2021年3月25日木曜日

 オリンピックの聖火リレーが始まった。升護美だけが妙に前のめりだが、ここまできたらとりあえず「開催することに意義がある」ということなのか。
 基本的にプロスポーツとして確立されている種目の人はそんなに困らないのではないかと思う。相撲やアメフトやクリケットはオリンピックがなくても存立している。困ってるのはプロ化できてないが国威発揚で国から予算貰っている連中だろう。
 プロ選手はともかく、アマチュア選手が体を痛めて寿命を縮めてまで過酷なトレーニングを続けるのは、何か本末転倒だし、健康の促進に何の役にも立っていない。そんなスポーツ界のゆがみを問題提起する意味でも、あえて地味なオリンピックを開催することは必要なのかもしれない。
 欧米ではアジア人がヘイトクライムの犠牲になっているというけど、この種のニュースって必ずトランプが中国ウイルスと言ったのが原因としているから、どういう意図で拡散されているかは明瞭だ。
 ヘイトクライムは昔からあるもので、それを真面目に解決しようとせずに、中国政府を助けるのに利用しようというのは、アジア人の一人としても不愉快だ。人質に取られているみたいだ。「コロナは武漢から広まった」と言うのをやめないと殺すぞと脅されているみたいだ。
 でも事実コロナは武漢に始まった。去年の春までは中国のサイトでも武汉肺炎と言っていた。

 それでは『三冊子』の続き。

 「馬ぼくぼく我を繪に見る夏野哉
 此句、はじめは、夏馬ぼくぼく我を繪に見る心かな、と有。後直る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 これは天和三年の夏、甲斐国谷村の高山麋塒を尋ねた時の興行の発句で、その時は、

 夏馬の遅行我を絵に見る心かな   芭蕉
   変手ぬるる瀧凋むむ瀧     麋塒

だった、天和の漢詩文調の句だった。
 夏馬遅行は特に漢詩に出典があるわけではなく、それっぽく作られた言葉のようだ。ネット上の中村真理さんの「俳諧における驢馬─旅する詩人の肖像」(関西大学学術リポジトリ)によると、杜甫、杜牧、蘇軾などの中国文人の騎驢図のイメージがあったからだとしている。日本では驢馬はなじみなく、馬でもって驢馬の趣向を代用する傾向があり、支考の、

 馬の耳すぼめて寒し梨子の花    支考

の句の「梨子の花」で騎驢図を連想させるもので、許六がそれを絵に描いたことが元禄八年刊支考編の『笈日記』にあるという。

   卯月十八日許六亭に寄宿す物語の序
   にみづから繪かきたる色紙數多取出し
   給へるに人々の筆にてその人のほつ句かゝ
   せをきたるが巻頭は先師はせを庵の
   四季の句にてぞおはしける。くりかへしたる
   中に梨の花の白妙に咲てその陰に唐め
   きぬる人の馿馬の頭引たて背むきに
   乘たる繪の侍り。是は支考が東路にて
   〽馬の耳すぼめて寒し梨の花 と申侍し
   ほつ句かゝせむと思へるなるべし。されば此句の
   からめきて詩に似たりと見給へる眼は繪を
   得て俳諧をさとり俳諧をえて繪にうつ
   し給へるならん。みづからなしをきたる事
   の此さかへにいたらざるは繪につたなきゆへ
   ならんといとゞうらやましかりし。

 支考自身は特に騎驢図を意識してなかったようだ。『去来抄』「同門評」でも騎驢図のことは話題になっていないし、絵師としても一流の許六ならではの発想だったと思われる。
 夏馬遅行は騎驢図だけでなく、騎牛老子図の影響もあったかもしれない。驢馬や牛に乗るのは日本では現実的ではなかったが、街道で馬に乗るのは普通のことだったから、その普通をもって騎驢図や騎牛図の心を表現しようとしたのではなかったかと思う。
 「馬ぼくぼく」への改作は、漢語を排したというよりは、騎驢図の連想をはずして旅体の句として、夏の旅の苦しさの句へと作り変えたのではないかと思う。

 「金屏に松のふるびや冬リ
 此句、はじめは、山を繪書て冬籠リ也。後直し也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 この句は『炭俵』に、

 金屏の松の古さよ冬籠り      芭蕉

とある。「ふるびや」の形は元禄八年刊支考編の『笈日記』によるものか。
 『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫参照)の注には、「赤草子草稿」に「山を繪書は、いがの平仲が宅にての吟なり。炭俵は後の事なれば、画に句を直して松とは成るか」と記されているという。
 金屏に山を絵書てだと、屏風は今書いたばかりの芭蕉さんの筆の金屏風ということになる。あるいは誰かが今しがた書いたか、ということになる。「松のふるびや」だと、絵も古くて、何やら由緒のあるような印象を与える。

 「秋風や桐に動てつたの霜
 此句、梧うごく秋の終りや蔦の霜、とはじめハ聞へ侍る。後直りて此秋風也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』には、

 桐うごく龝の終りやつたの霜     はせを

とある。元禄十一年刊風国編の『泊船集』にも、

   暮秋のけしきを
 桐動く秋の終りや蔦の霜

とある。
 「秋風や」の方の句形は『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫参照)の注には、「赤草子草稿」に「此自筆物の句也云々」とあるという。
 「蔦の霜」は晩秋の景色で、「秋風」は主に初秋の「目にはさやかにみえねども」の心で用いられるので、この改作はよくわからない。元禄四年秋の句とされている。

 「團扇とつてあふがんひとの後ロむき
 此句、集ども、うちわもて、と五文字して下の五文字、後むき、せなかつきと有。後改るか。この句、盤齋の後むきの像の賛也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116~117)

 元禄八年刊支考編の『笈日記』には、

   盤齋背むきの像
 團もてあふがん人の背つき      はせを

とある。今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川書店)によると、貞享二年四月上旬、「星崎の医師起倒子宅で加藤盤斎自画の賛」だという。
 「團扇(うちわ)とつて」の句形は土芳の独自情報か。天和の頃の名残のようなリズムが感じられる。

 「窓形に晝ねのござや簟
 此句、淵明をうらやむと、前書あり。はじめは晝寐の臺や、と中の七あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 「簟」は「たかむしろ」と読む。
 この句は元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に、

   晋の淵明をうらやむ
 窓形に昼寐の臺や簟         芭蕉

とある。「ござ」の方の句形は土芳の独自情報によるものか。
 「窓形(まどなり)」はよくわからない。窓の形(なり)ということだが、窓の位置に合わせて涼しいところに簟を敷くということか。
 竹莚・竹席・簟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 籐(とう)や細く割った竹などで編んだ、夏用の敷物とするむしろ。たけむしろ。《季・夏》
  ※和漢朗詠(1018頃)上「炎景剰さへ残って衣尚重し、晩涼濳かに到って簟(たかむしろ)先づ知る〈紀長谷雄〉」
  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)二「竹莚(タカムシロ)うへに御ゆかたはめして」

とある。「ござ」は藺草で編んだ敷物で今でいう御座の意味と、「御座」の文字通りの貴人の座席という意味と両方ある。前者だと簟と被るので、貴人の座席の方になる。
 臺(だい)は台で高い建物の意味だが、この場合は部屋の中の一段高くしたところのことか。
 芭蕉の意図としては、窓の位置からして涼しいところに簟を敷いて昼寝をすると、あたかも陶淵明のような貴人の居場所のようだ、としたかったのだろう。ただ、「ござ」だと敷物の御座が思い浮かんでしまうし、「台」だと一段高いところに簟を敷いたように取られかねない。どちらがいいとも言えない。

 「一とせに一度つまるゝ若菜哉
 此句、その春、文通に聞え侍る。その後直にたづね侍れば、師の曰、其比はよく思ひ侍るが、あまりよからず、うち捨しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 元禄七年春の句。元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 一とせに一度つまるゝ菜づなかな   芭蕉

になっている。
 若菜摘みは古くは正月初子(はつね)のもので、のちに人日(じんじつ)(正月七日)のものとなった。ただそうした儀式とは無関係に、農家では日常的に芹などを摘んで食べていたから、一年に一度は都市に住む人間にとっては面白くても、というところではなかったかと思う。
 ただナズナだけに限定すれば、普段はほとんど食べなかったのかもしれない。
 最近ではスーパーにも芹が並ぶようになったが、ナズナとなるとやはり七種セットで売られているだけだ。(余談だが、七草セットが売られるようになったのもわりと最近で、子供の頃は大根だけの七草粥を食べていた。)

  「旅懷
  此秋は何ンでとしよる雲に鳥
 此句、難波にての句也。此日朝より心にこめて、下の五文字に寸々の腸をさかれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 この句は元禄七年九月二十六日の句で、元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

   旅懷
 此秋は何で年よる雲に鳥
   此句はその朝より心に籠てねんじ申されしに
   下の五文字寸々の腸をさかれける也。是は
   やむ叓なき世に何をして身のいたづらに老ぬらん
   と切におもひわびられけるがされば此秋は
   いかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て
   後は明暮になやみ申されしが京大津の間を
   へて伊勢の方におもむくべきかそれも人々
   のふさがりてとゞめなばわりなき心も出さぬべし。と
   かくしてちからつきなばひたぶるの長谷越すべき
   よししのびたる時はふくめられしにたゞ羽を
   のみかいつくろひて立日もなくなり給へる
   くやしさをいいとゞいはむ方なし

とある。
 支考は旅を続けたくて旅のできない師の状態を、羽を搔い繕うだけの鳥にたとえ、その悔しさを雲に託したというふうに解釈している。
 筆者は前に別の所で、

   わが心誰にかたらん秋の空
 荻に夕風雲に雁がね         心敬

 此秋は何で年よる雲に鳥       芭蕉

の類似から、雲は鳥と語るが我には寄るべき友がいない、というふうに解釈した。

0 件のコメント:

コメントを投稿