まだ「軽み」の風には遠い。

季題は「籾臼」で秋。「杣」は人倫。

初裏

七句目

   籾臼つくる杣がはやわざ
 鞍置る三歳駒に秋の来て    芭蕉
 (鞍置る三歳駒に秋の来て籾臼つくる杣がはやわざ)

 馬は二歳で大人になり、三歳馬は若い盛り。日本ダービー(東京優駿)も三歳馬によって争われる。
 前句の「はやわざ」を臼を作る早業ではなく、籾臼で精米する早業と取り成し、精米した米を運び出す三歳駒を付けたのだろう。
 小学館『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』の解説に「『秘註』に三歳駒の勢いと前句の早業とは響きであるという」とある。『秘註』は『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)。
 絵空事に流れがちな俳諧を現実に引き戻すのは、蕉門確立期の芭蕉の仕事でもある。
 「木のもとに」の巻2の三十三句目に、

   能見にゆかん日よりよければ
 乗いるる二歳の駒をなでさすり  三園

の句があるが、どちらが先かは不明。あるいはこの句の影響があったか。

季題は「秋の来て」で秋。「三歳駒」は獣類。

八句目

   鞍置る三歳駒に秋の来て
 名はさまざまに降替る雨     珍碩
 (鞍置る三歳駒に秋の来て名はさまざまに降替る雨)

 雨にはいろいろな呼び方があるか、そこは工夫したのだろうけど、ただ秋が来て雨が降るという内容しかない。遣り句と見ていいだろう。
 小学館『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』の註にも、「『通旨』は、この付句を「天相」(天候)で付けた逃句だとしている。」とある。『通旨』は『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)。

無季。「雨」は降物。

九句目

   名はさまざまに降替る雨
 入込(いりごみ)に諏訪の涌湯(いでゆ)の夕ま暮 曲水
 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮名はさまざまに降替る雨)

 「入込」は雑多なものが入り混じることを言う。「混浴」という註もあるが、芭蕉の時代は混浴が普通だったから、ここでは身分や職種に関係なくいろいろな人が利用する山の中の温泉というような意味だろう。
 いろいろな地方から人が集まれば、雨の呼び方も様々だ。

無季。「諏訪」は名所。

十句目

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
 中にもせいの高き山伏     芭蕉
 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮中にもせいの高き山伏)

 これは芭蕉の得意とするあるあるネタ。こういう山の中の温泉にいくといかにもいそうな人をすかさず出してくるあたりは流石だ。
 土芳の『三冊子』「あかさうし」には、「前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」とある。

無季。「山伏」は人倫。

2017年5月8日月曜日

 何だか急に暑くなった。
 東北の方では山火事が相次いでいる。大変だ。
 フランスの方ではマクロン大統領誕生。まあ、去年ブレグジットとトランプで右に振れすぎたからバランスを取ったというところか。フランスは異邦人を歓待するが、だからといってフランス社会に溶け込めるわけでもなく、程よく異邦人になれる国だとEMシオランが言ってたと思ったが。
 ゴールデンウィークが終わってそろそろ「木のもとに」の巻3に入ろうかな。発句は省略して。



   木のもとに汁も鱠も桜かな
 西日のどかによき天気なり   珍碩
 (木のもとに汁も鱠も桜かな西日のどかによき天気なり)

 発句に対してあまり自己主張せずに穏やかに和した所は、脇句の見本なのだろう。

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
                紀友則

の心か。前句の「汁も鱠も桜かな」に花の散る様を読み取って、本歌で付けたと言っていいだろう。
 「西日」は近代では夏の季語になっているが、江戸時代では無季。

季題は「のどか」で春。「西日」は天象。

第三

   西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行春暮て    曲水
 (旅人の虱かき行春暮て西日のどかによき天気なり)

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を見ても「虱」は春にも夏にも秋にもないところを見ると、「虱」は無季と言っていいのだろう。

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

の句は「蚤」が夏になる。

 夏衣いまだ虱をとりつくさず   芭蕉

も「夏衣」という季語を別に入れている。
 前句の西日長閑な天気を花見から旅体に転じている。晩春は虱の活動の活発になる頃でもあった。ひさかたのひかりのどけき春の日も虱が出てくると思うと手放しに喜べない。今だったら花粉症のようなものか。

季題は「春暮て」で春。「虱」は虫類。「旅人」は旅体、人倫。

2017年5月7日日曜日

 浪江町の山火事が鎮火したと今朝の新聞にあったので何よりだ。
 内容はまったく違うけど言葉の続き具合がよく似ている句というのがあって、『去来抄』「同門評」には、

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆

の句が、

 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

に似ていると指摘されている。
 ここで「等類」ではないか何となく似ている句を「同巣」と呼んでいる。
 『去来抄』「修行教」には「同竈」とあり、読み方は同じ「どうそう」だから同じと見ていいが、同様の議論がある。いずれにせよ、「同じ巣の句は手柄なし。されど兄より生れ増したらんは、また手柄也。」としている。
 「先師評」では去来は、

 面梶よ明石のとまり時鳥      野水

の句を、

 野を横に馬牽きむけよほとゝぎす  芭蕉

の句と「一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主の手柄なし。」として『猿蓑』の撰の時に落選させている。
 芭蕉はこのとき、「句の働きにおゐてハ一歩も動かず。明石を取柄に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。」と言い。「明石のほととぎす」という所に一興あるなら入れるようにと言っている。」
 「同門評」には、

 蕣(あさがほ)の裏を見せけり秋の風 許六

の句でも同様の議論がある。これは、

 くずの葉の面(おもて)見せけり今朝の露 芭蕉

に似ているというのだが、この句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時の句で、「面見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。
 まあ、朝顔の句がいいなら、この句もありか。

 肉球のおもて見せけり昼寝猫

 以前「ゆきゆき亭」にアップしていた「『去来抄』を読む」を「鈴呂屋書庫」にあらためてアップしたのでよろしく。

2017年5月6日土曜日

 先月29日に福島へ行った時には帰りに雷雨になったが、家に着くころには雲も消え、三日月が見えていた。まだ新暦の四月だが旧暦ではもう四月、俳諧の世界では夏なんだなと思った。
 そういえば浪江町の山火事は昨日のニュースではまだ鎮火していないようだ。放射線量には問題はないようだが。やはりあの時の雷が原因なのかなあ、鎮火してからいろいろ原因を調べるのだろうけど。
 ゴールデンウィークは土曜出勤の暦通りで、今日も出勤。3日は横浜へ行って赤レンガ倉庫と吉田町でビールを飲み、山下公園や港の見える岡公園などの全国都市緑化よこはまフェアを見てきた。やはり花はいいね。
 昨日は久しぶりに古代東海道の旅の続きで、市川真間から柏まで歩いてきた。手児奈霊神堂には八重咲きの藤が咲いていた。

 ここはまだ春のままにて八重の藤

 今年は旧暦の夏の来るのが早く、四月に気温の低い日が続いたせいか花の咲くのが遅いから、ツツジや藤が夏に咲くことになってしまった。五月に閏月が入るというのは、芭蕉の最後の年と一緒だ。
 あと、「木の本に」の巻の①と②を鈴呂屋書庫にアップした。

2017年5月1日月曜日

 さて、最初に紹介した四十句からなる「木のもとに」の巻1は、『花はさくら』秋屋編、寛政十三年(一八〇一)刊、『十丈園筆記』天然居士編、文政年間刊、『一葉集』古学庵仏兮・幻窓湖中編、文政十年(一八二七)刊と、百年以上も後になってから発表されている。
 この中で気になるのが、『一葉集』で、

 「元禄三年三月廿七日 伊賀上野風瀑亭にて」

と前書きがあり、末尾に、

   「以下四十句
 元禄庚午の春、木のもとに汁も鱠もさくら哉の立句にて歌仙有。此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」

と記されていることだ。
 まず日付の三月二十七日だが、今日一般的には三月下旬には伊賀を離れ膳所へ行き、『ひさご』に収録されている形での「木のもとに」の巻3が作られた頃だとされている。しかし、『ひさご』には特に日付は明記されていない。
 おそらくこういう推測によるものだろう。

 1、「木のもとに」の巻3は春の発句だから当然三月までに作られているはずである。
 2、芭蕉は三月十一日に上野東郊荒木村白髭神社で「畑打つ」の巻の興行を行っている。四月六日には幻住庵に入っている。ゆえに、芭蕉はこの間に伊賀から膳所へと移ったと考えられる。
 また、芭蕉には、

 四方より花吹き入れて鳰の波
 草枕まことの華見しても来よ
 行く春や近江の人と惜しみける

といった元禄三年三月の近江で詠まれた句が存在している。ゆえに三月末までに近江に移ったのは明らかである。
 3、「木のもとに」の巻3は膳所で作られたものだから、三月十一日から三月末の間に作られたと考えられる。
 4、故に三月中旬から下旬に作られたと想定できる。

 三月二十七にというのは、それゆえ「木のもとに」の巻1ではなく、「木のもとに」の巻3の作られた日付に近いと思われる。
 それと気になるのは、「此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。」という件で、言うまでもなく「木のもとに」の巻1と「木のもとに」の巻3は発句のみしか一致してないから、「木のもとに」の巻2を念頭に置いて言っているとしか思えない。「木のもとに」の巻2は『一葉集』の三年前の文政七年(一八二四)の猪来編『蓑虫庵小集』で発表されている。そこには、「右一巻之連句ハ柳下生ノ家ニ蔵ス、乞テ世ニ披露ス」とある。
 「木のもとに」の巻1の初出は、寛政十三年(一八〇一)刊の秋屋編『花はさくら』で、その二十三年後に『蓑虫庵小集』の「木のもとに」の巻2が発表されたとき、真贋論争が起こったことは想像できる。そのさい、「木のもとに」の巻1の方は作風がもっと後の風に近いことと、四十句という半端さ、それに一の懐紙と二の懐紙で筆記者が異なるという弱点があった。
 そこで、こちらのほうは確かに真偽不明だがとことわった上で、「然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」再提起したのではなかったか。
 どっちが本物により近いかといわれれば、おそらく「木のもとに」の巻2の方であろう。こちらの方が三月二日からそう遠くない日に作られた可能性が高い。だからこそ、あえてそれより後の三月二十七日という日付を入れたのではなかったか。