今日は晴れの予報だったが一日曇りでやや寒かった。染井吉野はすっかり葉桜になっていた。
「蝦蟇」を調べるついでに「児雷也」を調べてたら、歌川国貞の一八五二年の「自来也」という絵の背景に海から上る旭日旗上の朝日(上半分)が描かれているのを見つけた。前に見つけた「要石鹿島大尽」が安政江戸地震の頃だとすれば、それより古いことになる。
あと、鈴呂屋書庫に延宝七年の「須磨ぞ秋」の巻をアップしたのでよろしく。
さて引き続き『春の日』の歌仙をいってみよう。
三月十六日に旦藁が田家で興行されたもので、途中夜遅くなって中断し、続きを十九日荷兮亭で行われている。
発句は
三月十六日旦藁が田家に
とまりて
蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな 野水
で、田んぼの真ん中にあった旦藁亭で一泊したのだろう。そこらかしこから蛙の声が聞こえる中で寝入り、目覚め、これは「ゆゆしき」というわけだ。
「ゆゆし」はweblio古語辞書の「学研全訳古語辞典」に、
「①おそれ多い。はばかられる。神聖だ。
出典万葉集 一九九
「かけまくもゆゆしきかも言はまくもあやにかしこき明日香(あすか)の真神(まかみ)の原に」
[訳] 心にかけて思うのもはばかられることよ、口に出して言うのもまことにおそれ多い明日香の真神の原に。
②不吉だ。忌まわしい。縁起が悪い。
出典更級日記 大納言殿の姫君
「たちいづる天の川辺のゆかしさに常はゆゆしきことも忘れぬ」
[訳] (牽牛(けんぎゆう)と織女が)出会う天の川辺に心が引かれて、いつもは不吉なことも(今日は)忘れてしまった。
③甚だしい。ひととおりでない。ひどい。とんでもない。
出典徒然草 二三六
「おのおの拝みて、ゆゆしく信起こしたり」
[訳] 各人それぞれが拝んで甚だしく信仰心を起こした。
④すばらしい。りっぱだ。
出典徒然草 一
「徒人(ただびと)も、舎人(とねり)など賜る際(きは)はゆゆしと見ゆ」
[訳] ふつうの貴族でも、随身などを(朝廷から)いただくような身分の人は、すばらしいと思われる。」
と多義だが、基本的には本来忌むべきものだったのが逆の意味に転用された言葉で、「いみじ」「すごし」などと同様だ。今の感覚だと「蛙のみききてやばい寝覚めかな」と言った方がわかりやすいかもしれない。もちろん発句は挨拶だから、褒めて言っている。
脇は亭主の旦藁が付ける。
蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな
額にあたるはる雨のもり 旦藁
雨漏りがして額に当たったでしょうと、いかに粗末な家であるか謙遜して言う。
第三。
額にあたるはる雨のもり
蕨煮る岩木の臭き宿かりて 越人
「岩木」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 岩石と樹木。
2 感情を持たないもののたとえ。木石(ぼくせき)。
「だれが―だと思うもんか」〈逍遥・当世書生気質〉
3 亜炭の古称。」
とある。2ではないのは明らかだが、1でもない。となると、これは3の亜炭ということになる。
亜炭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (石炭に亜(つ)ぐ意) 炭化度の低い石炭の一つ。褐色または黒褐色で木質組織を残しているものもある。主として第三紀地層中に存在。亜褐炭。磐木(いわき)。」
とある。亜炭は日本のあちこちで産出したもので、名古屋でもかつて亜炭の採掘がおこなわれていた。といってもそれは近代のことで、江戸時代に果して亜炭が用いられていたかどうかということになる。
名古屋ではないが宮城の名取川の埋れ木は古代から燃料として用いられ、
名取川瀬々の埋れ木あらはれば
いかにせむとかあひ見そめけむ
よみ人しらず(古今集)
と歌にも詠まれてきた。ウィキペディアには「名取川の埋れ木を香炉の灰として使用するのが都で流行し、最高級の灰として珍重された。」とある。
つまり亜炭は古代から知られていた。そのため似たようなものが容易に入手できるなら他の地方でも用いられた可能性は十分にある。
ただ、名取川以外のものは品質に問題があったのだろう。この句でも「岩木の臭き」とあるように、その多くは硫化水素などの匂いがきつくて、一般にはあまり用いられることなく、ただ、拾ってきて使える所で細々と使われていと考えればいいのではないかと思う。
少なくとも宝暦二年(一七五二年)に『張州府志』には長久手と高針で亜炭が取れたことが記録されているという。
第三は発句の情を離れるので、岩木で蕨を似ていたのは旦藁の家ではない。ただ、岩木の使用はこの連衆の間では共有されてて、おそらく名古屋の「あるある」だったのではないかと思う。
四句目。
蕨煮る岩木の臭き宿かりて
まじまじ人をみたる馬の子 荷兮
岩木を燃やす宿には馬の子がいて、人をまじまじと見ている。街道の宿なら乗り掛け馬がいるから、その仔馬がいてもおかしくはない。
五句目。
まじまじ人をみたる馬の子
立てのる渡しの舟の月影に 冬文
名古屋で渡し舟というと七里の渡しがある。
時代は下るが歌川広重『五十三次名所図会・桑名 七里の渡舩』を見ると、大きな船では座っている人が多いが立っている人もいる。その手前の小さな船には立って櫓を押す人と立って乗っている人がいる。『東海道名所図会 桑名渡口』も同様だ。
はっきりとしたことは言えないが、渡し船に立って乗ることはあったのではないかと思う。月明りに仔馬が一緒に乗っていてこっちを見ているのが見える。
六句目。
立てのる渡しの舟の月影に
芦の穂を摺る傘の端 執筆
渡し舟は芦の中を進むので、唐傘が芦の穂をかすめることもあった。
初裏。
七句目。
芦の穂を摺る傘の端
磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて 旦藁
施餓鬼はウィキペディアに、
「施餓鬼(せがき)とは、仏教における法会の名称である。または、施餓鬼会(せがきえ)の略称。」
「日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。
水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。」
とある。この場合は川施餓鬼と思われるが、施餓鬼は秋の季語で、ここでも秋として扱われている。
八句目。
磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて
岩のあひより蔵みゆる里 野水
漁村でも裕福な漁村もあるのだろう。大漁続きなら蔵も立つ。ただ、自然任せなので浮き沈みが激しいし、海難の危険にも常にさらされているから、施餓鬼の僧が集まっている。
九句目。
岩のあひより蔵みゆる里
雨の日も瓶焼やらん煙たつ 荷兮
蔵が立っているのは陶芸の里だった。
十句目。
雨の日も瓶焼やらん煙たつ
ひだるき事も旅の一つに 越人
腹が減っていると瓶を焼く煙も何かおいしいもの焼いているように見えてくる。それも旅の一つ。越人のキャラはひょっとして「うっかり八兵衛」?
十一句目。
ひだるき事も旅の一つに
尋よる坊主は住まず錠おりて 野水
食うものや夜寝る所に困ったら、とりあえずお寺に厄介になろうというのはあったのだろう。残念ながら留守だった。
十二句目。
尋よる坊主は住まず錠おりて
解てやをかん枝むすぶ松 冬文
『芭蕉七部集』の中村注に、
「再会を希うための松の枝をわがね結ぶ古代の習慣。」
とある。コトバンクの「世界大百科事典内の結び松の言及」に、
「…太平洋に注ぐ南部川の河口部に位置し,流域に平地が広がる。西部海岸沿いの岩代(いわしろ)は,謀反の罪で捕らえられた有間皇子が〈磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び……〉(《万葉集》巻二)と詠んだ地で,そのゆかりの〈結び松〉が植えつがれている。南部川下流域一帯には平安末期から中世にかけて南部荘があった。…」
とある。江戸時代には廃れていた習慣だと思うが、岩代の結び松は紀州熊野道の名所として知られていたのだろう。前句を巡礼の旅とする。
このあと、
今宵は更たりとてやみぬ
同十九日荷兮室にて
とあり、続きは十九日ということになる。
発句では「寝覚かな」とあるから午前中から興行が始まったのだろう。それにしては時間がかかりすぎだ。実際には夜になってから始めたか。
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