2021年3月31日水曜日

  今日もいい天気でお散歩花見をした。染井吉野は散り始めだが八重桜は咲き初めで、山は木の芽時の木の芽春だった。桜の色と木の芽の淡い色が混ざり合って、まさに「春山淡冶而如笑」で、山笑う、山(笑)、山www、山草が生える、山(草)。
 ジェンダーギャップ指数が毎年発表されるたびに、日本では多くの男たちが首をひねることになる。ネット上では有名人のちょっとした方言が炎上し、テレビCMやドラマなんかでもいつも厳しい意見が出ているから、こうした人権派の人たちのやってるふりが、日本の現状を勘違いさせている。
 森元が辞めた。佐々木が辞めた。シンボルだけ叩いてそれで終わりというのが日本だ。前にも言ったこっくりさんのコインを取替えただけで何も変わっていない。去年は安倍首相が辞めた、今は菅降ろしに余念がない。九月には首相が変わるだろう。一頃は毎年のように首相が変わっていたが、戦後に自由民主党と社会党ができたころから日本の政治は何が変わっただろうか。
 ジェンダーギャップ指数を見る限り、日本の女性は高学歴で長寿で、教育と健康に関しては何の問題もない。一番足を引っ張っているのが政治だということは誰しもわかっているはずだ。二番目が経営だ。
 つまり日本は基本的に少数の男を神輿に乗せて担いでいて、実際はその下にいる臣民大衆が動かしている。コロナ対策でも国が何もやらなくても、大衆は何ら罰則がないのに自発的に自粛するし、暗黙の相互監視体制も機能できる。そして、このその他大勢の地位に男も女も満足していることで、この国は成り立っている。
 日本のジェンダーギャップ指数を飛躍的に高るのはそれほど難しくない。つまり森元の後に橋本を据えたみたいに、トップだけ挿げ替えていけば、政治分野でのジェンダーギャップは簡単に解消できる。でも本当に大事なのは大衆レベルでのギャップがどれくらいあるかで、それはこの指数からでは読み取れない。
 基本的に日本では有能な人間はトップに立ちたがらない。日本のトップは何か起こるたびに容易に挿げ替えできる飾りのようなものだからだ。女性がトップになってもつまらないベロチューで叩かれるような国だし、女性がなりたがらないというのも原因の一つだろう。
 日本では昔から神輿に乗る奴は軽い方がいいという。そうなると必然的に地位と名誉だけが生きがいの中身のない「男」が選ばれることになる。
 ただ、それはそれほど重要な問題ではない。日本の隠れたジェンダーギャップで一番問題なのは経営の方だ。企業であれ役所であれ学校であれ町内会であれ党組織であれNPO団体であれ、経営は実際的な力がある。ここで古い慣行がいつまでも残っている。こっくりさんのコインを動かしているのはそいつらだからだ。

 それでは「春めくや」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   はだしの跡も見えぬ時雨ぞ
 朝朗豆腐を鳶にとられける    昌圭

 これは「トンビに油揚げをさらわれる」ということか。 あいてがトンビでは足跡は残らない。
 豆腐は精進料理には欠かせないもので、貴重なたんぱく源だった。特に油揚げはカロリーも補える。
 元禄四年七月の「牛部屋に」の巻の三十四句目に、

   手に持し物見うしなふいそがしさ
 油あげせぬ庵はやせたり     野童

とある。今は高カロリーは嫌われるが、昔のお寺は常にカロリー不足だった。
 二十六句目。

   朝朗豆腐を鳶にとられける
 念仏さぶげに秋あはれ也     李風

 豆腐から精進、お寺という連想は自然で、油揚げ盗られていカロリー不足で念仏の声も寒そうだ。
 二十七句目。

   念仏さぶげに秋あはれ也
 穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして   重五

 「穂蓼(ほたで)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 タデの花穂。穂は赤く、頂きに白い花をつける。《季・秋》
  ※新撰六帖(1244頃)六「鷺のとぶ川辺のほたてくれなゐに夕日さびしき秋の水かな〈藤原家良〉」

とある。
 蓼にもいろいろ種類があって、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「広義にはタデ科タデ属Polygonumのなかでもっともタデらしい形のペルシカリア節Persicariaの総称であるが、狭義には香辛料に用いるヤナギタデP. hydropiper L.をさす。この節に属するものはすべて草本で、北半球に約100種、日本に20余種ある。葉は互生し単葉で全縁、葉鞘(ようしょう)は筒状。花は両性または単性で、穂状または総状の花序をなし、花被片は5または4枚で、果実期にも宿存して果実を包む。雄しべは4~8本、花柱は2か3で、普通は一部が合着する。柱頭は頭状、痩果(そうか)はレンズ状または三稜(さんりょう)形で熟したのちは花被(かひ)とともに脱落する。
 この節のものは陸地生と水辺生に大きく分けられる。陸地生はすべて一年生で、茎や葉に毛の多いオオケタデ、ニオイタデ、ネバリタデ、オオネバリタデと、茎や葉に毛がないか少ないアイ(タデアイ)、イヌタデ(アカマンマ)、ハナタデ、ハルタデ、サナエタデ、オオイヌタデなどがある。水辺生には多年生で地下茎を引くエゾノミズタデ、サクラタデ、シロバナサクラタデと、一年生で地下茎を引かないヌカボタデ、ヤナギヌカボ、ヤナギタデ、ボントクタデ、ホソバイヌタデ、ヒメタデ、シマヒメタデなどがある。これらのうち、アイは本州中部以西で栽培されて藍(あい)染めの原料とし、オオケタデは観賞用に庭に植えられる。[小林純子]
 ヤナギタデは一年草であるが暖地では多年草となる。日本原産で、ホンタデ(本蓼)、マタデ(真蓼)ともいう。水辺の湿地に生え、高さ50センチメートルほど。葉は互生し先のとがった広披針(こうひしん)形で長さ5~10センチメートル。秋口に白に紅が入った小花をまばらな穂状につける。果実は三角形で黒褐色。葉に辛味があり、香辛野菜とされ、以下に示すいくつかの変種が栽培されている。ベニタデは葉と茎に濃紅紫色の色素がある品種で、植物全体が赤色である。収穫した種子を貯蔵しておき、随時、浅い容器に砂を敷いた床で発芽させ、双葉の開いたとき根元からていねいに切り取って収穫する。ホソバタデは葉が細かく柔らかい品種で、茎葉は紫色を帯びる。アオタデは葉が緑色の品種である。アザブタデも葉が緑色の品種で、江戸時代から江戸の麻布あたりで栽培され、エドタデともよばれ、全体に小形で、葉もやや細く、枝葉が密につく。アザブタデのうち、とくに葉の細い系統はイトタデとよばれる。[星川清親]」

とある。和歌に詠まれていたのはヤナギタデであろう。
 本来川辺の水運のための倉庫だったのを、使わなくなっていたのでそこの住みついたのだろう。『冬の日』の「狂句こがらし」の巻七句目の

    ひのちりちりに野に米を刈かる
 わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水

もそういう人だったのか。
 一頃のニューヨークでも海岸の倉庫に住むというのがアーチストの間ではやったことがあったが、ただ、倉庫はやはり寒いのではないかと思う。
 二十八句目。

   穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして
 我名を橋の名によばる月      荷兮

 橋の近くに住んでいると、いつの間にか橋下さんになってしまったりして。
 『徒然草』にも榎の僧正の話もあるし、人をあだ名で呼ぶというのはなかなか止められるものではない。むしろあだ名がつかない方が寂しい気もする。
 「串に鯨をあぶる盃 桐葉」が現代語だと「串で鯨を」になると同様、この句の「に」には今の「で」になる。
 二十九句目。

   我名を橋の名によばる月
 傘の内近付になる雨の昏に     李風

 夕暮れに雨が降ってきたので、雨宿りしてるひとを傘に入れてあげて、それがきっかけでお近づきになる。「名乗るほどでもありません」と言ったら橋の名で呼ばれた。
 三十句目。

   傘の内近付になる雨の昏に
 朝熊おるる出家ぼくぼく      雨桐

 朝熊は伊勢神宮の東側にある朝熊山。今は朝熊ヶ岳になっている。南西にある谷が西行谷になる。
 「ぼくぼく」は歩くときに用いられる。

 一僕とぼくぼくありく花見哉    季吟
 馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな  芭蕉

のように用いられる。

 二裏。
 三十一句目。

   朝熊おるる出家ぼくぼく
 ほととぎす西行ならば哥よまん   荷兮

 この句は貞享元年に芭蕉が西行谷で詠んだ、

   西行谷の麓に流れあり
   をんなどもの芋あらふを見るに
 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ    芭蕉

を思い起こした句だ。当時はまだこの句は俳書に発表されてなかったが、この『野ざらし紀行』の旅でこのあと名古屋で荷兮らと『冬の日』の興行が行われていたので、知っていてもおかしくはあるまい。
 三十二句目。

   ほととぎす西行ならば哥よまん
 釣瓶ひとつを二人してわけ     昌圭

 これは、

 さびしさに堪へたる人の又もあれな
     いほりならべん冬の山ざと
             西行法師(山家集)

であろう。庵を並べれば井戸の水も分け合って使う。
 三十三句目。

   釣瓶ひとつを二人してわけ
 世にあはぬ局涙に年とりて     雨桐

 局(つぼね)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「宮殿内の屏風や几帳 (きちょう) などで区画されて設けられた部屋,転じてそこに居住を許された女房などをいう。局の称は,『令義解 (りょうのぎげ) 』に「太政官内総有三局 (少納言局,左弁官局,右弁官局) 」を初見とし,以来,江戸時代まで,宮廷に奉仕する女官や幕府の大奥の女中などの称として用いられた。」

とある。
 世に入れられなくて隠棲する女性として、水を分けてもらっている。
 三十四句目。

   世にあはぬ局涙に年とりて
 記念にもらふ嵯峨の苣畑      重五

 局(つぼね)で嵯峨というと小督局(こごうのつぼね)であろう。ウィキペディアに、

 「小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。」

とある。平清盛に疎まれ、嵯峨に身を隠す。この物語は謡曲『小督』にもなっている。
 この時代の嵯峨の辺りは京の市街地に供給するための野菜畑がたくさんあったのだろう。
 苣(ちさ)はレタスのことだが、昔の日本にあったのは韓国のサンチュに近いものだったという。大阪本場青果卸売協同組合のホームページの「協子さんの知っ得ノート」に、東に伝播したレタスはチシャと呼ばれ、中国の隋の時代に盛んに栽培され、そこから韓国や日本に広がったという。日本では近代になって西洋レタスに押されて取って代わられていった。
 これとは別に唐苣(とうちさ)というのもあって、『冬の日』の「狂句こがらし」の巻の二十四句目に、

   笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨
 冬がれわけてひとり唐苣      野水

の句があるが、これはスイスチャードのことだという。(鈴呂屋書庫にあった「狂句こがらし」の巻、解説でのほうれん草説は、この際に撤回します。)
 三十五句目。

   記念にもらふ嵯峨の苣畑
 いく春を花と竹とにいそがしく   昌圭

 嵐山は花の名所で、嵯峨には竹林も多い。
 春が終わる頃は花見で人も賑わうし、それが終われば筍も生えてきて、その上に畑の苣も収穫期になる。

 挙句。

   いく春を花と竹とにいそがしく
 弟も兄も鳥とりにゆく       李風

 花見の御馳走のために鳥を獲りに行くということか。季語がないが挙句だからいいのか。

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