2021年4月17日土曜日

 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)を読み始めた。主に江戸後期を取り扱った本なので、芭蕉の時代はまた多少違うかもしれない。江戸時代後期の本には俳諧師の雅号の上に苗字が書いてあることが多いが、前期ではほとんど苗字を見ない。
 代わりに、芭蕉が伊賀にいた頃宗房を名乗っていたように、貞門の俳諧師は雅号でなく名乗りを用いているが、この習慣は談林以降廃れてしまったようだ。
 あと、もし自分が江戸時代にタイムスリップした場合、名前がないというの気付いた。俳諧師として生きられるなら鈴呂屋こやんでも大丈夫そうだが、そうでなく普通に町人になる場合の名前がない。
 鈴呂屋は屋号でこやんは雅号。今の時代の本名は苗字と名乗りだが、名字も名乗りも日常生活ではほとんど使わないという。証文を交わすときに書く名前がない。つまり今の日本人が江戸時代にタイムスリップしたら、名前に「すけ」「へい」「ろう」などがつく人以外はみんな名無しの権兵衛になるわけだから、そのときはいっそ権兵衛を名前とすればいいのではないか。
 というわけで、江戸時代ネームは鈴呂屋権兵衛に決定。
 あと、鈴呂屋書庫に延宝九年の「世に有て」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは延宝シリーズで、今日は医に関係しそうなものを集めてみた。

傷寒(しようかん)、狭義

 「此梅に」六十四句目

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮
 多くは傷寒萩の上風         桃青

 「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」

とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、

 「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」

とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりした。


傷寒(しようかん)、広義

 「さぞな都」三十七句目

   迷ひ子の母腰がぬけたか
 傷寒を人々いかにととがめしに  信章

 「傷寒」はウィキペディアに、

 「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」

とある。そしてその治療を廻って後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した『傷寒論』の翻刻、注釈が繰り返されてきた。
 まあ、近代でも風邪の特効薬を作ったらノーベル賞なんて言われてきたが、ウィルスの存在を知らなかった時代には効果的な予防法もなく厄介な病気で、ウィルスの型によっては多くの死者も出してきたのだろう。大正時代のスペイン風邪や今日の新型コロナも、おそらくこの傷寒に含まれるのではないかと思う。現代の中国医学では別の意味で使われているようだが。


針立

 「須磨ぞ秋」二十六句目

   朝めしをまつ間ほどふる我恋は
 時雨の松の針立をよぶ      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 わが戀は松を時雨の染めかねて
     眞葛が原に風さわぐなり
              前大僧正慈圓(新古今集)

の歌を引いている。
 時雨の雨で松を染めるのではなく松の針に掛けて鍼医を呼ぶ。

 「青葉より」二十七句目

   杉の庵に腹ぞさびしき
 針立の玄賓僧都見まはれて    桃青

 玄賓僧都はウィキペディアに、

 「玄賓(げんぴん、天平6年(734年)- 弘仁9年6月17日(818年7月23日))は、奈良時代から平安時代前期の法相宗の僧。河内国の出身。俗姓は弓削氏。
 興福寺の宣教に法相教学を学び、その後伯耆国会見郡に隠棲し、その後備中国哲多郡に移った。805年(延暦24年)桓武天皇の病気平癒を祈願し、翌806年(延暦25年)大僧都に任じられたが玄賓はこれを辞退している。」

とある。
 鴨長明の『発心集』には、

 「むかし、玄敏僧都(げんぴんそうず)といふ人ありけり。山科寺の、やんごとなき智者なりけれど、世をいとふ心深くして、さらに寺のまじはりを好まず。三輪河のほとりに、わづかなる草の庵をむすびてなん、思ひ入つゝ住みける。
 桓武の御門の御時、この事きこしめして、あながちにめし出だしければ、逃るべきかたなくて、なまじゐに交はりけり。されども、なほ本意ならず思ひけるにや、奈良の御門の御代に、大僧都になし給けるを辞し申すとて詠める、

 三輪川のきよき流れにすすぎてし
     ころもの袖をまたはけがさじ

とてなん奉りける。」

とある。三輪の大神(おおみわ)神社の神杉の縁で、杉の庵の主を玄敏僧都とする。
 桓武天皇の病気平癒を祈願だけでなく平城上皇の病気平癒も行っているが、ここでは針立(針治療)の医者とした。その都度禄を断っているので腹はすいてる。


有馬の湯

 「青葉より」二十八句目

   針立の玄賓僧都見まはれて
 秋果ぬれば湯山の月       似春

 鴨長明の『発心集』に玄賓の、

 山田もるそうづの身こそあはれなれ
     秋はてぬれどとふ人もなし

の歌がある。
 前句を玄賓が針立のお世話になってとして、それでも病気が治らず有馬の湯で療養する。


腰寒き

 「世に有て」五十五句目

   雪のから鮭に文付てやる
 衰へや火桶の嫗の腰寒き     其角
 (衰へや火桶の嫗の腰寒き雪のから鮭に文付てやる)

 火桶は火鉢のこと。「嫗」は「うば」と読む。
 年寄りの腰が冷えるのは自律神経の問題で血管運動神経失調から血流が衰えるからだという。しっかり栄養を取ってもらおうと乾鮭を送る。


お灸

 「わすれ草」二十五句目

   脛の白きに銭をうしなふ
 滑川ひねり艾に火をとぼし    桃青

 前句をお灸でお金を支払ったとする。
 滑川(なめりがわ)は鎌倉の朝比奈を水源として鎌倉市街の東を通り由比ガ浜と材木座海岸の間にそそぐ川だが、ここで滑る川という意味で滑って転んで足をひねって艾(もぐさ)に火をつけて、となる。


膏薬

 「須磨ぞ秋」九十七句目

   蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ
 千年の膏薬既に和らぎて     桃青

 千年の膏薬は前句の蝦蟇を受けての蝦蟇の油のことであろう。ウィキペディアには、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。」

とある。


膏薬屋、藤の丸

 「須磨ぞ秋」九十八句目

   千年の膏薬既に和らぎて
 折ふし松に藤の丸さく      桃青

 「藤の丸」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「小田原の膏薬屋、藤の丸。三都に出店があり、有名。」とある。コトバンクの膏薬屋のところの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 膏薬を売る店。また、膏薬を売る行商人。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)二「藤の丸の膏薬屋(カウヤクヤ)にたより」

という西鶴の例文がある。


外郎

 「いと涼しき」六十五句目

   伽羅の油に露ぞこぼるる
 恋草の色は外郎気付にて    似春

 「外郎」はウィキペディアに、

 「ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。」

とある。気付け薬にも用いられた。
 仁丹に似た銀色の小さな粒は「露」を思わせる。募り募った恋草の色は外郎気付けのような露のようにこぼれる、と付く。


徐福の薬

 「梅の風」五十一句目

   草もえあがる秦の虫くそ
 あさ霞徐福が似せのうり薬    信章

 徐福は不老不死の薬を求めて蓬莱山へ行ったというが、その蓬莱山が実は日本だったという伝説もある。日本には徐福の求めた薬があるということで、これがそれだといって偽物を売るのは昔からあったのだろう。今でも徐福の名を語って霊芝というキノコが売られている。


粉薬

 「あら何共なや」二十四句目

   よし野川春もながるる水茶碗
 紙袋より粉雪とけ行       信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「薬袋」とした、とある。
 紙袋から出した粉薬を粉雪に見立て、水茶碗の水に溶け行く、とする。


石の綿

 「あら何共なや」七十二句目

   前は海入日をあらふうしろ疵
 松が根まくら石の綿とる      信徳

 石綿はここではアスベストではなく「ほこりたけ(埃茸)」の異名だという。ウィキペディアに、

 「漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血、消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる。西洋でも、民間薬として止血に用いられたという。
 ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく独自の経験則に基づいて、止血用などに用いられていたのも確かであろうと考えられている。」

とある。松の根を枕にして休み、怪我したからホコリタケで血を止める。


血の道

 「須磨ぞ秋」二十三句目

   青柳よわき女房あなづる
 血の道気うらみ幾日の春の雨   似春

 「血の道」は血の道症でウィキペディアに、

 「血の道症(ちのみちしょう)とは、月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことである。なお、医学用語としては、これら女性特有の病態を表現する日本独自の病名として江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語である「血の道」について、1954年九嶋による研究によって西洋医学的な検討が加えられ「血の道症」と定義された。」

とある。


西瓜と腫気

 「見渡せば」七十八句目

   腫気のさす姿忽花もなし
 春半より西瓜は西瓜は      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「西瓜は腫気の薬」とある。確かに今日でもシトルリンというアミノ酸が血流を促し、むくみを解消すると言われている。その一方でカリウムが多いので腎臓に悪いとも言われている。
 西瓜は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[和漢三才図会]慶安中、黄檗隠元入朝の時、西瓜・扁豆等の種を携へ来り、始て長崎に植。[本朝食鑑]水瓜は西瓜也。俗に、瓜中水多し、故に名く。[大和本草]三月種を下し、蔓延て地に布。四五月黄花を開く。甜瓜の花のごとし。」

とある。春半ばではこれから種を蒔く頃だ。


薬ちがい

 「須磨ぞ秋」五十六句目

   長髪の霜より霜に朽んとは
 薬ちがひに風寒るまで      似春

 薬が合わなくて、副作用でぼろぼろになってしまった。「寒る」は「さゆる」と読む。
 薬と白髪の因果関係ははっきりしないが、今日だと覚せい剤や合成麻薬で頭が白くなることはあるらしい。直接の因果関係はなくても、体が極度に衰弱すれば白髪になることはありうる。


堕胎薬

 「須磨ぞ秋」五十七句目

   薬ちがひに風寒るまで
 幾月の小松がはらや隠すらん   桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「小松が妊娠幾月かの腹をかくそうとして、薬をのんだ。前句の薬を堕胎薬とした。」

とある。
 江戸時代には中条流と称する怪しげな堕胎をする医者がいて、中条丸という薬があったという。成分に水銀が含まれていたという。


ふのり紙

 「物の名も」十三句目

   かたちは鬼の火鉢いただく
 紙ふのり伊勢の国より上りけり  信徳

 「神風の伊勢」を「紙ふのりの伊勢」にする。「ふのり」は食用の海藻で伊勢の名産だが、「ふのり紙」は全く別のものになる。weblioで検索するとウィキペディアの「通和散」の所に転送されたが、そこに、

 「通和散(つうわさん)は、江戸時代に市販されていた日本のぬめり薬である。閨房で使う秘薬の一種。今で言うラブローションである。主に男色の時の肛門性交で使われたが、未通女の初交や水揚げの時など男女間の性交でも用いることがあった。当時の有名な秘薬で、川柳や春本でもよく取り上げられている。練り木、白塗香、ふのり紙、高野糊などの別称がある。」

とある。前句を男色の体位とし、ふのり紙を付ける。


薬草喩品

 「実や月」八句目

   乗物を光悦流にかかれたり
 薬草喩品くすりごしらへ    紀子

 「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。

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