2021年4月11日日曜日

 今日もいい天気で、雨が少ないな。水不足になったりしないのかな。
 ミャンマーも香港もそうだし、そもそも天安門の時の中国がそうだった。平和的なデモは軍事独裁政権に対抗することができず、結局外圧が頼りということになっても、なかなか外圧が一枚岩になれないで分裂する。限界なのかもな。ただ徒に死者だけが増えて行く。
 それはそうと延宝七年の「見渡せば」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 これで延宝の芭蕉が参加した俳諧はあと『俳諧次韻』の二巻を残すのみとなった。そういうわけで、延宝の芭蕉の俳諧に登場する人物を集めてみた。当時の人々の噂に上る人たちだったのだろう。今日はまず半分。

狂言師 鷺権之丞

 「此梅に」十三句目

   とも呼鳥の笑ひごゑなる
 青鷺の又白さぎの権之丞       信章

に登場する。
 コトバンクの「世界大百科事典内の鷺権之丞の言及」には、

 「狂言の流派の一つ。江戸時代は観世座付で,幕府などに召し抱えられたが,明治時代に廃絶した。室町初期の路阿弥(ろあみ)を流祖とし,その芸系が兎太夫や日吉満五郎,その甥の宇治源右衛門らを経て,9世鷺三之丞まで伝えられてきたと伝承するが確かでなく,観世座付の狂言方として知られた者たちを家系に加えたにすぎないらしい。日吉満五郎は大蔵流・和泉流でも芸を伝授したとされており,両流と同じ芸系にあることになる。三之丞の甥鷺仁右衛門宗玄(にえもんそうげん)が1614年(慶長19)に徳川家康の命で観世座付となり,流儀として確立した。」

とある。その後も鷺権之丞の名は代々襲名されてゆくことになり、鷺権之丞は何人もいる。
 延宝七年秋の「見渡せば」の巻十四句目にも、

   木賊苅山はうしろに長袴
 鷺が袂は木曾の麻衣       桃青

の句がある。


狂言師 大藏八右衛門

 「あら何共なや」六十五句目

   森の朝影狐ではないか
 二柱弥右衛門と見えて立かくれ   信章

に登場する。
 狂言の大蔵流はウィキペディアに、

 「大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。
 猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。
 江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。」

とある。


歌舞伎役者 右近源左衛門

 「さぞな都」六十二句目

   若衆方先筑紫には彦太郎
 かづらすがたや右近なるらん   信徳

に登場する。
 コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:没年不詳(没年不詳)

  生年:元和8(1622)

 初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目に狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)(北川博子)」

とある。


歌舞伎役者 坊主小兵衛

 「須磨ぞ秋」四十四句目

   はやりうたさすが名をえし其身とて
 でつち小坊主男なりひら     桃青

に登場する。
 小坊主は坊主小兵衛のことであろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「生年:生没年不詳
初期歌舞伎の道外形の歌舞伎役者。月代を左右深く剃り下げる糸鬢という髪型にしていたので,この名が付いた。この風貌が人々に親しまれたようで,のちにこれを真似て坊主段九郎,坊主百兵衛,小坊主などと名乗って糸鬢で道外六法をした役者もあったが,小兵衛ほどの人気を得ることはできなかった。また歌舞伎役者に似せた五月人形を作ることはこの人に始まり,その後多くの役者人形が作られたという。歌舞伎の評判記が出る以前の役者なので,芸風経歴など詳しいことはわかっていない。山東京伝が『近世奇跡考』に「小兵衛人形」の項目を立て,若干の考察を加えている。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1期(北川博子)」

とある。小坊主という坊主小兵衛のフォロワーもいたようだ。浮世絵文献資料館のサイトには、

 「『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕⑥293(山東京伝著・文化元年(1803)十二月刊)
  (「小兵衛(コヘイ)人形」の項)
 〝江戸に名高く聞えし、坊主小兵衛と云俳優(ヤクシヤ)は、延宝、天和、貞享の頃を盛に経たる道外形なり。かしら糸鬂(イトビン)にて、かりそめに見れば、坊主のごとくなればしかいふめり。同時に坊主百兵衛、坊主段九、小坊主などいふ俳優あり。皆小兵術なまねびたり。其頃小兵衛が姿を、五月の兜人形にりはじめて、これを小衛人形といふ。其後段十郎、小太夫などをも、兜人形に作りしとぞ。【以上元禄六年板本、四場居(シバヰ)百人一首)に見ゆ】其角が小兵衛人形の句、左の如し。
 『五元集』 此友や年をかくさず白鬚二毛の身をわすれて、松どの太郎どのなりけりとのゝしれば、今の人形の風俗、ことさらに小兵衛などいふ人形はなし。

 我むかし坊主太夫や花菖  其角

 『五元集』 坊主小兵衛道心して、人々、小兵衛坊主と申ければ、

 坊主小兵衛小兵衛坊主とかへり花  同

 【案るに、小兵衛長き羽おりを好みて着たり。其頃の小唄に、ぼんさまの長羽おり、このゑいつべしにはりひぢしやと、うたひしよし、写本『洞房語園』に見ゆ。二朱判吉兵衛が、『大尽舞』に小兵衛の坊さの長羽おりと作りしも是なり。『本朝文鑑』に、支考が狂名を、坊主仁平といひしも、小兵衛になずらへたる名なり。いづれ世にめでられたる者とおぼふ〟」

とある。


物真似師 又男三郎兵衛

 「わすれ草」十一句目

   あるひはでつち十六羅漢
 又男が姿かたちはかはらねど   千春

に登場する。
 「又男」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「大阪の物真似の名人。『物種集』序に『川原もの又男がつけ髪松千代が柿頭巾もかづき物ぞかし』。」

とある。ネット上にある石井公成『物真似芸の系譜─仏教芸能との関係を中心にして─(上)』に、

 「そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁王や十六羅漢や観音の三十三身を演じることで有名だった。」

とあるが、同じ人か。当時歌舞伎役者は非人の身分だから「川原もの」とも呼ばれていただろう。


小唄坊主 籠斎

 「此梅に」六十九句目

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

に登場する。
 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

とある。
 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。


人形師 竹田近江

 「青葉より」六句目

   糸よせてしめ木わがぬる秋の風
 天下一竹田稲色になる      桃青

に登場する。
 天下一竹田はウィキペディアに、

 「初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。」

 「万治元年(1658年)、京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年(1659年)に近江掾を再び受領し竹田近江と改名する。そののち寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。」

とある。


占い師 伊勢のよもいち

 「あら何共なや」十句目

   きき耳や余所にあやしき荻の声
 難波の芦は伊勢のよもいち    桃青

に登場する。
 「伊勢のよもいち」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「伊勢の人で百人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名」

とある。


力士 丸山仁太夫

 「見渡せば」四十八句目

   腰の骨いたくもあるる里の月
 又なげられし丸山の色      似春

に登場する。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に丸山仁太夫とある。寛文から延宝の頃に活躍した力士で、坪田敦緒さん「相撲評論家之頁」というサイトの「寛文元年是歳」というページに詳しくある。


柔術 藤巻嘉信

 「此梅に」七十八句目

   時は花入江の雁の中帰り
 やはら一流松に藤まき        信章

 雁が宙返りしたかと思ったら、宙返りしていたのは自分だった。

 「やはら」といえば柔らの道だが、今の柔道は明治の頃に嘉納治五郎によって確立されたもので、それ以前は「やわら」と呼ばれることが多かったようだ。
 ウィキペディアの「柔術」のところには、

 「戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力業ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「当時流行の居合抜柔術の名人藤巻嘉信をふまえる。」とある。ネットで藤巻嘉信を調べると居合抜きの大道芸人だったようだ。藤巻嘉真という別の大道芸人もいたようだから、「藤巻」を名乗る大道芸人は当時たくさんいたのか。そうなると、この場合の柔術も武道としての柔術というよりは大道芸だったのかもしれない。派手な宙返りをする柔術の芸もあったのだろう。


絵師 狩野探幽

 「時節嘸」十三句目

   朱印を染て時雨降行
 探幽が筐の雲に残る月

に登場する。
 ウィキペディアに、

 「狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日)[要出典])は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。」

とある。


書家 角倉素庵

 「実や月」七句目

   下男には与市その時
 乗物を光悦流にかかれたり   卜尺

に登場する。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に与市は角倉素庵(すみのくらそあん)のことだとある。角倉素庵はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「江戸前期の学者・書家・貿易商。了以の長男。名は光昌・玄之、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵等がある。藤原惺窩の門人で本阿弥光悦に書を学び一家を成し、角倉流を創始、近世の能書家の五人の一人に挙げられる。了以の業を継ぎ、晩年には家業を子供に譲り、嵯峨本の刊行に力を尽くす。また詩歌・茶の湯も能くする。寛永9年(1632)歿、61才。」

とある。

書家 本阿弥光悦

 ウィキペディアに、

 「本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。」

とある。


黄檗僧 即非

 「あら何共なや」四十九句目

   隠元ごろもうつつか夢か
 法の声即身即非花散て      桃青

に登場する。
 「即非」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「[生]万暦44 (1616).5.14. 福建

  [没]寛文11 (1671).5.20. 長崎

  江戸時代前期に来朝した中国,明の黄檗僧,書家。俗姓は林,法名は如一。師の隠元隆琦の招きに応じて明暦3(1657)年に来朝。長崎の崇福寺,宇治の萬福寺,豊前の福聚寺などを拠点に黄檗宗の教化に努めた。かたわら書をもって世に聞こえ,隠元,木庵性瑫とともに「黄檗の三筆」と称され,江戸時代の唐様書道界に貢献した。絵も巧みで,崇福寺蔵『牧牛図』,萬福寺塔頭萬寿院蔵『羅漢図』などの作品があり,また著述に『語録』25巻,『仏祖道影賛』1冊がある。」

とある。


黄檗僧 隠元隆琦

 「あら何共なや」四十八句目

   月影や似せの琥珀にくもるらん
 隠元ごろもうつつか夢か     信徳

 隠元隆琦はウィキペディアに、

 「隠元隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉[要出典])は、明末清初の禅宗の僧[1]。日本黄檗宗の祖。俗姓は林氏。福建省福州府福清県の出身。」

とある。

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