2021年4月7日水曜日

 コロナの方は予想以上に大阪を中心とした関西の感染拡大が急激で、変異株を侮るべきではなかった。気温の上昇と紫外線量の増加の効果が変異株によって相殺されてしまうと、さらなる行動の自制が必要になる。
 四月に入って年度が替わってから、一週間がたった。次の一週間でピークアウトできないと、かなりやばいことになる。
 あと飯山陽さんの『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』で気になったのは「公共の場で顔を隠すことは基本的には認められない、というのは近代社会のルールです。」(位置no.1114)だけど、これって欧米であれだけコロナで多くの死者が出ているのにマスクをしない人が多いばかりか、マスク反対デモが起こっている原因になっているんじゃないかな。まあ、これはコロナ前に書かれた本だから、飯山さんも今は考えが変わっていると思うが。
 とにかく日本にはこんなルールはない。日本人は昔から外出するときに、吉原通いするときに覆面をしたり、女性が市女笠を被ったりしてきたし、穢多非人も覆面してたし、虚無僧も顔を隠していた。また、覆面はなくても扇子で顔を隠す仕草は網野さんが即席の覆面だと言っていた。
 今でも田舎に行けば農家のおばさんは顔を覆っているし、冬になると口元を完全に覆った上にニット帽を深くかぶって目だけ出している若者もいる。これが黒づくめだったらイスラム国の戦闘員そっくりだ。また、ウォーキングしているおばさんも大きな鍔のついたサンバイザーを下に向けて、ほとんどフェイスガードみたいにしている人もいる。もちろんコロナの前から花粉症でマスクをして歩いている人はたくさんいたし、日本では顔を隠すことはルール違反ではない。
 日本ではマスクと覆面と仮面とお面は別のものだが英語だと全部マスクになる。

 それでは「蛙のみ」の巻の続き。

 十三句目。

   解てやをかん枝むすぶ松
 咲わけの菊にはおしき白露ぞ   越人

 咲わけは一本に違う色の花が咲くこと。二色の花も珍しいのにさらに白露でその色が際立ち、もったいないくらいだ。勿論褒めて言っている。
 松の枝ぶりを作るために結んでた松の枝も、景色がいいので今日は解いてみる。
 十四句目。

   咲わけの菊にはおしき白露ぞ
 秋の和名にかかる順       旦藁

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 「源順が『和名抄』(和名類聚抄)「秋の部」の稿にとりかかったの意。」

とある。ウィキペディアに、

 「『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。」

とある。十巻本は二十四部からなり、二十巻本は三十二部からなるが、ともに草木部は最後にある。
 十五句目。

   秋の和名にかかる順
 初雁の声にみづから火を打ぬ   冬文

 夜遅くまで一人籠って執筆を続けるので、火種は常に自分で用意している。「秋の和名にかかる」に初雁の声を付ける。
 十六句目。

   初雁の声にみづから火を打ぬ
 別の月になみだあらはせ     荷兮

 前句を切り火とする。「切り火」に関しては明治に作られたという古い説もあるようだが、江戸時代に切り火が行われていたという証拠もあるという。この句も証拠にならないか。
 後朝の別れの月に初雁の声がして、切り火を切って見送る。
 十七句目。

   別の月になみだあらはせ
 跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて   旦藁

 「四の宮」は京都山科の「しのみや」か。京都を出て東海道の最初の宿である大津へ行く途中に通る。ここから山を越えると大津になる。「跡ぞ花」はここで振り返ると花の都が見えるということだろう。
 唐輪(からわ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「日本髪の一種。男女ともに結んだ。男性の唐輪は、鎌倉時代に武家の若者や寺院の稚児(ちご)などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷(まげ)に類似している。その結び方は、髪のもとを取りそろえて百会(ひゃくえ)(脳天)にあげ、そこで一結びしてから二分し、額の上に丸く輪とした。一方、女性の唐輪は、下げ髪が仕事の際に不便なので、根で一結びしてから輪につくり、その余りを根に巻き付けたもので、安土(あづち)桃山時代の天正(てんしょう)年間(1573~92)から行われた。[遠藤 武]」

とある。似たものというと「ゆるキャン△」のリンちゃんを想像すればいいかもしれない。
 また、ウィキペディアには、

 「唐輪(からわ)とは、安土桃山時代ごろ兵庫や堺などの上方の港町の遊女に好まれた女髷。」

ともある。当時としては古い風俗で、大津の遊郭だとまだ唐輪だったということか。
 幕末の浮世絵だが『観音霊験記 西国順礼』「拾四番近江三井寺 大津町杉女」に描かれて杉女が唐輪のようにも見える。
 前句の別れを都との別れにする。
 十八句目。

   跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて
 春ゆく道の笠もむつかし     野水

 唐輪だと笠がかぶりにくい。

 二表。
 十九句目。

   春ゆく道の笠もむつかし
 永き日や今朝を昨日に忘るらん  荷兮

 日が長いので今朝のことが昨日のことのように思える。笠を被り旅をするにも一日が長くて疲れる。
 二十句目。

   永き日や今朝を昨日に忘るらん
 簀の子茸生ふる五月雨の中    越人

 五月雨でじめじめしているから、簀子に茸が生えてくる。五月雨の時期は夏至に近く、一番日が長い。
 二十一日。

   簀の子茸生ふる五月雨の中
 紹鷗が瓢はありて米はなく    野水

 紹鷗(じょうおう)はウィキペディアに、

 「武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。」

とある。紹鷗茄子と呼ばれる「唐物茄子茶入」はあるが、瓢箪型の茶入も何となくありそうな、というところか。茶はあっても米はない。
 二十二句目。

   紹鷗が瓢はありて米はなく
 連歌のもとにあたるいそがし   冬文

 連歌会を催すというのはかなり金のかかることだったらしく、

 足のうて登りかねたる筑波山
     和歌の道には達者なれども

という狂歌もあった。明智光秀も連歌会をやるために妻が髪を売った。
 連歌師の招待や、それに興行は一日がかりだから、そのための会場の確保、宿泊や食事の準備、それに賞品なども出さねばならなかった。
 金もかかるし、準備することも多くて忙しい。
 二十三句目。

   連歌のもとにあたるいそがし
 瀧壺に柴押まげて音とめん    越人

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 「後鳥羽院の時、吉田家の連歌の会で、滝の音がやかましくて聞き分けられなかったので、藤原為教が山から柴を折って滝の滝口を塞ぎ静かになったという故事。」

とある。ウィキペディアには、

 「時期は不明であるが頓阿『井蛙抄』には、西園寺別邸の吉田泉殿で催された連歌会へ為家は為教を伴い伺候し、滝の音が耳障りであったところを為教が機転を効かせて滝を塞いだという逸話を記している。(辨内侍日記)」

とある。
 なお、為教は嘉禄三年(一二二七年)の生まれなので、後鳥羽院の時代ではない。後嵯峨院の時代だと思う。
 本説を取る場合は少し変えるので、滝口を塞いだというところを瀧壺を塞いだことにしている。
 二十四句目

   瀧壺に柴押まげて音とめん
 岩苔とりの篭にさげられ     旦藁

 岩苔は『芭蕉七部集』の中村注に岩檜葉(イワヒバ)とある。江戸時代には盆栽として好まれ、たくさんの園芸品種が作られた。
 瀧壺のそばで危険を冒してでもイワヒバと取る人がいたのだろう。

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