今日は曇り時々小雨。
コロナの新規感染者数はまだ減る気配がない。マスク会食だとか団扇会食だとか何とか会食をさせようと姑息な手を使っていても、人間は騙せてもコロナは騙せない。
同じ部屋の中にいれば自ずとエアロゾルは充満する。不織布マスクをしていればある程度防げるというだけのこと。少しでも外したら意味はない。
会食でなくても、同じ部屋で複数人数で飲食をするのは避けなくてはいけない。
大体、会食なんて半強制のものが多くて、迷惑だと思っている人も多い。やめればせいせいする人も多い。
ミャンマーの死者は虐殺レベルになってきている。ただ、ウイグル問題と違うのはビルマ族同士の内紛で民族浄化ではない。それが「ウイグルガー」とか言ってる人への答えだ。
むしろ我々が考えなくてはならないのは、日本が中国に支配された時、デモやゼネストのような平和的闘争が軍事政権の前でいかに無力かということだろう。
我々の世代は親父から戦前戦中の言論統制の時代のことをいろいろ聞かされているが、若い世代はそれを知らない。今のネット上で権利を主張しているみたいに、何でも言っていいし何でもできると思ってはいけない。
その時のためにも基本的人権の一つである「抵抗権」について、きちんと考えてゆく必要がある。民衆の正統な抵抗とテロとの境界をぐだぐだにしたままだと、テロとの戦いの名目で民衆の声が抹殺されることになるし、逆に民衆の抵抗を装ったテロが横行することにもなる。
さて、今日は延宝のグルメ。芭蕉は伊賀藤堂藩の料理人だったこともあってか、食い物のネタも多い。
干菜
「いと凉しき」九十三句目。
月はこととふうら店の奥
秋の風棒にかけたる干菜売 桃青
酢味噌
「此梅に」四句目
春雨のかるうしやれたる世中に
酢味噌まじりの野辺の下萌 桃青
春の野辺の下萌といえば若菜。これを酢味噌で食べるのは洒落ている。
茎漬
「此梅に」二十八句目
地にあらば石臼などとちかひてし
末の松山茎漬の水 信章
「茎漬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「ダイコンやカブなどを茎や葉といっしょに塩漬けにしたもの。くき。 [季] 冬。」
とある。これは和歌山の茎漬けで、三重の茎漬けはヤツガシラの茎を塩と赤紫蘇で漬ける。茎を塩漬けにして臼に入れて重石を乗せると、茎の水分が出てくる。
油揚げ
「此梅に」九十句目
忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん
あぶらにあげしねづなきの声 信章
あぶらあげは後の元禄四年の「牛部屋に」の巻三十四句目に、
手に持し物見うしなふいそがしさ
油あげせぬ庵はやせたり 野童
の句がある。精進料理でいて高プロテインで高カロリーな油揚げ。これを食べない僧は痩せていた。
天ぷら
「此梅に」九十一句目
あぶらにあげしねづなきの声
唐人も夕の月にうかれ出て 桃青
「唐人」は中国人だけでなく外国人一般をさす言葉として用いられ、西洋人も含まれていた。
油で揚げた「てんぷら」は江戸時代に急速に普及していったが、西洋(南蛮)が起源ということも意識されていた。
十団子
「此梅に」九十九句目
霰の玉をつらぬかれけり
花にわりご麓の里は十団子 桃青
「わりご」は「破子」と書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「破籠とも書く。食物を入れて携行する容器。ヒノキの白木の薄板を折り,円形,四角,扇形などにつくり,中に仕切をつけ蓋をする。平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した。」
とある。
「花より団子」というくらいで、花見に弁当は付き物。
「麓の里」は東海道の丸子宿から宇津の谷に入るところの集落で、「十団子(とおだご)」は中世から売られていた名物の団子。ウィキペディアには「江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものと知れる。」とある。
わらび餅
「此梅に」挙句
花にわりご麓の里は十団子
日坂こゆれば峰のさわらび 信章
ここでは日坂宿の名物の蕨餅のことか。
ウィキペディアの「わらびもち」の所には、
「東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。」
茸鍋
「梅の風」十九句目
桐壺はは木木しめぢ初茸
鍋の露夕の煙すみやかに 桃青
キノコといえば鍋。
カステラ
「梅の風」二十七句目
玉子の前やうちくだく覧
伝聞唐のやうかんかすていら 信章
前句を単に玉子を割って作る菓子としてカステイラを出す。
鯰の蒲鉾
「梅の風」五十五句目
弁才天に鯰ささぐる
かまぼこの塩ならぬ海このところ 信章
鯰は白身魚だからかまぼこの材料にはなるだろう。「塩ならぬ海」は淡水の海、琵琶湖のこと。
同様に「見渡せば」六十九句目
長十丈の鯰なりけり
かまぼこの橋板遠く見わたして 似春
の句もある。
醤油
「あら何共なや」七句目
海老ざこまじりに折節は鮒
醤油の後は湯水に月すみて 桃青
塩味の強い醤油味の魚介料理の後はさ湯ですっきり。関西・中京では普及していたが、関東ではこれからという時代だった。
煮しめに薄醤油
「物の名も」七十九句目
にしめの蕨人参甘草
春霞気を引たつる薄醤油 信徳
醤油は『日本の味 醤油の歴史』(林玲子・天野雅敏編、二〇〇五、吉川弘文館)によると、紀伊湯浅で正応年刊(一二八八~九三)には販売されていて、以降十六世紀には他国への移出していたという。播州龍野でも天正年刊(一五七三~九二)には生産が始められていた。薄口醬油は寛文六年(一六六六年)に播州龍野の円尾孫右衛門によって始められたとされる。これが関西方面に広まっていて京都の信徳も知っていたのだろう。関東で醤油が広まるのはもう少し後になる。
これと別系統で愛知、岐阜、三重の東海三県では原初的な穀醤から派生した溜まり醤油があったが、商品化されたのは元禄十二年(一六九九年)だという。また、海辺の地方では独自の魚醤が作られていたものと思われる。
干鱈
「あら何共なや」十四句目
物際よことはりしらぬ我涙
干鱈四五枚是式恋を 信章
貞享二年に芭蕉は。
躑躅生けてその陰に干鱈割く女 芭蕉
の句を詠むが、干鱈は棒鱈とちがって柔らかく、水で戻さなくてもそのままかじることができる。干鱈を咲いている様子が女が悲しみに文を引き裂いている様子と似ているというのが俳諧のネタになる。
心太
「さぞな都」十七句目
つづけやつづけ紙張の母衣
石花菜水のさかまく所をば 信徳
石花菜は心太のこと。「ところてん」と読む。心太突きから出てくる心太は瀧のようでもあり、それを盛り付けると水が逆巻くようにも見える。子供たちにも大人気で続けや続け。
鯉の丸揚げ
「さぞな都」二十句目
落瀧津地獄の底へさかさまに
鉄杖鯉の骨をくだくか 信徳
鯉の丸揚げであろう。鯉が油の中で暴れないように眉間を叩いて絞める。それを地獄の鬼の金棒に見立てる。
のっぺい汁
「さぞな都」二十六句目
鍋の尻入江の塩に気を付て
のつぺいうしと鴨のなく覧 信徳
「のつぺい」はのっぺい汁で、ウィキペディアに、
「原型は、寺の宿坊で余り野菜の煮込みに葛粉でとろ味をつけた普茶料理『雲片』を、実だくさんの澄まし汁に工夫したものという。精進料理が原型だが、現在では鶏肉や魚を加えることもある。」
とある。江戸時代でも鴨を加えることがあったのだろう。
ざくざく汁
「さぞな都」九十七句目
鰯でかりの契りやかるる
はかゆきにざくざく汁の薄情 信章
ウィキペディアの「ごづゆ」のことろに、
「内陸の会津地方でも入手が可能な、海産物の乾物を素材とした汁物である。江戸時代後期から明治初期にかけて会津藩の武家料理や庶民のごちそうとして広まり、現在でも正月や婚礼などハレの席で振る舞われる郷土料理である。なお似たようなレシピで「ざくざく」という家庭料理も作られるが、こちらは昆布・ダイコン・ゴボウなどが加わり、出汁にも煮干しなどが加わる点が異なる。 また、南会津地方ではこづゆを「つゆじ」と言うこともある。」
とある。今日でも「ざくざく汁」と呼ばれているが、延宝の頃にあったかどうかは不明。江戸では廃れたが会津に残ったということも考えられる。
河豚汁
「あら何共なや」発句
あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青
「ふぐとじる」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① フグを椀種(わんだね)とした汁物。ふくとうじる。ふくとじる。鉄砲汁。《季・冬》 〔大草家料理書(16C中‐後か)〕」
とある。
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