今日は曇りで時折強い風が吹いた。夕方から雨になった。
飯山陽さんの『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相 』を読み終えた。一つ思うのは、楊海英さんもそうだけど、日本の大学は極めて特殊な世界で、そこでの常識というのはそんなに世間には広まってないから安心してほしい。
イスラム国を支持したやつなんてパヨク以外にいないし、つかまったり殺されたりしたやつはみんな馬鹿だと思ってるよ。ある大工さんが「丸腰で組事務所に乗り込むようなもんだ」と言ってた。
続けて『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』 (河出新書)も読み始めた。イスラム原理主義と日本のいわゆるパヨクとの関連はやはり明確なように思える。大学というところがそうした連中のアジールになってるのは確かだろう。学術会議の問題もそこから理解しなくてはなるまい。穏健派ムスリムも日本のパヨクをもっと警戒すべきだと思う。
パヨクは左翼の中でも主にネット上に巣食う勢力で、彼らは従来の科学的社会主義に反旗を翻した新左翼の系譜を引いているマルクス原理主義者で、ネットを通じて主張を過激化させている。日本の社会の中では少数派で行動は制限されているため、暴力などの過激な行動はしていないが、彼らは外国に日本に関する嘘の情報を広め、外国人を過激化させようとしてきた。韓国や中国に対しての工作はわかりやすかったが、ムスリムを過激化させてたことはやはり見過ごされてきた。
科学的社会主義はとっくに破綻しているし、また彼らは哲学に立脚しているわけですらない。ドイツのマルクス・ガブリエルが図らずも暴露したように、今のマルクス主義は形而上学にすら根拠を持つことができない。ただ、情緒的な道徳意識だけで科学も哲学も無視してすべてを正当化している。
彼らは基本的には日本に革命を起こすことを至上命題としていて、そのためなら欧米のマルキストやリベラルだけでなく、中国や韓国の反日勢力やイスラム原理主義とも手を組み、日本の政治や経済を破綻させようとあの手この手を尽くしている。
危険なのは彼らは大学だけでなく教育現場や官僚や司法、それにマスコミに深く潜り込んでいるということだ。
それと彼らに対するときに注意しなくてはいけないのは、彼らを動かしているのは理論でも思想でもなく、あくまで情緒で動いているということだ。そのため論理的批判は一般人に対しては有効だが彼らには何の意味もなさない。
対処法としては彼らはとにかく道徳感情に訴えて怒りの感情を起こさせようとする。だから、彼らがどのようなことを言っても決して一緒になって怒らないということが大事だ。感情的に彼らの怒りに共感してしまったら負けだ。クールになれ。
それでは「なら坂や」の巻の続き。
十三句目。
何やら聞ん我国の声
旅衣あたまばかりを蚊やかりて 羽笠
首から上を覆う短い虫垂れのことか。女性の旅衣になる。
十四句目。
旅衣あたまばかりを蚊やかりて
萩ふみたをす万日のはら 野水
万日は万日回向(まんにちえこう)のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 江戸時代、一日参詣すると万日分の功徳に値するとされた特定の日。また、その日の法会。浄土宗の寺院に多く行なわれた。万日。
※咄本・軽口露がはなし(1691)三「夫婦づれにて百万辺の万日ゑかうに参るとて」
とある。
万日回向の時は人が大勢来るし、その中には遠くから来る女性も多い。ただ、人が多すぎて無残にも萩が踏み倒されてゆく。
十五句目。
萩ふみたをす万日のはら
里人に薦を施す秋の雨 越人
薦(こも)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 マコモを粗く編んだむしろ。現在は多く、わらを用いる。こもむしろ。「荷車に薦を掛ける」
2 「薦被(こもかぶ)り2」の略。おこも。
3 (「虚無」とも書く)「薦僧(こもそう)」の略。
4 マコモの古名。
「心ざし深き汀(みぎは)に刈る―は千年(ちとせ)の五月いつか忘れむ」〈拾遺・雑賀〉」
とある。万日回向の日に急に雨が降ってきたので、薦を配って雨をしのいでもらう。
十六句目。
里人に薦を施す秋の雨
月なき浪に重石をく橋 羽笠
秋の雨は台風か何かで水害を起こす恐れがある。橋の上に重石を置いて流れないようにし、里人には薦を配り土嚢を作らせる。
十七句目。
月なき浪に重石をく橋
ころびたる木の根に花の鮎とらん 野水
「花の鮎」は鮎子のことであろう。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の鮎子(春)のところに、
「[和漢三才図会]二三月の初、江海の交(あはひ)に在て、大さ一二寸、いまだ鱗骨を生ぜず、潔白。ただ黒眼をみるのみ。呼んで小鮎、若鮎と云。」
とある。白くて小さいところが桜に似ているということで花の鮎としたのではないかと思う。
月のない夜は真っ暗で、木の根につまずいて転ぶと、橋の下に重石を置いて筌(うけ、うえ)を仕掛ける。筌は別名「もんどり」とも言う。もんどりを打って倒れたところでもんどりを仕掛ける。
十八句目。
ころびたる木の根に花の鮎とらん
諷尽せる春の湯の山 旦藁
「諷尽せる」は今は廃曲となっている謡曲『鼓瀧』か。桜の季節の有馬温泉が舞台となっている。
二表。
十九句目。
諷尽せる春の湯の山
のどけしや筑紫の袂伊勢の帯 越人
有馬温泉には筑紫の人も伊勢の人も療養に訪れる。そして、ともに春の長閑さを分かち合う。
二十句目。
のどけしや筑紫の袂伊勢の帯
内侍のえらぶ代々の眉の図 荷兮
眉の図は唐の玄宗の「十眉図」以来、墨で眉を描くためのその時代時代で眉の見本図が作られてきた。
内侍(ないし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 令制で、内侍司(ないしのつかさ)の女官の総称。古くは、内侍所にも奉仕した。
※万葉(8C後)一九・四二六八・題詞「黄葉沢蘭一株抜取令レ持二内侍佐々貴山君一」
② 「ないし(内侍)のじょう」の略。
※九暦‐九条殿記・五月節・天慶七年(944)三月二日「内侍二人持二侍御剣・契御筥等一」
③ 斎宮寮(さいぐうりょう)の女官の一つ。
※源氏(1001‐14頃)澪標「女別当・内侍などいふ人々」
※古今著聞集(1254)一「荒祭宮、斎宮の内侍に御詫宣あり」
④ 安芸国(広島県)厳島神社に奉仕した巫女(みこ)。
※梁塵秘抄口伝集(12C後)一〇「安芸の厳島へ、建春門院に相具して参る事ありき。〈略〉その国の内侍二人、くろ、釈迦なり」
とある。どの内侍だかはわからないが、筑紫の袂に伊勢の帯に眉の形を選んで華やかに着飾る。
二十一句目。
内侍のえらぶ代々の眉の図
物おもふ軍の中は片わきに 羽笠
『芭蕉七部集』の注に、「新田義貞、匂当内侍の俤なりと。(七部大鏡)」とある。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)のことか。匂当内侍はウィキペディアに、
「建武3年(1336年)初頭、新田義貞は建武政権から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れたが、2月から3月にかけて義貞は尊氏追撃を行わなかった。その理由として、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとして、彼女が結果的に義貞の滅亡の遠因を作ったとする描き方がされている。
その後、尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、新田義貞は恒良親王らを奉じて北陸地方へ逃れた。『太平記』よると、琵琶湖畔の今堅田において別れ、京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は新田義貞に招かれ北陸へ向かった。
しかし義貞は足利軍の攻勢により延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日に越前国で戦死した(藤島の戦い)。」
とある。軍の時に片脇に置こうとしたが果たせなかったようだ。
二十二句目。
物おもふ軍の中は片わきに
名もかち栗とぢぢ申上ゲ 野水
かち栗はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「くりの実を殻のまま乾かすか,火に当てて乾かしたものを,臼で搗 (か) いて殻と渋皮をとった食物。「搗つ (臼でつくこと) 」と「勝つ」が共通するところから,縁起をかついで古くは出陣祝いに供された。」
とある。
軍の時に爺が持っていけといって渡された搗栗(かちぐり)を片脇に抱えては、爺のことを気にかける。
二十三句目。
名もかち栗とぢぢ申上ゲ
大年は念仏となふる恵美酒棚 旦藁
恵美酒は姫路市飾磨区にこの字を書く地名があるが、ここでは普通に恵比寿様のことだろう。神無月の恵比寿講に用いた祭壇を大晦日に歳神様を迎える恵方棚に流用する。搗栗を供える。
二十四句目。
大年は念仏となふる恵美酒棚
ものごと無我によき隣也 越人
「無我」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① (anātman の訳) 仏語。我(われ)というとらわれを離れること。また、不変の実体である我(が)は存在しないとすること。⇔我。
※秘蔵宝鑰(830頃)中「第四唯薀無我心〈略〉存レ法故唯薀。遮レ人故無我。簡持為レ義故唯」 〔龍樹菩薩為禅陀迦王説法要偈〕
② (形動) 我意のないこと。無心であること。
※吾妻鏡‐宝治元年(1247)六月二九日「左親衛還令レ愛二其無我一給」
※イエスは何故に人に憎まられし乎(1909)〈内村鑑三〉「人はすべて主我の人であるのに彼れのみは無我の人であった」 〔論語‐子罕〕」
とある。ここでは物事に頓着しないというような意味か。
0 件のコメント:
コメントを投稿