昨日ようやく近くのスーパーで台湾パイナップルを見つけたが、これが大外れだった。中身が真っ白でぱさぱさで味がない。パイナップルは置いておいても熟さないというので、仕方ないからヨーグルトと牛乳と砂糖を加えてスムージーにした。夕飯には酢豚を作った。
コロナの方も減る気配がないので、とにかく去年の今頃を思い出して、もう一度あれをやりましょう。去年できたことが今年できないはずがない。籠城じゃ。
さて、今回は延宝の有名人とも被る所もあるが、延宝の芸能を。
浄瑠璃
「此梅に」六十八句目
判官の身はうき雲のさだめなき
時雨ふり置むかし浄瑠璃 桃青
浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。
この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。
それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。
芝居破り
「物の名も」六十八句目
朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の
地獄やぶりや芝居やぶりや 桃青
古浄瑠璃には「義経地獄破」があるという。朝比奈三郎は門破り。芝居破りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (芝居が終わると、見物席の客を追い出すように出すところから) 芝居興行、見世物、また遊山(ゆさん)などの終わり。
※慶長見聞集(1614)二「皆人、名残惜思ふ処に風呂あかりの遊びおどりを芝居やぶりに仕へしとことはる」
※浮世草子・色里三所世帯(1688)上「是が今日の御遊山の芝居(シバヰ)やふり」
とある。
義経地獄破、朝比奈三郎門破りの芝居を観たらあとは芝居破り。
からくり芝居
「青葉より」六句目
糸よせてしめ木わがぬる秋の風
天下一竹田稲色になる 桃青
天下一竹田は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「竹田近江」とある。ウィキペディアに、
「初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。」
「万治元年(1658年)、京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年(1659年)に近江掾を再び受領し竹田近江と改名する。そののち寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。」
とある。
人形芝居
「時節嘸」三十三句目
雨や黒茶を染て行覧
消残る手摺の幕の夕日影
順番からすると桃青の番。
「手摺(てすり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「② (「てずり」「ですり」とも) 人形芝居の舞台前面に、人形遣いの腰から下を隠すために設けたしきり。舞台から客席まで三段にしきられ奥から(現在では手前から)一の手(本手)・二の手・三の手と呼ぶ。
※俳諧・芭蕉真蹟懐紙‐時節嘸歌仙(1676)「雨や黒茶を染て行覧〈芭蕉〉 消残る手摺の幕の夕日影〈杉風〉」
※随筆・本朝世事談綺(1733)三「辰松は人形に手練し、上下を着し、手摺(デスリ)をはなれて」
とある。
「あら何共なや」九十六句目
人形の鍬の下より行嵐
畠にかはる芝居さびしき 信徳
仮説の芝居小屋は去って行って元の畠に戻る。人形劇は嵐のように去っていった。
水からくり
「見渡せば」九十五句目
からくりの天下おだやかにして
臣は水およぎ人形波風も 桃青
(からくりの天下おだやかにして臣は水およぎ人形波風も)
「およぎ人形」は不明だが、水からくりの一種で、そういうからくり人形があったのだろう。「水からくり」はコトバンクの「世界大百科事典内の水からくりの言及」に、
「…水を用いて種々のからくりを見せる見世物の一種。水からくり。水を利用した仕掛物は,すでに寛文期(1661‐73)から行われている。…」
とある。また、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「演劇,芸能におけるからくりの一種。水力を利用した仕掛けで人形などを動かしてみせる演芸。江戸時代には,からくり専門の一座の人気番組の一つに加えられ,操 (あやつり) 浄瑠璃や歌舞伎にも用いられた。水芸もその一種である。」
とある。
小謡(こうたひ)
「梅の風」八十九句目
気根の色を小謡に見す
朝より庭訓今川童子教 信章
「庭訓(ていきん)」は『庭訓往来』で手紙の体裁で日常の語句を解説した本。「今川」は『今川状』で今川了俊の二十三か条の家訓。『童子教』はウィキペディアに、
「鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。女子向けの「女童子教」など、「○○童子教」といったさまざまな対象に向けた類書も書かれた。」
とある。いずれも子供の教育に欠かせないものだった。ただ、寺子屋が広まってったのは江戸中期以降で、この頃はまだ稀だったのではないかと思う。
小謡(こうたひ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「能の用語。謡曲のなかから独吟に適するようなごく短い一節を取り出したもの。小謡用の箇所は指定されているのが普通である。節付けの細かい、叙景や叙情を内容とする「上歌(あげうた)」が多く、内容やうたう場合によって祝言、送別、追善、四季用などに分かれる。婚礼や宴席でめでたい小謡をうたう風習は今日でもまだ各地に残っているが、とくに江戸時代以降は小謡本の刊行が盛んで、一曲を通して稽古(けいこ)する素謡(すうたい)とは別の簡便な形として民衆の間に流行し、小謡本が寺子屋の教本に用いられるほどであったという。[増田正造]」
とある。小謡も子供の学習に利用されていたので、謡曲の言葉が共通語として通用したのだろう。庭訓今川童子教プラス小謡で子供のころから気根を養う。
新狂言、野郎歌舞伎
「あら何共なや」四十三句目
文正が子を恋路ならなん
今日より新狂言と書くどき 桃青
「新狂言」は歌舞伎の「狂言尽」のことであろう。歌舞伎が半ば売春に走っていた時代から野郎歌舞伎として真面目なお芝居へと変わっていったときに、幕府からも「物真似狂言尽」として許可されるようになった。
前句を新狂言の演目とし、役人を納得させる。ウィキペディアに、
「歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を『野郎歌舞伎』と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。」
とある。二十六句目の役者の紋のついた楊枝といい、延宝五年は野郎歌舞伎の全盛期だった。
野郎歌舞伎、紋楊枝
「あら何共なや」二十六句目
風青く楊枝百本けづるらん
野郎ぞろへの紋のうつり香 信章
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紋楊枝のことだとある。紋楊枝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 江戸時代、歌舞伎役者などの定紋をつけた楊枝。
※俳諧・大矢数千八百韻(1678)一二「紋楊枝十双倍にうりぬらん 人をぬいたる猿屋か眼」
とある。どういう形状の楊枝かはよくわからない。
西鶴の大矢数の句は役者の紋の入った楊枝が二十倍で売れるというのだから、この頃にも転売ヤーがいたのか。そこで「猿屋」が登場している。日本橋さるやは宝永の創業なのでこの頃はまだなかったが、元禄の頃に書かれた『人倫訓蒙図彙』に「猿は歯白き故に楊枝の看板たり」とあるらしく(ウィキペディアによる)、猿屋を名乗る楊枝屋はそれ以前にもあったのだろう。
野郎歌舞伎、六方
「此梅に」十四句目
青鷺の又白さぎの権之丞
森の下風木の葉六ぱう 桃青
「六方」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「歌舞伎(かぶき)演出用語。六法とも書く。手足と体を十分に振り、誇張的な動作で歩く演技。勇武と寛闊(かんかつ)な気分を表すもので、荒事(あらごと)演出では重要な技法の一つになっている。語源については諸説あるが、発生的には古来の芸能の歩く芸の伝統を引くもので、祭祀(さいし)に「六方の儀」と称する鎮(しず)めの儀式があったことから、両手を天地と東西南北(前後左右)の六方に動かすことの意にとるのが妥当のようだ。ほかに、江戸初期の侠客(きょうかく)グループ六方組から出たというのは俗説だが、当時の「かぶき者」たちが丹前風呂(たんぜんぶろ)へ通うときの動作を模したものは、丹前六方とよばれ、現在でも『鞘当(さやあて)』などにみられる。荒事系の技法では、手足の極端な動きによって強さを強調しながら花道を引っ込む「飛(とび)六方」が代表的なもので、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内(わとうない)、『車引(くるまびき)』の梅王丸、『勧進(かんじん)帳』の弁慶などが有名。その変形として片手六方、狐(きつね)六方、泳ぎ六方などがある。人形浄瑠璃(じょうるり)や民俗芸能にも「六方」と称する足の動きの技法が伝えられている。」
とある。
野郎歌舞伎は新狂言とも呼ばれていたが、ここでは鷺流の狂言との混同があるのか。
六方、小坊主
「須磨ぞ秋」四十四句目
はやりうたさすが名をえし其身とて
でつち小坊主男なりひら 桃青
小坊主は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に小坊主小兵衛とある。坊主小兵衛のことであろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、
「生年:生没年不詳
初期歌舞伎の道外形の歌舞伎役者。月代を左右深く剃り下げる糸鬢という髪型にしていたので,この名が付いた。この風貌が人々に親しまれたようで,のちにこれを真似て坊主段九郎,坊主百兵衛,小坊主などと名乗って糸鬢で道外六法をした役者もあったが,小兵衛ほどの人気を得ることはできなかった。また歌舞伎役者に似せた五月人形を作ることはこの人に始まり,その後多くの役者人形が作られたという。歌舞伎の評判記が出る以前の役者なので,芸風経歴など詳しいことはわかっていない。山東京伝が『近世奇跡考』に「小兵衛人形」の項目を立て,若干の考察を加えている。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1期(北川博子)」
とある。
野郎歌舞伎、女形
「さぞな都」六十二句目
若衆方先筑紫には彦太郎
かづらすがたや右近なるらん 信徳
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に右近源左衛門とある。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、
「没年:没年不詳(没年不詳)
生年:元和8(1622)
初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目に狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)(北川博子)」
とある。
女形
「青葉より」二十二句目
ふり袖の薄も髭と生出て
小町が果の女方ども 似春
小野小町も老いれば卒塔婆小町になるように、美しかった女方の役者も寄る年波には勝てず、化粧の乗りが悪くなり髭を隠せなくなる。
物真似芸
「わすれ草」十一句目
あるひはでつち十六羅漢
又男が姿かたちはかはらねど 千春
「又男」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、
「大阪の物真似の名人。『物種集』序に『川原もの又男がつけ髪松千代が柿頭巾もかづき物ぞかし』。」
とある。ネット上にある石井公成『物真似芸の系譜─仏教芸能との関係を中心にして─(上)』に、
「そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁王や十六羅漢や観音の三十三身を演じることで有名だった。」
とあるが、同じ人か。
ひとり狂言
「須磨ぞ秋」十四句目
置頭巾額にたたむさざなみや
洲崎の松のひとり狂言 桃青
洲崎の松は滋賀唐崎のひとつ松のこと。その「ひとつ」に掛けて一人狂言を導き出す。一人狂言はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 「一人芝居」に同じ。
2 シテが独演する特殊な本狂言。現行曲中にはないが、番外曲として数曲伝えられている。」
とある。置頭巾が用いられたのか。
仕形咄
「此梅に」十一句目
ひとかいあまりすみよしの松
淡路島仕形ばなしの余所にみて 信章
「仕形咄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 手ぶり、身ぶりして語る話。
※雲形本狂言・空腕(室町末‐近世初)「いかな仕方咄(シカタバナシ)なればとて、某(それがし)の首を討おとす真似をするといふ事が有物か」
② 江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。
※雑俳・住吉おどり(1696)「手を出して・しかた咄をせぬあを屋」
とある。
小歌
「さぞな都」発句
さぞな都浄瑠璃小哥はここの花 信章
「浄瑠璃」はこの頃の主に古浄瑠璃で、寛文の頃から浄瑠璃本が多く出版された。人形劇も盛んになり、やがて元禄の頃に人形浄瑠璃文楽として確立されてゆく。
延宝四年の「時節嘸」の巻の三十三句目に、
雨や黒茶を染て行覧
消残る手摺の幕の夕日影
の句があるように、文楽のような後ろから操るタイプの人形劇が盛んで、文楽の舞台にもあるような「手摺」がこの頃にあったことが窺われる。
小哥(小歌)は江戸末期にうまれた「小唄」とは別のもので、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「歌謡。古く「大歌」に対する名称として記録にみえるが,普通室町時代から江戸時代にかけて流行した歌謡をいい,三味線伴奏の歌曲はそれぞれの伝承種目で呼ばれるため,狭義には除外される。しかし現在伝承が絶えている江戸時代初期の流行小編歌謡の総称として,近世初期小歌などということもある。ただし,江戸時代末期から明治に発生した三味線小曲は「小唄」と書いて区別される。現存する小歌集としては,『閑吟集』 (1518) ,『宗安小歌集』 (1600頃) ,『隆達小歌集』 (1593) などがある。狂言のなかに含まれているものもあり,一般に狂言小歌と総称するが,狂言における「小歌」は,ごく特定の狂言謡をいい,狂言小歌にあたるものは小舞謡のことである。伴奏楽器には扇拍子や一節切 (ひとよぎり) という尺八の一種を用いたといわれる。曲調は滅びてしまってわからないが,狂言歌謡に遺存するものや三味線組歌などから類推することができる。詞形はかなり自由で,七五七五調,七七七五調,自由な口語調とさまざまである。」
とある。
弄斎節と片撥
「此梅に」六十九句目
時雨ふり置むかし浄瑠璃
おもくれたらうさいかたばち山端に 信章
「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」
とある。
「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」
とある。
はやり歌
「のまれけり」七句目
与作あやまつて仙郷に入
はやり哥も雲の上まで聞えあげ 春澄
『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、
与作思へば照る日も曇る 関の古万が涙雨
という当時の流行歌があったという。
「丹波与作」をコトバンクでみると、「デジタル大辞泉の解説」に、
「丹波の馬方。のち江戸へ出て出世し、武士になった。寛文(1661~1673)ごろから、関の小万との情事を俗謡に歌われ、浄瑠璃・歌舞伎にも脚色された。」
とある。
「須磨ぞ秋」四十三句目
既によし原の合戦破れし
はやりうたさすが名をえし其身とて 似春
この頃はまだ江戸後期のような一般に知られているような小唄はなく、長唄・端唄も元禄の浄瑠璃から派生したものだから、まだ早い。かといって弄斎・片撥は寛永のころになってしまう。延宝の頃のはやり歌はどのようなものだったか。
寛文の頃の『糸竹初心集』の俗謡が短い歌詞の、のちの小唄の原型のようなものだったと思われるし、こうした古いものも含めて広義で「小唄」と呼ばれることもある。延宝期もおそらくこのようなものだったのだろう。ネット上の林謙三さんの『江戸初期俗謡の復原の試み ─特に糸竹初心集の小唄について』に詳しい。
つれぶし
「さぞな都」四十五句目
舞台に出る胡蝶うぐひす
つれぶしには哥うたひの蛙鳴 桃青
「つれぶし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 他の人とともに節を合わせてうたうこと。つれ。
※俳諧・貝おほひ(1672)序「右と左にわかちて、つれぶしにうたはしめ」
とある。
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