2021年4月28日水曜日

 『もう一つの万葉集』の作者が亡くなったというニュースがあった。正直言ってこの本はまともに読んだことがないし、著者の名前もとっくに忘れていた。
 あの頃ちょうど藤村由香の『人麻呂の暗号』がベストセラーになっていて、そのブームに便乗した類似本という感じがした。
 藤村由香の『人麻呂の暗号』は古代文学に東アジアの視点をもたらしたという点では画期的だったし、あそこに描かれた人麻呂像は梅原猛の『水底の歌』の延長線上に位置づけることができた。
 戦前の歴史では壬申の乱のことなどが抹消されていて、万葉の時代は平和な一種のユートピアであったかのように美化され、『万葉集』が日本の心とされていた。
 『人麻呂の暗号』に刺激され、すぐにヒッポファミリークラブに入り、実際に藤村由香の四人にも合うことができた。ただ、ヒッポの方は、今はどうなっているか知らないが、あの頃ちょっとした成功にすっかり舞い上がっていて、その創始者が五母音の神秘主義に走ったのでやめた。多言語の同時習得もアイデアとしては面白かったが、解決しなくてはならない難しい問題が多くて、まあ自分の手に余る問題だった。
 万葉の時代は当然ながら日本国内でも言語は統一されてなかったし、いわゆる標準語のようなものは存在しなかったから、多言語環境だったことは間違いないだろう。それは隣の半島でも一緒だったと思う。
 いわゆる弥生人の末裔と百済(ペクジェ)や高句麗(コグリョ)の言語はわりかし似てたんではないかと思う。だから帰化人はそんなに言語に苦労はしなかったし、『万葉集』の古体と言われる表記は実際にどちらでも読めたのではないかと思う。それは漢文が北京人でも広東人でも読めるようなものだと思う。
 万葉仮名と言われる新体の表記は、当時の宮廷の言葉を反映してたと思う。そしてそれが基礎になってやがて雅語が形成された。
 あの半島の方はやがて新羅(シルラ)の言葉が優勢になり、日本語と韓国語の差になって行ったのだと思う。

 それでは引き続き『ひさご』の歌仙で、次は正秀・珍碩両吟の「疇(あぜ)道や」の巻を読んでみようと思う。芭蕉が参加してないので『校本芭蕉全集 第四巻』にはなく、『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注だけが頼りだ。
 「田野」というタイトルが作られている。
 発句は、

 疇道や苗代時の角大師      正秀

 角大師(つのだいし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 元三(がんざん)大師良源の画像。
  ② (元三大師のおそろしい容貌をかたどったものという) 二本の角のある黒い鬼の形をした絵や刷り物で、魔よけの護符としたもの。門口にはったり、害虫よけとして竹などにはさんで田のあぜに立てたりした。《季・新年》

  ※俳諧・続山の井(1667)春上「元三会の心を 守れ猶今年のうしの角大師〈正好〉」
  ③ (②の像の頭に似ているところから) 男児の髪の結い方。うなじと前後、左右の五か所を結んだもの。転じて、それを結うくらいの小児。」

とある。
 ここでは②の意味で、「苗代時の畦道に角大師や」の倒置になる。特に興行開始の挨拶の寓意はなさそうだ。
 正秀はウィキペディアに、

 「明暦3年(1657年)、近江国膳所に生まれ、代々正秀を名乗った。遠藤曰人が記した「蕉門諸生全傳」において「正秀は膳所の町人伊勢屋孫右衛門」と伝えているが、中村光久が編んだ「俳林小傳」では「膳所藩中物頭、曲翠の伯父なり」とある。正秀死去後編された正秀追悼集「水の友」の序文より考えれば、膳所藩内で相当重い地位を占めていたと考えられる。」

とある。武家なら正秀という「名乗り」があってもおかしくない。芭蕉も伊賀藤堂藩時代は宗房を名乗っていたように、江戸時代前期ではは俳号ではなく名乗りを使うことも多かったが、この時代となると少数派になる。
 脇は、

   疇道や苗代時の角大師
 明れば霞む野鼠の顔       珍碩

 春なので朝霞で受けるが、角大師も何のそのと野鼠が姿を現す。
 第三。

   明れば霞む野鼠の顔
 觜ぶとのわやくに鳴し春の空   珍碩

 「觜ぶと」はハシブトカラスのことか。野鼠を食べてくれる。「わやく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (形動) (「おうわく(枉惑)」の変化した語)
  ① 道理に合わないこと。無理を言ったりしたりすること。また、そのさま。無茶。非道。わわく。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ワヤクモノ、または、Vayacuna(ワヤクナ) モノ」
  ※咄本・醒睡笑(1628)四「侍ほどの人料足なくは、くふまじきにてこそあらんめ。とかくわやくなり」
  ② 聞きわけがないこと。わがままであること。また、そのさま。
  ※歌舞伎・阿闍世太子倭姿(1694)一「わやくをおっしゃる時が有」
  ※寝耳鉄砲(1891)〈幸田露伴〉三〇「わやくも遠慮なしに仰せらるるものの」
  ③ 悪ふざけをすること。いたずらをすること。また、そのさま。
  ※評判記・色道大鏡(1678)五「又隣家・町内・遠類なとの内に、それしゃのわやくなるありて」

とある。傍若無人といったところか。空で野鼠がいたぞと鳴き交わしている。
 四句目。

   觜ぶとのわやくに鳴し春の空
 かまゑおかしき門口の文字    正秀

 カラスがカアカアうるさい中、下界には一風変わった門構えの家があり、門に何か書いてある。
 五句目。

   かまゑおかしき門口の文字
 月影に利休の家を鼻に懸     正秀

 変な門が建っていると思ったら、どの千家か知らないがその家柄を自慢する茶人の家だった。
 六句目。

   月影に利休の家を鼻に懸
 度々芋をもらはるるなり     珍碩

 千家の茶人は芋が好物だったのだろう、名月に関係なく度々芋を貰っている。『徒然草』第六十段の芋頭の好きな盛親僧都が思い浮かぶ。
 初裏。
 七句目。

   度々芋をもらはるるなり
 虫は皆つづれつづれと鳴やらむ  正秀
 ツヅレサセコオロギであろう。延宝九年の『俳諧次韻』の「世に有て」の巻八十句目にも、

   侘竈に蛬の音をしのぶ成ル
 足袋さす宿に風霜を待      桃青

の句がある。「足袋さす」は「蛬(こおろぎ)」の「綴れ刺せ(繕え)」から導いている。
 ツヅレサセコオロギの名の由来はウィキペディアに、

 「一見すると奇妙な名前であるが、これは「綴れ刺せ蟋蟀」の意である。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来する。」

とある。
 芋を貰ってとりあえず食べるものを確保したら、コオロギが「綴れ刺せ」と次は衣類を整えろという。
 八句目。

   虫は皆つづれつづれと鳴やらむ
 片足片足の木履たづぬる     珍碩

 「片足」は「かたし」と読む。
 木履(ぼくり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 木製の履物。〔羅葡日辞書(1595)〕 〔貫休‐思匡山賈匡詩〕
  ② あしだ。高下駄。
  ※甲陽軍鑑(17C初)品四〇下「ぼくりはく人ぬぎたらば、あなたは草履をぬぎ」
  ③ =ぼっくり(木履)
  ※いさなとり(1891)〈幸田露伴〉一「天鵞絨の鼻緒ついたる木履(ボクリ)穿きつつ」

とある。服もボロボロで、虫に「綴れ」と言われ、下駄も片方がどこへ行ったか分からない。
 九句目。

   片足片足の木履たづぬる
 誓文を百もたてたる別路に    正秀

 誓文はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 神にかけて誓約する文言。誓約のことばやそれを書きしるした文。誓詞。
  ※発心集(1216頃か)二「相真が弟子ども誓文(セイモン)をなむ書きてぞ送りたりける」
  ※天草本平家(1592)三「ヨリトモ カラ モ xeimon(セイモン) ヲモッテ」
  ② 相愛の男女が互いに心変わりしないことを誓ってとりかわす文書。多く遊女と客の間でかわされた起請文。誓詞。
  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「背給ふまじとの御誓文(セイモン)のうへにて、とてもの事に二世迄の契」
  ③ (副詞的に用いて) 神に誓って、そのとおりであること。まちがいないこと。
  ※天理本狂言・遣子(室町末‐近世初)「たがひにちがへぬやうにせいもんでまいらうと云」
  ※浄瑠璃・女殺油地獄(1721)上「わしが心はせいもんかうじゃと、ひったりだきよせしみじみささやく色こそ見えね河与が悦喜」

とある。この場合は②で恋に転じる。
 百回も誓文を立てるのは誇張だとしても、軽すぎる。そういう軽々しいところが嫌われたのだろう。下駄も脱ぎ散らかしたままで、片方を探しながら店を出て行く。
 十句目。

   誓文を百もたてたる別路に
 なみだばみけり供の侍      珍碩

 ここでは逆に百回の誓文の甲斐もなくふられた男は、たいそうな身分だったのだろう。お伴の侍に同情される。
 十一句目。

   なみだばみけり供の侍
 須磨はまた物不自由なる臺所   正秀

 須磨は古代の配流の地で、『源氏物語』でも源氏の君は須磨で隠棲している。
 『源氏物語』の須磨巻では源氏の君が七弦琴を掻き鳴らして、

 恋ひわびてなくねにまがふ浦波は
     思ふかたよりかぜやふくらん

と歌うと、

 「人人おどろきて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなうおきゐつつ、はなを忍びやかにかみわたす。」
 (お仕えしている者たちもその見事な演奏と歌に感動しつつも悲しみを堪えきれず、そのまま起きてしばらくの間、涙に鼻をかんでいました。)

ということになる。
 ただ、ここでは武士の時代のこととして、台所に困るという所で落ちにする。台所は台所事情というように、金銭のやりくりを意味する。
 十二句目。

   須磨はまた物不自由なる臺所
 狐の恐る弓かりにやる      珍碩

 「狐の恐る弓」は妖狐玉藻前が弓で仕留められたことによるものか。九尾の狐すら恐れる弓で狩に出て、食物の不足を補う。
 肉食は仏教の影響で戒められていたが、冬には薬食いと称してシカやイノシシを食べた、下層の者は犬を食うこともあったようだ。幕末の寺門静軒の『江戸繁盛記』では狐も売られていたという。

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