今日も晴れ。朝早く人の少ないうちに神木山等覚院まで歩いてツツジを見てきた。
今年は花冷えがなかったし、ツツジも藤も牡丹も咲いている。菜種梅雨もなかった。
ところで、原理主義者になりやすい人というのはどこにでもいるのではないかと思う。基本的には正義感の強い人なんだろうけど、気が短くてすぐに怒るし、何でも即時に解決を求める。
人間関係が長年に渡る個々の取引の繰り返しで成り立っていて、社会の慣習も法制度も長い歴史の積み重ねにより試行錯誤を繰り返して今の形になっているのに、それを一時の感情で即座に変えなければ気の済まないという人たちだ。
例えていえば安全運転をしている人の隣に座って、アクセルを思いきり踏み込めと怒鳴りまくる人たちだ。どこの社会でも一定数はいるが、決して多数派になることはない。
一神教だと一直線に教義を守れという方向に行くのだろう。日本だと行く所がないから、結構右に行ったり左に行ったり右往左往する人も多い。
右にぶれなくても、中国が世界を支配すると思えば中国崇拝者になり、イスラームが世界を席巻すると言われればイスラームになり、国連がが中心になって世界が一つになるというなら国連主義になり、バイデンがと言われればバイデンに付く。パヨクというのはそういう生き物だ。
この感覚の何がおかしいかというと、結局彼らは戦前の日本人の意識をそのまま引きずっているところだ。つまり、世界はやがて一つになる。近代化は世界統一を廻り諸民族の相争う戦国時代に他ならない。日本は明治以降吉田松陰先生の教えのもとに勇敢に戦ってきたが、第二次大戦の敗北で決着がついた。日本は戦争に負けたのだ。だから、日本はもはや戦うことなく、ただ世界が一つになってゆく流れの中で積極的に国家を解体し、併合されなくてはならない。それが彼らの原理主義だ。だから崇拝するのは西洋でも中国でもイスラームでもいいということ。所詮は勝ち馬に乗りたいだけの日和見主義。
それでは「蛙のみ」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
岩苔とりの篭にさげられ
むさぼりに帛着てありく世の中は 冬文
贅沢にも絹を着て歩く世の中は、ということだから、やはりイワヒバ取りはいい金になったのだろう。
二十六句目。
むさぼりに帛着てありく世の中は
筵二枚もひろき我庵 越人
贅沢が当たり前の世の中に俺の庵は筵二枚分の広さしかないが、それでも満足している、と。
ただ、越人は、
のがれたる人の許へ行とて
みかへれば白壁いやし夕がすみ 越人
という発句を詠んでいるから、越人自身のことではない。付け句はあくまでフィクション。
二十七句目。
筵二枚もひろき我庵
朝毎の露あはれさに麦作ル 旦藁
降ってはすぐに消えて行く朝露のはかなさに発心を起こし、小さな庵に住んで麦を作る生活を始める。
二十八句目。
朝毎の露あはれさに麦作ル
碁うちを送るきぬぎぬの月 野水
この時代は本因坊道策というスターが生まれ、それに渋川春海のような強力なライバルもいて囲碁の盛り上がった時代だった。そのため底辺にはたくさんの無名な碁打ちもいたのだろう。
いつも負けてばかりで涙の露の碁打ちに麦飯を作って送り出す。
二十九句目。
碁うちを送るきぬぎぬの月
風のなき秋の日舟に網入よ 荷兮
アゲハマならぬハマグリが取れるということか。まあ、白石は蛤から作るが。
三十句目。
風のなき秋の日舟に網入よ
鳥羽の湊のおどり笑ひに 冬文
鳥羽港はウィキペディアに、
「江戸時代には鳥羽藩の藩庁が置かれ、城下町として発展する。また上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港することとなった。港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。この重要性は幕府も認識しており、山田奉行所の職務の1つに「鳥羽港の警備」が含まれていた。そして鳥羽港に安全に入港できるよう、延宝元年(1673年)、菅島に「御篝堂(おかがりどう)」、神島に「御燈明堂」が幕府によって設けられた。これは、日本初の公設灯台とされている[7]。」
とある。また鳥羽、
「鳥羽の盆踊りは、町人に交じって武士も踊りの輪に加わったことから、身分を隠すために手ぬぐいや編み笠で顔を隠して踊るという独特の風習があったが、」
とある。
二裏。
三十一句目。
鳥羽の湊のおどり笑ひに
あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水
「あらまし」は中世では「あらまほし」でこうありたいという意味だったが、後に概略の意味で用いられる容易なった。ここでは古い方の意味か。
大原の雑魚寝は天和二年刊の西鶴の『好色一代男』で有名になっていたから行ってみたかったのだろう。実際に行ってみたらどうだったかは「見て過ぬ」とあるから当て外れか。筑摩祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「滋賀県米原市朝妻筑摩にある筑摩神社の祭礼。昔は四月八日、現在は五月八日に行なわれる。古くは、女が交渉をもった男の数だけ鍋をかぶって神幸に従い、その数をいつわれば神罰を受けるとも、また、八人の処女が鍋をかぶって神前に舞い、もし男と通じていれば鍋が割れるともいわれた。今は狩衣(かりぎぬ)、緋(ひ)の袴(はかま)をつけた八人の少女が張子の鍋をかぶって神輿に供奉(ぐぶ)する。渡御の途中、神輿を琵琶湖にかつぎ入れる。日本三奇祭の一つ。筑摩鍋祭。つくままつり。《季・夏》」
とある。
君が代や筑摩祭も鍋一ツ 越人
はこれより後の『猿蓑』の句になる。
大原にも行き、筑摩祭も見て、次は鳥羽の盆踊りと、お祭り男だね。
三十二句目。
あらましのざこね筑摩も見て過ぬ
つらつら一期聟の名もなし 荷兮
大原の雑魚寝も筑摩祭も結婚相手を探す場だというのに、思えば一生縁がなかった。この場合筑摩祭では鍋がゼロになるのか。
三十三句目。
つらつら一期聟の名もなし
我春の若水汲に昼起て 越人
若水は立春の朝一番に汲む水だが、昼まで寝過ごしてしまう。それと同じで気づいたら娘はとっくに婚期を逃していた。
三十四句目。
我春の若水汲に昼起て
餅を喰つついはふ君が代 旦藁
若水は昼に汲んで正月は餅が喰えて、何も言うこともない。君が代に万歳だ。
三十五句目。
餅を喰つついはふ君が代
山は花所のこらずあそぶ日に 冬文
「所のこらず」は『芭蕉七部集』の中村注に、「土地の者がこぞっての意」とある。
山には桜が咲いて、村中みんなが遊ぶ日は餅をついて天下泰平を祝おう。
挙句。
山は花所のこらずあそぶ日に
くもらずてらず雲雀鳴也 荷兮
曇らず照らずというのは霞がかかっているということで、
照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
朧月夜にしくものぞなき
大江千里(新古今集)
の歌の趣向を昼にして雲雀の声を添えて一巻は長閑に終わる。
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