2021年4月30日金曜日

  前に貞享四年熱田での「磨なをす」の巻六句目の

   あきくれて月なき岡のひとつ家
 杖にもらひしたうきびのから   桐葉

の所で「とうきび」を何気なくトウモロコシのこととしてしまったが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 植物「とうもろこし(玉蜀黍)」の異名。《季・秋》 〔羅葡日辞書(1595)〕
  ※寒山落木〈正岡子規〉明治二七年(1894)秋「唐黍に背中うたるる湯あみ哉」
  ② 植物「もろこし(蜀黍)」の異名。
  ※俳諧・類船集(1676)土「蜀黍(タウキビ)の穂は土用に出ねはよからぬと農人のいひならはせり」

とある。
 杖にできる程の強度があって黍殻として利用されるのは②の蜀黍、近代ではコウリャンと呼ばれてきたものと考えた方がいい。
 『春の日』の秋の発句に、

   待恋
 こぬ殿を唐黍高し見おろさん    荷兮

の句がある。コウリャンは高さが三メートルにもなるというので、どれだけ高い所から見下ろすのか。
 また、コウリャンから箒が作られるため箒草とも呼ばれていて、これも箒木と紛らわしい。
 あと、鈴呂屋書庫の方に今まで読んだ『桃青三百韻 附両吟二百韻』『俳諧次韻』『冬の日』『春の日』をひとまとめにして見たのでよろしく。

 それでは「疇道や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   薄雪たはむすすき痩たり
 藤垣の窓に紙燭を挟をき     珍碩

 「藤垣の窓」は『芭蕉七部集』の中村注に、

 「藤蔓で竹や木を結び絡げた窓」とある。書院の窓であろう。外の雪景色を紙燭で照らして楽しむ。
 二十六句目。

   藤垣の窓に紙燭を挟をき
 口上果ぬいにざまの時宜     正秀

 立派な屋敷の玄関であろう。窓に紙燭を灯したまま客の退出するときの挨拶のやり取りが延々と続く。武家ではよくあることなのだろう。
 二十七句目。

   口上果ぬいにざまの時宜
 たふとげに小判かぞふる革袴   珍碩

 革袴はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「なめした革でつくった袴。革は行縢(むかばき)をつくる材料であろう。上杉謙信(うえすぎけんしん)や織田信長の革の裁着(たっつけ)が現存しているので、戦国時代から盛んに利用されたことがわかる。後世はまたぎの狩猟用として用いられた。[遠藤 武]」

とある。日本皮革産業連合会のサイトの「皮革用語辞典」には、

 「江戸時代の中期頃から職人、労働用として庶民にも伊賀立付が使用されるようになり、一部が革ぱっち、革の伊賀はかまとして製作されるようになった。」

とある。伊賀の職人に何やら重要な仕事を依頼したのだろう。
 二十八句目。

   たふとげに小判かぞふる革袴
 秋入初る肥後の隈本       正秀

 肥後の穂増(ほまし)と呼ばれる米はウィキペディアに、

 「穂増(ほまし)は、イネ(稲)の品種の一つであり、江戸時代に栽培されていた古代米(こだいまい)である。熊本県で盛んに栽培された熊本在来種であり、江戸時代に熊本を中⼼に、九州⼀円で栽培され大阪堂島米会所で天下第一の米と称されていた。」

 「将軍の御供米(おくま、神仏に捧げるお米)にはこのお米が用いられ、大坂では千両役者や横綱へのお祝い米として「肥後米進上」という立札をつけて贈られていた。市場でひろく流通していた有名な米だったが、平民の間でも寿司米として⼤切に扱われ「肥後米に匹敵する米はない」と言われるほど、高い評価を受けていた。その後「西の肥後米、東の加賀米」と称されるようになり肥後米は、⽇本の米相場を左右するほど多くの人々に食べられるようになった。」

とある。元禄七年の「牛流す」の巻三十四句目に、

   吸物で座敷の客を立せたる
 肥後の相場を又聞てこい     芭蕉

の句があるように、肥後の米相場は全国の米相場を判断する意味で重要だったのだろう。
 前句の革袴を履いて馬で長いこと走ってきた武士とする。おそらく将軍家の使いであろう。肥後の穂増を買い付けに来た。
 二十九句目。

   秋入初る肥後の隈本
 幾日路も苫で月見る役者舩    珍碩

 江戸や上方では常設の劇場があったが、地方では芝居というと田舎わたらいする旅芸人の集団によって担われていた。
 肥後熊本で興行ということになると、船に乗って何日もかけて移動したのだろう。
 三十句目。

   幾日路も苫で月見る役者舩
 寸布子ひとつ夜寒也けり     正秀

 布子(ぬのこ)は木綿の綿入れ。防寒着ではあるが一枚だけでは寒い。
 二裏。
 三十一句目。

   寸布子ひとつ夜寒也けり
 沢山に兀め兀めと吃られて    珍碩

 「沢山に」は『芭蕉七部集』の中村注に「えらそうに」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の、

 「③ 必要以上に多すぎること。転じて、大事にしないこと。また、そのさま。粗略。ぞんざい。
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「竹の子を根引にしてたくさんにもてあつかう事、惜しき事ぢゃ」

の意味であろう。
 「兀め」は「はげめ」、「吃られて」は「しかられて」。
 丁稚だか下男だか、虐げられ、木綿の綿入れ一つで夜を過ごす。
 三十二句目

   沢山に兀め兀めと吃られて
 呼ありけども猫は帰らず     正秀

 猫嫌いの夫がこれでもかと𠮟りつけて猫を追い出してしまったのだろう。嵐雪か。前句を「禿め」と取り成す。
 三十三句目

   呼ありけども猫は帰らず
 子規御小人町の雨あがり     珍碩

 ウィキペディアの「五役」のところに、

 「五役(ごやく)は、江戸幕府における職制。御駕籠之者(おかごのもの)・御中間(おちゅうげん)・御小人(おこびと)・黒鍬之者(くろくわのもの)・御掃除之者(おそうじのもの)の5つの総称である。」

とあり、御小人(おこびと)については、

 「江戸城中の女中や奥役人が出入りする際の供奉や玄関・中之口などの警備、御使や物品の運搬などを職務とした者。単に小人とも呼ばれる。15俵1人扶持だが、三河以来の家柄18家の場合は35俵2人扶持や32俵1人扶持であった。総数は500名ほど[9]。将軍の装束御成りの際には、10数人が選ばれ、2人交替で御馬の口取りも行った。熨斗目に白張を着用し烏帽子を冠って、将軍の手筒や蓑箱などを持ち、亀井坊1人・馬験(うまじるし)5人・長刀7人・小道具20人・賄6人・草履方10人・日傘持1人が随行した。」

とある。
 この御小人(おこびと)の住んでいる町で、どこの城下町にもあったのだろう。江戸だと本郷に御小人町があった。荒くれ者の多そうな町だ。
 ホトトギスは雨あがりに鳴いても猫は帰ってこない。
 三十四句目

   子規御小人町の雨あがり
 やしほの楓木の芽萌立      正秀

 「やしほ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「幾度も染め汁に浸して、よく染めること。また、その染めた物。
  出典万葉集 二六二三
  「紅(くれなゐ)のやしほの衣」
  [訳] 紅色のよく染めた衣服。◆「や」は多い意、「しほ」は布を染め汁に浸す度数を表す接尾語。上代語。」

とある。
 ホトトギスも鳴く晩春、秋に真っ赤に染まる楓も今が春雨に芽吹く頃。
 三十五句目

   やしほの楓木の芽萌立
 散花に雪踏挽づる音ありて    珍碩

 雪駄はウィキペディアに、

 「諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くためや、下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれている。主に茶人や風流人が用いるものとされた。」

とある。
 花に楓と風流人の庭であろう。
 挙句

   散花に雪踏挽づる音ありて
 北野の馬場にもゆるかげろふ   正秀

 北野天満宮の近くにあった右近の馬場で『伊勢物語』の第九十九段の舞台になっている。雪駄の音に、

 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは
     あやなく今日や眺め暮さん

の歌を詠んだ在原業平の幻を見て、一巻は目出度く終わる。

2021年4月29日木曜日

 今日は昭和の日ということでラジオは一日昭和の古い曲を流していた。
 ブルームバーグの報道でEUが日本へ約5230万回分が輸出したという報道があって、一部でそのワクチンは一体どこへ行ってるんだみたいなことになっていたが、政府は五月中に約4400万回分のワクチンを確保したと発表している。5230万回分というのはファイザー社側の一回の注射器で6回として計算した数字で、日本は5回で計算していると考えれば、5230万÷6×5で約4358万、大体計算は合う。ワクチンの輸入は順調だと見ていいだろう。
 問題は去年の給付金の時もそうだったが自治体の負担が大きくて、そちらの方で停滞していることにあるのではないかと思う。
 昨日のヒッポの話の続きだが、テープをただ聞いているだけで外国語を自然習得できるというアイデアは、未解決の問題が多いということだ。大きく分けると二つの問題がある。
 おそらく多言語に限らず他のラボ活動やテープを聞くだけと銘打っている学習教材でも、1パーセントぐらいの人には効果が出ているが、なかなかそれ以上にならないということ。
 あと、効果が出た人でも4歳児の壁をなかなか超えられないというところだ。
 四歳児の壁は二重の意味がある。ヒッポでも三歳までは片言の外国語を喋るようになるが、四歳を過ぎるとそれがあっという間に消えるという現象が起こる。この間まで言えていた外国語が急に言えなくなる。それと引き換えに日本語の能力が飛躍的に向上し、完全に日本語のネイティブスピーカーとして完成されてゆく。
 もう一つの四歳児の壁は、大人で外国語をある程度喋れるようになった人も、自然習得だけでは三歳児レベルの会話で停滞してそこから先へ進めないという現象だ。
 おそらく三歳児と四歳児の間に何らかの生得的な言語学習プログラムが働くのではないかと思う。それは通常発達の過程で一回限り起こるものだが、十歳くらいまではなんとか再起動可能で、そこから先は急に困難になる。
 大人になってからでもある程度の期間外国に滞在すると、不完全ながらも言語の習得は可能になる。だからある程度脳には可塑性があるとは思う。問題なのは国内の言語環境の中でそれを再起動することが困難なのと、そのメカニズムそのものがわかってないことだ。
 脳科学がもっと進めば、いずれは解明される日が来るかもしれないし、それを解明できた人はそのプログラムを使った教材で大儲けできるだろう。筆者ももっと若かったなら挑戦する価値はあると思っている。それだけにあの時のヒッポが科学を捨てて神秘主義に走ってしまったのは残念でならない。

 それでは「疇道や」の巻の続き。

 十三句目。

   狐の恐る弓かりにやる
 月氷る師走の空の銀河      正秀

 師走の寒い夜は薬食いというわけだ。
 十四句目。

   月氷る師走の空の銀河
 無理に居たる膳も進まず     珍碩

 「居たる」は「すゑたる」。
 冬は寒暖差で体調不良に陥りがちで、なかなか食の進まぬまま夜も更けてゆく。
 十五句目。

   無理に居たる膳も進まず
 いらぬとて大脇指も打くれて   正秀

 大脇指はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 刃わたりが一尺七寸(約五〇センチメートル)から一尺九寸(約六〇センチメートル)までの長大な脇差。江戸時代には、表向き大刀を差せない町人なども用いた。長脇差。
  ※甲陽軍鑑(17C初)品四七「被官も大脇指(ワキザシ)をぬき、ふりながらむこくにかけいづる」

とある。元禄三年六月で『猿蓑』に収録された「市中は」の巻六句目に、

   此筋は銀も見しらず不自由さよ
 ただとひやうしに長き脇指    去来

の句がある。
 突拍子もないほど長い脇指は、その筋の人と思われるが、普通の長脇指はかたぎの商人であろう。この頃体調もすぐれず、隠居を決意する。
 十六句目。

   いらぬとて大脇指も打くれて
 独ある子も矮鶏に替ける     珍碩

 「矮鶏」はチャボ。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「鶏の小形品種の総称。尾羽が直立し、脚は短い。愛玩用。ウズラチャボ・カツラチャボ・ミノヒキチャボなど。名は原産地のインドシナのチャンパーにちなむ。天然記念物。
  [補説]「矮鶏」とも書く。」

とある。
 御隠居さんは息子の世話にならずにチャボを飼って暮らす。
 背後に愛玩動物としてのチャボの市場拡大があり、ブリーダーとして生計を立てるということか。
 十七句目。

   独ある子も矮鶏に替ける
 江戸酒を花咲度に恋しがり    正秀

 関西では精米歩合の高い透き通った酒が主流で、江戸では精米歩合の低い黄色い酒が主流だったのだろう。チャボの飼育も江戸の方が盛んだったのか。
 十八句目。

   江戸酒を花咲度に恋しがり
 あいの山弾春の入逢       正秀

 「あいの山」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注に、

 「間の山。伊勢内外宮の間の山。昔この地の乞食の歌い初めた相の山節のこと。」

とある。
 延宝六の「さぞな都」の巻の八十九句目にも、

   我等が為の守武菩提
 音楽の小弓三線あいの山     信徳

の句がある。ウィキペディアには、

 「伊勢参道筋の間の山でお杉、お玉という2人の女性が三味線を弾き、伊勢参りの人々に歌を歌い、銭を乞い求めた。「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。(相手)夕あしたの鐘の声、寂滅為楽と響けども、聞きて驚く人もなし」という哀調を帯びた歌詞が土地の民謡となり、また都でも流行した。「嬉遊笑覧」には、「今も浄瑠璃に加はりて、間の山といふ音節残れり」、「古市も間の山の内にて、間の山ぶしをうたひしものなるに、物あはれなる節なる故、いつの頃よりかうつりて、川崎音頭流行して、これを伊勢音頭と称し、都鄙ともに華巷のうたひものとなれり」とある。」

とあり、『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、「ささら・胡弓・三味線と用いる」とある。『嬉遊笑覧』は喜多村信節著で文政十三年(一八三〇年)刊。百五十年後の情報。
 「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。」の歌詞を故郷の江戸を思いながらしみじみと唄う。
 二表。
 十九句目。

   あいの山弾春の入逢
 雲雀啼里は厩糞かき散し     珍碩

 「厩糞」は「まやこえ」と読む。コトバンクでは「うまやごえ」とあるが、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 家畜小屋の敷きわらと家畜の糞尿とを混ぜて腐らせてつくった肥料。
  ※耕稼春秋(1707)四「侍屋敷馬屋ごえは大形其百姓、又はぬかわら等入百姓取もの也」

とある。伊勢近郊のありふれた風景なのだろう。
 二十句目。

   雲雀啼里は厩糞かき散し
 火を吹て居る禅門の祖父     正秀

 「祖父」はここでは「ぢぢ」と読む。「禅門」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 禅宗の法門。また、禅宗。
  ※観智院本唐大和上東征伝(779)「其父先就楊州大雲寺智満禅師受レ戒、学二禅門一」
  ② 禅定(ぜんじょう)の門にはいったものの意で、仏門にはいった男子をいう。在家(ざいけ)のままで、髪をそり、僧の姿となった居士(こじ)。入道(にゅうどう)。
  ※古事談(1212‐15頃)一「白川院礼部禅門事を、鳥羽院に令二語申一給云」
  ※浮世草子・好色一代女(1686)五「上長者町にさる御隠居のぜんもん様」 〔梁高僧伝〕
  ③ 乞食(こじき)をいう語。〔物類称呼(1775)〕」

とある。ここでは②の意味。自炊している。
 二十一句目。

   火を吹て居る禅門の祖父
 本堂はまだ荒壁のはしら組    珍碩

 前句の禅門を①の意味にして、本堂を立て直しているから、今は仮住まいで自炊しているとした。
 二十二句目。

   本堂はまだ荒壁のはしら組
 羅綾の袂しぼり給ひぬ      正秀

 「羅綾(らりょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 うすぎぬとあやおり。また、上等の美しい衣服。
  ※玉造小町子壮衰書(10C後)「錦繍之服数満二蘭閨之裏一。羅綾之衣多余二桂殿之間一」
  ※謡曲・嵐山(1520頃)「神楽の鼓、声澄みて、羅綾の袂を飜し飜す」 〔劉峻‐登郁洲山望海詩〕」

とある。
 イメージとしては中国の後宮か仙女であろう。ここでは楊貴妃の仙境で涙する「玉容寂寞涙闌干 梨花一枝春帯雨」の場面であろう。その頃玄宗皇帝は仮の王宮で暮らしていた。
 二十三句目。

   羅綾の袂しぼり給ひぬ
 歯を痛人の姿を絵に書て     珍碩

 「西施の顰(ひそみ)に倣う」からの発想であろう。美人なら歯を痛めて涙する姿も美しいと絵に描く。
 二十四句目。

   歯を痛人の姿を絵に書て
 薄雪たはむすすき痩たり     正秀

 前句の「歯を痛(いたむ)人」を老人として、白髪あたまで歯の痛みにうずくまる姿が薄雪にたわむ薄のようだ。

2021年4月28日水曜日

 『もう一つの万葉集』の作者が亡くなったというニュースがあった。正直言ってこの本はまともに読んだことがないし、著者の名前もとっくに忘れていた。
 あの頃ちょうど藤村由香の『人麻呂の暗号』がベストセラーになっていて、そのブームに便乗した類似本という感じがした。
 藤村由香の『人麻呂の暗号』は古代文学に東アジアの視点をもたらしたという点では画期的だったし、あそこに描かれた人麻呂像は梅原猛の『水底の歌』の延長線上に位置づけることができた。
 戦前の歴史では壬申の乱のことなどが抹消されていて、万葉の時代は平和な一種のユートピアであったかのように美化され、『万葉集』が日本の心とされていた。
 『人麻呂の暗号』に刺激され、すぐにヒッポファミリークラブに入り、実際に藤村由香の四人にも合うことができた。ただ、ヒッポの方は、今はどうなっているか知らないが、あの頃ちょっとした成功にすっかり舞い上がっていて、その創始者が五母音の神秘主義に走ったのでやめた。多言語の同時習得もアイデアとしては面白かったが、解決しなくてはならない難しい問題が多くて、まあ自分の手に余る問題だった。
 万葉の時代は当然ながら日本国内でも言語は統一されてなかったし、いわゆる標準語のようなものは存在しなかったから、多言語環境だったことは間違いないだろう。それは隣の半島でも一緒だったと思う。
 いわゆる弥生人の末裔と百済(ペクジェ)や高句麗(コグリョ)の言語はわりかし似てたんではないかと思う。だから帰化人はそんなに言語に苦労はしなかったし、『万葉集』の古体と言われる表記は実際にどちらでも読めたのではないかと思う。それは漢文が北京人でも広東人でも読めるようなものだと思う。
 万葉仮名と言われる新体の表記は、当時の宮廷の言葉を反映してたと思う。そしてそれが基礎になってやがて雅語が形成された。
 あの半島の方はやがて新羅(シルラ)の言葉が優勢になり、日本語と韓国語の差になって行ったのだと思う。

 それでは引き続き『ひさご』の歌仙で、次は正秀・珍碩両吟の「疇(あぜ)道や」の巻を読んでみようと思う。芭蕉が参加してないので『校本芭蕉全集 第四巻』にはなく、『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注だけが頼りだ。
 「田野」というタイトルが作られている。
 発句は、

 疇道や苗代時の角大師      正秀

 角大師(つのだいし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 元三(がんざん)大師良源の画像。
  ② (元三大師のおそろしい容貌をかたどったものという) 二本の角のある黒い鬼の形をした絵や刷り物で、魔よけの護符としたもの。門口にはったり、害虫よけとして竹などにはさんで田のあぜに立てたりした。《季・新年》

  ※俳諧・続山の井(1667)春上「元三会の心を 守れ猶今年のうしの角大師〈正好〉」
  ③ (②の像の頭に似ているところから) 男児の髪の結い方。うなじと前後、左右の五か所を結んだもの。転じて、それを結うくらいの小児。」

とある。
 ここでは②の意味で、「苗代時の畦道に角大師や」の倒置になる。特に興行開始の挨拶の寓意はなさそうだ。
 正秀はウィキペディアに、

 「明暦3年(1657年)、近江国膳所に生まれ、代々正秀を名乗った。遠藤曰人が記した「蕉門諸生全傳」において「正秀は膳所の町人伊勢屋孫右衛門」と伝えているが、中村光久が編んだ「俳林小傳」では「膳所藩中物頭、曲翠の伯父なり」とある。正秀死去後編された正秀追悼集「水の友」の序文より考えれば、膳所藩内で相当重い地位を占めていたと考えられる。」

とある。武家なら正秀という「名乗り」があってもおかしくない。芭蕉も伊賀藤堂藩時代は宗房を名乗っていたように、江戸時代前期ではは俳号ではなく名乗りを使うことも多かったが、この時代となると少数派になる。
 脇は、

   疇道や苗代時の角大師
 明れば霞む野鼠の顔       珍碩

 春なので朝霞で受けるが、角大師も何のそのと野鼠が姿を現す。
 第三。

   明れば霞む野鼠の顔
 觜ぶとのわやくに鳴し春の空   珍碩

 「觜ぶと」はハシブトカラスのことか。野鼠を食べてくれる。「わやく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (形動) (「おうわく(枉惑)」の変化した語)
  ① 道理に合わないこと。無理を言ったりしたりすること。また、そのさま。無茶。非道。わわく。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ワヤクモノ、または、Vayacuna(ワヤクナ) モノ」
  ※咄本・醒睡笑(1628)四「侍ほどの人料足なくは、くふまじきにてこそあらんめ。とかくわやくなり」
  ② 聞きわけがないこと。わがままであること。また、そのさま。
  ※歌舞伎・阿闍世太子倭姿(1694)一「わやくをおっしゃる時が有」
  ※寝耳鉄砲(1891)〈幸田露伴〉三〇「わやくも遠慮なしに仰せらるるものの」
  ③ 悪ふざけをすること。いたずらをすること。また、そのさま。
  ※評判記・色道大鏡(1678)五「又隣家・町内・遠類なとの内に、それしゃのわやくなるありて」

とある。傍若無人といったところか。空で野鼠がいたぞと鳴き交わしている。
 四句目。

   觜ぶとのわやくに鳴し春の空
 かまゑおかしき門口の文字    正秀

 カラスがカアカアうるさい中、下界には一風変わった門構えの家があり、門に何か書いてある。
 五句目。

   かまゑおかしき門口の文字
 月影に利休の家を鼻に懸     正秀

 変な門が建っていると思ったら、どの千家か知らないがその家柄を自慢する茶人の家だった。
 六句目。

   月影に利休の家を鼻に懸
 度々芋をもらはるるなり     珍碩

 千家の茶人は芋が好物だったのだろう、名月に関係なく度々芋を貰っている。『徒然草』第六十段の芋頭の好きな盛親僧都が思い浮かぶ。
 初裏。
 七句目。

   度々芋をもらはるるなり
 虫は皆つづれつづれと鳴やらむ  正秀
 ツヅレサセコオロギであろう。延宝九年の『俳諧次韻』の「世に有て」の巻八十句目にも、

   侘竈に蛬の音をしのぶ成ル
 足袋さす宿に風霜を待      桃青

の句がある。「足袋さす」は「蛬(こおろぎ)」の「綴れ刺せ(繕え)」から導いている。
 ツヅレサセコオロギの名の由来はウィキペディアに、

 「一見すると奇妙な名前であるが、これは「綴れ刺せ蟋蟀」の意である。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来する。」

とある。
 芋を貰ってとりあえず食べるものを確保したら、コオロギが「綴れ刺せ」と次は衣類を整えろという。
 八句目。

   虫は皆つづれつづれと鳴やらむ
 片足片足の木履たづぬる     珍碩

 「片足」は「かたし」と読む。
 木履(ぼくり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 木製の履物。〔羅葡日辞書(1595)〕 〔貫休‐思匡山賈匡詩〕
  ② あしだ。高下駄。
  ※甲陽軍鑑(17C初)品四〇下「ぼくりはく人ぬぎたらば、あなたは草履をぬぎ」
  ③ =ぼっくり(木履)
  ※いさなとり(1891)〈幸田露伴〉一「天鵞絨の鼻緒ついたる木履(ボクリ)穿きつつ」

とある。服もボロボロで、虫に「綴れ」と言われ、下駄も片方がどこへ行ったか分からない。
 九句目。

   片足片足の木履たづぬる
 誓文を百もたてたる別路に    正秀

 誓文はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 神にかけて誓約する文言。誓約のことばやそれを書きしるした文。誓詞。
  ※発心集(1216頃か)二「相真が弟子ども誓文(セイモン)をなむ書きてぞ送りたりける」
  ※天草本平家(1592)三「ヨリトモ カラ モ xeimon(セイモン) ヲモッテ」
  ② 相愛の男女が互いに心変わりしないことを誓ってとりかわす文書。多く遊女と客の間でかわされた起請文。誓詞。
  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「背給ふまじとの御誓文(セイモン)のうへにて、とてもの事に二世迄の契」
  ③ (副詞的に用いて) 神に誓って、そのとおりであること。まちがいないこと。
  ※天理本狂言・遣子(室町末‐近世初)「たがひにちがへぬやうにせいもんでまいらうと云」
  ※浄瑠璃・女殺油地獄(1721)上「わしが心はせいもんかうじゃと、ひったりだきよせしみじみささやく色こそ見えね河与が悦喜」

とある。この場合は②で恋に転じる。
 百回も誓文を立てるのは誇張だとしても、軽すぎる。そういう軽々しいところが嫌われたのだろう。下駄も脱ぎ散らかしたままで、片方を探しながら店を出て行く。
 十句目。

   誓文を百もたてたる別路に
 なみだばみけり供の侍      珍碩

 ここでは逆に百回の誓文の甲斐もなくふられた男は、たいそうな身分だったのだろう。お伴の侍に同情される。
 十一句目。

   なみだばみけり供の侍
 須磨はまた物不自由なる臺所   正秀

 須磨は古代の配流の地で、『源氏物語』でも源氏の君は須磨で隠棲している。
 『源氏物語』の須磨巻では源氏の君が七弦琴を掻き鳴らして、

 恋ひわびてなくねにまがふ浦波は
     思ふかたよりかぜやふくらん

と歌うと、

 「人人おどろきて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなうおきゐつつ、はなを忍びやかにかみわたす。」
 (お仕えしている者たちもその見事な演奏と歌に感動しつつも悲しみを堪えきれず、そのまま起きてしばらくの間、涙に鼻をかんでいました。)

ということになる。
 ただ、ここでは武士の時代のこととして、台所に困るという所で落ちにする。台所は台所事情というように、金銭のやりくりを意味する。
 十二句目。

   須磨はまた物不自由なる臺所
 狐の恐る弓かりにやる      珍碩

 「狐の恐る弓」は妖狐玉藻前が弓で仕留められたことによるものか。九尾の狐すら恐れる弓で狩に出て、食物の不足を補う。
 肉食は仏教の影響で戒められていたが、冬には薬食いと称してシカやイノシシを食べた、下層の者は犬を食うこともあったようだ。幕末の寺門静軒の『江戸繁盛記』では狐も売られていたという。

2021年4月27日火曜日

 今の日本の敗因は結局秋の感染者が停滞した時期が長かったにもかかわらず、そこで次の波に備えて準備することを怠って、元の日常に戻そうとしてしまったことだ。
 再度の緊急事態宣言発令もワクチン接種も何か月も前から予想できてたのに、今になって「いきなり言われても」なんて報道をしている。草が生える。
 コロナ下で人との接触が減ると、相互に妥協し合いながら社会を円滑に保つ努力が失われ、社会全体が暴力的に殺気立ってくる。それを防ぐのは思想ではなく娯楽の力だ。みんなが笑ったり泣いたりできるものを提供することが、今の世界では最大の正義なのではないかと思う。
 大衆扇動の基本は怒らせることにある。怒って理性を失わせて感情に任せて暴れたがってる奴らにその口実を与える。それが大衆扇動の基本だ。怒りを煽るメッセージは無視しよう。
 怒って社会全体に暴力がはびこると、喜ぶのはその暴力をもっと大きな暴力で押さえつけることのできる、いわゆる独裁者たちだ。
 荒くれ者を手なずける時には、相手を挑発して怒らせて、殴りかかってきたところを力づくでねじ伏せて服従させる。大衆扇動も基本的には同じ原理だ。
 怒るな、笑え。鈴呂屋は平和に賛成します。
 それでは「いろいろの」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   蕎麦真白に山の胴中
 うどんうつ里のはづれの月の影  荷兮

 蕎麦にうどんと違えて付ける。麦を作る里も外れに行けば蕎麦畑に変わる。
 二十六句目。

   うどんうつ里のはづれの月の影
 すもももつ子のみな裸むし    越人

 田舎の子どもは夏になると皆裸。すももを勝手に食べたりしている。
 二十七句目。

   すもももつ子のみな裸むし
 めづらしやまゆ烹也と立どまり  荷兮

 夏の村は養蚕の盛んなところで、眉を煮ているところを見つけ、子供たちも立ち止まる。さなぎを貰って食べたりしたのか。
 二十八句目。

   めづらしやまゆ烹也と立どまり
 文殊の知恵も槃特が愚痴     越人

 「槃特」は周梨槃特(しゅりはんどく)でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「(Cūḍapanthaka) 釈尊の弟子の一人。兄の摩迦槃特が聰明だったのに比し、非常に愚鈍であったが、仏の教えにより後に大悟したという。十六羅漢の一人。半託迦、般陀、般兎などとも称する。しゅりはんどく。転じて、愚か者。ばか者。
  ※方丈記(1212)「わづかに周利槃特が行にだに及ばず」

とある。
 『校本芭蕉全集 第四巻』には謡曲『卒塔婆小町』の、

 提婆が悪も、観音の慈悲。 槃特が愚痴も、文殊の智慧。 悪といふも、善なり。煩悩といふも、菩提なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.43255-43267). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。「槃特が愚痴も、文殊の智慧。」だと槃特も最後は大悟するの意味だが、ひっくり返して「文殊の知恵も槃特が愚痴」とすると、文殊菩薩も救われないという意味になる。
 繭を煮る作業が終わり、さなぎが取り出されてやっと殺生だということに気付く。
 二十九句目。

   文殊の知恵も槃特が愚痴
 なれ加減又とは出来ジひしほ味噌 荷兮

 「ひしほ」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「なめみその一種。味噌や醤油の祖型。炒(い)ってひき割ったダイズと水に浸した小麦で麹(こうじ)を作り,これに食塩水を入れ,さらに塩漬したナスなどを加えて仕込み,数ヵ月の熟成期間を経て食用。なお古くは魚鳥の肉の塩漬,塩辛も醤と称した。」

とある。
 漬けておいた野菜が絶妙な柔らかさになる頃合いが難しく、タイミングを逃すと文殊の知恵も槃特が愚痴に変わる。
 三十句目。

   なれ加減又とは出来ジひしほ味噌
 何ともせぬに落る釣棚      越人

 なぜだかわからないが棚が落ちて、われたひしほ味噌の壺から野菜を取り出したら、まさに絶妙の加減だった。これは奇跡だ。
 二裏。
 三十一句目。

   何ともせぬに落る釣棚
 しのぶ夜のおかしうなりて笑出ス 荷兮

 バレないようにこっそりと夜這いに来たが、急に棚が落ちて笑ってバレてしまう。
 三十二句目。

   しのぶ夜のおかしうなりて笑出ス
 逢ふより顔を見ぬ別して     荷兮

 『源氏物語』の末摘花であろう。後で顔を知って、若紫とそれを茶化して笑ったりする。元ネタそのままなので本説付けになる。
 三十三句目。

   逢ふより顔を見ぬ別して
 汗の香をかかえて衣をとり残し  越人

 これも『源氏物語』の空蝉。源氏の君がくんくんしていつまでも持ってたりする。同じく本説付け。同じ源氏でも別の場面なら三句に渡ることができる。
 三十四句目。

   汗の香をかかえて衣をとり残し
 しきりに雨はうちあけてふる   越人

 「うちあく」は中に入っているものを出すという意味もあり、この場合は「ぶちまける」というのが近いか。
 裸で作業をしていて急に雨が降ってきたから服を置いてきてしまった。
 三十五句目。

   しきりに雨はうちあけてふる
 花ざかり又百人の膳立に     荷兮

 謡曲『熊野』の俤であろう。花見をお膳立てする方は大変だが、その一方で救われる人もいる。
 挙句。

   花ざかり又百人の膳立に
 春は旅ともおもはざる旅     荷兮

 参勤交代であろう。毎日同じ顔を見ながらの旅は旅をした気がしない。 

2021年4月26日月曜日

  今日は旧暦三月十五日。満月は明日だという。まだ春は続く。
 コロナの方は死者が一万人を越えた。今は三月の少なかった時期の死者で感染者の割には少なく見えるけど、五月には一気に増える。
 インドは大変なことになっているが二重変異ウイルスのせいだとすると、既にそれは日本に入ってきている。筋少ではないが日本印度化計画だけはやめてくれ。

 それでは「いろいろの」の巻の続き。

 十三句目。

   念仏申ておがむみづがき
 こしらえし薬もうれず年の暮   珍碩

 作った薬を売り歩いたがなかなか売れず一年がもうすぐ終わる。このままだと借りた金も返せない。神頼みになる。珍碩も医者だったが、こういう生活をしていたか。
 十四句目。

   こしらえし薬もうれず年の暮
 庄野の里の犬におどされ     珍碩

 東海道の庄野宿であろう。四日市から鈴鹿越えの道に入る途中の亀山の手前にある。
 薬を伊勢の方に売りに行ったが途中で犬に吠えられる。犬も怪しい奴だと思ったのだろう。
 十五句目。

   庄野の里の犬におどされ
 旅姿稚き人の嫗つれて      路通

 東海道はいろいろな人が通り、嫗が付き添う子供も旅する。お伊勢参りだろうか。子供が犬に吠えられる。
 十六句目。

   旅姿稚き人の嫗つれて
 花はあかいよ月は朧夜      路通

 当時の桜は山桜で白く、ここでは花が「赤い」ではなく「明い」であろう。朧ながらも月の光に照らされている。
 十七句目。

   花はあかいよ月は朧夜
 しほのさす縁の下迄和日なり   珍碩

 「和日」は「うらら」と読むらしい。原書にルビはない。『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)による。
 海辺か河口域の水上に張り出した茶店か何かだろう。縁の下まで潮が満ちてくるが、波は静かで花に月も揃う。
 十八句目。

   しほのさす縁の下迄和日なり
 生鯛あがる浦の春哉       珍碩

 浪も穏やかな縁側で新鮮な鯛も上がってきて、目出度く半歌仙は終わるという雰囲気だ。多分その予定だったのだろう。このあと美濃の二人が続きを作って歌仙にする。
 二表。
 十九句目。

   生鯛あがる浦の春哉
 此村の広きに医者のなかりけり  荷兮

 鯛の上がる漁村は広いけど医者はいない。「けり」で切れているけど発句の体ではない。一句としては、医者がないから何なのかと何か続く感じが残るあたりが付け句の体になっている。
 ちなみに荷兮は医者。珍碩も医者で、蕉門は医者が多い。
 二十句目。

   此村の広きに医者のなかりけり
 そろばんをけばものしりといふ  越人

 医者がいない村では、算盤ができるというだけで物知りと言われる。
 二十一句目。

   そろばんをけばものしりといふ
 かはらざる世を退屈もせずに過  荷兮

 無学でもこの世を楽しむことを知っていれば、他に何もいらない。ある種それも悟りの境地だ。
 二十二句目。

   かはらざる世を退屈もせずに過
 また泣出す酒のさめぎは     越人

 酒を飲むと泣き出すなら泣き上戸だが、醒め際に泣くのは一見のほほんと生きているようで、いろいろな人の悲しみを知り尽くした人なのだろう。
 二十三句目。

   また泣出す酒のさめぎは
 ながめやる秋の夕ぞだだびろき  荷兮

 だだびろき、というのは海辺の景色だろう。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮
              藤原定家(新古今集)

の心で、辺鄙なところに流された在原行平のような境遇なのだろう。酔いが醒めて現実に引き戻されると涙が出てくる。
 二十四句目。

   ながめやる秋の夕ぞだだびろき
 蕎麦真白に山の胴中       越人

 前句の「だだひろき」を山の中腹の一面の蕎麦畑とする。

2021年4月25日日曜日

  コロナの方はどうやら大阪の方はピークアウトしそうだ。東京はまだ増加のペースが収まらない。長い戦いになりそうだが頑張ろう。

 それではまだ春は続くので、春の俳諧を読んでみようと思う。
 今回は元禄三年刊珍碩編『ひさご』に収録された「いろいろの」の巻。芭蕉は脇のみの参加で、あと所の懐紙は珍碩と路通の両吟、二の懐紙は荷兮と越人の両吟になっている。
 発句は、

 いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩

 「むつかし」は煩わしい、面倒くさいというような意味で、今でいう難しいではない。
 まあ、春の草と言ってもいろいろなものがあるが、面倒なのでとりあえず春の草と言っておく。細かいことにこだわるな、春が来ていろいろな草が萌え出てそれだけで十分じゃないか、そういう句だ。
 脇は芭蕉が付ける。

   いろいろの名もむつかしや春の草
 うたれて蝶の夢はさめぬる    芭蕉

 「うたれて」は「畑打つ」という言葉があるように、耕すので春の草が打たれてという意味。蝶が打たれるのではない。春の草が打たれて、蝶は叩き起こされて夢から醒めたように飛び回る。
 『三冊子』を読んだ時にも書いたが、この句は『三冊子』や享保版の『ひさご』では、

   いろいろの名もまぎらはし春の草
 うたれて蝶の目をさましぬる   芭蕉

の形になっている。そのため、土芳は、

 「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり亂るゝ様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

と言っている。
 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、そこに止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったと思われる。
 第三。

   うたれて蝶の夢はさめぬる
 蝙蝠ののどかにつらをさし出て  路通

 日本で一番身近なコウモリはアブラコウモリで、昆虫食だから、蝶を襲うのではないにせよ、空中の小さな虫を捕えて食うため、虫の多い草の上などを飛行する。夕暮れ時であろう。
 四句目。

   蝙蝠ののどかにつらをさし出て
 駕篭のとをらぬ峠越たり     路通

 駕篭の通らない峠は主要な街道から外れた小道で、人の姿も稀だから、コウモリも長閑に飛び回る。旅体に転じる。
 五句目。

   駕篭のとをらぬ峠越たり
 紫蘇の実をかますに入るる夕まぐれ 珍碩

 紫蘇の実は穂紫蘇とも呼ばれている。秋に穂が出る。青いうちに収穫する。
 「かます」は叺という字を書く。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (古く「蒲(かま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意という)
  ① わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴った袋。穀物、菜、粉などを入れるのに用いる。かますだわら。かまけ。
  ※書紀(720)大化五年三月(北野本訓)「絹四匹・布二十端(はたちはし)・綿二褁(ふたカマス)賜ふ」
  ② (①の形をしているところからいう) 油紙、皮などで作った小物入れの袋。多く、タバコ入れに用いる。
  ※洒落本・伊賀越増補合羽之龍(1779)仲町梅音「くゎい中のかますよりあいせんのみゑへいを出し見れば」

ここでは①の方。
 駕篭の通らない峠道を越えた向こう側で、近隣の農家が穂紫蘇を収穫する。
 六句目。

   紫蘇の実をかますに入るる夕まぐれ
 親子ならびて月に物くふ     珍碩

 紫蘇の実を収穫して持ち帰り、親子並んで田舎ながらもお月見をする。
 初裏。
 七句目。

   親子ならびて月に物くふ
 秋の色宮ものぞかせ給ひけり   路通

 秋の紅葉も深まり、葉の落ちたところからは神社の姿も見えてくる。
 八句目。

   秋の色宮ものぞかせ給ひけり
 こそぐられてはわらふ俤     路通

 「こそぐる」は「くすぐる」。uとoの交替。
 前句の「宮」を宮中とし、御簾の向こうに高貴な人の笑い声が聞こえてくる。
 九句目。

   こそぐられてはわらふ俤
 うつり香の羽織を首にひきまきて 珍碩

 後朝とする。羽織に染み付いた移り香が他の着物に付かないように首に巻いて、男が帰って行く。匂いでどこに通ってたかバレたりするからね。
 十句目

   うつり香の羽織を首にひきまきて
 小六うたひし市のかへるさ    珍碩

 市場で汗をかいたか、羽織を首に引き巻いて帰る。市場でもいろんな匂いが染み付く。
 小六は小六節でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸初期に流行した小唄の曲名。慶長(一五九六‐一六一五)ごろの馬追いで小唄の名人だった関東小六の持っていた竹の杖を歌ったもの。踊り歌などに用いられた。歌詞と楽譜が「糸竹初心集」にある。
  ※糸竹初心集(1664)中「ころくぶし。ころくついたる竹のおをつゑころく。もとは尺八、なかはああ笛ころく」

とある。
 小唄にはいろいろあって、延宝四年の「此梅に」六十九句目に、

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

とあり、弄斎節と片撥も小唄の一種で、「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。また、寛文の頃に成立した『糸竹初心集』の俗謡が短い歌詞の、のちの小唄の原型のようなものだったとされている。ネット上の林謙三さんの『江戸初期俗謡の復原の試み ─特に糸竹初心集の小唄について』に詳しい。ここでの小六はこの俗謡の中の一つのようだ。
 天和二年の「錦どる」の巻六十八句目には、

   遁世のよ所に妻子をのぞき見て
 つぎ哥耳にのこるよし原     峡水

とあり、この「つぎ哥」は次節(つぎぶし)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「つきぶし」とも) 元祿(一六八八━一七〇四)の頃、江戸新吉原で流行した小唄。つぎうた。
  ※浮世草子・色里三所世帯(1688)下「女郎は是に気をうつさず色三味線引かけてつきぶしの小歌に日をかたぶけ」
  ※随筆・用捨箱(1841)中「予がおぼえし二歌を混じて、次節にも歌ひしか。次節又次歌といふ」

とある。これも小唄の一種だったようだ。
 なお、今日知られている小唄は長唄・端唄と同様、元禄の浄瑠璃から派生したもので、この頃はまだなかった。
 十一句目。

   小六うたひし市のかへるさ
 鮠釣のちいさく見ゆる川の端   路通

 鮠は鯉科中型のもので、オイカワ、ウグイ、カワムツなどが含まれる。
 市の帰りの景色で、河原で鮠を釣る人が遠くに見える。
 十二句目。

   鮠釣のちいさく見ゆる川の端
 念仏申ておがむみづがき     路通

 「みづがき」は神社の垣根。瑞垣。
 釣りは殺生になるので、念仏を唱える。神仏習合の時代なので神社で念仏は別に珍しいことではない。

2021年4月24日土曜日

 原理主義だとか過激な左翼思想だとか、何が間違っているかというと、本来は人々がみんな幸せになるために作られた思想だったのに、いつの間にかこうした大衆を敵に回して、自分の権力のためにだけで戦ってしまうことだ。
 宗教も本来は衆生を救済するためのものなのに、いつの間にか衆生を敵視している。
 外に出ればいつもと変わらない平和な世界があり、くだらない雑談を交わしながらも人はそれぞれ生きるための自分の場所を確保する生存の取引を繰り返す。その雑然とした世界。それを守るために戦ってきたんじゃないのか。何でそれを「敵」だと思うのだろうか。
 敵を間違えるなということは同時に、守るべきものを間違えるなということではないか。
 世の中には生まれてすぐ死んでゆく赤ん坊もいる。平等だというならすべての人は生まれてすぐ死ななくてはならないのだろうか。そんなことは馬鹿げている。平等は取引であって理念ではない。平等は生存の取引におけるフェアトレードの実現だと認識している。
 人間の幸福はそもそも比較することができない。なぜなら自分の幸せは自分でわかるが、他人が幸せかどうかは直接体験することができず、推測する以外にないからだ。だから誰もが幸せな社会は、誰もが自分自身の幸せを感じることができる世界で、それぞれの幸福を比較することができない以上、そこに厳密な意味での平等は存在しない。
 平等は幸せになるための個々の生存の取引において、双方が納得できたときに、これで共に幸せだと感じる、それだけのものにすぎない。
 そういうわけで鈴呂屋はこの糞ったれの世界が好きだし愛しいし守りたい。鈴呂屋は平和に賛成します。
 あと、鈴呂屋書庫に天和二年の「花にうき世」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは『三冊子』の続き。

  「人聲の沖には何を呼やらん
  鼠は舟をきしるあかつき
 この句、はじめは、須磨の鼠の舟きしるをと、といひ出られ侍るに、前句の聲といふ字差合て付かへられし句也。暁の字骨折あり。人のいはく、須磨の鼠新きものに侍れども、舟きしるをとゝいひては、下の七大におくれたるか、といへり、師聞て、宜といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 「人のいはく」は許六のこと。許六の『俳諧問答』に、

 「一、一とせ江戸にて、何某が歳旦開とて、翁をまねきたる事あり。
 予が宅ニ四五日逗留の後にて侍る。其日雪ふりて、暮方参られたり。其俳諧に、
 人声の沖には何を呼やらん     桃隣
 鼠は舟をきしる暁         翁
 予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句かたり出給へり。
 予が云、扨々此暁の字、ありがたき一字なるべし。あだにきかんハ無念の次第也。動かざる事大山のごとしといへば、師起あがりて云、此暁の一字聞屆侍りて、愚老がまんぞくかぎりなし。此句初ハ、
 須磨の鼠の舟きしる音
と案じける時、前句ニ声の字有て、音の字ならず、つくりかへたり。すまの鼠とまでハ気を廻らし侍れ共、一句連続せざるといへり。
 予が云、これ須磨の鼠より遙に勝れり。勿論須磨の鼠も新敷おぼえ侍れ共、『舟きしる音』といふ下の七字おくれたり。上の七字に首尾調はず。暁の一字のつよき事、たとへ侍るものなしといへば、師もうれしがりて、これ程にききてくれる人なし。只予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のミにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるがごとし。
 其夜此句したる時、一座の者共ニ、遅参の罪ありといへ共、此句にて腹をゐせよと、自慢せしとのたまひ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.174~176)

とある。
 この歳旦開の俳諧は今のところまだ発見されてないようだ。許六の記したこの二句だけが分かっている。おそらく元禄六年の春、許六が参加して満尾出来なかった巻があったのだろう。『俳諧問答』に、

 「予、俳諧、師とする事、全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

とある。

   人声の沖には何を呼やらん
 鼠は舟をきしる暁

 『源氏物語』須磨巻で源氏の君が七弦琴を弾いて歌う場面で、「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ(沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます)」、という下りがある。
 芭蕉はこの場面を思いついて、最初は、

   人声の沖には何を呼やらん
 須磨の鼠の舟きしる音

としたのだろう。源氏須磨巻を俤としつつも、人声を船に鼠が出たせいだとする。
 このとき「音」と前句の「声」と被っているのに気付き、須磨を出すのをやめて「鼠は舟をきしる暁」とする。源氏物語は消えて、船に鼠が出て騒ぐ様子に暁の景を添える句になる。
 芭蕉さんも苦肉の策で出した「暁」を褒められて、満更でもなかっただろう。

  「榎の木からしの豆からを吹
  寒き爐に住持はひとり柿むきて
 此句、はじめは、住持さびしく、となして後、淋の字除かれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)に『稿本野晒紀行』の句として、

   榎木の風の豆がらをふく
 寒き炉に住持は独柿むきて     芭蕉

の形で収録されている。貞享二年の『野ざらし紀行』の旅の途中の句と思われる。『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』(中村俊定校注、一九七一、岩波文庫)の天理本『野ざらし紀行』にも見られる。
 エノキはウィキペディアに、

 「葉と同時期(4月頃)に、葉の根元に小さな花を咲かせる。秋には花の後ろに、直径5-6mmの球形の果実をつける。熟すと橙褐色になり、食べられる。味は甘い。」

とある。こうした木の実は菓子として食べられていたのだろう。木枯しの季節になると榎の実の季節も終わり、鳥の食べた豆柄を木枯らしが吹き飛ばして行く頃に、住持(住職に同じ)が独淋しく囲炉裏端で柿を剥いている。
 これは次の句の展開を考えて、あまり句の情を限定しない方がいいという判断なのだろう。「独」でも「独淋しく」を十分連想できる。

  「桐の木高く月さゆる也
  門しめてだまつて寐たる面白さ
 この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出來しあさ茅生といふ句によれり、老師の思ふ所に非ずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132~133)

 これは『炭俵』の「むめがかに」の巻二十五句目。
 冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
 前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
 門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのだろう。
 前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
 「泣事のひそかに出來しあさ茅生といふ句」は同じ『炭俵』の「空豆の花」の二十一句目で、

   はっち坊主を上へあがらす
 泣事のひそかに出来し浅ぢふに   芭蕉

の句をいう。
 前句の「はっち坊主」は鉢坊主のことで、托鉢に来た乞食坊主のこと。
 田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。
 托鉢僧をわざわざ家に上がらせるというところから密葬として、それをそれと言わずに匂わせる手法は、確かに匂い付けの完成された姿ではある。
 おそらく芭蕉が土芳に言いたかったのは、高士の「俤」で付けるということだったのだと思う。

  「もらぬほどけふは時雨よ草のやね
   火をうつ音に冬のうぐひす
  一年の仕事は爰におさまりて
 此第三は、みのにての句也。十餘句計吟じかへてのち、是に決せられしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.133)

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)は元禄八年刊如行編の『後の旅』の形で収録していて、そこには、

   元禄四年の初冬、茅屋に芭蕉翁をまねきて
 もらぬほどけふは時雨よ草の屋   斜嶺
   火をうつ聲にふゆのうぐひす  如行
 一年の仕事は麦におさまりて    芭蕉

の形になっている。
 十句以上もああでもないこうでもないとやるのは珍しいことだったので門人の記憶に残ったのだろう。
 理由はよくわからない。
 発句は亭主の挨拶で、こんな粗末なところですから時雨が漏らないといいですね、という謙遜した句で、実際にはそれなりの家だったのだろう。
 脇は、時雨の中、寒いので火を起こしましょう、そうすると冬の鶯の声も聞こえてきますと。これは寓意で、俳諧興行を始めれば芭蕉さんの鶯の一声が聞けますよ、といったところか。何か芭蕉さんにプレッシャーをかけているようにも聞こえる。
 付け筋はいくつか考えられる。まずは冬の鶯に火を打つから山奥の景で付ける、あるいは山奥の隠士の情で付ける、しかしこの展開では発句の「草の屋」から離れられない。
 いっそのこと違えて付けるか、前句を何か別の意味に取り成せないか、そんなことも考えたかもしれない。とりあえず「草の屋」から離れるというところから、普通の農家の生活を思い浮かべ、農夫の俤で農夫の立場だったらどうかと考えた時、稲刈りは終わり麦を蒔き、これで一年の仕事は終り、という所に至ったのではないかと思う。

  「市人にいで是うらん雪の笠
   酒の戸たゝく鞭のかれ梅
  朝がほに先だつ母衣を引づりて
 此第三は門人杜國が句也。此第三せんと人々さまざまいひ出侍るに、師のいはく、此第三の附かたあまたあるべからず。鞭にて酒屋をたゝくといふものは、風狂の詩人ならずばさもあるまじ。枯梅の風流に思ひ入ては、武者の外に此第三あるべからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.133)

 これは元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

   抱月亭
 市人にいで是うらん雪の笠     翁
   酒の戸たゝく鞭のかれ梅    抱月
  是は貞享のむかし抱月亭の雪見なり
  おのおの此第三すべきよしにて幾たびも吟じ
  あげたるに阿叟も轉吟して此第三の附方
  あまたあるべからずと申されしに杜國もそこに
  ありて下官もさる事におもひ侍るとて、
 朝かほに先だつ母衣を引づりて   杜國
  と申侍しとや。されば鞭にて酒屋をたゝく
  といへるものは風狂の詩人ならばさも有べし
  枯梅の風流に思ひ入らバ武者の外に此第三
  有べからず。しからば此一座の一興はなつかし
  き㕝かなと今さらにおもはるゝ也

とある。「下官」は「やつがれ」と読む。一人称。アニメの「文豪ストレイドッグス」の芥川龍之介がこの一人称を用いているので知っている人も多いと思う。
 「母衣」は「ほろ」でウィキペディアに、

 「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。」

とある。NHK大河ドラマ『真田丸』で真田信繁が秀吉に仕えているときに、大きな黄色い母衣を背負っていたのは見た人もいると思う。
 「㕝」は「こと」と読む。事の異字体。
 「此第三の附かたあまたあるべからず」は「他にあるべからず」の意味。
 問題なのは脇の「鞭のかれ梅」で、枯梅を鞭にして酒屋の戸を叩くというのは、発句に付けば雪の笠を売っている怪しげな風狂の徒だが、第三はその趣向を離れなくてはならな。そこでみんな考え込んでしまったのだろう。
 他に誰が枯梅の鞭で酒屋の戸を叩いたりするだろうか、というところだ、芭蕉は答えが出たのだろう。「此第三の附方あまたあるべからず」、つまり答えは一つしかないと確信した。
 答えは一つという所で杜国の迷いが解けたのだろう。この第三を言い出す。

   酒の戸たゝく鞭のかれ梅
 朝かほに先だつ母衣を引づりて   杜國

 母衣(ほろ)を背負っているという所で武者になる。武者で馬に乗っていれば鞭も持っている。ここで前句を「鞭のかれ梅」を枯梅の枝の鞭ではなく、枯梅に惹かれて酒の戸を鞭で叩くと取り成す。「枯梅の風流に思ひ入らバ」というのはそういう意味だ。
 いち早くこの答えを導いた芭蕉も凄いが、それにすぐに答えた杜国もなかなかのものだった。

 「徒歩ならバ杖つき坂を落馬哉
   角のとがらぬ牛もあるもの
 此句は門人土芳が句也。先師此句を風與仕たり。季なし。皆脇して見るべしとあり。おのおのさまざまつけて見侍れども、こゝろにのらずしてふと此句を見せ侍れば、よろしとてその儘取て付られ侍る。師の心味ふべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.134)

 このことも元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

  そのゝちいがの人々に此句の脇して
  見るべきよし申されしを
 角のとがらぬ牛もあるもの     土芳

とある。芭蕉の『笈の小文』には、

 「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永(なが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍(にぐら)うちかへりて馬より落ちぬ。

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉」

とある。
 「桑名よりくはで来ぬれば」というのは『古今夷曲集』にある伝西行の歌で、

 桑名よりくはで来ぬればほし川の
    朝けは過て日ながにぞ思ふ

のことだ。「杖つき坂」は四日市宿を出て、次の石薬師宿へ行く途中、内部川を越えた向こう側の上り坂で、鈴鹿越えの道へと向かう。伊賀へ行く場合は途中の関宿から分れて加太の方へと向かう。
 芭蕉の発句が、杖つき坂なんだから馬に乗らずに地道に杖を突いて登ればよかった、という後悔とともに、急がば回れ的な教訓を含む句なので、脇もそれに応じなくてはならない。
 土芳の句は「牛だってみんながみんな角突き合わせているのではない、素直さが大切だ」というもので、教訓に教訓で返す。これが正解だったのだろう。
 土芳が最後のこの自分の句を持ってきたのは、別に師に褒められた自慢がしたいのではなく、俳諧の事でいろいろ議論をするのがいいが、角突き合わさずに仲良く議論しよう、という所で締めにしたかったのではないかと思う。

2021年4月23日金曜日

 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)を読み終えた。最後の方に女性の名前のことがあったが、大体今まで思っていたことが裏付けられた。つまり女性は苗字で呼ばれることはなかったし、苗字を意識することもなかった。男も日常生活の中で苗字はほとんど意識されなかったのだから、これは当然と言えば当然なのだろう。
 今の氏名というのは近代社会で国家が戸籍を管理し、徴税や徴兵などの便宜を図るために、名前がいくつもあっては困るし度々変わられても困るというのが理由だっとというのはよくわかる。
 多分日本だけではなく西洋でも近代化の過程で名前の変化はあったのではないかと思う。
 夫婦別姓の問題について言うなら、今の議論のほとんどは男女平等というイデオロギーの観点で論じられている。実際には、選択制にしても「いいんじゃない」くらいのスタンスの人がほとんどだと思う。そういう主義の人はすればいいし、自分はやんない、という人が多いと思う。選択制なら賛成だけど別姓を強制すると言ったら反発も出ると思う。
 日本人は基本的に生まれた家の名字にそれほど執着しない。ミュージシャンや作家の名前を見ても、最近は苗字を持つ人が少ない。とくにビジュアル系では苗字がある方が少数派ではないか。たとえ芸名であっても、一昔前までは一応「氏名」の体裁を具えている人が多かったが、今はいろんな分野で脱苗字の流れができている。
 夫婦別性も一つの解決策だが、実生活に於いて苗字をなくすというのも一つの選択肢ではないかと思う。

 それでは『三冊子』の続き。

  「能登の七尾の冬は住うき
  魚の骨しはぶる迄の老を見て
 前句の所に位を見込、さもあるべきと思ひなして人の躰を付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 『猿蓑』所収、元禄三年六月の凡兆宅での芭蕉・去来・凡兆による三吟歌仙興行、「市中は」の巻十一句目。
 「しはぶる」は「しゃぶる」ということ。昔の人は顎が丈夫で、魚の骨などバリバリと噛み砕き、今のように魚の骨を丁寧に取って食べるようなことはしなかった。まして漁村ならなおさらであろう。魚の骨が噛めなくなるのは歯のない老人くらいで、「魚の骨をしゃぶる」というのは、すっかり歯の抜けてしまったよぼよぼの老人ということになる。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には「魚の骨は前句の七尾のしをり也。老を見ては冬の住うきといふよりの響也。しはぶるとは、俗にしゃぶるつといへる事也と先輩いへり。只一句のうへに極老と見へる様に句作りたるにて、別に子細なし。」とある。
 これには「響き」とあるが、匂い付けを明確に分類することはできないので、能登の漁師の老人の位で付けたと言っても間違いではない。

  「中々に土間にすはれバ蚤もなし
  わが名は里のなぶり物也
 同じ付樣也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 珍碩編『ひさご』所収の「木のもとに」の巻二十八句目。
 前句の「蚤もなし」は本人の言葉で「蚤すら寄ってこない」という村八分になった男の位と見て、「わが名は里のなぶり物也」と開き直る。嫌われ者でも一本筋の通った人物だろう。なかなか力強い一句だ。

  「抱込て松山廣き有明に
  あふ人毎に魚くさきなり
 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の躰に思ひなして顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130~131)

 元禄七年閏五月下旬、芭蕉の京都滞在中、落柿舎に大阪の之道を迎えての七吟歌仙興行、「牛ながす」の巻の十二句目。
 「抱込て」は入り江で、松山がある広いひらけた土地といえば賑やかな漁港が想像できる。その所の景を付けるのではなく、そこにやってきた旅人の位で、その漁村の感想を付ける。

  「四五人通る僧長閑也
  薪過町の子共の稽古能
 前句の外通る躰以て付る也。前句の位思ひなして、奈良の事にはつけなし侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 元禄七年の「鶯に」の巻の三十五句目。二月に去来と浪化で十七句目まで巻いたものに、夏に芭蕉が京に上ってきた時に続きを巻いたものと思われる。
 僧が出たところで、芭蕉はこれを奈良の景色に転じる。これも「僧」に対して「奈良」と言葉を出してしまえば単なる物付けだが、あくまでもそれを表に出さず、匂いだけで付けるところに芭蕉の技術がある。
 「薪能(たきぎのう)」は今では屋外での公演を一般的に指すが、本来は二月初旬に奈良興福寺南大門で行なわれる能のことだった。それゆえ春の季語になる。ただ、芭蕉の句はこの薪能そのものを詠むのではなく、薪能を見て刺激されたのか、奈良の子供たちが能楽師に憧れて能の稽古に励んでいる様を付ける。

  「頃日の上下の衆の戻らるゝ
  腰に杖さす宿の氣違ひ
 前句を氣違ひ狂ひなす詞と取なして付たる也。衆の字ぬからず聞ゆ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 元禄七年閏五月下旬、「牛ながす」の巻の二十三句目。
  ここで芭蕉が言う「気ちがい」は、多分自分がいっぱしの武将であるかのような誇大妄想を持った男だろう。多分この宿場町やその周辺の人ならだれもが知る有名人で、「ああ、またやっている」という反応なのだろう。
 腰に刀の代わりの杖を差して、江戸や上方に行っていた衆が戻られたと、主人に報告する。
 「このごろの上下の衆のもどらるる」(かく云ふ)腰に杖さす宿の気ちがひという風につながる。「衆」の一字がよく生かされている。これも一種の位付けになる。
 「気ちがい」と「気のやまい」は江戸時代になってから盛んに用いられるようになった言葉で、「気」という朱子学の概念に基づく言葉だ。
 気というと今日では気孔術か何かの何か超自然的なパワーを表すが、それは清の時代になってからのことで、朱子学では「理(性)」に対して物理的な現象界一般を表す。「もの狂い」が魂の問題で、いわば、その人の生まれもった性向によって、何かに取り付かれたように一つの物事に固執するような、いわば性格異常に近いのに対し、「気」は形而下の、今でいう器質性のものを表す。
 「気ちがい」は今でいう精神病に相当し、「気のやまい」は神経症に相当する。ただし、俳諧では必ずしも厳密に区別されているわけではなく、近代でも「釣りキチ」のように用いられていたように、風狂を「気違い」と呼ぶことも十分考えられる。
 延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻七十五句目の、

   秋風起て出るより棒
 気違を月のさそへば忽に      桃青

の気違いは今でいう精神病者ではなく、謡曲『三井寺』に出てくるような「物狂ひ」であろう。ただ、現実に勝手に鐘をつこうとしたら、棒で取り押さえられる。

  「御局の里下りしては涙ぐみ
  ぬつた筥より物の出し入
 さもありつべき事を、直に事もなく付たる句なり。思ひ亂るゝに其わざ、さもあるべきことをいへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 これは元禄七年閏五月下旬の「葉がくれを」の巻の三十四句目。
 御局は宮中の局(つぼね)を与えられるほどの身分の高い女官で、それが里に帰されたとあると、都での華やかの日々を思い出し、宮中にいた頃から使っている漆塗りの箱のものを何度も取り出しては涙する。御局の気持ちになっての付けという意味で、これも広義の俤付けに含まれる。

  「隣へもしらさず嫁をつれて來て
  屏風の陰に見ゆる菓子盆
 同じ付也。盆の目に立、味ふ事もなくして付たる句也。心の付なし新みあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131~132)

 元禄七年春の「むめがかに」の巻の挙句で、『炭俵』所収。
 「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。

  「入込に諏訪の桶湯の夕まぐれ
  中にもせいの高い山伏
 前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 『ひさご』所収の「木のもとに」の巻十句目。
 これは芭蕉の得意とするあるあるネタで、こういう山の中の温泉にいくと必ずいそうな人をすかさず出してくる。

2021年4月22日木曜日

  今日は筍御飯を作って食べた。外は暑かったらしい。
 三度目の緊急事態宣言で、せめて去年並みのことはやるのかと思ったら、早くも腰砕けというか骨抜きというか、同じ屋根の下で飲み食いすれば感染は広がるというのに、酒だけ禁止しても何の意味はない。
 とにかく行政は何もできないのはとっくにわかっていることで、原因は法律がないからだ。法律を作ろうとすると野党の反対で結局骨抜きになる、それを延々と繰り返してきたからだ。
 行政は法律に従わなくてはならない。すべては立法府の機能不全によるものだ。
 あと、天和二年の「錦どる」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは『三冊子』の続き。

  「緣の草履の打しめる春
  石ふしにおそきを小鮎より分て
 此句、氣色を付とす。一句床夏の巻の俤也。うちしめるといふに寄る。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の年代未詳之部に、
 古寺や花より明るきじの聲
   緣のざうりのしめる春雨
 石ぶしに細き小鮎をよりわけて   (芭蕉)

の形で掲載されている。
 気色は景色に対して意味で付けることで、前に「只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍る」とあったように、俤・景色・気色を三つの付け方とする。
 「一句床夏の巻の俤也」というのは『源氏物語』常夏巻の冒頭の、

 「いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。 中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、 西川よりたてまつれる鮎、 近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。 」

の場面を踏まえているが、季節を春にしていて宮中とも程遠く、本説というほどの親密さはない。
 「石ぶし」は小石の多い水底のことで、そこで網で獲った魚の中から小鮎をより分けている。草履の濡れた原因を春雨ではなく、河原でそういう作業をしたからだとする。

  「夕貌おもく貧居ひしける
  桃の木にせみ啼比は外に寐ん
 一句、付ともに古代にして、其匂ひ萬葉などの俤なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125~126)

 これは延宝九年刊桃青編の『俳諧次韻』の「春澄にとへ」の巻七十一句目。

   夕顔重く貧居ひしげる
 桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ     桃青

 「寝ミ」は「やすみ」と読む。
 万葉の時代は大陸の影響が強く、桃や梅などが好まれた。

 春の苑紅にほふ桃の花
     下照る道に出で立つ少女
              大伴家持(万葉集)

のような歌は『詩経』の「桃之夭夭 灼灼其華」のイメージで、中国の田舎の娘を俤にしている。
 桃青の句の「桃の木」はむしろ桃花源のような神仙郷のイメージに近く、家は粗末でも暑ければ外で寝ればいいという、物事に頓着しない世俗を超越したイメージが感じられる。

  「笹の葉に徑埋て面白き
  頭うつなと門の書付
 これ一句隱者の俤也。前句のけしきに其所を寄せ、句意新みあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126)

 これは元禄七年「八九間」の巻十四句目の

   笹の葉に小路埋ておもしろき
 あたまうつなと門の書つき     芭蕉

の句で、元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に収録されている。
 前句の笹に埋もれた道を草庵の入口とした。
 「あたまうつな」は、つまり今でいう「頭上注意」、小さな門だと必ず書いてありそうだ。

  「龜山やあらしの山やこの山や
  馬上に醉てかゝえられツゝ
 前句のやの字響き、ともに醉てそゞろなる躰を付顯す。一句風狂人の俤也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126)

 この句は享保八年刊朱拙・有隣編の『ばせをだらひ』の「芭蕉先生前句附」の所に付け合いとして、

   龜山やあらしの山や此山や
 馬上に醉てかゝえられつゝ     翁

の形で掲載されている。
 前句の「や」の連続を、酔っ払って呂律が回らずに叫んでいる状態と見ての付けで、馬上に酔って人に抱えられている姿を付ける。
 亀山は嵐山渡月橋のやや川上にある。

  「野松に蟬の啼立る聲
  歩行荷物手ふりの人と噺して
 前句のなき立る聲といひはなしたるひゞきに、勢ひを思ひ入てうち急ぐ道行人のふり、事なく付たる匂ひ宜し。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126)

 これは元禄七年閏五月下旬満尾の歌仙、「葉がくれを」の巻の第三で、元禄八年刊浪化編の『となみ山』に収録されている。第三まで引用する。

    蕉翁の落柿舎に偶居
    し給ひけころたづねま
    いりて主客三句の情をむ
    すび立かへりぬるをその
    後人々まいりける序終
    に一巻にみち侍るとて
    去來がもとより送られける
 葉がくれをこけ出て瓜の暑さ哉   去來
   野松に蟬のなき立る聲     浪化
 歩荷物手振の人と噺しして     芭蕉

 前句の「なき立る聲」に急き立てているような響きで、荷物を持って歩いてきた人に手を振って早く来いと急き立てる様とする。

  「青天に有明月の朝ぼらけ
  湖水の秋の比良のはつ霜
 前句の初五の響に心を起し、湖水の秋、比良の初霜と、清く冷じく大成る風景を寄。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126~127)

 これは『猿蓑』にも収録されている元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙興行の三十句目だ。
 比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。
 月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けて、雄大な景にしている。

  「僧やゝ寒く寺に歸るか
  猿引の猿と世を經る秋の月
 この二句別に立たる格也。人の有樣を一句として、世のありさまを付とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.127)

 元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙「市中は」の巻の十七句目。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
 「猿引き」は猿回しをする芸人のことだが、長いこと被差別民の芸とされてきた。
 殺生を禁じる仏教の思想が、一方では動物にかかわる職業を卑賤視するもととなっていた。
 それゆえ被差別民と仏教は相反する関係にあり、「僧」に「猿引き」を付けるのは、相対付け(向え付け)になる。
 猿引きは猿とともに秋の月を見ながら暮らしを立て、僧もまた自分の居場所である寺に帰ってゆく。人にはそれぞれ相応しい居場所がある。いつの時代も変わらないことだ。

  「こそこそと草鞋を作る月夜ざし
  蚤をふるひに起るはつ秋
 こそこそといふ詞に、夜の更て淋しき樣を見込、人一寐迄夜なべするものと思ひ取て、妹など寐覚して起たるさま、別人を立て見込心を、二句の間に顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.127)

 これも同じく元禄三年六月、京都の凡兆宅での三吟歌仙「市中は」の巻の二十六句目。
 相対付け(向え付け)は対立する二つのものを並べて対句を作る付け方で、物付けに含まれる。だが、対立する二つのものをどちらも直接示さずに、それを匂わせるだけにすると、匂い付けの向え付けも可能になる。
 一人ひとりはひそかに草鞋を作ってお金を作り、もう一人は蚤に食われて痒くて目を覚ます。そこでまあ、ばれてしまったかということになり、何か家族の会話があるのか。土芳は兄妹の話にしている。

  「夜着たゞみをく長持のうへ
  灯の影珍しき甲待て
 前句の置の字の氣味に、せばき寐所、漸一間の住居、もの取片付て掃清めたる所と見込、わびしき甲待の躰を付たる也。珍の字ひかりあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.127)

 これは元禄五年十月三日、江戸の許六亭での興行「けふばかり」の巻の二十三句目で、『韻塞』には下五「申待(きのえま)チ」とある。
 長持の上に夜着をたたむところに家の狭さときちんと片付づいた部屋の匂いがあり、そこからいわゆる「清貧」の人物を思い描き、その位で付けている。
 「甲待ち」は十干十二支の最初の甲子(きのえね)の日を、灯を灯し、夜中まで待まつ風習で、六十日ごとに訪れる大晦日のようなものといえるかもしれない。
 「珍し」は今いまの珍しいの意味ではなく、「愛づらし」、つまり、「愛でたくなる」という意味。「目出度い」に通じる。

  「酒にはげたる頭なるらん
  双六の目を覗までくれかゝり
 氣味の句也。終日双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の氣味を付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128)

 元禄三年刊珍碩編の『ひさご』に収録された「木のもとに」の巻の二十五句目になる。「酒に」ではなく「酒で」とある。
 「気味」は昔の日本語によくあるbとmとの交替から「きみ」とも「きび」とも読む。意味はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「き‐び【気味】
  〘名〙 (「きみ(気味)」の漢音よみとも、「きみ(気味)」の変化した語ともいう)
  ① 物のにおいと味。きみ。
  ※色葉字類抄(1177‐81)「気味 飲食部 キビ」
  ② おもむき。また、様子。きみ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「よききびにかひしうつらの高音哉〈肥前衆〉」
  ③ 心持。気持。気分。きみ。
  ※虎明本狂言・萩大名(室町末‐近世初)「一口くふてみたひきびか有よ」
  ④ いくらかその傾向にあること。また、その傾向。きみ。
  き‐み【気味】
  〘名〙
  ① 物のにおいと味。多く食べる物について用いられる。きび。
  ※海道記(1223頃)橋本より池田「水上の景色は彼も此も同けれども潮海の淡鹹は気味是異なり」
  ※源平盛衰記(14C前)一一「喉乾き口損じて、気味(キミ)も皆忘れにけり」 〔杜甫‐謝厳中丞送乳酒詩〕
  ② おもむき。けはい。風味。また、特に、深くてよい趣や味わい。きび。
  ※方丈記(1212)「閑居の気味もまた同じ」
  ※徒然草(1331頃)一七四「人事おほかる中に、道をたのしぶより気味ふかきはなし。これ実の大事なり」
  ※俳諧・三冊子(1702)赤双紙「酒にはげたる頭成らん 双六の目を覗出る日ぐれ方 気味(キミ)の句也。終日、双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の気味を付たる也」 〔白居易‐寒食江畔詩〕
  ③ 心身に感じること。また、その感じた心持。気持。きび。多く、「良い」「悪い」を伴って用いられる。
  ※歌舞伎・傾城壬生大念仏(1702)上「小判一万両、おお、よいきみよいきみ」
  ※二人女房(1891‐92)〈尾崎紅葉〉上「何か可厭(いや)な事のあるのを裹(つつ)むのではあるまいかと気味(キミ)を悪がって」
  ④ いくらかその傾向にあること。また、その傾向。かたむき。きび。
  ※志都の岩屋講本(1811)上「薬の病にきく処は呪禁(まじなひ)の気味が有る故」
  ぎ‐み【気味】
  〘接尾〙 名詞や、動詞の連用形に付いて名詞、形容動詞をつくり、そのような様子、傾向にあることを表わす。…の様子。「かぜ気味」
  ※家(1910‐11)〈島崎藤村〉下「前方へ曲(こご)み気味に、叔父をよく見ようとするやうな眼付をした」」

とある。
 この場合は味わいでは意味が通らない。④の「傾向にあること」が一番しっくりくる。「酒ばかり飲んでる禿げたおっさんは、博奕にも熱中する、という「あるある」と見た方がいい。
 「双六」は今で言うバックギャモンの遠い親戚のようなもので、昔は主に賭け事に用いられた。鳥獣人物戯画でも双六盤を担ぐ猿の姿が描かれている。
 前句の酒ばかり飲んでる禿げ爺さんを博徒と見ての付け。
 似たような句に天和二年刊千春編の『武蔵曲』に収録されている「錦どる」の巻五句目の、

   雨双六に雷を忘るる
 宵うつり盞の陣を退リける     其角

の句がある。
 宵も暮れ酔いも回るが、ここで眠ってはいけない。盃の陣を突破したなら、敵は双六にあり。いざ進め、という句で、双六に雷が鳴っているのも忘れる。

  「そつと覗けば酒の最中
  寐所にたれも寐て居ぬ宵の月
 前句のそつとゝといふ所に見込て、宵からねる躰してのしのび酒、覗出したる上戸のおかしき情を付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128)

 これは元禄七年初夏、深川芭蕉庵で興行された「空豆の」の巻の五句目で、『炭俵』に収録されている。
 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。隣を覗けば、「何だ、みんな酒を飲んでいたか」となる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「打よりて遊びうかれてあるくなど、七夕頃の夜ルの賑ひとも広く見なして趣向し給ひけん。」とある。七夕の頃の宴の句と見ていい。

  「煤掃の道具大かた取出し
  むかひの人と中直りけり
 推量の句也。事せはしき中に取まぜて、かやうの事もある事也とすいりやうして、中直りけり、とありさまを付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128)

 制作年次、場所等不明。『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の注に「『三冊子』『幽蘭』『一葉』『袖珍』等に収める」とある。
 年末の煤払いは一家総出でご近所も含めて一斉に行われる。狭い家では掃除道具や家具を外に出して並べたりして、そんな中で日頃仲の悪いお隣さんとも顔合わせ、仲直りということもある。
 土芳が「推量」と言ってるのは面白い。実際そんなうまくいくことなく、あったらいいなという理想なのだろう。

  「冬空のあれに成たる北颪
  旅の馳走に有明し置
 馳走の字さび有。あれに成たると、心のしほりに旅亭のさびを付て寄る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128~129)

 元禄三年秋膳所の義仲寺境内の無名庵での興行と思われる「灰汁桶の」の巻の二十二句目。『猿蓑』に収録されている。
 「有明(ありあか)し」は有明行灯のこととも、それよりやや大型のものとも言う。有明行灯は枕元を照らすための小型の行灯で、寝ぼけてひっくり返さないように箱型をしている。
 冬の木枯し吹きすさぶ宿では、旅人も寒くて心細かろうと、宿の主人の気遣いで有明行灯を枕元に置おいておいてくれたのだろう。
 前句の心細さに有明行灯が最大限の馳走であるというところにさびがある。「さび」というのはいわば「死」のイメージを隠し味にすることで、「しほり」はその情を喚起するものをいい、それが共感にまで結びつけば「ほそみ」になる。
 春の暖かい風にご馳走を並べるのは、それだけでは「さび」にも「しほり」にもならない。ただ、暖かい風に花が散り、ご馳走も別れの宴なら「さび」「しほり」が具わる。
 冬空の荒れに身を切るような北颪はいかにも寒々として死を暗示させる情を喚起し、旅の馳走にわずかな有明行燈の光があたかも人の命など風前の灯火のような弱々しさを感じさせ、「さび」となる。

  「のり出て朧に餘るはるの駒
  摩耶が高根に雲のかゝれる
 まへ句の春駒といさみかけたる心の餘、まやがみねと移りて雲のかゝれるとすゝみかけて、前句にいひかけて付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 これも同じく『猿蓑』の「灰汁桶の」の巻の八句目。「のり出て」は「乗出して」、「朧」は「肱(かひな)」とある。
 麻耶山は神戸市東北部にある山で、前句を馬に乗り慣れぬ平家武者と取り成し、『平家物語』の俤で「麻耶山」を付ける。「雲のかかれる」には風雲急が感じ取れる。

  「敵よせ來る村松の聲
  有明のなし打烏帽子着たりけり
 前句の事をうけて、其句の勢ひに移りて付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 これは貞享三年正月、江戸で興行された蕉門、其角門などの十八人の連衆による百韻、「日の春を」の巻の十三句目。この巻には芭蕉自身による注釈、「初懐紙評注」があり、それには、

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

とある。
 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。
 梨打烏帽子は薄布でできた柔らかい烏帽子で、烏帽子の硬質の華美なものになる前の最も古い形だという。源平合戦の頃のイメージで、元禄五年の「けふばかり」の巻十一句目に、

   輾磑をのぼるならの入口
 半分は鎧(よろは)ぬ人もうち交り 嵐蘭

のような古い時代の軍の俤と言えよう。

  「月見よと引起されて恥しき
  髪あふがする羅の露
 前句の樣躰の移りを以て付たる也。句は宮女の躰になしたる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 元禄二年六月、『奥の細道』の旅の途中、羽黒山で興行された「有難や」の巻の十六句目になる。
 前句の「恥しき」を寝起きの顔を見られて恥ずかしいとして、寝乱れた髪に濡れた薄衣を付ける。

  「牡丹おりおり涙こぼるゝ
  耳うとく妹に告たる郭公
 心を以て付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 貞享三年三月二十日、尾花沢の清風を迎えての歌仙興行の二十三句目で、

   涙おりおり牡丹ちりつつ
 耳うとく妹が告たる時鳥      芭蕉

とある。
 耳が遠くて妻にホトトギスの声がしたのを教えてもらう。今更ながらに年老いてしまったことを嘆く。
 前句の「涙」を老いの悲しみと見ての展開になる。

  「あき風の舟をこはがる浪の音
  雁行方や白子若松
 前句の心の餘りを取て、氣色に顯し付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129~130)

 珍碩編『ひさご』所収の「木のもとに」の巻十六句目。
 白子若松は東海道四日市宿から鈴鹿の方へ行かずに南へ行ったところにある伊勢若松とその先の白子のこと。昔は伊勢街道が通っていた。今は近鉄名古屋線が通っている。
 「前句の舟をこはがる」はここでは東海道七里の渡しのこととする
 。帰る雁は北へ行くが、秋の雁は南へ向かう。ちょうどその方向に伊勢若松や白子がある。芭蕉も何度となく通っている道だった。
 船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。

  「鼬の聲の棚もとの先
  箒木はまかぬに生て茂るなり
 前句に言外に侘たる匂ほのかに聞及て、まかぬに茂る箒木と、あれたる宿を付顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 前にも登場したが元禄七年七月二十八日夜猿雖亭での土芳も同座した興行、「あれあれて」の巻二十七句目。
  箒木(ほうきぎ)はこの場合伝説のははきぎのことではなく、箒の材料となる草のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「アカザ科の一年草。高さ約1メートル。多数枝分かれし、狭披針形の葉を密に互生。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。果実は小球形で、「とんぶり」と呼ばれ食用。茎は干して庭箒を作る。箒草。ハハキギ。」

とある。最近ではコキアといって、紅葉を観賞する。
 外来の植物だが零れ種から自生することもある。
 鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。
 うらぶれた皮革業者の台所の向こうでその高級毛皮の元が鳴いていて、外には箒木が自生している。「言外に侘たる」というのはその職種が被差別民のものであるからであろう。

2021年4月21日水曜日

  朝の新聞広告に「SDGsは阿片だ」なんてコピーがあったが、まあ、極左の連中がSDGsを快く思ってないのはわかってた。資本主義がサステナブル(持続可能)だと困るんだろうな。
 まあ、気が短い連中だから、物事を一つ一つ地道に解決するのではなく、革命で一気にちゃぶ台返しで、そこでどんなけ人が死のうが知ったことではないんだろう。「殉教」という言葉で大量殺人を正当化するのは、あらゆる原理主義者に共通することだ。
 あと、日本はこれまで何とかコロナを抑えてきたけど、今日は多分一日の新規感染者が五千人を越えるし、今のところ減る気配はない。海外の人はしばらく日本には来ない方がいいと思う。

 それでは『三冊子』の続き。

 「師の曰く、付といふ筋は、匂、響、俤、移り、推量などゝ形なきより起る所也。こゝろ通ぜざれば及がたき所なり。師の句を以て其筋のあらましをいはゞ、
   あれあれて末は海行野分かな
  鶴のかしらをあぐる粟の穂
   鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
  一吹風の木の葉しづまる
 此脇二つは、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる體を脇とす。木のはの句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を亂し、納りて後の鳶のけしきと見込て、發句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122~123)

 鶴の句は元禄七年七月二十八日の伊賀雖亭での興行で、発句は猿雖による。土芳自身も同座している。
 この後の芭蕉の八月九日付去来宛書簡に「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。」とぼやいてるほど、芳しくない興行だったようだ。
 発句はちょうど台風の季節で、嵐のさなかで危ぶまれていたこの興行もようやく無事に開催できましたということで、荒れに荒れた野分もそのうち海へ抜けることでしょう、と挨拶する。芭蕉はそれに対し、隠れていた鶴も頭を上げ、粟の穂の上に顔を出してます、と付ける。
 先の去来宛書簡には、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
 この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はない。粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという、土芳の言う通り嵐の去った後の景色でさらっと流している。
 木の葉の句は『猿蓑』にも収録されている元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙興行の脇だ。
 発句の方は特に鳶の姿を見たということではなく、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」という程度の挨拶に、今頃鳶も羽を掻い繕っていることでしょう、と景色を与えた句だったと思う。
 芭蕉はそれに、風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。特に寓意は感じられない。発句の鳶の羽の掻い繕いの原因として時を戻して「一吹風の」とし、今は「木の葉しづまる」とする。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と景で付けている。

  「寒菊の隣もありやいけ大根
  冬さし籠る北窓の煤
 此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123)

 元禄五年の十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。「深川の草庵をとぶらひて」という前書きがついている。
 この句は許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、

 「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」

とある。
 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けている。

  「しるべして見せばやみのゝ田植うた
  笠あらためん不破の五月雨
 此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123~124)

 芭蕉が貞享五年、『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。

   ところどころ見めぐりて、洛に
   暫く旅ねせしほど、みのの国より
   たびたび消息有て、桑門己百のぬ
   しみちしるべせむとて、とぶらひ
   来侍りて、
 しるべして見せばやみのの田植歌   己百
   笠あらためむ不破のさみだれ   芭蕉

という前書きがついている。
 「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。関を越える時には衣装を正すという発想は、元禄二年『奥の細道』の、

 卯の花をかざしに関の晴着かな    曾良

の句に先行している。
 実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。

  「秋の暮行先々の苫屋かな
  荻にねようか萩に寐ようか
 此脇、發句の心の末を直に付たる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 これは元禄二年の『奥の細道』の旅で、八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
 そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟になる。これにも前書きがある。

   ばせを、いせの国におもむけるを
   舟にて送り、長嶋といふ江によせ
   て立わかれし時、荻ふして見送り
   遠き別哉 木因。同時船中の興に
 秋の暮行さきざきの苫屋哉      木因
   萩に寝ようか荻にねようか    芭蕉

 「行く先々」に「萩」や「荻」が付き、「苫屋」に「寝る」が付く。萩と荻は字が似ていて面白いし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
 「發句の心の末」というのは、餞別吟なので旅に出た先のことを付けるという意味だろう。

  「菜種干ス筵の端や夕凉み
  螢迯行あぢさいのはな
 此脇、發句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたり似合敷物を寄。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 これは元禄七年六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。発句は曲翠で膳所藩士。
 菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
 「菜種干す筵」の百姓の位でというところだが、蛍や紫陽花は身分の高い者も観賞するもので、やや位を引き上げているように思える。それは発句の主を卑しめないためだと思う。
 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

  「霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申
  古人かやうの夜の木がらし
 此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寐心高く見て、心を以て付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 これは貞享元年の『野ざらし紀行』の旅での大垣滞在中の句。
 元禄八年刊支考編の『笈日記』には「貞享元年の冬如行が舊苐に旅寐せし時」と前書きがある。『稿本野晒紀行』には

 霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申     如行
   古人かやうの夜のこがらし    芭蕉

の形になっている。
 蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。

  「おくそこもなくて冬木の梢哉
  小春に首の動くみのむし
 この脇、あたゝかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124~125)

 元禄四年十月に芭蕉は名古屋の露川と対面し、露川は入門する。その時の句で、元禄八年刊支考編の『笈日記』には「おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢へるとて」と前書きがある。
 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注に、

 「『三冊子』(石馬本)には「おく庭」とし、「庭」に「底か」と傍書する」

として、「奥庭」としている。その方が意味が通る。
 葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。

  「市中は物の匂ひや夏の月
  あつしあつしと門々の聲
 此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顯して見込の心を照す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
 市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、とする。
 芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。

  「いろいろの名もまぎらはし春の草
  うたれて蝶の目をさましぬる
 此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり亂るゝ様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 元禄三年刊珍碩編の『ひさご』の所収の歌仙の発句で、芭蕉は脇のみの参加になっている。ただし、元禄版の『ひさご』では、

 いろいろの名もむつかしや春の草   珍碩
   うたれて蝶の夢はさめぬる    芭蕉

になっていて、享保版の『ひさご』は『三冊子』の形になっている。
 発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、そこに止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。

  「折々や雨戸にさはる萩の聲
  はなす所におらぬ松むし
 この脇、發句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 発句は雪芝で元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に収録されている。
 芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にもある句で、「あれあれて」の句と同じ頃の伊賀での句と思われる。
 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
 これも位で付ける時の心得で、古来賞翫されている「松虫」を付けることで若干位を引き上げて付けている。

2021年4月20日火曜日

 前にも書いたが、「止まない雨はない」と言うが止まない雨があったらどうすべきか、既にアニメ映画「天気の子」がそれを問いかけていた。
 日本人は一過性の災害に慣れてしまって、終わりの見えない戦いが相変わらず苦手だ。
 戦争だって関ケ原の戦いは半日で終わり、太平洋戦争だってたったの四年だ。世界には百年戦争もあれば、中東は何千年も終わりのない戦いが続いている。アメリカだってつい最近バイデンさんがアフガニスタンから撤退して最も長い戦争を終わらせると言ってたが、(実際はトランプさんが五月撤退を決めていたのを九月に延期した)、本当に一番長い戦争、朝鮮戦争はまだ終わってない。(これもトランプさんは終わらせようと必死に動いたが、バイデンさんは何をやっているのだか。)
 今週が正念場だと言うと、今週さえ乗り切ればなんとかなると思ってしまうが、コロナはそういうものではない。日々是正念場でそれがまだあと何年も続くかもしれないんだ。これだけ世界中に広がってしまうと、インフルエンザがそうだったように次々と世界のどこかで変異株が誕生し、毎年のようにワクチンを打たなければいけなくなる可能性も大きい。
 スポーツも芸術も今まで通りの興行形態では成り立たないというなら、変えていかなくてはならない。コロナが止むまで何年でも待てるならそれでもいいが。
 とにかく今は「いつまで頑張れば」というゴールなんかない。止まない雨があるなら、雨の中で生きてゆく方法を考えなくてはならない。

 あと、前(2019年9月1日)に千春編『武蔵曲』の、

   末の五器頭巾に帯て夕月夜
 猫口ばしる荻のさはさは       素堂

の句を紹介したが、今改めて「錦どる」の巻を読み進めていて思ったんだが、「鎧の櫃に餅荷ひける」が打越になるので、お椀(五器)を山伏の「頭襟(ときん)」に見立てるというのは、打越の鎧の櫃に応じるもので、素堂の句にまでは引きずらない。
 ここではあくまでお椀を持った山伏が夕月夜に外に出てゆくと、猫が思わず声を上げて荻の向こうからさわさわとやってくる、という句で、一見厳つい山伏さんも実は猫に餌をやるやさしいおじさんだったという句になる。

 それでは『三冊子』の続き。

 「師の曰、俳諧之連哥といふは、よく付といふ字意也。心敬僧都の私語にも、前句に心のかよはざるは、たゞむなしき人の、いつくしくさうはきてならびゐたるなるべしと、ある俳書ニ有。又、付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍るよし、師のいへるとも有。又、ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。此後こゝに究め侍るやうに人こゝに留らんか。しかれば書留るにもいたらずとて、事やみ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122)

 この「ある俳書」は許六の『宇陀法師』だと『去来抄・三冊子・旅寝論』の注にある。
 『去来抄』にも、

 「支考曰、附句は附るもの也。今の俳諧不付句多し。先師曰、句に一句も附ざるはなし。
去来曰、附句は附ざれば附句に非ず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.74)

とある。
 この「付く」が何を意味するかについては、本来は上句と下句を合わせて一首の歌に仕上げることを言ったのだが、時代が下るにつれてないがしろになっていった。だからある者は「付いている」と言うが、ある者は「付いてない」というような状態になっている。
 また、「付かず離れず」は俳諧から出た言葉なのかどうかは疑わしい。「挙句の果て」が本来の連歌から離れて、俗語として独自の意味を持っているように、元の意味と離れて使われている言葉も多い。連歌も俳諧も基本的には「付く」ものであり「付かず離れず」は間違い。
 特に近代では正岡子規以降技術を軽視する傾向が強く、付け筋などというものも無視され、廃れてしまったから、現代連句はただの連想ゲームで、それを正当化するためのあらゆる理論が立てられている。
 「付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし」というのは、上句下句を合わせて一つの意味なり姿なりが生じる事が基本で、狭義の俤付けではない。
 たとえば、

   抱込で松山廣き有明に
 あふ人ごとの魚くさきなり      芭蕉

の句であれば、前句の海辺の夜明け前の風景にたくさんの魚臭い人がいるというところで、活気あふれる漁港の姿が浮かんでくる。しかも、それを魚臭きと感じる所に、旅人の見た漁港だという所までわかる。これは広義の意味で漁村を旅する人の俤(たとえば在原行平のような)と言っていいのではないかと思う。
 歌というのは必ず誰かが詠むものなのだから、歌として成立するということは、それを詠む人というのが必ず面影として浮かんでくる。

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて  芭蕉

の句であれば、杖だけで寸鉄を帯びずに旅する人は旅の僧で、それが烏が群れ飛ぶさまに死期の近いのを感じ涙ぐむとなれば、この歌の主は老いた旅僧(たとえば晩年の西行法師のような)ということになる。
 前句と付け句合わせて、最終的にはそれを詠む人物が思い浮かぶ。「せんずる所只俤」というのはそういうことだと思う。
 狭義の俤付けは、誰なのか特定できる付け方で、

   草庵に暫く居ては打やぶり
 いのち嬉き撰集のさた        去来

のような「いのち」に「いのちなりけり」の歌、「撰集」で勅撰集の歌人というヒントのあるような付け方をいう。
 「只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍る」というのは、俤に加えて、景と気が大事ということで、「此三」とあるから、「景気」で一つではない。景は物、気は心。景色が相通うというのは、必ずしも一枚の絵にするということではない。前句を過去として現在の景色を付けたり、前句を現在として未来の景色を付けたり、違えて付けたり、あるいは対句のように二つの景を並べる付け方もある。

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ       芭蕉

の句は樫木の森に隠棲する隠者が桜の花が咲いたといっては門を出入りするということで、樫の木の森と桜の花は一つの絵に収まるわけではない。

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて    芭蕉

の句は過去に花見のために設けた縁台も今は傾いて、今は池の蓮の実がポンと抜けるという、やはり蓮池の辺で暮らす僧の俤であろう。一つの絵としては成立しない。
 ただ、同じ人物の見た景であり、同じ人物の心が想像できるので、一つの俤になる。
 ちなみにこれらの句を和歌の形に改めるなら、

 抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり
 野がらすのそれにも袖のぬらされて杖一本を道の腋ざし
 草庵に暫く居ては打やぶりいのち嬉き撰集のさた
 咲花に小き門を出つ入つくろみて高き樫木の森
 咲花にかき出す橡のかたぶきてぽんとぬけたる池の蓮の実

ときちんと付いているのがわかる。
 こういうことを言うと一生懸命付いてない句を探し出して、これが証拠だと言うような御仁がいそうだが、多分取成しか本説の句だと思う。
 「ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。」というのは、付け筋はその場その場で無数にあるもので、それを世間は大雑把に二三の体にまとめているだけだということ。付け筋を極めようと思えばこんな大雑把な分類のこだわってはいけないので、芭蕉はあえてそれを土芳に書き残すようなことはしなかった。
 芭蕉の場合、相手に合わせて教え方を変えるので、これはあくまで土芳に対してはということだろう。
 支考の場合は天才的に次々と自分で新しい付け筋を発見する能力があるから、そういう人には、自分の過去に見つけた付け筋を教えても大丈夫だと思ったのかもしれない。土芳の場合は下手に教えるとそればっかり馬鹿の一つ覚えになりそうなので教えなかったか。
 基本的には上句下句を合わせて歌を完成させたときに、一人の人物の俤が浮かぶように詠めというのが、土芳への教え方だったのだろう。

2021年4月19日月曜日

 今日もいい天気だったけどね。
 日本はこれまでうまく行き過ぎた。だからいつのまにかコロナに関するトンデモ本が氾濫している。こういう連中って、結局一度地獄を見ないとわからないのかもしれない。
 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)の公家さんの名前の所を読んだ。『源氏物語』で惟光・良清が本名なのは六位以下だったからということでいいのかな。
 現代でも組織にいる人は課長だとか部長だとか役職名で呼ぶ習慣があり、本名で呼ぶのは失礼になる。外資系の一部では西洋式にファーストネームで呼ぶようにしているところもあると聞くが、日本人的にはかなり違和感がある。この習慣は古代から脈々と続いてきたもので、なかなか変わることはないんだろうな。部長が何人もいれば営業部長だとか総務部長とか呼ぶのも古代と同じだ。
 ネット上でハンドルネームを使うのは、本名と別に雅号を持つのと似ている。日本では本名でやり取りするフェースブックは広まらなかったのも、こうした古くからの習慣によるものなのだろう。
 俳諧の雅号も、一般社会で用いられている名前は上下関係がはっきりと表示されてしまうため避けたのだと思う。ただ、医者や僧の号と紛らわしいので、江戸前期の俳諧では武家社会に所属している人は雅号ではなく、名乗りを用いる傾向があったのだろう。身分を隠すための知恵だったったのだと思う。そこには「俳号」というものをまだ武家社会の方が認知していなかったという事情があったのかもしれない。
 その意味では宗房から桃青になったのは、武家社会を脱して俳諧師として生きて行く決意だったのだろう。

 それでは今日は延宝から離れて、久しぶりに『三冊子』「あかさうし」の続きを。

 「門人の句に、元日や家中の禮は星月夜、といふ有。たゞ、門松に星月夜と計する句也。味ふべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 其角の句で「年立つや」の上五のものもあるようだ。
 元日は朔日だから月はないので、晴れていれば星月夜になる。貞享三年刊荷兮編の『春の日』には、

 星はらはらかすまぬ先の四方の色   呑霞

の句もある。
 当時は星月夜というと闇を詠むもので星の美しさを詠んだ句は珍しい。

 「同、松風に新酒を澄す山路哉、といふ句有。山路を夜寒にすべしといへり。その夜の道の戻りに、集などに若出す時は、はじめの山路しかるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 この句は元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 松風に新酒を澄す山路かな      支考
   此句は山路を夜寒にすべきよしにてその會
   みちて歸るとて集などに出すべくばもとの
   山路しかるべしといへり。いかなるさかひにか申されけむ。

とある。
 この句は元禄七年九月四日伊賀の猿雖亭での七吟五十韻興行の発句で、その時の発句は、

 松風に新酒をすます夜寒哉      支考

だった。興行の前に芭蕉にこの句を見せたところ「夜寒」にした方がいいと言われて、この形で興行を行ったが、帰り道で集に入れる場合は「山路」で言い、という話だった。
 この時の新酒は「あらばしり」と呼ばれるもので、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程と思われる。こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
 新酒を用意してくれた亭主猿雖への感謝という意味では、このような夜寒の季節に新酒はありがたいの方がふさわしかった。
 山路だと旅体になる。山路を行くうちに新酒も濾過され、宿に着く頃には美味しい新酒が飲めるという意味になる。おそらく猿雖亭に行くまでの道でできた句であろう。
 興行の際の立句と書物に乗せる際の発句との違いといえよう。

 「同、花鳥の雲に急ぐやいかのぼり、といふ句有。人のいへる。この句聞がたし。よく聞ゆる句になし侍れば句おかしからず、いかゞといへば、師の曰、いかのぼりの句にしてしかるべしと也。聞の事は何とやらおかしき所有を宜とす。此類の事はある事也。むかしの哥にも、小男鹿のいるのゝ薄初尾花いつしか君がたまくらにせん、と云もその類也。聞とげざれそもあはれなる哥也といひならはしたるとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120~121)

 これは土芳の句。
 「花鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 花に宿る鳥。また、花と鳥。花や鳥。かちょう。《季・春》
  ※後撰(951‐953頃)夏・二一二「はな鳥の色をもねをもいたづらに物うかる身はすぐすのみなり〈藤原雅正〉」

とあるが、「花に宿る鳥」と「花と鳥」では随分の意味が違っていて、それだけでもどっちだろうかと悩ませてしまう。例文の藤原雅正の歌は「花の色」「鳥の音」で「花と鳥」の方であろう。
 土芳の句は、花は咲いて花の雲となり、鳥は雲に向かって高く飛び立つ。そのようにいかのぼり(凧)も空へ勢い良く舞い上がって行く、という句だと思われる。ただ、花の雲と鳥の雲とで雲の意味が違うため、何だろうと思ってしまう。
 この句は元禄八年刊浪化編の『有磯海』では、

 花鳥の空にいそぐやいかのぼり    土芳

と改作されている。これならすっきりだ。花は空に向かって散って行き、鳥も空へと飛び立っていく。そのようにいかのぼりも空へと上がって行く。
 「や」は疑いの「や」で「花鳥の空にいそぐ」を疑うので、こちらが比喩になるため、この句がいかのぼりの句なのは間違いない。
 和歌の方は、

 さ牡鹿の入野の薄初尾花
     いつしか妹が手枕にせむ
            柿本人麻呂(新古今集)

であろう。まあ、薄が手招きしているから、ささ牡鹿が野に入って行くように妹が家に行きたいな、ということか。上句を比喩として下句を言い起す、『詩経』の「桃之夭夭」のような作りになっている。

 「同、都にはふりふりすらん玉の春、といふ句有。これは玉の字分別あり。かくすも無念なるわざとて結句いひ顯したる句といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 「ふりふり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[副]舞い落ちるさま。
  「足を離れて網の上に踊りければ、―と落つる程に」〈今昔・二六・三〉」

とある。「はらはら」に近いようだ。
 「玉の春」は「新玉(あらたまの春」であろう。

 「同、ぬしやたれふたり時雨に笠さして、といふ句あり。是は初五理屈也。なしかゆべしと有。後、跡に月とはいかゞと云ば、宜と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 この場合の笠は傘の方であろう。二人でひとつの傘に入っている度、傘の持ち主はどちらだろうか、という句だが、跡に月だと時雨の後の月という古典的なテーマになる。

 「同、時なる哉柊旅客は笠の端にさゝん、といふ句あり。初の詞過たり。柊を、と計すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 天和の破調の句か。五七五の定型に戻す。柊は立春の時に用いるから、「時なる哉」で春が来た喜びを表したのだろう。

 「同、鶯に橘見する羽ぶき哉、といふ句あり。下の五文字、師の手筋よく思ひ知りたるはと也。四ッ五器のそろはぬ花見心かな、と云も爰なるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 鶯に橘見する羽ぶき哉        土芳

は『続猿蓑』の歳旦のところに収録されている。鶯に橘の取り合わせに「羽ぶき」を取り囃しとする。
 「羽ぶき」は「羽振」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 鳥や虫が羽を強く振ること。はばたき。はたたき。はぶり。
  ※曾丹集(11C初か)「おし鳥のはぶきやたゆきさゆる夜の池の汀に鳴く声のする」

とある。
 鶯と橘の取り合わせだけではただ景物を並べただけで情が生じない、鶯の羽ばたく様を加えることで、動きのある生き生きとした様が加わり、春の目出度さにふさわしいものとなる。

 四ッ五器のそろはぬ花見心かな    芭蕉

の句も花見に用いる食器の揃わないような、という比喩で浮かれた心を表す。これは『炭俵』の句。

 「同、春風や麦の中行水の音、といふ句あり。景氣の句なり。景色は大事の物也。連哥に、景曲といひ、いにしへの宗匠ふかくつゝしみ、一代一兩句に不過。初心まねよき故にいましめたり。俳には連哥ほどにはいまず。惣而景氣の句はふるびやすしとて、つよくいましめ有る也。此春風、景曲第一也とて、かげろふいさむ花の糸に、といふ脇して送られ侍ると也。歌に景曲は、見様躰に屬すと、定家卿もの給ふと也。寂蓮の急雨、定賴の網代木、之見様躰の哥とある俳書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121~122)

 春風や麦の中行水の音        木導

は元禄六年の句で、芭蕉が、

   春風や麦の中行水の音
 かげろふいさむ花の糸口       芭蕉

の脇を付けている。元禄八年刊支考編の『笈日記』にも付け合いとして収録されている。
 春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
 景気は景物ではない。二条良基の『連理秘抄』に、

 「さびしかりけり秋の夕ぐれ といふ句のあらんは、寄合も風情も豊かにて、雲霧草木に付ても付けよくこそあらむずれども、是を人々案じて仕たりと思とも、すべてこの句にかけ合ひたる秀逸は十句に一句も有がたし、その故は、ただ鹿をも啼せ、風をも吹せなどしたる計にては、美しく、秋の夕暮の寂しく、幽かなる景気もあるべからず、只形のごとく時節の景物を案じ得たる許にて、下手はよく付たりと思ふべし」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.33)

とあるように、景物は「物」であって形を整えるだけで、景気は情を伴うものをいう。
 鹿や秋風には確かに情もあるが、長く言い古された景物は、初めてそれを見た時の感動とは程遠い、既に古典の知識の中での存在になっているからだ。

 山吹や蛙飛び込む水の音       芭蕉

の句の山吹は「景物」だが、

 古池や蛙飛び込む水の音       芭蕉

だと「景気」になる。
 それゆえ二条良基の『連理秘抄』でいう景気は、

 「景気 これは眺望などの面白き體を付くべし」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.35)

ということになる。
 ただ、景気は個人的には良い眺望だと思っても、長年に渡ってコード化された景物とは異なり、その意味が伝わりにくい。そのため乱用することを戒めている。乱用すればどうなるかというと、それは近代俳句を見ればいい。
 景色はどれも綺麗なものだし、様々な景色を描くとどれも等価になり特別な意味を持たなくなる。
 どんな平凡な景色でも、自分が明日死ぬと思えば、一つ一つがすべて輝いて愛おしく思えるかもしれない。でもそうした句が大量に作られてしまうと、似たり寄ったりの景色の中に埋没してしまうことになる。
 そのため古来和歌も連歌も心を詠むことを第一にしてきた。心を詠むという基本ができた上で景気を詠むと、自ずと景気に心が乗っかるが、そこまでの力量のない者が安易に景気を詠むことを戒めてきた。古池の句は芭蕉だから詠めたというのはその意味で正しい。確かにただの景色で終わってないからだ。「月やあらぬ」や「時に感じて花にも涙を濺ぎ」の古典の情に通じている。情があってそれに新しい「景気」を与えるというのは、実のところそう簡単ではないからだ。

   春風や麦の中行水の音
 かげろふいさむ花の糸口       芭蕉

この脇は「いさむ」という取り囃しが大事で、平凡な景色の描写に留まる発句に命を与えているといっていい。

2021年4月18日日曜日

 いい天気なんだけどね。
 感染者は増え続けて危険な状態になってきている。日本では法律上ロックダウンは困難なので、超法規的措置で行うか、そうでなければ国民一人一人が自覚するしかない。
 今必要なのは「追及」ではない。みんなで力を合わせてコロナと戦うことだ。本当の敵を見誤るな。

 それでは今日は延宝人のおなまえ。


風の篠原

 「あら何共なや」四句目

   居あひぬき霰の玉やみだすらん
 拙者名字は風の篠原       桃青

 霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。

 ウィキペディアには篠原という名字にはいくつか系統があるという。近江国野洲郡篠原郷の篠原、源師房(村上源氏)を祖とする公家の篠原家、上野国新田郡篠原郷(現在の群馬県太田市)の起源の氏族、尾張国の篠原氏、安房国に進出した篠原氏など。


風の三郎

 「あら何共なや」八十八句目

   米袋口をむすんで肩にかけ
 木賃の夕部風の三郎        桃青

 風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。

 「あら何共なや」八十九句目

   木賃の夕部風の三郎
 韋達天もしばしやすらふ早飛脚   信章

 前句の風神風の三郎を早飛脚とする。
 当時は「風の」のように呼ばれることがよくあったのだろうか。


波の瀬兵衛

 「見渡せば」三十二句目

   一喧嘩岩に残りし太刀の跡
 處立のく波の瀬兵衛       似春

 岩に太刀の跡を残したのは、波の瀬兵衛という刀鍛冶だった。
 波平(なみのひら、なみへい)と呼ばれる波平行安(なみのひらゆきやす)という刀鍛冶が平安時代にいた。それを延宝風に言い換える。


すいたの太郎左

 「塩にしても」二十七句目

   ながるる年は石川五右衛門
 まかなひをすいたの太郎左いかならん 似春

 「吹田の太郎左」という人物はすぐに金を要求する人物なのだろう。モデルになった人がいたのかどうかはよくわからない。


二蔵

 「梅の風」二十三句目

   志賀山の春ふいごふく風
 さざ浪や二蔵が袖にさえかへり  信章

 二蔵は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「二蔵は鍛冶職人の通名」とある。春のふいごふく風に鍛冶屋の二蔵の袖がさえかえり、となる。


源介

 「梅の風」六十六句目

   日本橋ちんば馬にて踏ならし
 方々見せうぞ佐野の源介     信章

 謡曲『鉢木』にも登場する「いざ鎌倉」で有名な佐野源左衛門を延宝風にいうと「佐野の源介」になる。


彦太郎

 「さぞな都」六十一句目

   鞍馬僧正床入の山
 若衆方先筑紫には彦太郎     信章

 鞍馬天狗の御伴の彦山の豊前坊を、若衆方の彦太郎にした。


九郎助

 「さぞな都」八十句目

   熊坂も中間霞引つれて
 山又山や三国の九郎助      信徳

 「三国の九郎」(源九郎義経)を中間の九郎助とする。


忠二郎

 「見渡せば」五十九句目

   善男善四と説せ給ひし
 又爰に孔子字は忠二郎      似春

 孔子の本当の字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。町人っぽく呼び変えた。前句を町人の孔子が説いたことにする。


さぶ様・四郎様・五郎様

 「物の名も」六十七句目

   いつの大よせいつの御一座
 朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の  信徳

 朝比奈三郎は朝比奈義秀で実在の人物だが、遠慮してか「さぶ様」にしている。
 朝比奈四郎は曾我物語の登場人物。朝比奈五郎は知らない。
 前句の大よせ御一座を朝比奈様御一行とする。


与三郎

 「見渡せば」八十一句目

   代八車御幸めづらし
 伺公する例の与三郎大納言    似春

 「伺公」は公文書によく用いられるようだが「伺(うかが)う」ということか。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「烏丸光広大納言が牛車に乗って島原に遊んだという話がある。」とある。
 大八車だから与三郎なんだけど御幸だから大納言になる。ほとん御幸ごっこといっていい。


与市

 「実や月」六句目

   台所棚なし小舟こぎかへり
 下男には与市その時      桃青

 「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。


与作

 「のまれけり」六句目

   碓の音いそがしの松の風
 与作あやまつて仙郷に入     桃青

 次の句で丹波与作に取り成される。


ぬく太郎

 「須磨ぞ秋」四十九句目

   冥きにまよふ道は紙燭で
 口惜の花の契りやぬく太郎    似春

 「ぬく太郎」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「愚かな若者」とある。特に固有名詞だとかモデルとかはないのだろう。


勅使芋原の朝臣蕪房

 「春澄にとへ」八十四句目

   麦星の豊の光を覚けり
 勅使芋原の朝臣蕪房       桃青

 今日勅使河原(てしがわら)という名字の人がいるが、埼玉県児玉郡上里町の勅使河原という地名から来たという。勅使河原直重はウィキペディアに、

 「勅使河原 直重(てしがわら なおしげ、生年不明 - 建武3年(1336年))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。左衛門尉。『太平記』では勅使河原丹三郎で知られる。子に貞直、光重か。
 勅使河原氏は武蔵七党の一つ丹党の流れを汲む。
 南北朝の動乱が勃発すると、直重は南朝方として新田義貞に従う。後醍醐天皇や義貞と対立し一時は九州へ没落していた足利尊氏が、勢力を巻き返し軍勢を率い京へ進軍してくると、義貞は迎撃するが大渡で敗れた。『太平記』によると、大渡で敗れた直重は三条河原で奮戦するも、後醍醐が比叡山へ脱出したことを知ると悲嘆し、羅城門近くで子と共に自刃した。」

とある。五十六句目と六十五句目に『太平記』ネタがあるから、ここから取った可能性は十分ある。
 麦星の貧しそうなイメージから勅使芋原の朝臣蕪房という架空の人物を作る。「蕪房」は桃青の宗房をもじったか。


慈悲斉

 「鷺の足」六十句目

   侘雀畫眉を客によびけらん
 慈-悲-斉が閑つれづれにして   其角

 前句の「らん」を反語から推量に取り成す。「侘雀わびすずめ」の名は慈-悲-斉じひさい。その場の思いつきで作った適当な名前だろう。


しら藤

 「あら何共なや」七十八句目

   衣装絵の姿うごかす花の風
 匂ひをかくる願主しら藤      信徳

 前句の衣装絵を願掛けの絵馬とする。願主は「しら藤」、源氏名だろうか。


まつ虫・鈴虫

 「物の名も」四十句目

   秋の哀隣の茶屋もはやらねば
 松むし鈴虫轡たふるる      信徳

 松むし鈴虫は遊女の源氏名で、「轡(くつわ)」は下級の轡女郎のこと。


法印・法眼・法橋

 「いと涼しき」二十三句目

   参台過て既に在江戸
 時を得たり法印法橋其外も    信章

 「法印」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「僧綱(そうごう)の最上位。法印大和尚位とも。法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の上。864年定められ,空海,最澄,真雅の3人に授けられたのが最初。創設当初は官位では従2位に相当。中世以降仏師,社僧,医師,連歌師などにも与えられる称号となった。」

とあり、「法橋(ほっきょう)」は、

 「日本の僧位の一つ。僧綱(そうごう)の最下位である律師に与えられる。法橋上人位とも。官位でははじめ正4位に相当。法印と同様,中世・近世では僧以外にも与えられた。」

とある。
 法印の位に付いた連歌師というと中世では心敬がいる。季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。尾形光琳も後に法橋になる。
 法印法橋といった僧位を得て江戸に移住すれば、それこそ出世コースの頂点と言えよう。宗因は大阪天満宮の連歌宗匠にはなったが、特に法位はなかったようだ。

 「世に有て」八十六句目

   夜々に来て上るり語る聲細く
 法眼が書し武者絵とやらん    才丸

のように位を表す法眼も、実際には名前のように用いられて「法眼」というだけで狩野安信だとわかったのだろう。


太夫

 「いと涼しき」三十四句目

   露時雨ふる借銭の其上に
 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
 延宝ではなく寛文の頃だが、宗因独吟「花で候」の巻の挙句に。

   さしにさしお為に送る花の枝
 太夫すがたにかすむ面影     宗因

の句がある。


公方

 「梅の風」五句目

   けんやくしらぬ心のどけき
 してここに中比公方おはします  信章

 公方様、つまり将軍様なら倹約令は関係ない。さぞのどかだろうなと皮肉る。
 おそらく「公方」というだけでその時の公方を指していたのだろう。ただ、今の公方様と思われてはいけないから、一応「中比(なかごろ)」とことわっておく。
 今日だと「天皇陛下」という場合は今の天皇を指す。名前で呼ぶことはまずない。

2021年4月17日土曜日

 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)を読み始めた。主に江戸後期を取り扱った本なので、芭蕉の時代はまた多少違うかもしれない。江戸時代後期の本には俳諧師の雅号の上に苗字が書いてあることが多いが、前期ではほとんど苗字を見ない。
 代わりに、芭蕉が伊賀にいた頃宗房を名乗っていたように、貞門の俳諧師は雅号でなく名乗りを用いているが、この習慣は談林以降廃れてしまったようだ。
 あと、もし自分が江戸時代にタイムスリップした場合、名前がないというの気付いた。俳諧師として生きられるなら鈴呂屋こやんでも大丈夫そうだが、そうでなく普通に町人になる場合の名前がない。
 鈴呂屋は屋号でこやんは雅号。今の時代の本名は苗字と名乗りだが、名字も名乗りも日常生活ではほとんど使わないという。証文を交わすときに書く名前がない。つまり今の日本人が江戸時代にタイムスリップしたら、名前に「すけ」「へい」「ろう」などがつく人以外はみんな名無しの権兵衛になるわけだから、そのときはいっそ権兵衛を名前とすればいいのではないか。
 というわけで、江戸時代ネームは鈴呂屋権兵衛に決定。
 あと、鈴呂屋書庫に延宝九年の「世に有て」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは延宝シリーズで、今日は医に関係しそうなものを集めてみた。

傷寒(しようかん)、狭義

 「此梅に」六十四句目

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮
 多くは傷寒萩の上風         桃青

 「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」

とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、

 「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」

とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりした。


傷寒(しようかん)、広義

 「さぞな都」三十七句目

   迷ひ子の母腰がぬけたか
 傷寒を人々いかにととがめしに  信章

 「傷寒」はウィキペディアに、

 「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」

とある。そしてその治療を廻って後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した『傷寒論』の翻刻、注釈が繰り返されてきた。
 まあ、近代でも風邪の特効薬を作ったらノーベル賞なんて言われてきたが、ウィルスの存在を知らなかった時代には効果的な予防法もなく厄介な病気で、ウィルスの型によっては多くの死者も出してきたのだろう。大正時代のスペイン風邪や今日の新型コロナも、おそらくこの傷寒に含まれるのではないかと思う。現代の中国医学では別の意味で使われているようだが。


針立

 「須磨ぞ秋」二十六句目

   朝めしをまつ間ほどふる我恋は
 時雨の松の針立をよぶ      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 わが戀は松を時雨の染めかねて
     眞葛が原に風さわぐなり
              前大僧正慈圓(新古今集)

の歌を引いている。
 時雨の雨で松を染めるのではなく松の針に掛けて鍼医を呼ぶ。

 「青葉より」二十七句目

   杉の庵に腹ぞさびしき
 針立の玄賓僧都見まはれて    桃青

 玄賓僧都はウィキペディアに、

 「玄賓(げんぴん、天平6年(734年)- 弘仁9年6月17日(818年7月23日))は、奈良時代から平安時代前期の法相宗の僧。河内国の出身。俗姓は弓削氏。
 興福寺の宣教に法相教学を学び、その後伯耆国会見郡に隠棲し、その後備中国哲多郡に移った。805年(延暦24年)桓武天皇の病気平癒を祈願し、翌806年(延暦25年)大僧都に任じられたが玄賓はこれを辞退している。」

とある。
 鴨長明の『発心集』には、

 「むかし、玄敏僧都(げんぴんそうず)といふ人ありけり。山科寺の、やんごとなき智者なりけれど、世をいとふ心深くして、さらに寺のまじはりを好まず。三輪河のほとりに、わづかなる草の庵をむすびてなん、思ひ入つゝ住みける。
 桓武の御門の御時、この事きこしめして、あながちにめし出だしければ、逃るべきかたなくて、なまじゐに交はりけり。されども、なほ本意ならず思ひけるにや、奈良の御門の御代に、大僧都になし給けるを辞し申すとて詠める、

 三輪川のきよき流れにすすぎてし
     ころもの袖をまたはけがさじ

とてなん奉りける。」

とある。三輪の大神(おおみわ)神社の神杉の縁で、杉の庵の主を玄敏僧都とする。
 桓武天皇の病気平癒を祈願だけでなく平城上皇の病気平癒も行っているが、ここでは針立(針治療)の医者とした。その都度禄を断っているので腹はすいてる。


有馬の湯

 「青葉より」二十八句目

   針立の玄賓僧都見まはれて
 秋果ぬれば湯山の月       似春

 鴨長明の『発心集』に玄賓の、

 山田もるそうづの身こそあはれなれ
     秋はてぬれどとふ人もなし

の歌がある。
 前句を玄賓が針立のお世話になってとして、それでも病気が治らず有馬の湯で療養する。


腰寒き

 「世に有て」五十五句目

   雪のから鮭に文付てやる
 衰へや火桶の嫗の腰寒き     其角
 (衰へや火桶の嫗の腰寒き雪のから鮭に文付てやる)

 火桶は火鉢のこと。「嫗」は「うば」と読む。
 年寄りの腰が冷えるのは自律神経の問題で血管運動神経失調から血流が衰えるからだという。しっかり栄養を取ってもらおうと乾鮭を送る。


お灸

 「わすれ草」二十五句目

   脛の白きに銭をうしなふ
 滑川ひねり艾に火をとぼし    桃青

 前句をお灸でお金を支払ったとする。
 滑川(なめりがわ)は鎌倉の朝比奈を水源として鎌倉市街の東を通り由比ガ浜と材木座海岸の間にそそぐ川だが、ここで滑る川という意味で滑って転んで足をひねって艾(もぐさ)に火をつけて、となる。


膏薬

 「須磨ぞ秋」九十七句目

   蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ
 千年の膏薬既に和らぎて     桃青

 千年の膏薬は前句の蝦蟇を受けての蝦蟇の油のことであろう。ウィキペディアには、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。」

とある。


膏薬屋、藤の丸

 「須磨ぞ秋」九十八句目

   千年の膏薬既に和らぎて
 折ふし松に藤の丸さく      桃青

 「藤の丸」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「小田原の膏薬屋、藤の丸。三都に出店があり、有名。」とある。コトバンクの膏薬屋のところの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 膏薬を売る店。また、膏薬を売る行商人。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)二「藤の丸の膏薬屋(カウヤクヤ)にたより」

という西鶴の例文がある。


外郎

 「いと涼しき」六十五句目

   伽羅の油に露ぞこぼるる
 恋草の色は外郎気付にて    似春

 「外郎」はウィキペディアに、

 「ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。」

とある。気付け薬にも用いられた。
 仁丹に似た銀色の小さな粒は「露」を思わせる。募り募った恋草の色は外郎気付けのような露のようにこぼれる、と付く。


徐福の薬

 「梅の風」五十一句目

   草もえあがる秦の虫くそ
 あさ霞徐福が似せのうり薬    信章

 徐福は不老不死の薬を求めて蓬莱山へ行ったというが、その蓬莱山が実は日本だったという伝説もある。日本には徐福の求めた薬があるということで、これがそれだといって偽物を売るのは昔からあったのだろう。今でも徐福の名を語って霊芝というキノコが売られている。


粉薬

 「あら何共なや」二十四句目

   よし野川春もながるる水茶碗
 紙袋より粉雪とけ行       信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「薬袋」とした、とある。
 紙袋から出した粉薬を粉雪に見立て、水茶碗の水に溶け行く、とする。


石の綿

 「あら何共なや」七十二句目

   前は海入日をあらふうしろ疵
 松が根まくら石の綿とる      信徳

 石綿はここではアスベストではなく「ほこりたけ(埃茸)」の異名だという。ウィキペディアに、

 「漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血、消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる。西洋でも、民間薬として止血に用いられたという。
 ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく独自の経験則に基づいて、止血用などに用いられていたのも確かであろうと考えられている。」

とある。松の根を枕にして休み、怪我したからホコリタケで血を止める。


血の道

 「須磨ぞ秋」二十三句目

   青柳よわき女房あなづる
 血の道気うらみ幾日の春の雨   似春

 「血の道」は血の道症でウィキペディアに、

 「血の道症(ちのみちしょう)とは、月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことである。なお、医学用語としては、これら女性特有の病態を表現する日本独自の病名として江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語である「血の道」について、1954年九嶋による研究によって西洋医学的な検討が加えられ「血の道症」と定義された。」

とある。


西瓜と腫気

 「見渡せば」七十八句目

   腫気のさす姿忽花もなし
 春半より西瓜は西瓜は      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「西瓜は腫気の薬」とある。確かに今日でもシトルリンというアミノ酸が血流を促し、むくみを解消すると言われている。その一方でカリウムが多いので腎臓に悪いとも言われている。
 西瓜は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[和漢三才図会]慶安中、黄檗隠元入朝の時、西瓜・扁豆等の種を携へ来り、始て長崎に植。[本朝食鑑]水瓜は西瓜也。俗に、瓜中水多し、故に名く。[大和本草]三月種を下し、蔓延て地に布。四五月黄花を開く。甜瓜の花のごとし。」

とある。春半ばではこれから種を蒔く頃だ。


薬ちがい

 「須磨ぞ秋」五十六句目

   長髪の霜より霜に朽んとは
 薬ちがひに風寒るまで      似春

 薬が合わなくて、副作用でぼろぼろになってしまった。「寒る」は「さゆる」と読む。
 薬と白髪の因果関係ははっきりしないが、今日だと覚せい剤や合成麻薬で頭が白くなることはあるらしい。直接の因果関係はなくても、体が極度に衰弱すれば白髪になることはありうる。


堕胎薬

 「須磨ぞ秋」五十七句目

   薬ちがひに風寒るまで
 幾月の小松がはらや隠すらん   桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「小松が妊娠幾月かの腹をかくそうとして、薬をのんだ。前句の薬を堕胎薬とした。」

とある。
 江戸時代には中条流と称する怪しげな堕胎をする医者がいて、中条丸という薬があったという。成分に水銀が含まれていたという。


ふのり紙

 「物の名も」十三句目

   かたちは鬼の火鉢いただく
 紙ふのり伊勢の国より上りけり  信徳

 「神風の伊勢」を「紙ふのりの伊勢」にする。「ふのり」は食用の海藻で伊勢の名産だが、「ふのり紙」は全く別のものになる。weblioで検索するとウィキペディアの「通和散」の所に転送されたが、そこに、

 「通和散(つうわさん)は、江戸時代に市販されていた日本のぬめり薬である。閨房で使う秘薬の一種。今で言うラブローションである。主に男色の時の肛門性交で使われたが、未通女の初交や水揚げの時など男女間の性交でも用いることがあった。当時の有名な秘薬で、川柳や春本でもよく取り上げられている。練り木、白塗香、ふのり紙、高野糊などの別称がある。」

とある。前句を男色の体位とし、ふのり紙を付ける。


薬草喩品

 「実や月」八句目

   乗物を光悦流にかかれたり
 薬草喩品くすりごしらへ    紀子

 「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。

2021年4月16日金曜日

  昨日ようやく近くのスーパーで台湾パイナップルを見つけたが、これが大外れだった。中身が真っ白でぱさぱさで味がない。パイナップルは置いておいても熟さないというので、仕方ないからヨーグルトと牛乳と砂糖を加えてスムージーにした。夕飯には酢豚を作った。
 コロナの方も減る気配がないので、とにかく去年の今頃を思い出して、もう一度あれをやりましょう。去年できたことが今年できないはずがない。籠城じゃ。
 さて、今回は延宝の有名人とも被る所もあるが、延宝の芸能を。

浄瑠璃

 「此梅に」六十八句目

   判官の身はうき雲のさだめなき
 時雨ふり置むかし浄瑠璃       桃青

 浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。
 この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。
 それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。

芝居破り

 「物の名も」六十八句目

   朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の
 地獄やぶりや芝居やぶりや    桃青

 古浄瑠璃には「義経地獄破」があるという。朝比奈三郎は門破り。芝居破りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (芝居が終わると、見物席の客を追い出すように出すところから) 芝居興行、見世物、また遊山(ゆさん)などの終わり。
  ※慶長見聞集(1614)二「皆人、名残惜思ふ処に風呂あかりの遊びおどりを芝居やぶりに仕へしとことはる」
  ※浮世草子・色里三所世帯(1688)上「是が今日の御遊山の芝居(シバヰ)やふり」

とある。
 義経地獄破、朝比奈三郎門破りの芝居を観たらあとは芝居破り。


からくり芝居

 「青葉より」六句目

   糸よせてしめ木わがぬる秋の風
 天下一竹田稲色になる      桃青

 天下一竹田は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「竹田近江」とある。ウィキペディアに、

 「初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。」

 「万治元年(1658年)、京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年(1659年)に近江掾を再び受領し竹田近江と改名する。そののち寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。」

とある。


人形芝居

 「時節嘸」三十三句目

   雨や黒茶を染て行覧
 消残る手摺の幕の夕日影

 順番からすると桃青の番。
 「手摺(てすり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「② (「てずり」「ですり」とも) 人形芝居の舞台前面に、人形遣いの腰から下を隠すために設けたしきり。舞台から客席まで三段にしきられ奥から(現在では手前から)一の手(本手)・二の手・三の手と呼ぶ。
  ※俳諧・芭蕉真蹟懐紙‐時節嘸歌仙(1676)「雨や黒茶を染て行覧〈芭蕉〉 消残る手摺の幕の夕日影〈杉風〉」
  ※随筆・本朝世事談綺(1733)三「辰松は人形に手練し、上下を着し、手摺(デスリ)をはなれて」

とある。

 「あら何共なや」九十六句目

   人形の鍬の下より行嵐
 畠にかはる芝居さびしき      信徳

 仮説の芝居小屋は去って行って元の畠に戻る。人形劇は嵐のように去っていった。


水からくり

 「見渡せば」九十五句目

   からくりの天下おだやかにして
 臣は水およぎ人形波風も     桃青
 (からくりの天下おだやかにして臣は水およぎ人形波風も)

 「およぎ人形」は不明だが、水からくりの一種で、そういうからくり人形があったのだろう。「水からくり」はコトバンクの「世界大百科事典内の水からくりの言及」に、

 「…水を用いて種々のからくりを見せる見世物の一種。水からくり。水を利用した仕掛物は,すでに寛文期(1661‐73)から行われている。…」

とある。また、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「演劇,芸能におけるからくりの一種。水力を利用した仕掛けで人形などを動かしてみせる演芸。江戸時代には,からくり専門の一座の人気番組の一つに加えられ,操 (あやつり) 浄瑠璃や歌舞伎にも用いられた。水芸もその一種である。」

とある。


小謡(こうたひ)

 「梅の風」八十九句目

   気根の色を小謡に見す
 朝より庭訓今川童子教      信章

 「庭訓(ていきん)」は『庭訓往来』で手紙の体裁で日常の語句を解説した本。「今川」は『今川状』で今川了俊の二十三か条の家訓。『童子教』はウィキペディアに、

 「鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。女子向けの「女童子教」など、「○○童子教」といったさまざまな対象に向けた類書も書かれた。」

とある。いずれも子供の教育に欠かせないものだった。ただ、寺子屋が広まってったのは江戸中期以降で、この頃はまだ稀だったのではないかと思う。
 小謡(こうたひ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「能の用語。謡曲のなかから独吟に適するようなごく短い一節を取り出したもの。小謡用の箇所は指定されているのが普通である。節付けの細かい、叙景や叙情を内容とする「上歌(あげうた)」が多く、内容やうたう場合によって祝言、送別、追善、四季用などに分かれる。婚礼や宴席でめでたい小謡をうたう風習は今日でもまだ各地に残っているが、とくに江戸時代以降は小謡本の刊行が盛んで、一曲を通して稽古(けいこ)する素謡(すうたい)とは別の簡便な形として民衆の間に流行し、小謡本が寺子屋の教本に用いられるほどであったという。[増田正造]」

とある。小謡も子供の学習に利用されていたので、謡曲の言葉が共通語として通用したのだろう。庭訓今川童子教プラス小謡で子供のころから気根を養う。


新狂言、野郎歌舞伎

 「あら何共なや」四十三句目

   文正が子を恋路ならなん
 今日より新狂言と書くどき    桃青

 「新狂言」は歌舞伎の「狂言尽」のことであろう。歌舞伎が半ば売春に走っていた時代から野郎歌舞伎として真面目なお芝居へと変わっていったときに、幕府からも「物真似狂言尽」として許可されるようになった。
 前句を新狂言の演目とし、役人を納得させる。ウィキペディアに、

 「歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を『野郎歌舞伎』と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。」

とある。二十六句目の役者の紋のついた楊枝といい、延宝五年は野郎歌舞伎の全盛期だった。


野郎歌舞伎、紋楊枝

 「あら何共なや」二十六句目

   風青く楊枝百本けづるらん
 野郎ぞろへの紋のうつり香    信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紋楊枝のことだとある。紋楊枝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、歌舞伎役者などの定紋をつけた楊枝。
  ※俳諧・大矢数千八百韻(1678)一二「紋楊枝十双倍にうりぬらん 人をぬいたる猿屋か眼」

とある。どういう形状の楊枝かはよくわからない。
 西鶴の大矢数の句は役者の紋の入った楊枝が二十倍で売れるというのだから、この頃にも転売ヤーがいたのか。そこで「猿屋」が登場している。日本橋さるやは宝永の創業なのでこの頃はまだなかったが、元禄の頃に書かれた『人倫訓蒙図彙』に「猿は歯白き故に楊枝の看板たり」とあるらしく(ウィキペディアによる)、猿屋を名乗る楊枝屋はそれ以前にもあったのだろう。


野郎歌舞伎、六方

 「此梅に」十四句目

   青鷺の又白さぎの権之丞
 森の下風木の葉六ぱう        桃青

 「六方」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「歌舞伎(かぶき)演出用語。六法とも書く。手足と体を十分に振り、誇張的な動作で歩く演技。勇武と寛闊(かんかつ)な気分を表すもので、荒事(あらごと)演出では重要な技法の一つになっている。語源については諸説あるが、発生的には古来の芸能の歩く芸の伝統を引くもので、祭祀(さいし)に「六方の儀」と称する鎮(しず)めの儀式があったことから、両手を天地と東西南北(前後左右)の六方に動かすことの意にとるのが妥当のようだ。ほかに、江戸初期の侠客(きょうかく)グループ六方組から出たというのは俗説だが、当時の「かぶき者」たちが丹前風呂(たんぜんぶろ)へ通うときの動作を模したものは、丹前六方とよばれ、現在でも『鞘当(さやあて)』などにみられる。荒事系の技法では、手足の極端な動きによって強さを強調しながら花道を引っ込む「飛(とび)六方」が代表的なもので、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内(わとうない)、『車引(くるまびき)』の梅王丸、『勧進(かんじん)帳』の弁慶などが有名。その変形として片手六方、狐(きつね)六方、泳ぎ六方などがある。人形浄瑠璃(じょうるり)や民俗芸能にも「六方」と称する足の動きの技法が伝えられている。」

とある。
 野郎歌舞伎は新狂言とも呼ばれていたが、ここでは鷺流の狂言との混同があるのか。


六方、小坊主

 「須磨ぞ秋」四十四句目

   はやりうたさすが名をえし其身とて
 でつち小坊主男なりひら     桃青

 小坊主は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に小坊主小兵衛とある。坊主小兵衛のことであろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「生年:生没年不詳
初期歌舞伎の道外形の歌舞伎役者。月代を左右深く剃り下げる糸鬢という髪型にしていたので,この名が付いた。この風貌が人々に親しまれたようで,のちにこれを真似て坊主段九郎,坊主百兵衛,小坊主などと名乗って糸鬢で道外六法をした役者もあったが,小兵衛ほどの人気を得ることはできなかった。また歌舞伎役者に似せた五月人形を作ることはこの人に始まり,その後多くの役者人形が作られたという。歌舞伎の評判記が出る以前の役者なので,芸風経歴など詳しいことはわかっていない。山東京伝が『近世奇跡考』に「小兵衛人形」の項目を立て,若干の考察を加えている。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1期(北川博子)」

とある。


野郎歌舞伎、女形

 「さぞな都」六十二句目

   若衆方先筑紫には彦太郎
 かづらすがたや右近なるらん   信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に右近源左衛門とある。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:没年不詳(没年不詳)

  生年:元和8(1622)

 初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目に狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)(北川博子)」

とある。


女形

 「青葉より」二十二句目

   ふり袖の薄も髭と生出て
 小町が果の女方ども       似春

 小野小町も老いれば卒塔婆小町になるように、美しかった女方の役者も寄る年波には勝てず、化粧の乗りが悪くなり髭を隠せなくなる。


物真似芸

 「わすれ草」十一句目

   あるひはでつち十六羅漢
 又男が姿かたちはかはらねど   千春

 「又男」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「大阪の物真似の名人。『物種集』序に『川原もの又男がつけ髪松千代が柿頭巾もかづき物ぞかし』。」

とある。ネット上にある石井公成『物真似芸の系譜─仏教芸能との関係を中心にして─(上)』に、

 「そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁王や十六羅漢や観音の三十三身を演じることで有名だった。」

とあるが、同じ人か。


ひとり狂言

 「須磨ぞ秋」十四句目

   置頭巾額にたたむさざなみや
 洲崎の松のひとり狂言      桃青

 洲崎の松は滋賀唐崎のひとつ松のこと。その「ひとつ」に掛けて一人狂言を導き出す。一人狂言はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 「一人芝居」に同じ。
  2 シテが独演する特殊な本狂言。現行曲中にはないが、番外曲として数曲伝えられている。」

とある。置頭巾が用いられたのか。


仕形咄

 「此梅に」十一句目

   ひとかいあまりすみよしの松
 淡路島仕形ばなしの余所にみて    信章

 「仕形咄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 手ぶり、身ぶりして語る話。
  ※雲形本狂言・空腕(室町末‐近世初)「いかな仕方咄(シカタバナシ)なればとて、某(それがし)の首を討おとす真似をするといふ事が有物か」
  ② 江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。
  ※雑俳・住吉おどり(1696)「手を出して・しかた咄をせぬあを屋」

とある。


小歌

 「さぞな都」発句

 さぞな都浄瑠璃小哥はここの花  信章

 「浄瑠璃」はこの頃の主に古浄瑠璃で、寛文の頃から浄瑠璃本が多く出版された。人形劇も盛んになり、やがて元禄の頃に人形浄瑠璃文楽として確立されてゆく。
 延宝四年の「時節嘸」の巻の三十三句目に、

   雨や黒茶を染て行覧
 消残る手摺の幕の夕日影

の句があるように、文楽のような後ろから操るタイプの人形劇が盛んで、文楽の舞台にもあるような「手摺」がこの頃にあったことが窺われる。
 小哥(小歌)は江戸末期にうまれた「小唄」とは別のもので、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「歌謡。古く「大歌」に対する名称として記録にみえるが,普通室町時代から江戸時代にかけて流行した歌謡をいい,三味線伴奏の歌曲はそれぞれの伝承種目で呼ばれるため,狭義には除外される。しかし現在伝承が絶えている江戸時代初期の流行小編歌謡の総称として,近世初期小歌などということもある。ただし,江戸時代末期から明治に発生した三味線小曲は「小唄」と書いて区別される。現存する小歌集としては,『閑吟集』 (1518) ,『宗安小歌集』 (1600頃) ,『隆達小歌集』 (1593) などがある。狂言のなかに含まれているものもあり,一般に狂言小歌と総称するが,狂言における「小歌」は,ごく特定の狂言謡をいい,狂言小歌にあたるものは小舞謡のことである。伴奏楽器には扇拍子や一節切 (ひとよぎり) という尺八の一種を用いたといわれる。曲調は滅びてしまってわからないが,狂言歌謡に遺存するものや三味線組歌などから類推することができる。詞形はかなり自由で,七五七五調,七七七五調,自由な口語調とさまざまである。」

とある。


弄斎節と片撥

 「此梅に」六十九句目

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

とある。
 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。


はやり歌

 「のまれけり」七句目

   与作あやまつて仙郷に入
 はやり哥も雲の上まで聞えあげ  春澄

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 与作思へば照る日も曇る 関の古万が涙雨

という当時の流行歌があったという。
 「丹波与作」をコトバンクでみると、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「丹波の馬方。のち江戸へ出て出世し、武士になった。寛文(1661~1673)ごろから、関の小万との情事を俗謡に歌われ、浄瑠璃・歌舞伎にも脚色された。」

とある。

 「須磨ぞ秋」四十三句目

   既によし原の合戦破れし
 はやりうたさすが名をえし其身とて 似春

 この頃はまだ江戸後期のような一般に知られているような小唄はなく、長唄・端唄も元禄の浄瑠璃から派生したものだから、まだ早い。かといって弄斎・片撥は寛永のころになってしまう。延宝の頃のはやり歌はどのようなものだったか。
 寛文の頃の『糸竹初心集』の俗謡が短い歌詞の、のちの小唄の原型のようなものだったと思われるし、こうした古いものも含めて広義で「小唄」と呼ばれることもある。延宝期もおそらくこのようなものだったのだろう。ネット上の林謙三さんの『江戸初期俗謡の復原の試み ─特に糸竹初心集の小唄について』に詳しい。


つれぶし

 「さぞな都」四十五句目

   舞台に出る胡蝶うぐひす
 つれぶしには哥うたひの蛙鳴   桃青

 「つれぶし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 他の人とともに節を合わせてうたうこと。つれ。
  ※俳諧・貝おほひ(1672)序「右と左にわかちて、つれぶしにうたはしめ」

とある。