2021年4月12日月曜日

 今日は弥生の朔日。何だか春も終わりのような気がするが、まだ一か月ある。
 日本でもようやく医療関係者以外のワクチン接種が始まった。何のかんの言っても既に百万人以上の人が接種を受けている。日本は他の国に比べて感染者も死者も少ないからそんなに急ぐことはない。もちろん早いに越したことはないが、ワクチンのいきわたらない国もたくさんある。恵まれていると思った方がいい。
 それでは延宝の有名人の後半。

京秤座 神善四郎

 「見渡せば」五十八句目

   因果は夫秤の皿をまはるらん
 善男善四と説せ給ひし      桃青

に登場する。
 コトバンクの「世界大百科事典内の神善四郎の言及」に、

 「…守随家の初代吉川守随茂済(しげなり)は甲州出身で今川氏に奉公し,人質中の徳川家康に仕えた後,甲府に帰り1574年(天正2)武田信玄から秤製作の特権を得,82年には家康から三遠駿甲信の5ヵ国における秤製作の特権,さらに関八州における特権から,1653年(承応2)には日本を東西に神家と分掌して東33ヵ国における特権へと成長した。神家初代神善四郎は伊勢国白子の牢人で,京に出て公家に仕え秤座を開き豊後掾に任ぜられ,慶長(1596‐1615)末年ごろには製品を二条城にいた家康に納め,やがて西国33ヵ国を分掌するに至った。秤座では,国や都市単位に約10年ほどの間隔で秤改めを実施した。…」

とある。


江戸秤座 守随彦太郎

 「あら何共なや」五十四句目

   昔棹今の帝の御時に
 守随極めの哥の撰集       信徳

に登場する。
 守随(しゅずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、幕府の許しにより、東三三か国における秤のこと一切をつかさどる特権をもった、江戸秤座(はかりざ)守随彦太郎家。または、守随家によって製作、検定された秤。転じて、一般に秤をいう。なお西三三か国は、神善四郎家が、京秤座としてつかさどった。
  ※御触書寛保集成‐三四・承応二年(1653)閏六月「一 守随、善四郎二人之秤目無二相違一被二仰付一候上ハ、六拾六箇国ニて用レ之、遣可レ申事」

とある。


霊元天皇

 「あら何共なや」五十三句目の「今の帝」は霊元天皇になる。ウィキペディアによれば霊元天皇は、

 「霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。」

とある。


作家 鈴木正三

 「さぞな都」三十九句目

   悪鬼となつて姿はそのまま
 正三の書をかれたる物がたり   桃青

に登場する。
 鈴木正三はウィキペディアに、

 「鈴木 正三(すずき しょうさん、俗名の諱まさみつ、道号:石平老人、天正7年1月10日(1579年2月5日)- 明暦元年6月25日(1655年7月28日))は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。」

とあり、仮名草子については、

 「また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利用し、『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草子』などを執筆して分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。」

とある。


怪談作家 道春

 「さぞな都」四十句目

   正三の書をかれたる物がたり
 ここに道春是もこれとて     信章

に登場する。
 道春は林羅山のこと。林羅山はウィキペディアに「出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。」とある。博識で朱子学者というだけでなく、ウィキペディアに、

 「中国の本草学の紹介書『多識編』、兵学の注釈書である『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』、さらに中国の怪奇小説の案内書『怪談全書』を著すなど、その関心と学識は多方面にわたっている。」

とある。


正本屋 鶴屋喜右衛門

 「梅の風」九十句目

   朝より庭訓今川童子教
 さてこなたには二条喜右衛門   桃青

に登場する。
 京都二条の喜右衛門は正本屋、つまり出版社だった。ネット上の柏崎順子さんの『鶴屋喜右衛門』という論文によると、寛文期までに古浄瑠璃の正本を多数出版していた。


俳諧の祖 荒木田守武

 「さぞな都」八十八句目

   千句より十万億も鼻の先
 我等が為の守武菩提       信徳

に登場する。
 俳諧の祖の守武は守武千句が知られている。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「俳諧集。荒木田守武著。1冊。1536年(天文5)起草,40年成稿。《誹諧之連歌独吟千句》ともいい,冒頭の〈飛梅やかろがろしくも神の春〉により《飛梅千句(とびうめせんく)》ともいう。数年にわたる推敲を経た入魂の作で,それまで詠捨ての座興であった俳諧に千句という正式の形を与えたことにより,俳諧のジャンル確立に貢献。宗鑑の《犬筑波集》と並称される。跋文は当時の一流連歌師の俳諧への嗜好を生き生きと伝える。後世,ことに談林俳諧への影響が大きい。」

とある。


儒者 熊沢藩山

 「青葉より」十八句目

   爰に中比儒者一人の月澄て
 或は広沢熊沢の秋        桃青

 熊沢蕃山はウィキペディアに、

 「熊沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後に助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。」

とある。寛文七年まで京で私塾をやっていた。


神道家 萩原兼従

 「須磨ぞ秋」三十七句目

   神代の鼠まくら驚く
 明ぬれば萩原どのの鶉啼     似春

に登場する。
 「萩原どの」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「江戸期の神道家」とある。神道家でもある曾良(岩波庄右衛門)の師である吉川惟足の師匠の萩原兼従のことか。
 萩原兼従はウィキペディアに、

 「萩原 兼従(はぎわら かねより、天正16年(1588年) - 万治3年8月13日(1660年9月17日))は、江戸時代前期の神道家。吉田兼治の子。母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。室は高台院の姪。萩原家の祖。
 1599年(慶長4年)、祖父吉田兼見の画策により兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国神社の社務職に就任し萩原を名乗る。1615年(元和元年)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦された。
 その後本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた。兼従の死後、吉田神社の境内に「神海神社」が創建された。」

とある。


呉服師 後藤縫殿助

 「色付や」八十九句目

   乙女の姿白じゆすの帯
 呉服物後藤源氏の物思ひ     桃青


に登場する。
 後藤源氏は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「縫物所後藤縫殿助。幕府の御用呉服所。」とある。ウィキペディアに、

 「後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)は、江戸時代に代々呉服師を手がけた後藤家の当主が名乗った名称である。江戸幕府の御用達呉服師として仕え、彫金師の彫物後藤および小判鋳造を手がけた金座後藤庄三郎家と区別するため呉服後藤(ごふくごとう)とも呼ばれた。また後藤縫之助と書かれる場合もある。」

とある。


鍛冶屋 播磨守兼増

 「見渡せば」七十句目

   かまぼこの橋板遠く見わたして
 兼升勢多より参包丁       桃青

 兼升は「刀剣ワールド」というサイトに、

 「「播磨守兼増」は、銘を播磨守兼升・播磨守兼桝とも切ります。播磨(はりま)は、現在の兵庫県のこと。元々は美濃の刀工で、のちに大坂で寛文(1661年~)頃に鍛刀しています。「兼(金)が増す」と喜ばれた名前ですが、あまり数を見ない刀工です。」

とある。


謀反人 由井正雪

 「色付や」九十五句目

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや    杉風

の伏字部分に登場する。

 伏字部分は慶安四年(一六五一年)に慶安の変を起こした「由井正雪」ということになる。ウィキペディアに、

 「由井 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき、慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日(1651年9月10日))は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。」

とある。


遊女 吉野太夫

 「見渡せば」八十二句目

   伺公する例の与三郎大納言
 たはけ狂ひのよし野軍に     桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「芳野山と遊女の吉野太夫に言い掛けた。」

とある。さしずめ与三郎大納言様の御参戦ということか。
 吉野太夫はウィキペディアに、

 「二代目吉野太夫(にだいめよしのたゆう、本名:松田徳子、慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日)) は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。実父はもと西国の武士であったとも。」

とある。


伝説のカップル 丹波与作・関の小万

 「のまれけり」七句目

   与作あやまつて仙郷に入
 はやり哥も雲の上まで聞えあげ  春澄

に登場する。
 「丹波与作」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「丹波の馬方。のち江戸へ出て出世し、武士になった。寛文(1661~1673)ごろから、関の小万との情事を俗謡に歌われ、浄瑠璃・歌舞伎にも脚色された。」

とある。また、「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典の解説」に、

 「歌舞伎・浄瑠璃の外題。
  初演延宝5.11(京・北側芝居)
  歌舞伎・浄瑠璃の外題。
  元の外題丹波与作手綱帯 など初演元禄6(京・村山平右衛門座)」

とある。
 ネット上の小西准子さんの『「薩摩歌」論─「丹波与作手綱帯』との関係をめぐって─』によると、元禄六年の方は富永平兵衛の『丹波与作手綱帯』で、延宝五年のは元祖嵐左衛門の『丹波与作』だという。それ以前から俗用に謡われてたのなら、当時誰しも知るキャラだったのだろう。
 ここで気になるのは与作と対になっている関の小万だが、これも、『冬の日』の「狂句木枯し」の巻十三句目に登場する、

   あるじはひんにたえし虚家
 田中なるこまんが柳落るころ   荷兮

の「こまん」のことなのだろうか。貞享二年六月二日の「涼しさの」の巻七十句目にも、

   はつ雪の石凸凹に凸凹に
 小女郎小まんが大根引ころ    才丸

の句がある。
 前句の与作もこの小万の句もその出典にさかのぼって理解する必要があるのかもしれない。


生存説のあった義経の家来 海尊

 「あら何共なや」五十九句目

   ふる入道は失にけり露
 海尊やちかい比まで山の秋    信章

に登場する。
 常陸坊海尊はウィキペディアに、

 「源義経の家来となった後、武蔵坊弁慶らとともに義経一行と都落ちに同行し、義経の最後の場所である奥州平泉の藤原泰衡の軍勢と戦った衣川の戦いでは、源義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていた為に生き延びたと言われている。」

とある。
 また、

 「江戸時代初期に残夢という老人が源平合戦を語っていたのを人々が海尊だと信じていた、と『本朝神社考』に林羅山が書いている。」

とあるので、「ちかい比まで」生存説があったようだ。


剣豪 吉岡憲法

 「時節嘸」三十一句目

   うけて流いた太刀風の末
 吉岡の松にかかれる雲晴て

 順番からすると桃青の番。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「京都北郊の一乗寺下り松。吉岡憲法と宮本武蔵との果し合いの場。」とある。吉岡憲法は吉岡直綱で、ウィキペディアに、

 「吉岡直元を祖とする足利将軍家の剣術師範を務める剣術流派である吉岡流の3代目・吉岡直賢の嫡男として生まれ、祇園藤次に兵法を学んだ。後年、吉岡家の4代目当主となった。伝記作家・福住道祐が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』によれば京都所司代の屋敷で宮本武蔵との試合が行われ、この時の勝負では武蔵が大出血したことから直綱の勝利、あるいは両者引き分けの両判定があったとあり、また慶長19年(1614年)の大坂の陣では豊臣方について篭城したという。落城後は家伝の一つである染物業に専念したという。なお、黒褐色の染物を「憲法染」と呼ぶのは、吉岡憲法が発明したからだと伝えられている。」

とある。


大泥棒 石川五右衛門

 「塩にしても」二十六句目

   帳面のしめを油にあげられて
 ながるる年は石川五右衛門    春澄

に登場する。
 ウィキペディアには、

 「安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。」

とある。

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