飯山陽さんの『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相 』を読み始めた。途中までの感想だが、イスラム教に限らず一神教というのは基本的に世界征服の宗教だと思う。他の神を認めないなら、結局他の神を滅ぼすしかない。そこが多神教と違うところだ。だからこの世から本当に神が一つになるまで戦い続けなくてはならない。それはキリスト教もユダヤ教もマルクス主義も基本的に一緒だと思う。
ただ、彼らが建前としては戦わなくてはならないにしても、実際に一人の人間としては、平和で何不自由のない生活が送れたならそれで十分と思う。そこで一神教の文化というのは原理主義と世俗主義の間でいつも揺れ動いているのではないかと思う。まあ、ある意味「適当」であることによって成り立っていると言っていい。
だから日本人としてなすべきことは、彼らに世俗主義の夢を広げることだ。何も今すぐに神の国を作らなくても、目標を先延ばしにし続けることで、今の人生を十分謳歌することができる。そして世俗主義においては誰でも平和共存できるということだ。多神教の風土に育ちながら、既に神の名を忘れた日本人こそが究極の世俗主義者だからだ。
逆に言えば反日的な人たち(リベラル)というのは一神教なら何でもいいと思ってるんじゃないかな。キリスト教でもマルクス主義でもイスラム教でも、一神教なら日本を否定できる。どれでもいいという時点で結局多神教徒なのだけれど。
戦後の左翼は科学的社会主義の破綻から、新左翼の一部は神秘主義に活路を求めるようになった。マルクス主義とイスラム原理主義のかかわりはそのころからで、テルアビブ乱射事件や連合赤軍の中東潜伏のころからのつながりがあった。まあ、同じような人たちというのはヨーロッパにもいるんだろうな。あの有名なドイツのパヨチンの名前も挙がっていたし。
筆者は文化的多元主義を否定しないし、文化的多様性はマストだと思っている。なぜならば、それを否定したら日本の文化の独自性も主張できなくなるからだ。ただ、文化的多元主義を実現するには「棲み分け」が不可欠だと主張しているにすぎない。
例えて言えば、車が右側を走るべきか左側を走るべきかははっきり言ってどっちでもいいんだ。ただ一つの地域で両方ルールを共存させることはできない。文化もそういうもので、一つの地域で相反する複数のルールを認めることはできない。だから文化的多様性を守るには棲み分けるしかない。
日本はヒジャブを禁止していないし、する必要もない。だからといって別に奨励しているわけでもない。ヒジャブの問題はムスリムが考える問題で、我々が判断することではない。そこは進歩的なムスリムに頑張ってもらうしかない。ファラオの割礼もエジプトの女性が決めることだ。
それでは『春の日』春の発句の続き。
12,朝日二分柳の動く匂ひかな 荷兮
柳の句になることで、これは歳旦ではない。「二分(にぶ)」というのがわかりにくいが、十分の二、つまり今の二割のことで、風に動く柳の二十パーセントは朝日が動かしている、ということか。
古語の「にほひ」は嗅覚に限らない。揺れる柳の美しさの八割は風、二割は朝日によるものとする。
13,先明て野の末ひくき霞哉 荷兮
朝日が射して野原の向こうに低くたなびく霞が現れる。山に詠むことの多い霞を地平線に詠む。
14,芹摘とてこけて酒なき瓢哉 旦藁
芹を肴に酒を飲もうと思ったらこけて、酒がこぼれてなくなった。ショートコントのような句だ。物を拾おうとしてランドセルから教科書が落ちるような「あるある」だったのかもしれない。
のがれたる人の許へ行とて
15,みかへれば白壁いやし夕がすみ 越人
世を遁れた隠者の所へ行こうとすると、自分の家の立派な白壁が卑しく思えてくる。「夕がすみ」の下五は落日の無常を暗示させる。「いやし」と言うところのややあざとい感じが越人のキャラでもある。
「のがれたる人」は芭蕉のことだとする説もある。芭蕉のことをほのめかして次の句につなぐという配列だったのかもしれない。
16,古池や蛙飛こむ水のをと 芭蕉
あまりに有名すぎる句だ。配列的には前句の「白壁」に古池の寂びた雰囲気が対照的で、この句を引き立てている。
放置され荒れ放題になった古池に、何やら出るのではないかと不安にさせられる中、じゃぼっという水の音に一瞬ビクッとさせられる。どうやら蛙だったようだ。
天和の終わりごろに「山吹や」という上五で作られた句で、後に「古池や」の五文字に改められた。
山吹やの上五だと、古今集などの和歌に詠まれた井出の玉水の山吹と蛙になるが、それでは古典にべったりなのが気になっていたのだろう。
古池やの五文字にすることで、当時どこにでも見ることができた廃墟などの放置された古池に、在原業平の「月やあらぬ」の情を喚起することができるようになった。不易の情を古典の題材ではなく現在の身近な「あるある」で表したことに、この句の革新性があった。
井出の山吹の蛙は、当時にあっては古典の素養として誰もが知るものだったにしても、実際に井出へ行ってそれを見たという人はまず限られていたし、ほとんどの人にとってはあくまで想像上の井出の山吹の蛙にすぎなかった。古池やの五文字を置くことで、読者のそれぞれの実体験を重ね合わせることができた。
17,傘張の睡リ胡蝶のやどり哉 重五
傘張(かさはり)というと傘張牢人が連想されるが、当時の傘は高価でいい仕事になってたらしい。
途中で居眠りしていると傘の下に胡蝶がとまる。
18,山や花墻根墻根の酒ばやし 亀洞
山には桜が咲き、あちこちで山の桜を見ながら酒宴が行われている。
19,花にうづもれて夢より直に死んかな 越人
これは言わずと知れた、
願はくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
西行法師(山家集)
の歌によるもので、「夢より直に」と長い夢から覚めるみたいに死ねたらなと願う。
「酔生夢死」という言葉は本来否定的な意味に用いられるものだが、別に何か立派なことをしなくても人生を楽しく過ごしたいという本音が表れている。共感する人も多いと思う。
春野吟
20,足跡に櫻を曲る庵二つ 杜国
「庵二つ」は、
さびしさに堪へたる人のまたもあれな
庵ならべむ冬の山里
西行法師(新古今集)
の歌による。
足跡が桜の方に曲がっている庵が二つある、ということ。西行さんが吉野の西行庵に住んでいたことにも思いを寄せて、ここにも西行ファンが二人いるということか。二軒ある庵はいずれも桜の花が植えられている。
きっと二人とも「願はくは花の下にて」なんて思っているのだろう。
春野吟と前書きがあるのは、庵二つを傍目に見るという意味。自称に非ず。
21,麓寺かくれぬものはさくらかな 李風
麓に寺があっても普段あまり気に留めないが、桜が咲くとそこだけ目立ち、ああこんなところにお寺があったのか、今まで気づかなかったな、とそう言って、花見の人も集まってくる。
22,榎木まで櫻の遠きながめかな 荷兮
榎は一里塚に植える木で、貞享二年三月の熱田で芭蕉を送る、
つくづくと榎の花の袖にちる 桐葉
を発句とする歌仙興行があった。
遠くの山にある桜は次の一里塚まで行っても相変わらず遠い。
餞別
23,藤の花ただうつぶいて別哉 越人
「藤」は「臥す」に通じる。ここではこうべを臥す。時期的に一年前の芭蕉への餞別だったか。
24,山畑の茶つみぞかざす夕日かな 重五
茶畑は山の中腹や上の方にも作られる。峠道、特に小夜の中山越えの道は昔から茶畑が多く、『野ざらし紀行』の旅の時でも芭蕉は、
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 芭蕉
の句を詠んでいる。
春の終わりともなると茶摘みをする姿が見られ、それを夕日に手をかざしながらチラ見する。さすがにじろじろ見るのは失礼だ。
25,蚊ひとつに寐られぬ夜半ぞ春の暮 重五
春というと眠たいものだが、一匹の蚊に寝られなくなるところに、春も終わり夏が来るのが感じられる。
0 件のコメント:
コメントを投稿