朝の新聞広告に「SDGsは阿片だ」なんてコピーがあったが、まあ、極左の連中がSDGsを快く思ってないのはわかってた。資本主義がサステナブル(持続可能)だと困るんだろうな。
まあ、気が短い連中だから、物事を一つ一つ地道に解決するのではなく、革命で一気にちゃぶ台返しで、そこでどんなけ人が死のうが知ったことではないんだろう。「殉教」という言葉で大量殺人を正当化するのは、あらゆる原理主義者に共通することだ。
あと、日本はこれまで何とかコロナを抑えてきたけど、今日は多分一日の新規感染者が五千人を越えるし、今のところ減る気配はない。海外の人はしばらく日本には来ない方がいいと思う。
それでは『三冊子』の続き。
「師の曰く、付といふ筋は、匂、響、俤、移り、推量などゝ形なきより起る所也。こゝろ通ぜざれば及がたき所なり。師の句を以て其筋のあらましをいはゞ、
あれあれて末は海行野分かな
鶴のかしらをあぐる粟の穂
鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
一吹風の木の葉しづまる
此脇二つは、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる體を脇とす。木のはの句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を亂し、納りて後の鳶のけしきと見込て、發句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122~123)
鶴の句は元禄七年七月二十八日の伊賀雖亭での興行で、発句は猿雖による。土芳自身も同座している。
この後の芭蕉の八月九日付去来宛書簡に「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。」とぼやいてるほど、芳しくない興行だったようだ。
発句はちょうど台風の季節で、嵐のさなかで危ぶまれていたこの興行もようやく無事に開催できましたということで、荒れに荒れた野分もそのうち海へ抜けることでしょう、と挨拶する。芭蕉はそれに対し、隠れていた鶴も頭を上げ、粟の穂の上に顔を出してます、と付ける。
先の去来宛書簡には、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はない。粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという、土芳の言う通り嵐の去った後の景色でさらっと流している。
木の葉の句は『猿蓑』にも収録されている元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙興行の脇だ。
発句の方は特に鳶の姿を見たということではなく、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」という程度の挨拶に、今頃鳶も羽を掻い繕っていることでしょう、と景色を与えた句だったと思う。
芭蕉はそれに、風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。特に寓意は感じられない。発句の鳶の羽の掻い繕いの原因として時を戻して「一吹風の」とし、今は「木の葉しづまる」とする。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と景で付けている。
「寒菊の隣もありやいけ大根
冬さし籠る北窓の煤
此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123)
元禄五年の十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。「深川の草庵をとぶらひて」という前書きがついている。
この句は許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、
「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」
とある。
いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けている。
「しるべして見せばやみのゝ田植うた
笠あらためん不破の五月雨
此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123~124)
芭蕉が貞享五年、『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。
ところどころ見めぐりて、洛に
暫く旅ねせしほど、みのの国より
たびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ
来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ 芭蕉
という前書きがついている。
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。関を越える時には衣装を正すという発想は、元禄二年『奥の細道』の、
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
の句に先行している。
実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。
「秋の暮行先々の苫屋かな
荻にねようか萩に寐ようか
此脇、發句の心の末を直に付たる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)
これは元禄二年の『奥の細道』の旅で、八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟になる。これにも前書きがある。
ばせを、いせの国におもむけるを
舟にて送り、長嶋といふ江によせ
て立わかれし時、荻ふして見送り
遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻にねようか 芭蕉
「行く先々」に「萩」や「荻」が付き、「苫屋」に「寝る」が付く。萩と荻は字が似ていて面白いし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
「發句の心の末」というのは、餞別吟なので旅に出た先のことを付けるという意味だろう。
「菜種干ス筵の端や夕凉み
螢迯行あぢさいのはな
此脇、發句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたり似合敷物を寄。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)
これは元禄七年六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。発句は曲翠で膳所藩士。
菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
「菜種干す筵」の百姓の位でというところだが、蛍や紫陽花は身分の高い者も観賞するもので、やや位を引き上げているように思える。それは発句の主を卑しめないためだと思う。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
「霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申
古人かやうの夜の木がらし
此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寐心高く見て、心を以て付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)
これは貞享元年の『野ざらし紀行』の旅での大垣滞在中の句。
元禄八年刊支考編の『笈日記』には「貞享元年の冬如行が舊苐に旅寐せし時」と前書きがある。『稿本野晒紀行』には
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
の形になっている。
蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
「おくそこもなくて冬木の梢哉
小春に首の動くみのむし
この脇、あたゝかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124~125)
元禄四年十月に芭蕉は名古屋の露川と対面し、露川は入門する。その時の句で、元禄八年刊支考編の『笈日記』には「おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢へるとて」と前書きがある。
『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注に、
「『三冊子』(石馬本)には「おく庭」とし、「庭」に「底か」と傍書する」
として、「奥庭」としている。その方が意味が通る。
葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。
「市中は物の匂ひや夏の月
あつしあつしと門々の聲
此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顯して見込の心を照す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)
元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、とする。
芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
「いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり亂るゝ様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)
元禄三年刊珍碩編の『ひさご』の所収の歌仙の発句で、芭蕉は脇のみの参加になっている。ただし、元禄版の『ひさご』では、
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
になっていて、享保版の『ひさご』は『三冊子』の形になっている。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、そこに止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
「折々や雨戸にさはる萩の聲
はなす所におらぬ松むし
この脇、發句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)
発句は雪芝で元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に収録されている。
芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にもある句で、「あれあれて」の句と同じ頃の伊賀での句と思われる。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
これも位で付ける時の心得で、古来賞翫されている「松虫」を付けることで若干位を引き上げて付けている。
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