今日は昭和の日ということでラジオは一日昭和の古い曲を流していた。
ブルームバーグの報道でEUが日本へ約5230万回分が輸出したという報道があって、一部でそのワクチンは一体どこへ行ってるんだみたいなことになっていたが、政府は五月中に約4400万回分のワクチンを確保したと発表している。5230万回分というのはファイザー社側の一回の注射器で6回として計算した数字で、日本は5回で計算していると考えれば、5230万÷6×5で約4358万、大体計算は合う。ワクチンの輸入は順調だと見ていいだろう。
問題は去年の給付金の時もそうだったが自治体の負担が大きくて、そちらの方で停滞していることにあるのではないかと思う。
昨日のヒッポの話の続きだが、テープをただ聞いているだけで外国語を自然習得できるというアイデアは、未解決の問題が多いということだ。大きく分けると二つの問題がある。
おそらく多言語に限らず他のラボ活動やテープを聞くだけと銘打っている学習教材でも、1パーセントぐらいの人には効果が出ているが、なかなかそれ以上にならないということ。
あと、効果が出た人でも4歳児の壁をなかなか超えられないというところだ。
四歳児の壁は二重の意味がある。ヒッポでも三歳までは片言の外国語を喋るようになるが、四歳を過ぎるとそれがあっという間に消えるという現象が起こる。この間まで言えていた外国語が急に言えなくなる。それと引き換えに日本語の能力が飛躍的に向上し、完全に日本語のネイティブスピーカーとして完成されてゆく。
もう一つの四歳児の壁は、大人で外国語をある程度喋れるようになった人も、自然習得だけでは三歳児レベルの会話で停滞してそこから先へ進めないという現象だ。
おそらく三歳児と四歳児の間に何らかの生得的な言語学習プログラムが働くのではないかと思う。それは通常発達の過程で一回限り起こるものだが、十歳くらいまではなんとか再起動可能で、そこから先は急に困難になる。
大人になってからでもある程度の期間外国に滞在すると、不完全ながらも言語の習得は可能になる。だからある程度脳には可塑性があるとは思う。問題なのは国内の言語環境の中でそれを再起動することが困難なのと、そのメカニズムそのものがわかってないことだ。
脳科学がもっと進めば、いずれは解明される日が来るかもしれないし、それを解明できた人はそのプログラムを使った教材で大儲けできるだろう。筆者ももっと若かったなら挑戦する価値はあると思っている。それだけにあの時のヒッポが科学を捨てて神秘主義に走ってしまったのは残念でならない。
それでは「疇道や」の巻の続き。
十三句目。
狐の恐る弓かりにやる
月氷る師走の空の銀河 正秀
師走の寒い夜は薬食いというわけだ。
十四句目。
月氷る師走の空の銀河
無理に居たる膳も進まず 珍碩
「居たる」は「すゑたる」。
冬は寒暖差で体調不良に陥りがちで、なかなか食の進まぬまま夜も更けてゆく。
十五句目。
無理に居たる膳も進まず
いらぬとて大脇指も打くれて 正秀
大脇指はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 刃わたりが一尺七寸(約五〇センチメートル)から一尺九寸(約六〇センチメートル)までの長大な脇差。江戸時代には、表向き大刀を差せない町人なども用いた。長脇差。
※甲陽軍鑑(17C初)品四七「被官も大脇指(ワキザシ)をぬき、ふりながらむこくにかけいづる」
とある。元禄三年六月で『猿蓑』に収録された「市中は」の巻六句目に、
此筋は銀も見しらず不自由さよ
ただとひやうしに長き脇指 去来
の句がある。
突拍子もないほど長い脇指は、その筋の人と思われるが、普通の長脇指はかたぎの商人であろう。この頃体調もすぐれず、隠居を決意する。
十六句目。
いらぬとて大脇指も打くれて
独ある子も矮鶏に替ける 珍碩
「矮鶏」はチャボ。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「鶏の小形品種の総称。尾羽が直立し、脚は短い。愛玩用。ウズラチャボ・カツラチャボ・ミノヒキチャボなど。名は原産地のインドシナのチャンパーにちなむ。天然記念物。
[補説]「矮鶏」とも書く。」
とある。
御隠居さんは息子の世話にならずにチャボを飼って暮らす。
背後に愛玩動物としてのチャボの市場拡大があり、ブリーダーとして生計を立てるということか。
十七句目。
独ある子も矮鶏に替ける
江戸酒を花咲度に恋しがり 正秀
関西では精米歩合の高い透き通った酒が主流で、江戸では精米歩合の低い黄色い酒が主流だったのだろう。チャボの飼育も江戸の方が盛んだったのか。
十八句目。
江戸酒を花咲度に恋しがり
あいの山弾春の入逢 正秀
「あいの山」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注に、
「間の山。伊勢内外宮の間の山。昔この地の乞食の歌い初めた相の山節のこと。」
とある。
延宝六の「さぞな都」の巻の八十九句目にも、
我等が為の守武菩提
音楽の小弓三線あいの山 信徳
の句がある。ウィキペディアには、
「伊勢参道筋の間の山でお杉、お玉という2人の女性が三味線を弾き、伊勢参りの人々に歌を歌い、銭を乞い求めた。「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。(相手)夕あしたの鐘の声、寂滅為楽と響けども、聞きて驚く人もなし」という哀調を帯びた歌詞が土地の民謡となり、また都でも流行した。「嬉遊笑覧」には、「今も浄瑠璃に加はりて、間の山といふ音節残れり」、「古市も間の山の内にて、間の山ぶしをうたひしものなるに、物あはれなる節なる故、いつの頃よりかうつりて、川崎音頭流行して、これを伊勢音頭と称し、都鄙ともに華巷のうたひものとなれり」とある。」
とあり、『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、「ささら・胡弓・三味線と用いる」とある。『嬉遊笑覧』は喜多村信節著で文政十三年(一八三〇年)刊。百五十年後の情報。
「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。」の歌詞を故郷の江戸を思いながらしみじみと唄う。
二表。
十九句目。
あいの山弾春の入逢
雲雀啼里は厩糞かき散し 珍碩
「厩糞」は「まやこえ」と読む。コトバンクでは「うまやごえ」とあるが、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 家畜小屋の敷きわらと家畜の糞尿とを混ぜて腐らせてつくった肥料。
※耕稼春秋(1707)四「侍屋敷馬屋ごえは大形其百姓、又はぬかわら等入百姓取もの也」
とある。伊勢近郊のありふれた風景なのだろう。
二十句目。
雲雀啼里は厩糞かき散し
火を吹て居る禅門の祖父 正秀
「祖父」はここでは「ぢぢ」と読む。「禅門」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 禅宗の法門。また、禅宗。
※観智院本唐大和上東征伝(779)「其父先就楊州大雲寺智満禅師受レ戒、学二禅門一」
② 禅定(ぜんじょう)の門にはいったものの意で、仏門にはいった男子をいう。在家(ざいけ)のままで、髪をそり、僧の姿となった居士(こじ)。入道(にゅうどう)。
※古事談(1212‐15頃)一「白川院礼部禅門事を、鳥羽院に令二語申一給云」
※浮世草子・好色一代女(1686)五「上長者町にさる御隠居のぜんもん様」 〔梁高僧伝〕
③ 乞食(こじき)をいう語。〔物類称呼(1775)〕」
とある。ここでは②の意味。自炊している。
二十一句目。
火を吹て居る禅門の祖父
本堂はまだ荒壁のはしら組 珍碩
前句の禅門を①の意味にして、本堂を立て直しているから、今は仮住まいで自炊しているとした。
二十二句目。
本堂はまだ荒壁のはしら組
羅綾の袂しぼり給ひぬ 正秀
「羅綾(らりょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 うすぎぬとあやおり。また、上等の美しい衣服。
※玉造小町子壮衰書(10C後)「錦繍之服数満二蘭閨之裏一。羅綾之衣多余二桂殿之間一」
※謡曲・嵐山(1520頃)「神楽の鼓、声澄みて、羅綾の袂を飜し飜す」 〔劉峻‐登郁洲山望海詩〕」
とある。
イメージとしては中国の後宮か仙女であろう。ここでは楊貴妃の仙境で涙する「玉容寂寞涙闌干 梨花一枝春帯雨」の場面であろう。その頃玄宗皇帝は仮の王宮で暮らしていた。
二十三句目。
羅綾の袂しぼり給ひぬ
歯を痛人の姿を絵に書て 珍碩
「西施の顰(ひそみ)に倣う」からの発想であろう。美人なら歯を痛めて涙する姿も美しいと絵に描く。
二十四句目。
歯を痛人の姿を絵に書て
薄雪たはむすすき痩たり 正秀
前句の「歯を痛(いたむ)人」を老人として、白髪あたまで歯の痛みにうずくまる姿が薄雪にたわむ薄のようだ。
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