今日も暖かく、散歩をしていたらナガミヒナゲシが咲いていた。染井吉野はまだ一分咲きだが、今年は花冷えがなさそうなので一気に初夏になりそうだ。今満開なのは陽光桜という、最近公園などに植えられるようになったピンクの桜で、下向けに花を付ける所がやはり寒緋桜系か。
今年は随時お散歩花見ということで、帰ってからサンクトガーレンさくらを飲めばそれで十分。
それでは『三冊子』の続き。
「觀音のいらか見やりつはなの雲
此句の事、或集にキ角云。鐘は上野か淺草か、と問へし前のとしの吟也。尤病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句を呼て句とするとあり。さもあるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.107)
貞享三年春の句で元禄十年刊其角編の『末若葉』所収。
觀音のいらかみやりつはなの雲 翁
かねは上野か浅艸かと聞えし
前の年の春吟也尤病起の眺望成
へし一聯二句の格也句ヲ呼テ句とす
とある。
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
の句はこの翌年の春の句で、この句と「観音の」の句は連作のようなものだという。
当時は高い建物がないので、深川の芭蕉庵から隅田川の方を見やると、そのはるか向こうに上野山の寛永寺の甍が、それを取り巻く花の雲の上に見えたのだろう。
一年後に再び寛永寺の花の雲が見えた時、その甍の姿を隠し、鐘は上野か浅草か、と詠む。
観音のいらか見やりつはなの雲
花の雲鐘は上野か浅草か
とまるで同じ時に続けて読んだかのような感がある。
「朝㒵や晝は錠おろす門の垣
碪うちて我に聞せよや坊が妻
枯枝に烏のとまりけり秋の暮
此句ども字餘り也。字餘りの句作の味はひは、その境にいらざればいひがたしと也。かの、人は初瀨の山おろしよと有、文字餘の事など云出て、なくてなりがたき所を工夫して味ふべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.107)
字余りの句は読み上げた時に二拍で刻むところに三連のリズムが生じ、そこだけが強調されて形になる。字余りが効果的なのは、句の盛り上げたい所とこの強調の三連リズムが一致するときで、無駄に字を余らせているのではない。
朝顔や昼は錠おろす門の垣 芭蕉
の句は元禄六年の「閉関之説」の句で、病気の悪化のため門を閉ざし暫く籠るという時の挨拶の句でもある。
朝顔はかつ天和二年に、
朝顔に我は飯食う男哉 芭蕉
の句を詠んでいる。これは其角への自己紹介の句だった。その朝顔に飯食う我は昼は錠を下ろします、挨拶する。この句の一番重要な「おろす」の所が強調されるように字余りになっている。
碪打て我にきかせよや坊が妻 芭蕉
の句は『野ざらし紀行』の旅で吉野の宿坊に泊まった時の句で、
みよしのの山の秋風さよふけて
ふるさと寒くころも打つなり
藤原雅経(新古今集)
を本歌にしている。
この句も「砧打つ」がテーマなので、そのテーマを冒頭にもってきて「きぬた・うちて」と三連を刻むことで強調されている。
枯枝に烏のとまりけり秋の暮 芭蕉
これは元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に収録された時の形で、中七が二文字余らせて九文字になっている。これによってリズム的には「からすの」はそのままで「とまりけり」の所が三拍五連になる。強調されるのは「とまりけり」の所になる。
この句はもともと天和の破調の句で、延宝九年刊高政編の『ほのぼの立』には、
枯枝に烏のとまりたりや秋の暮 桃青
の形で発表されたが、一文字多いだけでリズムは「とまりたりや」が三拍六連で二拍づつ終わるため、かえって破調の効果は弱くなり、下五の「秋の暮」へと滑らかに流れていく。天和期にはこの滑らかな調子の良さの方が好まれたのだろう。土芳が例に挙げている和歌、
うかりける人を初瀬の山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
源俊頼(千載集)
の場合も「やまおろしよ」の所で三連のフロウが生じ、ここが強調されることになる。
「初雪にうさぎの皮の髭つくれ
此句、山中に子どもと遊びて、と前書あり。初雪の興也。ざれたる句は作者によるべし。先は實體也。猶あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.107)
この句は元禄二年冬の句で、土芳の『芭蕉翁全伝』ではこの形だが、最初に発表されたときに元禄三年刊其角編の『いつを昔』では、
雪の日に兎の皮の髭作れ 芭蕉
山中子供と
あそびてと有
の形になっている。
戯れたる体は真似できるものではなく、まずは実の体を学ぶようにとある。
この句についてはかつて「『三冊子』を読む」に、
「たとえば子供が遊んでいて、雪で兎の形をつくる。しかし、そうおとなしく遊んでばかりもいられず、別の子供が雪の塊をぶっつけてくると、今しがた作った雪兎をつかんで投げつける。顔に雪がついて真っ白になる、それが「兎の皮の髭」ではなかったか。芭蕉もしばしその子供の雪遊びに加わって、顔に雪の髭ができる。雪の髭のついた顔はあたかも白髭の老人のようで、翁の風情がある。そう、時ならぬ翁の登場こそ芭蕉の心を動かしたのではなかったか。」
と書いたが、今のところそれ以上の答えはない。
「節季候のくれバ風雅も師走哉
此句、風雅も師走哉、と俗とひとつに侍る。是先師の心也。人の句に、藏やけて、と云句有。とぶ蝶の羽音やかまし、といふ句あり。高くいひて甚心俗也。味べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.108)
句は元禄四年刊路通編の『俳諧勧進牒』で、
果ての朔日の朝から
節季候の来れば風雅も師走哉 芭蕉
元禄三年十二月一日の句と思われる。
節季候(せきぞろ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 江戸時代、歳末の門付けの一種。一二月の初めから二七、八日ごろまで、羊歯(しだ)の葉を挿した笠をかぶり、赤い布で顔をおおって目だけを出し、割り竹をたたきながら二、三人で組になって町家にはいり、「ああ節季候節季候、めでたいめでたい」と唱えて囃(はや)して歩き、米銭をもらってまわったもの。せっきぞろ。《季・冬》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕」
とある。
卑俗な題材でも心を風雅にするのが芭蕉の心だ。風雅の心を持って見れば、どんな題材でも風雅になる。
「藏やけて」の句は、
蔵焼けてさはるものなき月見哉 正秀
の句で、ウィキペディアには、
「元禄元年(1688年)、自分の蔵が類焼した際正秀が「蔵焼けて さはるものなき 月見哉」と詠み平然としていたことを松尾芭蕉が聞き、「是こそ風雅の魂なれ」「その者ゆかし」と言い、便りを行き来することになり、師弟の契りが結ばれた。」
とある。
蔵が焼けるというのは誰から見ても不幸なことだが、「いや、月がよく見えるようになるのもいい」と言ってみせる。
『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)によると、正秀一周忌の際に作られた撰集『水の友』所載の門人松琵の『雅行記』に、
「元禄の初、不幸の難出來て類焼せし秋『蔵焼けてさはるものなき月見哉』とうたはれしを、蕉翁深川の庵にて聞及び給ひ、手を打ちて、是こそ風雅の魂なれ、その作者床し、とて文通のえにしと成りし」(『芭蕉と近江の人々』梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版p.75)
とあるという。元禄元年の秋は『更科紀行』の旅から江戸に戻り、『奥の細道』に旅立つ前なので、芭蕉が江戸にいたことは間違いない。
「とぶ蝶の羽音やかまし」の句は誰の句かよくわからない。言葉はそれがどういう文脈で発せられたかで全く意味が違ってくるので、蝶をやかましいと感じるに足る理由が何かあったのかもしれない。
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