2021年4月1日木曜日

  昨日、夜の散歩をしたら裏道でタヌキに出会った。
 アニメの「回復術士のやり直し やり直しver.」の十一話がなぜか急にアカウントがロックされてしまい、仕方なく通常バージョンの方を見て、そのあと何とかロックを解除して「やり直しver.」の方を見たが、違いがよくわからなかった。あいかわらずダークなストーリーだ。
 ラノベも「なろう」系が台頭してきてから、それまでの健全で真っ直ぐなティーンエイジャーが主人公というお約束が崩れて、同時に性描写や何かもかなり自由になってきている。ハーレム展開でありながら誰にも手を出さないもどかしさというのはなくなってきた。
 この物語は「恨み」という感情に真っ正面から向き合っているという点で、最近では珍しい。まあ、胸糞と思う人もいるかもしれないが、恨みの感情も昇華されて恨(ハン)のようなものに至りつけば、それはやはり「世界を救う」力になるのではないかと思う。
 あと「青葉より」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 「春めくや」の巻も終わったところで、たまには発句も読んでみようかというところで、『春の日』の、春の句を順番に読んでいこうと思う。

1,昌陸の松とは尽ぬ御代の春    利重

 昌陸は里村昌陸(さとむらしょうりく)で、コトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「徳川初期の連歌師。昌程の嫡子。16才の時父に代わり宗匠代を務め法橋に叙せられる。後御会始の宗匠を務めるようになり法眼に叙せられる。将軍の栄寵を受け葵の紋服や羽織舞笠を度々賜られ、貴紳と連歌を共にしたことは数しれぬほどある。宝永4年(1707)歿、69才。」

とあり、「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」には、

 「1639-1707 江戸時代前期の連歌師。
寛永16年生まれ。里村昌程の子。慶安3年から幕府につかえ,承応(じょうおう)3年父にかわって宗匠代をつとめる。寛文10年家督をつぎ,延宝元年法眼。元禄(げんろく)8年職を辞した。宝永4年11月16日死去。69歳。別号に三宜斎。」

とある。貞享三年(1686年)現在では四十八歳だった。ネット上の濱千代清さんの『天六三年五月「賦何船連歌」』というpdfファイルで昌陸の連歌を読むことができる。
 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)には、

 「元和年中の人。恒例正月十一月御連歌会の百韻巻頭に松の句を奉ったという。[参考]寛永五戊辰正月廿日、松にみん百万代の春の色と祝し奉りしとなん、(打聴)」

とある。時代が合わない。打聴とあるのは『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)のことか。
 なお、撰者の荷兮はウィキペディアに「晩年は連歌師として昌達と号して、法叔に叙せられる」とある。
 千歳の松に尽ぬ御代を祝うのは賀歌の定番でもあり、

   良岑經也が四十の賀に
   女にかはりてよみ侍りける
 萬代をまつにぞ君をいはひつる
     千年のかげに住まむと思へば
               素性法師(古今集)

以来、松は千歳をことほぐもので、謡曲『高砂』にもそれは凝縮されている。
 『春の日』の発句の巻頭を飾るこの句も、その形式によるもので、撰者の荷兮もこのころから連歌師への憧れがあったのかもしれない。「昌陸」がこの場合一応俳言になる。

2,元日の木の間の競馬足ゆるし   重五

 競馬というと五月の賀茂も競馬が有名だが、正月にも何らかの馬を用いる儀式があったのだろう。
 『阿羅野』の歳旦に、

 松高し引馬つるゝ年おとこ    釣雪

の句があるが、「引馬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 貴人または大名などの外出の行列で、鞍覆(くらおおい)をかけて美しく飾り、装飾として連れて行く馬。
 ※吾妻鏡‐元暦二年(1185)五月一七日「能盛引馬、踏二基清之所従一」

とある。
 また、同じく『阿羅野』に、

 うら白もはみちる神の馬屋哉   胡及

の句もあり、馬が歳神様の乗物として正月には飾り付けられ練り歩いたのを、ここでは競馬(くらべうま)と詠んだのではないかと思う。
 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)は「打聴」を引用し、

 「門松の間に供侍する駒を競馬になぞらへし也。常にはおとらじときそふをけふは元日なれば足ゆるしと也」

と記している。
 馬が何頭も過ぎて行くけど、どれもゆっくりとした歩みで、

 日の春をさすがに鶴の歩哉    其角

の句を思わせる。

3,初春の遠里牛のなき日かな    昌圭

 牛もまた歳神様の乗物になる。芭蕉の『野ざらし紀行』の時の貞享二年の歳旦に、

 誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年  芭蕉

の句を詠んでいる。
 町中にこれだけ牛が歩いているのを見ると、さぞかし遠里では牛がみんな出払ってしまって、牛無き里になっているだろうな、とする。

4,けさの春海はほどあり麦の原   雨桐

 「ほどあり」は「ほどなし」の反対ということでいいのだろう。海はまだまだ遠いということで、延々と麦畑が続く。遠里から海のある熱田の方に出てくる道すがらの景色であろう。旧正月の頃の麦はまだ背が低く、遠くまで見渡せる。

5,門は松芍薬園の雪さむし     舟泉

 芍薬は「薬」と付くように漢方薬の用いられてきたが、江戸時代には観賞用の園芸品種がたくさん作られた。
 芍薬の花を俤にしながら、今は正月で雪の門松に華やかさを添える。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の時の冬の句に、

   桑名本統寺にて
 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   芭蕉

の句がある。冬の牡丹は現実だが、正月の芍薬を夢に咲かせたと言っていいかもしれない。

6,鯉の音水ほの闇く梅白し     羽笠

 鯉の音は水がぬるむのを感じさせる。それに梅の白さと取り合わせるのに、鯉の住む水を「ほの闇(くら)く」として引き立てる。

7,舟々の小松に雪の残けり     且藁

 平安時代は子(ね)の日の菜摘みとともに子(ね)の日に小松引きが行われた。この習慣は一方で正月を迎えるための松飾りから門松へと進化した。そして菜摘みは七草粥に変わっていった。
 ただ、子の日の小松引きそのものは廃れたのではなく、誰かが取ってきて売りに来るように変わっただけで、町には牛や馬に小松を背負わせた行商人が通り、その一部は舟に乗せた運ばれたのではないかと思う。
 船に積まれた小松には雪が残っているが、それはこの小松を取ってきたところの雪がついているのだろか、という句だと思う。

8,曙の人顔牡丹霞にひらきけり   杜國

 上五は「あけのかほ」でいいのか、「あけのひとがほ」だと字余りになる。
 先の芍薬の句と同様、ここでも幻の牡丹を咲かせる。登る朝日に赤く照らされる顔と、その笑顔に牡丹の花を見出す。「咲く」と「笑う」は相通じるもので、「山笑う」という季語もある。喜納昌吉の「花」という歌の歌詞にも「花は花として笑いもできる」というのもこの伝統によるものか。

9,腰てらす元日里の睡りかな    犀夕

 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に、『標注』に、

 「白氏文集の『暖牀斜臥日曛腰』(巻三七)を引用。」

とある。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のことか。
 元日の日の光が古人の腰を照らしたように、今は里全体が眠っているようだ。古典の風雅を今の卑近なものに変換することで俳諧らしい風流になる。

10,星はらはらかすまぬ先の四方の色 呑霞

 「はらはら」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①さらさら(と)。▽物が触れ合って立てるかすかな音を表す語。
  出典源氏物語 帚木
  「衣(きぬ)の音なひはらはらとして」
  [訳] 衣(きぬ)ずれの音がさらさらとして。
  ②物が砕けたり、壊れたり、破れたりする音を表す語。
  出典今昔物語集 二三・一九
  「八つの胡桃(くるみ)一度にはらはらと砕けにけり」
  [訳] 八つのくるみは一度にばしっと砕けてしまった。
  ③ぱちぱち(と)。▽物が焼けてはぜる音を表す語。
  出典徒然草 六九
  「焚(た)かるる豆殻のはらはらと鳴る音は」
  [訳] 燃やされる豆殻のぱちぱちと鳴る音は。
  ④長い髪などがゆらめいて垂れ下がるようす。
  出典源氏物語 葵
  「はらはらとかかれる枕(まくら)の程」
  [訳] (髪が)ふんわりとかかった枕のようす。
  ⑤ぱらぱら(と)。ぽろぽろ(と)。▽雨・木の葉や涙がしきりに落ちるようす。
  出典平家物語 二・教訓状
  「大臣(おとど)聞きもあへずはらはらとぞ泣かれける」
  [訳] 大臣殿はみなまで聞かずに涙をぽろぽろと流してお泣きになった。
  ⑥気をもむようす。◇近世語。」

とある。現代語でもちいられているのは⑥と、あとは桜の花びらが散る様子だが、古語だと「ぱらぱら」が一緒になっている。古語だと接触系の擬音に多く用いられている。
 星の場合は「ぱらぱら」の方ではないかと思う。これは細かい粒の飛び散る感覚で、夜空に星がちりばめられている様子をいうのではないかとおもう。光の瞬きは「ひかひか」つまり今の「ぴかぴか」が用いられる。
 つまりこれは澄んだ空に無数の星が散らばっている、いわば満天の星空を表す言葉で、それが春の霞になるまでのあらゆる方角にひろがっていることを表している。
 この句は伝統的な春の景色を詠んだものではなく、当時の日本ではほとんど目にとめることもない満天の星空を詠んだ珍しい句で、その新味が認められて入集したのだと思う。

11,けふとても小松負ふらん牛の夢  瑞雪

 正月の歳神様を乗せる飾りではなく、この牛は小松売りの牛ということで、先の馬や牛の句と区別されて、ここに置かれているのではないかと思う。

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