2021年4月18日日曜日

 いい天気なんだけどね。
 感染者は増え続けて危険な状態になってきている。日本では法律上ロックダウンは困難なので、超法規的措置で行うか、そうでなければ国民一人一人が自覚するしかない。
 今必要なのは「追及」ではない。みんなで力を合わせてコロナと戦うことだ。本当の敵を見誤るな。

 それでは今日は延宝人のおなまえ。


風の篠原

 「あら何共なや」四句目

   居あひぬき霰の玉やみだすらん
 拙者名字は風の篠原       桃青

 霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。

 ウィキペディアには篠原という名字にはいくつか系統があるという。近江国野洲郡篠原郷の篠原、源師房(村上源氏)を祖とする公家の篠原家、上野国新田郡篠原郷(現在の群馬県太田市)の起源の氏族、尾張国の篠原氏、安房国に進出した篠原氏など。


風の三郎

 「あら何共なや」八十八句目

   米袋口をむすんで肩にかけ
 木賃の夕部風の三郎        桃青

 風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。

 「あら何共なや」八十九句目

   木賃の夕部風の三郎
 韋達天もしばしやすらふ早飛脚   信章

 前句の風神風の三郎を早飛脚とする。
 当時は「風の」のように呼ばれることがよくあったのだろうか。


波の瀬兵衛

 「見渡せば」三十二句目

   一喧嘩岩に残りし太刀の跡
 處立のく波の瀬兵衛       似春

 岩に太刀の跡を残したのは、波の瀬兵衛という刀鍛冶だった。
 波平(なみのひら、なみへい)と呼ばれる波平行安(なみのひらゆきやす)という刀鍛冶が平安時代にいた。それを延宝風に言い換える。


すいたの太郎左

 「塩にしても」二十七句目

   ながるる年は石川五右衛門
 まかなひをすいたの太郎左いかならん 似春

 「吹田の太郎左」という人物はすぐに金を要求する人物なのだろう。モデルになった人がいたのかどうかはよくわからない。


二蔵

 「梅の風」二十三句目

   志賀山の春ふいごふく風
 さざ浪や二蔵が袖にさえかへり  信章

 二蔵は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「二蔵は鍛冶職人の通名」とある。春のふいごふく風に鍛冶屋の二蔵の袖がさえかえり、となる。


源介

 「梅の風」六十六句目

   日本橋ちんば馬にて踏ならし
 方々見せうぞ佐野の源介     信章

 謡曲『鉢木』にも登場する「いざ鎌倉」で有名な佐野源左衛門を延宝風にいうと「佐野の源介」になる。


彦太郎

 「さぞな都」六十一句目

   鞍馬僧正床入の山
 若衆方先筑紫には彦太郎     信章

 鞍馬天狗の御伴の彦山の豊前坊を、若衆方の彦太郎にした。


九郎助

 「さぞな都」八十句目

   熊坂も中間霞引つれて
 山又山や三国の九郎助      信徳

 「三国の九郎」(源九郎義経)を中間の九郎助とする。


忠二郎

 「見渡せば」五十九句目

   善男善四と説せ給ひし
 又爰に孔子字は忠二郎      似春

 孔子の本当の字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。町人っぽく呼び変えた。前句を町人の孔子が説いたことにする。


さぶ様・四郎様・五郎様

 「物の名も」六十七句目

   いつの大よせいつの御一座
 朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の  信徳

 朝比奈三郎は朝比奈義秀で実在の人物だが、遠慮してか「さぶ様」にしている。
 朝比奈四郎は曾我物語の登場人物。朝比奈五郎は知らない。
 前句の大よせ御一座を朝比奈様御一行とする。


与三郎

 「見渡せば」八十一句目

   代八車御幸めづらし
 伺公する例の与三郎大納言    似春

 「伺公」は公文書によく用いられるようだが「伺(うかが)う」ということか。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「烏丸光広大納言が牛車に乗って島原に遊んだという話がある。」とある。
 大八車だから与三郎なんだけど御幸だから大納言になる。ほとん御幸ごっこといっていい。


与市

 「実や月」六句目

   台所棚なし小舟こぎかへり
 下男には与市その時      桃青

 「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。


与作

 「のまれけり」六句目

   碓の音いそがしの松の風
 与作あやまつて仙郷に入     桃青

 次の句で丹波与作に取り成される。


ぬく太郎

 「須磨ぞ秋」四十九句目

   冥きにまよふ道は紙燭で
 口惜の花の契りやぬく太郎    似春

 「ぬく太郎」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「愚かな若者」とある。特に固有名詞だとかモデルとかはないのだろう。


勅使芋原の朝臣蕪房

 「春澄にとへ」八十四句目

   麦星の豊の光を覚けり
 勅使芋原の朝臣蕪房       桃青

 今日勅使河原(てしがわら)という名字の人がいるが、埼玉県児玉郡上里町の勅使河原という地名から来たという。勅使河原直重はウィキペディアに、

 「勅使河原 直重(てしがわら なおしげ、生年不明 - 建武3年(1336年))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。左衛門尉。『太平記』では勅使河原丹三郎で知られる。子に貞直、光重か。
 勅使河原氏は武蔵七党の一つ丹党の流れを汲む。
 南北朝の動乱が勃発すると、直重は南朝方として新田義貞に従う。後醍醐天皇や義貞と対立し一時は九州へ没落していた足利尊氏が、勢力を巻き返し軍勢を率い京へ進軍してくると、義貞は迎撃するが大渡で敗れた。『太平記』によると、大渡で敗れた直重は三条河原で奮戦するも、後醍醐が比叡山へ脱出したことを知ると悲嘆し、羅城門近くで子と共に自刃した。」

とある。五十六句目と六十五句目に『太平記』ネタがあるから、ここから取った可能性は十分ある。
 麦星の貧しそうなイメージから勅使芋原の朝臣蕪房という架空の人物を作る。「蕪房」は桃青の宗房をもじったか。


慈悲斉

 「鷺の足」六十句目

   侘雀畫眉を客によびけらん
 慈-悲-斉が閑つれづれにして   其角

 前句の「らん」を反語から推量に取り成す。「侘雀わびすずめ」の名は慈-悲-斉じひさい。その場の思いつきで作った適当な名前だろう。


しら藤

 「あら何共なや」七十八句目

   衣装絵の姿うごかす花の風
 匂ひをかくる願主しら藤      信徳

 前句の衣装絵を願掛けの絵馬とする。願主は「しら藤」、源氏名だろうか。


まつ虫・鈴虫

 「物の名も」四十句目

   秋の哀隣の茶屋もはやらねば
 松むし鈴虫轡たふるる      信徳

 松むし鈴虫は遊女の源氏名で、「轡(くつわ)」は下級の轡女郎のこと。


法印・法眼・法橋

 「いと涼しき」二十三句目

   参台過て既に在江戸
 時を得たり法印法橋其外も    信章

 「法印」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「僧綱(そうごう)の最上位。法印大和尚位とも。法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の上。864年定められ,空海,最澄,真雅の3人に授けられたのが最初。創設当初は官位では従2位に相当。中世以降仏師,社僧,医師,連歌師などにも与えられる称号となった。」

とあり、「法橋(ほっきょう)」は、

 「日本の僧位の一つ。僧綱(そうごう)の最下位である律師に与えられる。法橋上人位とも。官位でははじめ正4位に相当。法印と同様,中世・近世では僧以外にも与えられた。」

とある。
 法印の位に付いた連歌師というと中世では心敬がいる。季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。尾形光琳も後に法橋になる。
 法印法橋といった僧位を得て江戸に移住すれば、それこそ出世コースの頂点と言えよう。宗因は大阪天満宮の連歌宗匠にはなったが、特に法位はなかったようだ。

 「世に有て」八十六句目

   夜々に来て上るり語る聲細く
 法眼が書し武者絵とやらん    才丸

のように位を表す法眼も、実際には名前のように用いられて「法眼」というだけで狩野安信だとわかったのだろう。


太夫

 「いと涼しき」三十四句目

   露時雨ふる借銭の其上に
 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
 延宝ではなく寛文の頃だが、宗因独吟「花で候」の巻の挙句に。

   さしにさしお為に送る花の枝
 太夫すがたにかすむ面影     宗因

の句がある。


公方

 「梅の風」五句目

   けんやくしらぬ心のどけき
 してここに中比公方おはします  信章

 公方様、つまり将軍様なら倹約令は関係ない。さぞのどかだろうなと皮肉る。
 おそらく「公方」というだけでその時の公方を指していたのだろう。ただ、今の公方様と思われてはいけないから、一応「中比(なかごろ)」とことわっておく。
 今日だと「天皇陛下」という場合は今の天皇を指す。名前で呼ぶことはまずない。

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